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今年も4軒、築地はしご酒2017

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築地には魚市場があるし、昔からの高級料亭もある。最近は事務所ビルが増えたので、かつてに比べると酒場の数はずいぶん多くなった。しかしこれまでの体験では2000-3000円で飲める店にはほとんど遭遇しない。土地代が高いわりに客が少なく、一軒め酒場や魚民のようなチェーン店があまりないからかもしれない。平均客単価5000円くらいの地域ではないかと推測される。そんな価格では、いくら料理がうまくてもわたくしにはかなり厳しい。
そういう環境で、築地はしご酒は500円のメニューが何品か用意されているので、料理はつまみ程度、酒はほんの一杯だけではあるが、1000円から1500円程度で店に入ることができる。店に入ればすこしは雰囲気がわかるので、店探しという点で貴重なチャンスである。
11月18日に開催された築地はしご酒は今年が第4回だが、わたくしが参加するのは3回目。今回は天候が悪く小雨のはしご酒だった。また合唱の練習日だったので、開始時間から1時間遅れの5時前に受付へ到着した。

1 築地 多け乃
現地に向かうと細い路地に10人以上の列ができていた。1人客はあまりおらず2-5人グループが多い。近くの人気店、天ぷらの黒川と間違えて並ぶ人もいた。

思ったほどの時間はかからず店内へ。この店にはたまたま3週間ほど前に初めて訪れた。料理の価格表示がない(時価)ことで有名な店でおそるおそる行ってみたが、たしかに普通に飲み食いすれば5000円近くになりそう(わたくしは3000円以内で収まった)だが、内容は良心的だった。3-4人の家族でやっている店だが、この日は客が多いため、元気のよい大将がややいらだっているようだった。前回より、女性スタッフの人数が増えていた。
1階はカウンターのほかテーブルが3つほどだが、2階があり食べログによると46席なので結構大きい。1階のコーナーにはお酉さまの大きな飾りがあり、景気がよさそう。毎年11月に買い替えているようだ。
前回はすずきの刺身を食べたが、この日は500円の天ぷらを注文。アジとアナゴかと思ったが、聞いてみると姫小鯛銀宝。岩塩で食す。見栄えはもうひとつだが、素材がいいのでやはりうまかった。プロの店だ。燗酒の銘柄は聞き損ねたが前回の徳利に「富翁」とあったので、そうかもしれない。

2 魚河岸三代目 千秋
まず店の場所がわからなかった。地図にはKYビル1階と書いてあるがビル内1階を1周しても見当たらず入口の店の人に聞くと地下1階だという。しかし地下にも見当たらない。もう一度聞くと、いったん外に出てビルの側面にあるという。なんとかたどりついたが先客がやはり10人くらい並んでいた。15分ほど待って入店できた。もっともはしご酒の場合、少し酔いがさめるのでかえってよいともいえる。
店内はL字のカウンターのみ。食べログでは11席、この日は椅子がなく立飲みだったので、もう少し多かったかもしれないが小さい店だった。食べたのは自家製さつま揚げと芋焼酎のお湯割り。銘柄は鹿児島の銀滴、なかなかうまい焼酎だった。しかしグループ客が多くて落ち着かない。隣は、山登りから帰って来たばかりとかで、男女4-5人の元気いっぱいのグループだった。

3 鳥藤
ちょっとおなかに何か入れたいと、築地魚河岸3階のフードコートにやってきた。大学の生協食堂のような感じなので、店の情緒はまったくない。
とりそば希望で訪れたが、すでに売り切れでとり鍋になった。鍋というよりはスープだった。それでも鶏肉が2切れと生姜の効いたつくねが3-4個入っていた。親子丼やとりめしで有名な店だが、鶏の専門店だけあってスープがうまく体が暖まった。

4 スタンドBar 上松
つぎに初参加の魚沼を目指した。ここは並ばず入れたが、「すでに料理は終了、飲み物だけ」というのでやめた。そしてスタンドBar 上松へ。
この店は昨年1ドリンクサービス(翌日以降1か月以内にはしご酒イベント参加店を訪れれば1ドリンクのみ無料というサービス)で訪問した店だ。比較的若い方がやっていてまだ開店1年あまり。そのときはアジの干物がおいしかった。この日は珍味2品、一見きゅうりのようにみえたが千葉のつぶ貝と緑のもずくの類、もう一品はトマトかと思ったらサーモンといくらの粕漬けだった。たしかに珍味だった。酒は秋田の春霞(赤ラベル)の常温だった。この店は品ぞろえがよく、味がよいことを今回も実感した。

今回も4軒回れた。スタートが出遅れるといろいろな不利益があることを実体験し、よくわかった。

さて、築地の居酒屋について紹介したいが、それほどよく知っているわけではない。いままで行った20軒弱(それも1回しか行っていない店が大半)のなかから、もっともよかった店を2店紹介する。
魚竹
かつて、築地のサラリーマンだった知人に教えられた店。築地から汐留に引っ越した電通社員が「どーしても連れて行きたかった」という噂のある店で、予約客でいっぱいだが1人なら入れるかも、といわれた。1回目は金曜夕方行ったが、やはり満席だった。2度目は木曜にいくとなんとかカウンター奥の席に座れた。トイレにいちばん近い席で、見上げるとたまたまマスターの調理師免状が掲示されていた。美濃部亮吉都知事のその免状の発行年月は1976年9月、40年選手ということだ。席はカウンターのみで11席。
その日食べたのは、「冬の味覚 魚竹特製鮪ねぎま鍋」「自家製するめイカ肝みそ」「ぬか漬盛り合わせ」など。酒の燗のつけ具合もよかった。レンジで温めているのが見えたので、チロリに移し替えているのがよいのか、保存状態がよいのか、あるいはほかの理由なのかはわからない。勘定は4500円ほどで、満足感と釣り合っていた。

鮪ねぎま鍋
はなふさ
ここは太田和彦さんが味酒覧第三版で推薦していた店だ。行ったのは2年ほど前だが、残念ながら記録をつけていない。ネット検索すると、ヤフー・ブログ「日本の酒場をゆく」にこんな紹介があった。

店主は、生まれも育ちも築地という生粋の地元っ子だ。
「魚河岸は、小さい頃から自分にとっては遊び場。学生の時はアルバイトもしていましたし、言ってみれば庭のようなものですね」。
毎朝築地へ仕入れに繰り出すのは店主の日課となっている。
そこで発揮されるのは、小さい頃から培われた類い希な目利きだ。
厳選された魚は、刺身は当然、煮付け、焼き、揚げなどと豊富な調理法で味わえる。
「手を加えすぎて、素材の味が崩れるのは嫌い」と、シンプルなものが多いが、それは裏を返せば、素材自体がしっかりしている証拠でもある。()

こういうウワサに違わぬいい店だったことはよく覚えている。
調理は2人でやっていて、ほかにお運びの女性がいたかどうか。客席はL字のカウンターに10人程度座れる。奥に小上がりがあり6人入れるらしい。
勘定はここも5000円程度だった。

左隣は玉子焼き屋さん

ウルボ――泣き虫ボクシング部

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12月2日(土)夜、東京朝鮮高級学校ボクシング部を描いたドキュメンタリー映画「ウルボ――泣き虫ボクシング部」(監督 李一河(イ・イルハ) 2015 86分 この日の主催:枝川朝鮮学校支援都民基金)を見に、江東区枝川の東京朝鮮第二初級学校(枝川朝鮮学校)に行った。その前に行ったのは大阪朝鮮高級学校ラグビー部を描いた「60万回のトライ」(監督:朴思柔、朴敦史)を見たときなので3年ぶりになる。

着いたのは夕方6時前、校庭では真っ暗な中で少年たちがサッカーの練習をしていた。講堂に入ると後方で、キムチやビールを販売していた。
上映に先立ち金剛保険から学校にテントの寄贈式が行われた。全国の朝鮮学校に寄贈しているそうだ。

そして86分の映画の上映が始まった。この作品は韓国の李一河(イ・イルハ)監督のドキュメンタリー作品だ。韓国で2015年に初上映、日本では2016年に練馬、参議院議員会館、大阪、豊橋などで自主上映、今年4月から渋谷や横浜の映画館で上映されたそうだ。
撮影に1年半、編集に6か月ということなので、登場する高校生は3-4年前に卒業した年代だと考えられる。

映画は、インターハイの予選、日本全国の朝鮮高校の中央体育大会、3年生から2年生への引継式などを主要イベントとし、東京朝鮮高級学校ボクシング部の生徒と監督の1年が描かれる。
ウルボ(泣き虫)というタイトルは、引継式も終わり卒業間近の3年生がキム・サンス監督とともに風呂に入っているシーンがあり、キム監督への映画スタッフ(たぶんイ監督)の「この3年生はどんな子たちでしたか」という質問に「ウルボ(泣き虫)」と答えたことに由来する。 
たしかに、試合に負けては泣き、勝っても泣き、膝の故障で試合に出られないといって悔し泣きし、よく泣いていた。最後は監督の先生も泣いていた。

過酷な練習、試合の前のプレッシャーや試合後の後悔も出てくる。監督の「心で負けるな、顔を上げろ」「君たちは3年間つらい練習にも耐えてきた」というセリフにみえるように生徒の成長の物語にもなっている。キャプテンの「青春、いましかない」というセリフもあったが、一言でいえば「青春のスポーツ映画」だ。
しかし7人の選手と女子マネジャー、監督だけの映画ではない。選手の家族、1世や2世の祖父母、相手チーム・大阪朝鮮高級学校の選手、習志野高校の坂巻監督、OBの2人のプロボクサーなど多彩な人びとへのインタビュー動画が映し出される。なかでも高校生の表情と言葉が生き生きしていた。
ボクシング部の活動がメインではあるが、大学検定試験、運動会、修学旅行(祖国訪問団という名称)、卒業式など学園生活も盛り込まれている。板門店の近くで食べたナポリタンがおいしかったというエピソードは、わけがわからず面白かった。
在日の生活は、日本社会の根深い差別と切り離せない。かつて指紋押捺制度、就職差別など制度上の問題があった。だいたい高校のクラブがどんなに強くても、公式試合に出場できないという問題もあった。廃止・改善されたものもあるが、やはり差別感は根強く存在する。文科省前金曜行動で保護者が「名前が朝鮮人っぽいという理由で『おい、朝鮮』『チョン』といじめてよいのか」と憤り(無償化はずしで)「機会均等を奪うな」「奪うなー」と絶叫していたが、それには十分な理由がある。
背景説明のため、「朝鮮人は帰れ!」「叩き出せ!」の大合唱の大久保・ヘイトデモ、京都朝鮮学校への襲撃事件(2009年)など日本社会での在日朝鮮人差別、無償化を求める金曜行動の動画も差し挟まれる。
朝鮮学校OBでプロボクサーになった選手が、韓国や共和国在住の朝鮮人でもなく、日本に住んでいるが日本人ではない在日は、「どこにも属さない」「悪くいえば属せない」と語ったが、そういう社会で生きていくうえで、在日の人びとにとって朝鮮学校は貴重な拠点だ。朝鮮語で学び、校内での日常語は朝鮮語を使っている場所。そして日本の敗戦後、自分たちが自分たちの手でつくった学校という自負と誇りがある。たとえば運動会は一族郎党が集合する一大イベントである。
ウリ・ハッキョ、民族学校がこの映画の本当のテーマだといえる。卒業間近の「いつでも学校に遊びにきなさい」という先生の言葉にも特別な意味が込められている。、
ウリ・ハッキョ、民族学校が映画のテーマという点では、昨年みた茨城朝鮮初中高級学校を描いた「蒼のシンフォニー」(朴英二〈パク・ヨンイ〉監督 2016)も同じだった。
ただこの作品はていねいに目配りをしているが、その反面、あまりに多くの要素が散りばめられているので、見ていて中心となるボクシング部3年生7人のディテールがわからなくなってしまった。一方、一人の人物を追ったものでもチームの活動を追ったものでもないので中心テーマが明快ではない。
なおわたくしはプロの試合も含めて、ほとんどボクシングに関心がなく残念ながらまったく知識がない。少し知識があれば、試合のシーンや練習風景をみて感動するショット、迫力あるショット、技術的な面の感想がいくつかあったかもしれない。それでもボクシングは個人競技だが、「60万回のトライ」のラグビーなどと同様に団体で戦うスポーツだということは理解できた。
そのほか、音楽がよかった。朝鮮学校の女性徒が歌う「」や舞踊がいいのはいうまでもないが、それ以外にも映画で使われていた音楽、たとえば「声よ集まれ、歌となれ」(文科省前金曜行動でよく歌われる歌)や「アリラン」、ロックの曲、バスのなかで部員が歌う「イムジン川」などもよかった。
 
終映後にトークがあると聞いたので、「100万回のトライ」上映のときと同様に、てっきり映画監督イ・イルハさんのトークだと勘違いした。ところが現れたのはボクシング部のキム・サンス監督だった。イルハさんは韓国在住のはずなので、仕方がない。
キム監督は子どものころに空手、学生時代にサッカーの経験はあるが、ボクシングは引継にあたり、前監督から教わっただけだそうだ。
「ボクシングを通して、ボクシング以外のことも学んで卒業してほしい」というのが信念のようだ。また、この映画をまだ見ていない人への希望を問われ「ボクシング部だけでなく、朝鮮学校に関心をもってもらえるとありがたい」と答えた。

最後に東京朝鮮中高級学校「高校無償化」裁判弁護団師岡康子弁護士から、9月13日の判決後の経過について説明があった。
12月18日の控訴理由書提出を前に週1―2回集まり、控訴審の準備を進めている。具体的には、文科省に新たな証拠を文書で求めたり、意見書提出の準備、裁判官の朝鮮学校への偏見を解くための手立てなどだ。
控訴審の第1回期日は3月20日(火)15時と決定しているので、また傍聴に集まっていただきたい。

☆日本国内の差別というと、沖縄差別、とりわけアベやスガ官房長官の差別は目に余る。12月12日夕方、参議院議員会館講堂で「山城裁判を知ろう!」という院内集会が開催された(主催:市民と議員の実行委員会 参加295人)。2014年7月22日高江に東京の警視庁機動隊が現れたときから急に暴力的になったそうだ。それまでは、沖縄県警は「公平中立」の方針に則り、デモ隊と現場指揮者とのあいだには日日の暗黙のルールがあった。それが「公平中立」を投げ捨て、沖縄防衛局の立場に寄りそうように変わった。その背景にはアベやスガの指令があり、たとえば海上保安庁の長官を呼びつけた結果、辺野古の保安庁が暴力を振るい海難者をつくろうとする行動を行うようになった。
山城博治さんの裁判は12月4日の論告求刑で懲役2年6月を受け、12月20日(水)に弁護側の最終弁論、そして3月14日に判決の予定になっている。
「こんな時代だからこそ、顔を上げ希望をもって闘いぬこう」と、スピーチのはじめに「沖縄今こそ立ち上がろう」「座りこめここへ」「辺野古へ行こう(「明日があるさ」の替え歌)、スピーチの最後に「喜瀬武原、空高くのろしよ燃え上がれ」で始まる「喜瀬武原(キセンバル)」の3番を歌った。いつも1曲くらい歌が入るが、この日は4曲も披露された。気合が入っている証拠だと思った。

人報連の「森友・加計疑獄と報道」

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12月17日(日)午後、「第33回人権と報道を考えるシンポジウム」が水道橋のスペースたんぽぽで開催された(主催:人権と報道・連絡会)。今年のテーマは「森友・加計疑獄と報道――ゆがめられた行政を監視する責任」、今年前半大きく注目を浴び、発覚後、安倍首相は憲法違反を犯してまで臨時国会を開かせず、そして「アベ難解散」で総選挙に逃げ込んだ2大「疑獄」事件だ。
パネリストは豊中市議の木村真さん、「加計獣医学部問題を考える会」共同代表の黒川敦彦さん、東京新聞社会部記者の望月衣塑子さん、人報連世話人の浅野健一さんの豪華メンバー、司会は人報連の山際永三事務局長だった。あまり広くはない会場は文字通りスシ詰め状態だった。
4時間にも及ぶ長いシンポジウムだったので、わたくしがとくに関心をもったところだけ紹介する。それでもずいぶん長文になってしまった。安倍独裁政権の強引さだけでなく、ここにはあまり書けなかったが、マスコミの功罪についても考えさせられるシンポジウムだった。

木村真さん(森友学園問題を考える市民の会・共同代表、豊中市議会議員)
木村さんの講演は3月末に議員会館で聞いた。地元豊中でどのように森友問題を発掘し、疑惑解明運動を展開したかということは「木村真・豊中市議が抉る森友問題の本質」(リンク)で書いたので、そちらを参照していただきたい。 ここでは、木村さんとマスコミの関わりについて話されたことに絞って紹介する。

昨年11月下旬にジャーナリストの西谷文和さんのインターネットラジオの番組に白井聡さんとともにゲスト出演し、森友問題を話した。そのとき西谷さんからマスコミ各社に情報提供してはどうかとアドバイスされた。それで名刺交換した記者のなかから十数人に連絡を入れたところ、毎日、大阪のNHK、大阪の共同通信の記者が取材に来てくれ「これは怪しい。独自に取材してみる」といってくれた。しかし一向に記事にならない。
これは何か具体的なできごとがないと取り上げにくいのではないか、と近畿財務局の職員を背任で刑事告発することにした。
じつはもうひとつきっかけがあった。12月に毎日放送が夕方の報道番組で取材に来た。17日の金曜に取材依頼の連絡があったので、「22日まで議会の本会議があるので23か24ではどうか」と答えた。すると「30分か1時間なのになぜ時間がとれないのか」とかなり強引に迫るので早めに取材を受けた。内容は政務活動費で「3年間で膨大な本(450冊)を買っている」というものだった。しかしなんら違法な点はないし隠したわけでもない。書名・金額・領収証を添付したからこそ取材に来たわけだ。ところが1冊ずつ「この本は豊中のどの条例と関係あるのか」「この本で、いったいどういう議会質問をしたのか」「この本はどんな政策実現に反映されたのか」と聞く。21日にオンエアされたものをみると、怪しげなBGMを流し「1対1で対応できるものではなく、何の役にも立っていない本もある」と答えたところだけ流していた。また事務所に入ってくるところから盗み撮りして、わたくしが机の上を片付けているシーンが映し出された。撮っていることに気づかなかったが、もし気づけばきっと「なんのあいさつもなしに撮影するのか」と気色ばんだと思う。もしカメラを遮ったりすれば、きっとその映像が流されただろう。これは5分間のミニ特集だったが、なぜ公共の電波を使ってこんな番組をと思った。10月からビラまきをしていたこともあり「森友問題をやると、お前なんかいつでもつぶせる」という警告かとも思った。こうなったら、つぶすかつぶされるのかだと腹をくくり、ビラまきの地域を拡大し2月8日に提訴、記者会見した。翌日大阪朝日が独自取材も加え7段ぬき記事を掲載し、一気に全国レベルの疑惑事件になっていった。
ただひとつ気になる点がある。この事件は、税金のムダづかいという意味でのたんなるオンブズ系ニュースではない。あくまでも、教育勅語を幼稚園の生徒に暗唱させ、ヘイト発言が日常化するカルト右翼学園に、政権中枢が肩入れした事件ととらえるべきだ。安倍は第一次政権のときに教育基本法を改悪し、育鵬社教科書の採択運動を行い、教育への介入に尋常ならざる執念をもっている人物だ。もしヨーロッパで首相がネオナチ学園に100万円寄付したりすれば大きな政治問題になる。大手メディアはこの点に触れていない。

黒川敦彦さん(加計獣医学部問題を考える会・共同代表)
黒川さんは、加計学園グループの岡山理科大学獣医学部の予定地である愛媛県今治市で、公文書の開示請求を行い加計疑惑を追及している。10月の総選挙では、安倍の本拠地山口4区で立候補した。

加計疑惑には2つの大きな論点がある。ひとつは国会でも追及され前川喜平氏がいう「行政が歪められている」という問題だが、わたしたちは、加計の獣医学部はそもそも計画がデタラメでカネについての疑義があることを追及している。
最前線として、50億の補助金詐欺事件とウィルス漏れが発生するずさんな設計の2つについて説明する。
わたしたちは、建築費は2倍程度に水増しされており、水増し分の約50億の現金は政治家に配られるのではないかと疑っている。つまり加計問題は政治とカネの問題というわけだ。今治市は36億円の土地無償譲渡に加え96億円(市64億円、愛媛県32億円)の補助金交付を決定している。しかし96億円が適正かどうか、市も市議会もだれも見積もりを入手せず、建築費が適正かチェックしていない。
わたしたちは独自に加計の建築図面を入手し、8月23日に公開した。建築費は木造住宅なら坪単価40万くらいからで、森ビルの六本木タワーですら110万円なのに、加計は図面から計算すると150万円になっている。図面には「外壁は6センチのコンクリートパネル」など仕様も記載されているが、建築の専門家にみせると倉庫に毛のはえたような仕様なので、民間なら70万円を切ってもおかしくないという。イオンモールはボリュームディスカウントもあるが、45万円で建てている。
加計は、建築着工統計用に33万平方mを80億でつくるという数字を国交省に提出しており、坪単価88万円ということになる。88万でも高いほうだが、学校建築物の単価としてはありうる数字だ。150万との差額が水増し分と考えられる。
図面の公開と同時にニュース23と報道ステーションがこの数字も含めて報道してくれたが、それまで沈黙を続けた加計から即座に4通のファックスが届いた。そのなかに80億は1期工事であり2期工事もあると書いてあった。建築費は136億ということになっているので、2期は56億ということになる。しかし2000平方m程度しかないので、坪単価952万円と、とんでもない数字になる。もともとウソをいっているのでだんだん辻褄が合わなくなり、以降加計はいっさいしゃべらなくなった。
11月の特別国会予算委員会で原口一博議員(民進)が追及し、文科省から「1期121万、2期216万」という数字が提出された。単価の精査は、文科省も内閣府も今治市もやらない。
この建物の設計は加計学園グループのSID創研で、取締役として加計夫人の泰代さんが就任している。施工は加計氏と親しい大本組とアイサワ工業だ。
もうひとつの「100%ウィルス漏れが発生する設計」を説明する。これは内閣委員会で山本太郎議員(自由)が追及してくれた。
鳥インフルエンザなど危険なウィルスを研究するBSL3という研究室は5坪しかなく、マウスも鳥も飼育できず実験もできない。しかも建物の真ん中にあるので、まわりは学生がうろうろしているし、ウィルスはだれでも乗れるエレベータで運ぶことになっている。
だからこんなところでウィルス研究はできないし、やらないのだと考えられる。しかしそれでは特区の要件(獣医師養成系大学・学部の新設の石破4条件)に合わなくなる。
最後に、山口4区で立候補し、「税金ドロボー、カネ返せ!!」のポスターを1000か所に貼り、ボランティアとカンパのみで闘った体験からイタリアの五つ星運動を紹介する。リカルド・フラカーロ下院議員が来日し11月28日に参議員会館で講演した。
五つ星運動は、創設6年目の2013年の総選挙に千数百人が立候補し、900議席のうち130議席(上院40、下院90)を獲得した。かかった金額は5000万、供託金がないので1人4万円にしかならない。ポイントは千数百人立候補させたことだ。その人たちがネットで友人に呼びかけたので、ネットが騒然となったそうだ。日本でも市民が立ち上がり、もっと立候補する人が増える社会環境になれば、こういう新しいムーブメントがつくれるのではないかと思う。
なお、安倍首相を相手に10月16日に刑事告訴し、12月20日に今治市を相手取った住民訴訟の第1回期日の裁判がある。多くの方に「モリカケ共同追及プロジェクト」への参加を呼びかけている。

望月衣塑子(いそこ)さん(東京新聞社会部記者)
望月さんは6月の菅官房長官記者会見でデビューし、質問を重ねて食い下がり有名になった。しかし「殺すぞ」という脅迫電話が新聞社にかかってきたそうだ。この日のスピーチでも「問題ない。関係ない」という菅官房長官の口癖や山本幸三・地方創生担当大臣の「わたくしめが言いました」の口マネを交え、雨宮処凛さん並みのマシンガン・トークが炸裂した。

2人の子どもの育休・産休を終え2014年に職場復帰し、武器輸出の取材を始めた。それまで事件一色、政治オンチのわたしだったが、4月1日に武器輸出三原則を大きく転換し「防衛装備移転三原則」が閣議決定された。国家のありかた、経済政策のあり方が、武器を売って稼ぐアメリカの軍産複合体のミニ版のように変わっていくだろうと、安倍政権に危機感をもった。
当時、官邸主導で、オーストラリアに12隻4兆2000億で潜水艦を輸出しろと指示を出し一気に舵を切っていた。そうりゅう型潜水艦は音が静謐だからだ。それだけに機微技術や機微情報のかたまりなのに、政権はリスクがわかっていないようだった。安倍政権の下、日本が変わっていくことを肌感覚で感じていた。
それに加え、伊藤詩織さんの準強姦事件で、2015年6月4日、中村格刑事部長が逮捕直前に執行見送りを指示する事件が起こった。その後不起訴になったが、中村氏は菅官房長官の秘書官を長く務め信頼の厚い人物だ。これまで十数年事件報道をやってきて、検事が執行停止させることはあっても警察のトップが止めることなど一度も経験がない。司法の場まで歪められ始めたと感じた。
6月に前川喜平・元文科事務次官に4時間弱のロングインタビューをした。なぜ安倍政権に疑問をもつようになったか聞くと、06年の第一次安倍政権の教育基本法改正がきっかけだったという。前川氏は旧教基法がとても好きで全文暗唱していて、とりわけ前文の「平和を希求」という文言が好きだったのに削除された。日本に民主主義を根付かせるためつくられたのに、これでは日本の教育のあり方が根本から変わっていく、安倍政権は非常に危ういと感じたと話した。一方の籠池氏も、それまでは「変なおっちゃん」と見られていたのに、教育基本法が変わり役所の人が自分をていねいに扱うようになった。「政治の力はすごい、安倍さんすごいわ」と心酔するようになった。
行政の場が歪み、政治が変わり教育の場も変えられていく。さまざまな疑問をもち安倍首相に聞きに行こうと思ったが、総理への会見では報道官が決まった人しか指さない。それでナンバー2の菅さんに聞くことにした。
本当は社会部が会見に出るのはご法度らしいが、部長に「もう少しモリカケを聞きたいので」というと「いいよ。キャップにだけ言っといてな」とOKが出た。それで前川問題で、読売報道の半年も前に内閣府が出会い系バー通いを把握していたことについて、「全省の事務次官にこんなことをやっているのか」と聞くと「そんなことやっていない」と答える。「不正の温床となるような場所に行き、教育者としてあるまじき」と紙をみながら何回もいう。そのことを聞くと「心から思っていることをいったまでだ。あなたに、紙を読んでいるか答える必要はない」と答える。
2回目は詩織さんのことを聞かねばと、事前に知っていたのではないかと思って聞いた。「知らない」という「警視庁において必要な捜査を行い、検察で不起訴になった。こういうことだ」。加計学園の文科省と内閣府のやりとり文書については、役人が身の危険を冒して告白しているのだから何としても再調査させないとと「きちんとした回答をもらっているとは思わないので」と繰り返し質問したが、菅さんは「仮定の質問に答えるわけにはいかない」というのが大好きだ。
望月さんは、幣原喜重郎首相が9条戦争放棄が生まれた事情を語った「世界は今一人の狂人を必要としている。(略)世界は、軍拡競争の蟻地獄から抜け出すことができない。これは素晴らしい狂人である。その歴史的使命を、日本が果たすのだ」という言葉で話を締めくくった。

浅野健一さん(同志社大学教授、人報連世話人、元共同通信記者)

わたしは「安倍晋三記念小学校疑獄」「加計学園獣医学部疑獄」と呼んでいるが、この2つの疑獄事件の報道は日本のジャーナリズムを少しだけ国際標準に近づける突破口になったと思う。モリカケ解散に追い込み、結果としては小池・前原につぶされたが、大きな潮流は続くと思う。
黒川さんの山口4区選挙に、2回応援に行った。安倍本人は選挙区に入らず、代わりに昭恵夫人が出陣式にやってきた。黒川さんは大胆にも「4区で立候補した黒川と申します」とあいさつし、山本太郎さんは夫人と握手していた。わたしは「国会証言しないんですか。100万円は本当に渡したんですか」と取材した。するとスーツ姿の男性に「もっと下がれ」「記者なら腕章をしろ」といわれたので「フリーだから腕章はない」と答えた。おそらく警視庁のSPではないかと思われる。「私人」のはずなのにSPが付くとは。最後にこぶしをグーにして腹を殴られた。抗議すると「あなたね、邪魔なんだよね」といって立ち去った。12月16日に正式に告訴状を送付した。街宣カーに乗り込んだ昭恵夫人の第一声は「参議院議員の山本太郎さん、お見えになられてありがとうございました」だったので、たいしたタマだと思った。
11月に大学設置審議会が認可を答申し文科省が認可したのですべてが終わったかのように思われているが、わたしはまだまだハードルがあると考えている。96億円の補助金はまだ議会に上提されていない。県知事は自民でなく、維新ということもあり、3月31日までに支払われない可能性もある。あきらめてはいけない。
この件について、黒川さんから補足説明があった。今治市も64億をいったん一般会計に組み込む必要があるが、議会審議は3月にある。また愛媛県は2018年11月に県知事選があるので、この件は選挙が終わってからにする可能性もある。また県・市とも一度に交付するのでなく分割払いになる可能性もある。

☆このほか、木村さんと浅野さんから11月に起きた大阪の人民新聞編集長別件逮捕事件の話があった。キャッシュカード2枚を金融機関から詐欺をしたという容疑で1か月勾留して起訴し、一方家宅捜索ですべてのパソコンや読者名簿を押収した。小さな新聞社なので編集長と2人で発行しているので発刊の危機に立たされている。現代の言論弾圧事件である。そのもう一人の編集者がなんと園良太氏だというので驚いた。今年3月11日の東電本店合同抗議で見かけた園氏が「Go West Come West!!! 3.11関東からの避難者たち」というグループを結成したとアピールするのを聞いたときにも驚いたが、新聞の編集もやっていたのだ。

「お笑い」の本拠地・大阪千日前にて

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大阪の千日前で漫才をみた。
NHK朝ドラ「わろてんか」のモデルは、もちろん吉本興業・創業者の吉本せいである。
ドラマでの拠点劇場は「南都風鳥亭」だが、これはなんば花月のもじりであることに年末になって気付いた。花鳥風月なので、そんなことは関西の人ならすぐに勘が働いたかもしれない。
もうひとつ理由があった。昨年秋、薬研掘ではじめて講談を聞き、話芸というものもなかなかたいした「芸」のひとつだということに気がついたことだ。落語は以前、春風亭正朝一門の寄席を何度か聞いたことがあり、次ははじめて劇場で漫才をみてみようということにした。
初笑いのため、なんばに出かけた。といってもなんば花月は料金がちょっと高目なので、向かいのよしもと漫才劇場に入ってみた。漫才劇場はビルの5階にあるが、建物自体がちょっと変わっていて、1階から3階はドン・キホーテなんば千日前店、地下1階がNMB48劇場、8階には府立上方演芸資料館「ワッハ上方」が入っている。

花月は2階席もあり880席なのに比べれば335席とかなり小さい。しかし満席でかつ立見の人が50人ほどいた。ほとんど女性・子どもかと思ったが、そういでもなく男性や高齢者もバランスよくいた。上演時間は1回120分だが、最後の30分は新喜劇で、漫才は11組、その他漫才・新喜劇それぞれに前説が付く。前説は携帯電話を切れとか録音・撮影禁止、場内飲食禁止などのアナウンスだが、NHKの公開放送のような拍手の練習まであったのには驚く。
普通のコンビは5分だが、持ち時間10分の芸人が4組あった。笑い飯、平和ラッパ・梅乃ハッパ、吉田たち、キングコングだった。比較的年長のコンビだったが、年長ということは、芸能の世界で長く生き残っているということなので、実力があるということだろう。たしかに何か特色のある芸人たちだった。平和ラッパ・梅乃ハッパは74歳と64歳のコンビだが、たしかに加山雄三、ベンチャーズやフラメンコなどギターの演奏がうまかった。漫才ネタとしては背中にギターを乗せて弾いていた。「一芸に秀でる」とはよくいったものだ。吉田たちは、一卵性双生児で、それだけでもたしかにネタ話をたくさんつくることができる。子どものころの花一匁、遠足のお菓子やおかずを交換しても中身は同じ、ライバル意識などネタが無尽にありそうだった。笑い飯は、人気ラーメン店の行列に割り込んだヤクザを注意するシーンとガムのかみ捨てを注意するマナー・ネタだった。仕種で笑わせていた。キングコングは「森の熊さん」の輪唱だった。ただ同じことをあまり何度もやるとしつこいと感じた。
ベテランに共通しているのは、声がよく、かつよく通ること、仕草が洗練されていることだった。仕種のほうは、型が決まっているといってもよく、日本舞踊、歌舞伎など古典芸能全般、いやバレーなど芸術全般に通じる。
出番が5分の若手のほうも自分たちの強みを磨き、それぞれのやり方で客にアピールしていた。
さや香(男性2人)は上戸彩と麻婆豆腐との比較というネタで勝負していた、kento fukayaは絵がうまかった。ツートライブはヤクザ言葉がネタ、アキナは枕草子の一節を使っていたが少し難しかった。尼神インターは女性2人、ブスをからかうネタだったがあまり面白くなかった。あとでテレビで見た時のほうが印象がよかった。修学旅行の夜のバカな中学生と教師の会話のクロスバー直撃は、あとで考えるとなかなか秀逸なネタという感じがした。その他、どつき漫才やダジャレの漫才もあった。
ただ、人を5分笑わせることはなかなか難しい技だということがよくわかった。 

よしもとヤング新喜劇はあの「ほんわか、ほんわか」というおなじみのテーマミュージックで始まる。調べると、20世紀初頭に作曲された「Somebody Stole My Gal」というデキシーの曲だそうだ。
関西のテレビ番組は、古くからスチャラカ社員(朝日放送)、番頭はんと丁稚どん(毎日放送)、てなもんや三度笠(朝日放送)などお笑いの伝統があった。土曜の昼下がりの吉本新喜劇はいまも毎日放送で続いている。植村花菜の「トイレの神様」にも「新喜劇録画し損ねたおばあちゃんを泣いて責めたりも した」という歌詞があった。
この日の舞台は花月うどんといううどん屋、役者は若夫婦(信濃岳夫、森田まりこ)、その父(ダブルアートのしんべえ)、アルバイト店員(松浦真也)、5年も行方不明の兄(守谷日和)、2人のヤクザ(吉田裕、ダブルアートのタグ)、地上げの不動産屋2人(諸見里大介、川畑泰史)の9人
行方不明の兄がつくった借金の取り立てに来る2人組のヤクザ、店を売れと迫る不動産屋、勝負は、勝てば取り立て、負ければ帰るなぞなぞで行う。解答の解説を森田が行うというパターンで進行。途中で5年ぶりに兄が帰宅するが、父は怒っている。最後は父が兄を許し、ヤクザはガラス拭きのパントマイムをしながら去っていき、ハッピーエンドで終わる。
ダブルアートのしんべえは鼻に目や口が集合した顔そのものがネタ、諸見里大介は大きな体格とシャ・シ・シュ・シェ・ショの滑舌が特色だった。

分析的に書いているので、ちっとも楽しんでいないのではないかと思われるかもしれないが、そんなことはない。笑うところは大いに笑わせていただき、初笑いになった。回りの客も笑っていた。とくに子どもが大声で笑うのを聞くのは気持ちがよい。しかし正直言うと、やや退屈なコンビや少ししつこいと感じるものもあった。
もう2000円出して花月で中田カウス・ボタン、今くるよなど有名な人をみたほうがよかったかというと、微妙なところだ。

なんばの街はかなり大きく、しかも地下鉄、南海、近鉄、JRの駅の場所が、地下でつながっているとはいえバラバラだった。よしもとは南海や地下鉄の駅からは近い。
なんば花月のライバル、松竹・角座は北に300mくらい、歌舞伎・新劇・松竹新喜劇の大阪松竹座は400mくらいのところにある。国立文楽劇場も北東へ600mくらいのところにあるので、笑いだけでなく芸能の集積地域でもある。

花月から南西に700mくらいの場所に難波八坂神社がある。鳥居をくぐるといきなり巨大な獅子頭に出くわし面食らう。高さ12m、幅11m。奥行き10mもある獅子頭の形の建物で、本殿ではないが、舞台になっていて奉納舞が舞われるという。大阪らしい、冗談のような建物だ。
よしもとから1.2キロほど南には、「商売繁盛笹もってこい」の十日戎で有名な今宮戎神社がある。マークはニコニコ笑っている戎である。ちょうちんにもこのマークが入っている。いかにも笑の神のような神社だ。

また千日前の商店街は食べ物店がメインだが千日前道具屋筋商店街というものもあった。厨房用品、包丁、食品サンプルなどの専門店が並んでいた。

☆古典芸能といえば、はじめて謡曲を謡った。10年近く前に矢来能楽堂で一度「」(ぬえ)の公演をみたことがあったが、謡うのは初めての体験だった。「高砂や この浦舟に帆を上げて」というかつては結婚式で謡われた有名な「高砂」である。一本調子のところはよいのだが、上げたり下げたり、伸ばしたりはなかなか難しいものだということがわかった。能楽協会専務理事の先生の謡を聞くと、浪曲のようなうなりも入っているし、ビブラートも付いている。
地声で腹から声を出すということはなんとなく知っていたが、とにかく大声で「ケンカしている」ような感じとまでは思わなかった。たしかに健康にはよさそうだった。

東京都中央区でみた印刷関連の文化遺産

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東京都中央区には「活字発祥の碑」がある。1873年(明治6年)本木昌造の弟子・平野富二が築地1丁目に活版製造所をつくったからだ。1876年(明治9年)に設立された秀英舎(後の大日本印刷)も現在の銀座4丁目にあった。
戦中から昭和20年代にかけて中央区(京橋区と日本橋区の合計)の印刷工場の数は23区で1位だったが、いまも中央区の地場産業は印刷業で、印刷業の事業所数は166のうち108で65%、製造品出荷額で73%を占めている(2014年工業統計調査報告)。

1年半ほど前、区のわくわくツアーというイベントで、東銀座にある中村活字という会社を訪ねたことがあった。いまも活版印刷を業務として営んでいると聞き期待したのだが、本や雑誌といったページものではなく、ハガキや名刺など端物の印刷をしているとのことだった。もともと都庁や役所に強い会社だったが、いまは全国の活版ファンからの注文に応えているとのことだった。

入船2丁目のミズノプリテック6階に「ミズノ・プリンティング・ミュージアム」という企業博物館がある。室内には、紀元前2200年のバビロニアの円筒印章やエジプトのパピルス文書(4-7世紀)に始まり、現存する世界最古の印刷物「百万塔陀羅尼(だらに)」という経文(770年)、鋳造活字印刷を発明したグーテンベルクの「42行聖書」(1450-1455)、イギリスで1850年に製造された鉄製印刷機コロンビアンプレスなど貴重な文化遺産が所狭しと並んでいた。1988年の社屋新築時に会長のコレクションを企業のフィランソロピー活動の観点から約160平方mのスペースに公開し、オープンしたものだそうだ。
百万塔陀羅尼とは、恵美押勝の乱(764)を平定した称徳天皇が、戦死した将兵の霊や鎮護国家を祈念するため無垢浄光(むくじょうこう)大陀羅尼経の一部を100万巻印刷し法隆寺・東大寺・興福寺・薬師寺・四天王寺など10の大きな寺に10万基ずつ奉納した経典である。経は木製三重の塔の上部の相輪に収められている。現存する世界最古の印刷物(770)で、いまも法隆寺に4万基ほど、その他博物館などが少し保有するが、そのひとつがここにあるというわけだ。

真ん中の茶色が本物の木製の塔(白いものはレプリカ)
福沢諭吉の著作が何冊も展示されていた。『西洋旅案内』(1867)、『西洋事情』(1870)、『学問のすゝめ』(1872-1876)、『民間経済録』(1880)などである。「「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」と言へり」で始まる『学問のすゝめ』は17編からなる。初版は500部ほどしか作成されなかったが、その後人気が出て350万部も出版された。初版で残っているのは10部だが、そのうちの1冊がここにある。

その他、印刷雑誌創刊号(1891年2月)、明治時代の東京の地図、世界三大美書といわれるウィリアム・モリスのケルムスコット・プレス版「チョーサー著作集」、ジョン・ホーンビイの「タンテ著作集」、コブデン・サンダーソンの「英訳聖書」などがあった。
印刷雑誌の印刷者は佐久間貞一(秀英舎の創立者)と記されていた。 
また印刷物だけでなく大きな印刷機械も何台も展示されていた。1850年イギリスで製造されたコロンビアンプレス、1860年やはりイギリスで製造されたアルビオンプレス、1877年ごろ平野富二が製造した国産印刷機1号の手引き活版印刷機などである。これは築地活版製造所でつくられたものだが、現存するものは1台しかないので2007年に日本機械学会から「機械遺産」として認定された。
歴史的に価値がある、世界各国の印刷関連物の「宝の山」のような展示の場だった。みればみるほどワクワクし、見ていて飽きない。

和文タイプ
しかしわたくしがとくに興味をもったのは、もっと最近のもの、たとえば活版印刷の活字やクワタ、インテルなどの詰め物、タイプ印刷用の和文タイプ、それにとって代わった初期ワープロ、富士通オアシス100などだった。
和文タイプは、わたくしが社会人になった40年ほど前は、企画書、契約書などの清書用にまだまだ普通にビジネスユースで使われていた。タイプ機を買って家で内職する主婦もかなりいた。やがてワープロに「進化」し、「ワード」「一太郎」などパソコン・ソフトに置き換わった。DTP組版ソフトとしてはクオーク、その後はインデザインが主流になっていった。
ミュージアムで、まだ展示品として整備されてはいなかったが、そう遠くない将来、これらも機械遺産に認定されるのではなかろうか。
この30年で印刷工程は、主としてコンピュータ化により大きく変化した。たとえば30年前にはオフセット印刷の写植や写真製版が主流だったが、DTPに変った。パソコン登場以前は、写植の切り貼りや修正、フィルムのネガ・ポジ反転の繰り返しやレタッチ修正が職人技だった。少年週刊誌の表紙の製版で、特定の製版工の人が有名になったこともあった。いまではCTPで直接刷版を作成する方法も普及している。
パソコンになる以前は、ロットリングで地図やグラフを清書するトレースという業務もあり、0.1ミリ罫をまっすぐきれいに引ける人が重宝された。しかしいまではイラストレーター(アドビ)を使えば、素人でもだれでも、直線でも曲線でも描けるようになった。また写真に写りこんでいる電線を消したり、肖像写真のバックをきれいに消すエアブラシという専門職種もあった。これもフォトショップ(アドビ)というソフトに置き換わった。こうした職人技の継承は、おそらくニーズがないのでムリかと思われるが、歴史的文化として、たとえばビデオ記録したり、当時の工具や材料、半製品などが保存・公開されるとよいと思う。できるうちにやっておかないとすぐに散逸・消失してしまう。このミュージアムのコンセプトとは異なるので、ここでは無理かもしれないが、印刷関連業界のどこかで心がけていただきたいものである。

☆今年のNHK大河ドラマは「西郷どん」で、主人公・隆盛は鈴木亮平が演じている。鈴木は2014年春の朝ドラ「花子とアン」で花子の夫、 村岡英治役を演じた。その職業は家業の印刷会社で、このミュージアムの機械が使用された。そこで鈴木もこのミュージアムの見学をしたので色紙が残っていた。

ミズノ・プリンティング・ミュージアム
住所:東京都中央区入船2丁目9-2 ミズノプリテック6階
電話:03-3551-7595(代表) 
休館日:土日曜日、祝日
開館時間 10:00~16:00 
入館料:無料
☆見学は予約制

再審請求中の死刑執行に抗議する

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国家による殺人の代表が戦争と死刑だ。1989年に国連総会で死刑廃止国際条約が採択され死刑廃止が国際社会の潮流となり、死刑廃止国141か国(事実上廃止の30か国含む)に対し死刑が残っているのは日本、中国、北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)など57か国となった(2016年末現在)。しかし日本では死刑廃止は遅々として進まない。それどころか、法務省は逆行することを行っている。
「答弁不能」の金田勝年法相は、委員会採決抜きの「奇策」による共謀罪成立(6月15日)から1か月ほどたった2017年7月13日、西川正勝さん(大阪)、住田紘一さん(広島)の死刑を執行した。退任3週間前の最後の「仕事」だった。西川さんは再審請求中で、きわめて異例だった。
昨年の年末12月19日、上川陽子法相は東京拘置所で2人の死刑執行を行った。2人とも弁護士付きで再審請求中、しかも一人は事件当時19歳の少年だった。執行2日前の12月17日にフォーラム90が上川法相の地元・静岡で集会を行い、袴田秀子さん(巌さんの姉)が上川事務所に死刑廃止の要請書を届けた直後のことだった。
安倍政権は、2006年から07年の第一次のときに10人、第二次で21人、合計31人に死刑執行したことになる。

1月25日(木)夕方、衆議院第二議員会館地下の会議室で「上川陽子法務大臣の死刑執行に対する抗議集会」が開催された(主催:死刑廃止国際条約の批准を求めるフォーラム90アムネスティ・インターナショナル日本監獄人権センター「死刑を止めよう」宗教者ネットワーク)。
安田好弘弁護士から報告があった。安田さんはドキュメンタリー映画「死刑弁護人」(監督: 齊藤潤一 東海テレビ 2012年)の主人公である。
安田弁護士は元少年Sさんの死刑確定直前に弁論再開の申し立てを最高裁に行ったが却下された。そして、再審請求を弁護団2チームで準備していた。まず1チームが責任能力がなかったことを新たな鑑定書も付けて争い、もしそれが却下された場合は事実関係で争うことにし、重要な証人とコンタクトを試みていたところだった。また12月19日の執行の日、別件で東京拘置所へ行っていたときに事務所から執行の連絡を受け、S君の母が遺体との面会を望んだのに、遺体引き取りを条件とする当局に「引き取りとは関係なく会わせろ」と当局と交渉し、母だけ対面できた。
以下、安田さんの報告の一部を紹介する。

松井喜代司さんは再審請求中だった。裁判所は再審を認めるか棄却するか決定するに当たり、当事者の意見を求めなければならないという規定が刑事訴訟法にある。ところが裁判所から求意見が届いていて意見提出前にもかかわらず、法務大臣が死刑を執行した。
再審請求中の死刑執行は昨年7月の西川さんの執行に次ぎ、2人目のケースである。ただ西川さんの場合、当局は「同じような再審事由で再審請求する。これは事実上死刑執行を妨害するものだ」という理由をつけていた。ところが今回は、個別事案については答えられないので差し控えるが、一般的問題として「関係記録を十分に精査し、刑の執行停止と再審事由の有無について慎重に検討し、これらの事由がないと認めた場合、はじめて死刑執行命令を発することができる」と答えた。法務大臣が判断し「再審事由がない」と判断し執行した。今回の場合、再審の理由があると主張し、裁判所から意見を求められその準備をしている最中に、裁判所の判断を得ずして自分たちで判断したということは、行政の司法への介入であり、もっといえば司法そのものを否定している、三権分立制度を否定していることになる。
また「関係記録」はすべて検察が保管しているから、再審請求すると裁判所は検察に請求するのですべての資料が裁判所にいっている。法務省が記録を十分に精査できるはずがない。だから担当検察官に聞いたのだろうが、これでは行政が行政に事由があるか聞いただけ、ということになる。
憲法32条「何人も、裁判所において裁判を受ける権利を奪はれない」とあるが、これは近代憲法、人権思想の根本の部分だ。しかも裁判は司法権に独占されている。この権利を奪っている。
よく刑事訴訟法で「死刑確定後、6箇月以内に死刑を執行しなければならない」と書かれているという話が出る。しかし但し書きで「再審請求したときは、その手続が終了するまでその期間に算入しない」と書かれている。6か月以内に再審請求していたときは死刑執行してはいけない。では6か月を超える場合どうなるか、これはなにも書いていない。死刑執行してよいとは書いていない。法務大臣は、いままでは4年か5年たってから執行してきた。
運用が変わったのであれば、新たに法律をつくって定めなければありえないことだ。なぜなら再審は、誤判を糺し人権侵害をなくそうという制度なのだから、6か月経過してもその趣旨を生かさなければならない。規定がないところで自分たちの権利を行使する以外のなにものでもない。司法権の侵害であると同時に、法律なくして市民の命を奪う独断専行だと、わたしは思う。

少年への死刑について述べる。永山則夫さんの処刑から20年たつがS君の死刑が執行された。18歳を超えた場合は死刑を宣告できるとある。しかし少年法で死刑を執行してよいとは書かれていない。
死刑宣告と執行は違う。なぜなら宣告は裁判上の問題だが、執行は行政上の問題だからだ。法務大臣が執行権をもっている。一方大臣は死刑から救う権限ももっている。彼は19歳のときに事件を犯し25年刑務所のなかで拘禁されている。彼の人生のなかでのこの拘禁の長さを考えると、生き直したのと同じくらいの長さになる。もう一度彼の死刑執行の意味を考え直してもよかったと思う。少年の更生を期待するのが少年法1条の理念だ。執行について、別の事件では、1条の理念が適用されている。ところがこの点について、法務相は何一つコメントしていない。会見で記者が、情報公開をどうするのか重ねて追及すると、情報公開するとその人たちのプライバシーの侵害になると答えた。周辺の人の名誉を棄損することになる。しかし名前も生年月日も、行状も全容を細かく発表している。まるで「高札」を書面で全国に流しているようなものだ。そんなことをしておきながら、何がプライバシーや人権への配慮だ。
再審請求中の94人の確定囚をやろう、弁護士がついていても本人が再審請求していてもやろうという意志表示だと思う。中のひとの精神的ダメージは非常に大きい、安心して眠れないのではないか。

菊田幸一・明治大学名誉教授から国連関連のニュースが2つ伝えられた。
1966年国連自由権規約が採択され、日本も1974年に批准した。この規約の手続き規定として死刑廃止条約(第2選択議定書)がある。規約批准国は死刑廃止に向け努力すべきなのに日本には一向にその姿勢がみられない。国連は定期的に意見書を出しており、昨年も日本の死刑に関し4,5項目違反のおそれがあるとコメントした。しかし日本政府はこの指摘に対する答弁書でことごとく反論を出し続けている。日弁連は、政府の答弁書に対する詳細な批判と反論を発表する予定である。
もうひとつ、昨年9月29日、国連で死刑問題に対する決議を行ったが、日本は反対意見を出した。おもな理由は日本の世論の8割が死刑存置だからというものだ。しかし生命権は絶対的なものであり、普遍的権利である。しかし、世論は相対的なものであり、普遍的な権利や理念に対抗できるようなものではない。
なお2016年10月日弁連は「2020年までに死刑廃止をめざすべき」という宣言を可決している。さらに市民、宗教界、学界などとともに死刑廃止の運動を展開しようとしている。

最後に「再審請求中の死刑執行は、憲法32条にある裁判を受ける権利をおかすものであり、違憲であってけっして許されてはならない。憲法を遵守すべき上川陽子法務大臣は自ら憲法違反を行ったことになる」「再審請求中の者への死刑執行は、冤罪を晴らす機会を閉ざすことに他ならない」「まだ成長過程にあり更生の可能性のある事件当時少年であった者への死刑執行は避けるべきである」「上川法務大臣に今回の執行に対して強く抗議するとともに、再び死刑の執行をしないことを強く要請する」という集会決議(一部抜粋)を参加者一堂で採択し、集会を終えた。

☆2月17日から23日まで、渋谷のユーロスペースで7回目の死刑映画週間「死刑という刑罰」が開催される。「獄友」(監督:金聖雄 2018年)、「白と黒」(監督:堀川弘通 1963年)など8本の映画が上演され、日替わりで森達也さん(映画監督)、坂上香さん(映像ジャーナリスト)らのゲスト・トークが行われる予定だ。

薩摩出身が活躍した警察の歴史――警察博物館

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あまりお世話になりたくない組織、警察の博物館をみにいった。
京橋の中央通と首都高がぶつかるあたりに7階建てのタテに細長いビルがある。1階には、古いパトカー、ヘリコプター、白バイ、さらに赤バイが展示されている。白バイは1936(昭和11)年からだが、それ以前は色が赤い赤バイだった。赤バイが1917年に設置されたのは、都内の自動車が1300台になり交通事故死亡者が1年で51人になったからとの理由で、バイクはアメリカからの輸入車インディアン製1000ccだった。パトカーもいまのように白黒2色になったのは1953年からで、それまでは白一色だったそうだ。

この博物館は、110番疑似体験、交番疑似体験、自転車の正しい乗り方を身につける自転車シミュレーターなど、主として小中学生の学習用の博物館だった。わたくしが最も関心があるのは歴史に関することなので、5階の「警察のあゆみ」を重点的にみた。なお残念なことに5階と4階(警視庁の今とこれから)は撮影禁止だった(1―3階は撮影可)。
明治維新で江戸城が開城した1868年4月、このときはまだ廃藩置県の前だったので、薩摩・長州・佐賀など12藩による「藩兵」という組織が設置され、12月には30藩に増えて「府兵」制度に切り替えられた。71年7月の廃藩置県により10月に東京府直轄の「ら卒」が置かれた。紺の洋服に帽子、靴、1mの棍棒をもつハイカラなスタイルだった。ら卒は3000人いたが内2000人は薩摩の士族出身だった。
薩摩藩与力の家に生まれた川路利良(1834-79)という人物がいる。蛤御門の変(1864)で西郷・大久保らに認められ重用された。
1872年ら卒総長となり、9月から1年ヨーロッパの警察制度を視察し、帰国後建議書草案を書いた。ポイントは3つ
 1 警察は内務省で統括する
 2 首都に内務省に直結する警視庁を設置する
 3 司法警察と行政警察を区分する 警察が消防も所管する
その他、十分な銃器を備えみだりに軍兵を動かさない、消防を警察の所管にする、などもあった。
これらが採用され、74年1月東京警視庁が鍛冶橋(東京駅の南のほう 旧津山藩邸)に設置され川路は初代大警視に就任した。いまも日本の近代警察の父といわれる。
ところが76年ごろから熊本・神風連の乱、秋月の乱、萩の乱と士族の反乱が続き、77年1月警視庁はいったん内務省警視局に吸収されなくなった。2月には西郷隆盛の西南戦争が起こった。政府軍とともに川路は別働第三旅団(警視隊)を率い、故郷鹿児島で西郷軍と戦った。西郷軍6800人死亡、政府軍6400人死亡という激戦だったが、警視隊からも878人の戦死者を出した。
1879年川路はふたたびヨーロッパを訪問したが到着して間もなく病気になり帰国し、数か月後45歳で死亡した。ただ小警視・佐和正(1844-1918 この人は薩摩ではなく仙台出身)らは視察を続け、オーストリア、ドイツ、フランスなどを歴訪し1年6か月後に帰国し視察結果報告を提出した。これがもとになり、1881年1月ふたたび警視庁が設置された。
警視庁の管下を40の区に分け、警察署(事務担当)と屯所(執行面担当)を併置し、1屯所に交番8か所、1交番に巡査を6人配置した。欠員・欠配がないなら、明治10年代に東京全体で320交番、1920人巡査がいたことになる。1881年の東京府の人口は112万人、2018年1月現在の推計人口は1375万人なので12分の1、対する警官は4万3505人(2016年4月)なので22分の1、当時は少なかったとみるか、いまが多すぎるとみるか(もちろんやっている仕事や機能が拡大していることもあるが)。
再設置され大警視という呼称は警視総監に変った。以前と同じように消防も管轄だったがそれ以外に監獄事務も総監した(ただし1903年まで)。
また庁舎はこのときも鍛冶橋にあったが、1931年に桜田門に転居した。2.26事件の5年前のことだ。

前述のとおり、日本の近代警察の父・川路は薩摩出身、創設時3000人のら卒の内2000人が鹿児島出身だが、ほかにもある。薩摩藩の軍楽伝習生30人余りが来日したヨーロッパ軍楽指導者に学んだことが日本の軍楽隊の始まりで、1936年に警視庁音楽隊が発足した。戦時中解散したが、戦後の1948年再発足した。初代隊長は旧陸軍軍楽隊長の山口常光(長崎県壱岐出身)だった。
そばに設置してあるミュージックBOXで薩摩藩軍楽伝習隊指揮者ウィリアム・フェントン作曲「君が代」を聞いた。現代の「君が代」より明るく和声がきれいに聞こえた。ただ歌詞が入るとやはりダメだったのだが・・・。この装置に入っている「警視庁行進曲」「ピーポくんの歌」ははじめて聴く曲だった。 
なお1949年6月に日比谷公園小音楽堂ではじまった水曜コンサートはいまも続いている。

5階の部屋の入口に1957年から2007年に殉職した警官(ここでは殉難者と呼ばれる)38人の遺影と6人分の遺品の展示があった。
殉職の原因(状況)や当時の新聞記事もあった。強盗と格闘中とか鉄道で女性を助けようとして列車にはねられたとか、あさま山荘事件で銃弾に倒れた指揮者(機動隊の隊長)もいた。たしかにそういう方がいた記憶はあるが、長野県警でなく東京の警視庁が出動していたとは知らなかった(応援だったようだが、大人数だった。辺野古の基地反対闘争にも住民排除のため東京や大阪の警察が動員された。いま機動隊住民訴訟が争われているが、昔から警視庁はその種のことをしていたのかもしれない)。
こういう大事件でなく、白バイで追跡中にほかの車両と接触とか、八丈島で高波にさらわれてというような労務災害もあった。
展示された遺品は制服、手帳、手錠などで、これらは職務上のものなのでここにあってもよいが、腕時計まであったのには少し驚いた。遺族に返してあげてもよいのに。ただ新しいものでも1990年までだったので、さすがに最近はこういう遺品の展示はやめているようだ。

4階「首都をまもる 警視庁の今とこれから」をみていくつか発見があった。
現在、警視庁には総務、警務、交通、警備(93年まで警ら)、地域、公安、刑事、生活安全(95年まで防犯)、組織犯罪対策の9つの部、犯罪抑止対策本部、オリンピック・パラリンピック大会総合対策本部など4つの本部と警察学校がある。警備部はSP、機動隊、災害対策などの担当で似た名前の警務は人事や職員の給与、研修などを担当する。地域は交番や駐在所の担当である。警察署の数は2016年時点で102、交番が826、駐在所が258ある。駐在所は警官住込みのところだ。これ以外にOBが詰める地域安全センターが82ある。

よく疑問に思う警察庁と警視庁の違いについて、たぶん警視庁より警察庁のほうが上だろうとは思っていたが、少し説明があった。警視庁を管理するのは東京都公安委員会で、その所轄は都知事、一方警察庁を管理するのは国家公安委員会で、その所轄は総理大臣、警察庁の地方機関である各管区警察局が各府県警を管轄するが、警視庁と北海道警察のみ警察庁本体が直接監督するという関係だ。1874年の警視庁発足以来、首都の治安を守ることは警察の特別な任務なのだろう。
戦後の1946年から2016年までの犯罪(刑法犯)認知件数のグラフがあった。20―25万件を推移していたのが、2002年の30万件をピークに以降14年間一本調子で下降し、2016年には13万4619件とピークの半分以下に減り、1946年以降の最少を記録した。これを長年の努力の結果とみるか、長引く不況で犯罪も減少とみるかは人それぞれだ。ただ、これだけ減っているのだから、「治安が危ない」「犯罪社会」と騒ぐのはどうかと強く感じた。

警察博物館
住所:東京都中央区京橋3丁目5番1号
電話:03-3581-4321(警視庁代表) 
休館日:月曜日(祝日にあたる場合はその翌日)、年末年始
開館時間 9:30~17:00 
入館料:無料

節分祭の新富座こども歌舞伎

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中央区には、いまも歌舞伎座、明治座、新橋演舞場、博品館などの劇場があるが、江戸時代には中村座(京橋から人形町へ)、市村座(人形町)があり、守田座も銀座六丁目(木挽町)からスタートした。これらは歌舞伎の江戸三座と称された。1873(明治8)年、守田座が浅草(現在の浅草6丁目)から新富町(現在の新富町2丁目6 京橋税務署の敷地)に移転し、名前を新富座と改めた。新富座では九代目團十郎、五代目菊五郎、初代左團次の三名優が芸を競い、新富座は歌舞伎の殿堂となったが、関東大震災(1923)で新富座は消失した。
こうした歴史を踏まえ、いまから11年前の2007年春「新富座こども歌舞伎」が発足した。現在、中央区在住の小学生ならだれでも入れるし、そのOB・OGたちは太鼓、鼓、笛などを受け持っている。また三味線や長唄は近所のおじさん、おばさんが協力しているそうだ。こうしたこども歌舞伎は、石川県小松市、愛知県新城市、滋賀県長浜市、三重県東員町、台東区浅草など各地に現存するようだ。

2月4日(日)午後、八丁堀(湊一丁目)の鐵砲洲稲荷神社で、節分祭公演があった。本来は2月4日が立春、一日前の節分に行うそうだ。

柝(き)の音、笛・太鼓の音楽、「東西、東西」のかけ声、「本日は、かくもにぎにぎしくご来場賜りまして恐悦至極に存じ奉りまする」の口上から始まる。これを緋毛氈のうえにちょこんと正座した9歳の少女が述べるので、かわいらしい。
今年も中央区湊の鉄砲洲稲荷神社の神楽殿で節分祭奉納公演が演じられた。この日の演し物は、「寿式三番叟」「三人吉三巴白浪 大川端庚申塚の場」「白浪五人男 稲瀬川勢揃の場」の3つだった。
寿式三番叟」は五穀豊穣を祈る日本舞踊のような感じだった。扇や鈴を持ち、金色に黒の横じまが入り赤い日の丸が付いた烏帽子をかぶり、ずいぶん派手な衣装だった。演じたのは、小学3年2人、4年1人の女子3人。

次に河竹黙阿弥の「三人吉三巴白浪 大川端庚申塚の場」。お嬢吉三、お坊吉三、和尚吉三は3人とも泥棒だ。まずお嬢吉三が夜の女・おとせに道を聞いて百両を奪い取る。それをみたお坊吉三がお嬢を強請り、切り合いになりかかったところ、今日は節分だからと仲裁に入ったのが和尚吉三、結局3人は義兄弟の義を結び、百両は行ったり来たりした末、和尚に渡り、幕となる。
「月も朧に白魚の篝(かがり)も霞む春の空、つめてえ風もほろ酔いに心持よくうかうかと、浮かれ鳥のただ一羽塒(ねぐら)へ帰る川端で、棹の雫か濡れ手で泡、思いがけなく手に入る百両・・・」(お嬢吉三)といった名セリフが登場する。
演じたのは、おとせ、お嬢、お坊は小学5-6年の女の子3人、和尚と金貸し太郎右ヱ門が5年と3年の男の子だった。一番年長のグループだけあり、演技も踊りもしっかりしていた。「新富座!」「○○ちゃん!」などの大向うもちゃんと飛んだ。ただし、おひねりはなく、代わりに終演後カンパを集めた。

最後は黙阿弥の「白浪五人男 稲瀬川勢揃の場
これも5人の盗賊の話で、お上の捕り手に追われ、もうつかまると覚悟を決め、「志ら浪」のそろいの番傘を手に、一人ひとり名乗りを上げる。まさに見せ場である。
「問われて名乗るも おこがましいが 産まれは遠州 浜松在 十四の年から 親に放れ 身の生業(なりわい)も 白浪の・・・」(日本駄右衛門)、日本駄右衛門のモデルは石川五右衛門だ。
「さて其の次は 江の島の 岩本院の 児(ちご)上がり 平生(ふだん)着慣れし 振袖から 髷(まげ)も島田に 由比ヶ浜」(弁天小僧菊之助)、
「続いて次に 控えしは 月の武蔵の 江戸育ち 幼児(がき)の頃から 手癖が悪く 抜参りから ぐれ出して・・・」(忠信利平)、義経千本桜に登場する狐がモデル。
「又その次に 連なるは 以前は武家の 中小姓(ちゅうごしょう) 故主(こしゅう)のために 切取りも 鈍き刃(やいば)の 腰越や 砥上ヶ原(とがみがわら)に 身の錆を 磨ぎ直しても 抜き兼ねる・・・」(赤星十三郎 美少年辻斬強盗・白井権八がモデル)。
「さてどんじりに 控えしは 潮風荒き 小ゆるぎの 磯馴(そなれ)の松の 曲りなり 人となったる 浜育ち・・・」(南郷力丸)

役者は、5人の盗賊を小学校3-4年の男の子2人、2-4年の女の子3人、捕り手が小学1-2年の男の子4人、女の子2人、なかでも赤星十三郎役の2年生の女の子が小さくて、声もかわいらしく、セリフをしゃべるごとに拍手がわいた。まさに役得だった。
全部合わせて1時間20分ほどの演し物だった。

最後に役者全員揃ってごあいさつ
節分で寒い季節でしかも屋外だが、前半は暑いくらいに日が照っていた。
野外公演なので、ふつうは黒御簾(みす)の中で演奏される下座音楽を生で聴けた。三味線の一団と笛・太鼓・鼓の部隊は少し離れたところにいる。笛・太鼓のほうは指揮者がいるようだった。なお地元の大澤(かつら)、金井大道具松竹衣装などのプロ集団も協力している。

鐵砲洲稲荷神社は、平安時代初期の841年創建と伝えられるが、このあたりは埋立地だったため何度か海側に移動し、江戸初期の1624年この地に建てられた。鉄砲洲という砂州に湊があり、全国から米・塩・酒・薪・炭が運ばれた。そこで船乗りの信仰を集めた。鉄砲洲と言う名は、種子島に伝わった鉄砲に似ていたとも、徳川家が入府の際、大筒の試射場であったからともいわれると、神社のウェブサイトにあった。氏子は湊、入船、明石町、新富、新川(一部)、銀座東などいわゆる京橋一帯にわたる。

泰明小学校校庭での元禄花見踊
10月末から11月初めに商店街や町会の連合である全銀座会主催の「AUTUMN GINZA」というイベントが銀座で開催される(かつての大銀座まつり)。そこに新富座こども歌舞伎も出演している。昨年は11月3日(祝)午後、銀座の泰明小学校校庭で、舞踊長唄「元禄花見踊」と歌舞伎「菅原伝授手習鑑吉田社頭車引の場」の公演を行った。わたくしは他の予定があり、口上と「元禄花見踊」の初めのほうだけみた。

大きなイベントとしては、5月5日の子どもの日に鐵砲洲稲荷神社の例大祭に出演する。
今年はその他、3月に浅草こども歌舞伎まつりにも出演する予定になっているそうだ。


白石草の「取材が明らかにした福島の〈現実〉」

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7回目の「3.11」が近づいてきた。福島原発事故を熱心に取材している白石草さん(はじめ ジャーナリスト、Our Planet-TV代表)の講演を阿佐ヶ谷市民講座で聞いた。
白石さんは1969年生まれ、早稲田大学を卒業しテレビ朝日系の制作会社、東京メトロポリタンテレビを経て2001年Our Planet-TVを設立、「東電テレビ会議 49時間の記録」で2014年の科学ジャーナリスト大賞を受賞した。
Our Planet-TVは9.11テロに対し報復・戦争という論調のメディアが多いなか、対話による解決を呼びかけて設立し、Standing together(みんなで声をあげ)Creating the future(一人ひとりが表現者となりよりよい未来をつくる)をミッション・ステートメントとするNPOで、インターネット放送制作配信とワークショップ開講を行っている。
白石さんの発言は、もう8年も前になるがフォーラム90の「原発を考え、死刑を考える」で少しお聞きしたことがある。
白石さんは映像ジャーナリストなので、講演もパワーポイントとビデオ動画など映像が中心だった。たとえば画像のなかには甲状腺ガンの手術動画やアイソトープ治療の厳格に管理された病室などもあった。文による講演の紹介は、かなりもどかしいことを予めお断りしておく。

3.11から7年目の福島の現状――福島原発事故の取材から考える

●福島県浜通りの現状
福島の浜通りは避難解除がどんどん進み様変りしているが、まず現状どうなっているのかお話する。
昨年春、(一部避難指示解除準備区域や居住制限区域が残るが)帰還困難区域を除き原則として避難解除され入れるようになった。JR常磐線も昨年、北は浪江、南は富岡が開業し、残る未開通は双葉、大野、夜ノ森の3駅となった。先日は「オリンピックの聖火リレーを福島で」「国道6号線を通ってほしい」という要望がいわきや双葉の地元から出された。6号線は常磐線より海側で福島第一原発の煙突が見え、帰還困難区域を通過している。そんな場所を2年後にノースリーブで駆け抜けられるようにし、政府は「世界で最も安全な原発」をアピールし、世界に原発を売り込もうとしている。
しかし富岡町役場の職員はだれ1人町に住まず、バスで2時間かけていわきや郡山から通勤している。議員で住んでいるのは1人だけ、町長も住んでおらず「町長の家を探せ」というプロジェクトがあるとの笑い話すらあるほどだ。元は人口1万人だったがいま住んでいるのは300人、うち100人は工事の作業員など新住民だ。300人のうち150人は駅前の復興住宅に住むが、元の家に住んでいる人は間隔が1キロほど離れたところに点々と住むので、夜は真っ暗ななか非常にこわい生活を送っている。
福島で最大のバス会社福島交通は、昨年まで6号線も常磐自動車道もバスを通過させていなかった。昨年1度だけ小高(おだか)中学の修学旅行をお願いされ常磐道を東京まで走らせた。
そんな場所に若いバックパッカーや鉄オタたちがホットパンツにノースリーブで遊びに来ている。
浪江や富岡は今年入学予定の子どもが、幼稚園から中学まで合わせて10-20人と聞いている。中学で3人以下なら普通は廃校だが、政府も町もどうしても存続させたいので、おそらく超小規模校として継続するだろう。
小高中学は37キロ北に避難していたが、昨春元の校舎に戻ってきた。Our Planet-TVは継続して取材を続けているが、1年生は10人、小学生は1クラス5人程度だ。「復興」のかけ声ばかりだが、実際に住んでいる人で65歳以下の人はきわめて少ないのが現状だ。
この3月でほぼすべての賠償が打ち切られようとしている。それどころか山形に避難している人たちを、厚労省の外郭団体が立退きと家賃支払いを求め裁判に訴えるという事態まで起こっている。
政府は、オリンピックを境に原発事故を克服した日本のすばらしさを世界に発信しようという戦略のようだ。

●甲状腺がん193人のいま
1986年のチェルノブイリ原発事故の際、ソ連(当時)は初期に健康被害調査を大規模に行った。一方、日本は1000人のみでしかも途中で打ち切ったので事故初期の被曝データがまったくわからず問題が大きい。2011年11月から事故当時18歳以下の38万人全員に県民健康調査を開始し、いま3巡目が終わり4巡目に入ろうとしている。その結果、193人の甲状腺がんの患者がみつかった。ただいったん経過観察になった人が後で悪性腫瘍と診断されてもその数は集計データに含まれないので、さらに人数が多いと推測される。
環境疫学の専門家である津田敏秀教授(岡山大学)は2015年に福島県中通りの甲状腺がん発生率は50倍、全体でも30倍と多発している。2巡目でも12倍の発生比率となっていることを科学雑誌に発表した。国際環境疫学会から2016年1月日本政府に、県外の被爆者にも検査し評価すべきとの勧告もあった。
しかし県の検討委員会は2016年3月「たしかに多発しているが、福島はチェルノブイリより低線量で、事故当時5歳以下の患者がいない。事故から4年でこんなに多発するのは事故由来ではない。検査しすぎたための過剰診断だ。だから検査は中止すべきだ」との見解を発表した。それから2年、国際がん研究機構(IARC)のプロジェクトに環境省が資金提供し、今春「原発事故のあと、甲状腺がんの検査はしないほうがよい」と提言する見通しになっている。
すると見つかったがんは、一生手術する必要のないがんということになる。これに対し、125人の手術を執刀した鈴木眞一教授(福島県立医大)は「過剰診断ではない。ガイドラインをしっかり守っている」と主張する。鈴木教授は日本甲状腺学会のガイドライン委員長だが、125例のうち、リンパ節転移している患者が97例(77%)、肺転移しているのが3例、甲状腺外に浸潤しているのが49例(39%)ときわめて重症化していたことを学会発表した。手術後再発している深刻な人もいる。また、1巡目ではみつからず2巡目でがんがみつかった69人のうち9割はA判定だった子どもだ。わすか2年で平均1㎝、最大3.5㎝と急速に成長している。
これを同じ程度のスクリーニングにより、福島・郡山・いわきの3市とチェルノブイリのゴメリ、モギリョフ、クリンシー、キエフなど5都市の甲状腺がん発生率を比較すると、ゴメリを除き、福島県の3市のほうが高い率になっていた。
がんと診断された子はどうなるのか、ブラックボックス状態なのだが、取材を重ね次のようなことがわかった。軽度の場合、半摘手術を行う。半摘の子が大半だが、再発すれば全摘しアプレーション治療を行う。その後、肺に転移したときはアプレーションのレベルを上げたアイソトープ治療とホルモン療法を行う。アプレーションとは、ヨウ素が甲状腺細胞に集積する性質を利用し、放射性ヨウ素を含むカプセルを服用し、ガン化した甲状腺細胞を内部被ばくさせて殺す治療のことだ。治療の前2、3週間ヨード制限食を食べ、体内のヨウ素を下げそこに放射性ヨウ素が入るので、甲状腺細胞が全部集まり死ぬ。人体そのものが高い線量になっているので、妊婦や幼児に近寄らない、水洗トイレを使用するなど管理も厳格だ。たいていは日帰り治療ですむが、肺転移すると2日間入院治療が必要になる。
特殊な施設なので都内にも6病院、東北・関東で19病院しか病室がなかった。福島では昨年、国内最大9床の病棟をふくしま国際科学医療センターの4階に新設した。取材に行ったが、遮蔽効果が非常に高いコンクリ壁を使用し、窓ガラスにも鉛が入り、鼻紙などを捨てるゴミ箱も鉛製になっている。
最近入院した女の子の話を聞いた。テレビは見られるが、人には会えずスマホも持ち込めない。何とかお願いして色鉛筆とノートを持ちこんだが、退室するときは全部捨てるという条件だった。その子は放射性ヨウ素を呑んで非常に体調が悪化し何度も吐いた。しかし吐しゃ物は線量が高いので看護師もだれも助けてくれない。一人で耐えたが、つらくて絵も描けなかった。彼女は、この治療は二度と受けたくないといっているそうだ。
この話も気になるが、もうひとつ昨年の検査で事故当時4歳だったガン患者がみつかった。いったん経過観察に分類されてその後がんになったうちの一人だったが、NPO法人・3.11甲状腺がん子ども基金の給付への応募でみつかった。これも衝撃だった。

●福島だけの問題ではない
事故直後の2011年3月20日に常総生協(茨城県守谷市)が呼びかけ、福島、茨城、千葉、宮城のお母さん9人の母乳の放射性ヨウ素を計測した。すると福島はゼロで柏で36ベクレル、守谷で31ベクレルと高い数値が検出された。あのとき何が起きていたかじつのところわからないが、米国防省のヨウ素による被曝量推計(3月11日~5月1日)では赤坂や横田(東京)も、小山(栃木)、百里(茨城)の半分程度とかなり高い。
2013年にチェノブイリから600キロ離れたドネツクの炭鉱夫の方(57歳)を取材した。事故当時4歳だった息子が13歳で甲状腺がんを発症し、まさかこんな離れたところでと思った。4度手術しいったんは寛解した。しかし20年近くたった30歳で再発し、31歳で亡くなった。甲状腺がんとはそういう病気なのだ。20年、30年たって再発し、死に至ることもある。この話を取材したとき、お父さんは苦しそうだった。
チェノブイリでは、遠く離れた低線量のところでも発症している。東京にも甲状腺がん子ども基金が給付している子どもが5人いる。少しでも子どもの首が腫れていたり調子が悪そうだと思ったら、早く病院に連れて行き、早期診断してもらったほうがよい。一度国が汚染状況重点調査区域と定めた線量が高めのところは、茨城、千葉、埼玉、岩手、栃木などに及び人口700万人になる。700万というとチェノブイリで被曝者手帳をもつ人の数と同じだ。福島を他人事とせず、息長く、そしてもっと若い人の体調にもまなざしを払うようにしていきたい。

まったく知らない話が多かった。子どもの甲状腺がんがみつかった話は知っていたが、こんなに悲惨なことになっているとは想像もしていなかった。また浪江や富岡という地名は6年ほど前にはよく聞いたが、避難解除されてもこういう状況だったことも知らなかった。
このあと質疑応答に移ったが、御用学者がなぜ生まれるか、ちっとも報道されないジャーナリズムはいったいどうなっているのか、マスコミや政府に期待できないのなら自治体職員が立つしかないのではないか、など活発な意見交換があった。
参考になることでは、活字媒体では岩波書店の「科学」が、この分野では他の追随を許さないそうだ。執筆者も科学者、ジャーナリストなどこれまでの枠組みにとらわれず起用している。たしかにバックナンバーの目次だけみても「社会のリスクと企業利益――原発事故と軍事誘導から考える」(2017.3)、「検証なき原子力政策」(2017.4)、「被曝影響と甲状腺がん」(2017.7)、「プルトニウムと再処理――日米の40年」(2018.1)といった特集が並んでいる。

阿佐ヶ谷市民講座は原則として毎月第3木曜の夕方、南阿佐ヶ谷の劇団展望で開催される。呼びかけ人は白井佳夫さん、斎藤貴男さんなど10人で、2016年から青井未帆さん、門奈直樹さんが加わった。
わたくしが阿佐ヶ谷市民講座を聞きにきたのは、2014年の青井未帆さん以来なので4年ぶりだ。はじめて来たのは2008年で保坂展人氏、新藤宗幸教授、若松孝二監督、菅孝行氏などいろんな方のお話を聞いた。地下鉄南阿佐ヶ谷のすぐ近く、JR阿佐ヶ谷からは10分くらいの青梅街道に近いところで、門も建物も一見古い民家のようではじめて来たときは驚いた。

時代とシンクロしてきた井上ひさし「きらめく星座」

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紀伊國屋サザンシアターでこまつ座120回記念公演「きらめく星座」をみた。こまつ座は1984年4月「頭痛肩こり樋口一葉」で旗揚げし、3作目が85年9月のこの芝居だった。演出は井上自身、プロデューサーは井上よし子さんだったと思う。

あらすじを、公式HPに出ていたものを使って紹介する。
昭和15年の秋。まもなく整理の対象になっている浅草にある小さなレコード店・オデオン堂。
そこに暮らすのは店主の小笠原信吉と後妻のふじ、長女のみさを、そして広告文案家の竹田と夜学に通う学生の森本も同居している。太平洋戦争前夜の軍国主義一色の時代に、無類の音楽好きが集まったオデオン堂。
ある日、長男の正一が脱走兵として「非国民の家」となるも、みさをが「軍国乙女」となってから一転「美談の家」となる。戦地で右腕を失ってもなお、骨の髄まで軍国主義の塊である婿・源次郎。そして逃げ回る正一を追いかける憲兵伍長の権藤を巻き込んでの大騒ぎとなるが...。
それぞれに信じてきたものが壊れていく時代の中で、「せまいながらも楽しい我が家♪」の歌詞を地でいくオデオン堂と、時代に巻き込まれながらも幻のようにピカピカひかる人間の儚さと力強さを見事に描き出す。
昭和15年11月3日から翌年12月8日までの1年を2幕6場に分けて描いた作品だ。
この芝居を舞台でみるのは3度目だが、じつはNHK教育テレビで初演の録画をみたのがはじめだった。
夏木マリのふじ、犬塚弘の信吉、斉藤とも子のみさを、名古屋章の源次郎、すまけいの竹田、藤木孝の権藤が忘れられない。とくに「真白き富士のけだかさを こころの強い盾として 御国につくす女等(をみなら)は 輝く御代の山ざくら」の「愛国の花」(作詞:福田正夫、作曲:古関裕而、歌:渡辺はま子 1938年)に合わせて夏木と斉藤の母子が踊るバケツ体操が秀逸だった。
当時は名古屋に住んでいて、東京に戻ったらぜひこまつ座を見に行きたいと思ったきっかけとなった作品だった。
東京ではじめてみたのは91年7月池袋・サンシャイン劇場での「頭痛肩こり樋口一葉」、「きらめく星座」は92年2月の新宿・紀伊國屋ホールでみた。沖恂一郎と河内桃子が夫婦、娘を山本郁子が演じた。源次郎を辻萬長、正一は木場勝己、竹田はすまけい、演出は木村光一だった。次に96年3月の池袋・東京芸術劇場での沖恂一郎と岡まゆみが夫婦、娘を長谷川真弓が演じた舞台をみた。このときは藤木孝が権藤憲兵伍長、朴勝哲が森本君だった。演出はやはり木村光一だった。

120回記念公演パンフレット
それから21年たってみたのがこの日の舞台だった。キャストは久保酎吉と秋山菜津子の夫婦、娘が深谷美歩、源次郎は山西惇、正一・田代万里生、竹田・木場勝己、森本・後藤浩明、権藤・木村靖司、演出は井上作品の初演を16本手がけた栗山民也だった。
こうして何度もみているわけだが、同じシナリオの芝居のはずなのに、ちょっと印象が変わった。もちろん戦争反対、天皇制反対がテーマなのだが、以前は、書物で知ってはいてもパラレルワールドの世界の話のようだった。ところが2年前の2015年9月戦争法(平和安全法制)が成立したいま、アベが明日にも日本と北朝鮮との戦争が始まりそうなことを始終煽り立てているので妙に「リアル」で身近な空気を感じた。
「生れてくるべきぢやないんです。生れてきても、あの人のやうに痛みで一生苦しむか、正一兄さんみたいに逃げ回るか、さもなければ靖国神社へ骨になつて帰つてくるしかありません。(略)男の子が仕合せぢやないのに、どうして女の子だけが仕合せになれるの。夫や兄や子どもの身の上を案じながら暮すのがどうして仕合せなの」(164p 以下ページ数は「きらめく星座―昭和オデオン堂物語」(集英社 1985年9月)、旧字ではないものの旧かなづかいで表記されている)、こうしたセリフが、わたくしの孫くらいの年代の「国民」が駆り出される「現実」の話に聞こえた。
また今年6月共謀罪(組織的な犯罪の処罰及び犯罪収益の規制等に関する法律等の一部を改正する法律)が成立し、「行列しながらなにか喋つてゐると、すぐおまはりさんがすつとんでくるのよ。」「わたしたちがたがひにデマかなにかを喋り合つてゐるんぢやないかと疑つてかかつてゐるんでせうね」(p112)という光景も明日にでも見られるかもしれない(いまはスマートフォンやパソコンの時代なので、ラインなどの監視や電話の盗聴だが)。
源次郎の、戦場で失はれたはずの右手の猛烈な幻肢痛についても、いろいろ考えさせられた。源次郎は帝国で失われた「道義」に心を痛め「かつてかたく信じてゐたやうに大日本帝国に道義といふものがあればなあ」(p162)と嘆く。かつては幻肢痛という病気による痛みと「現実」を直視することにより治療するという、病気と治療法、あるいはファナティックな元軍人の「道徳」への偏愛くらいのことしか考えなかった。しかし、アベにより立憲主義や議会制民主主義が失われ、「戦争」を平和安全と言い替え、あるものをない(たとえば日報)と平然というアベコベ語やポスト・トゥルースが横行する社会に変わり、別の視角が開けてきた。「もしなくなつてゐるならば、いつまでもなくなつたものに恋々としてゐてはいかん、その現実にしつかりと目を向けて、電車のなかの二人のやうな生き方を・・・。それはできない・・・。お教へください。帝国の道義、ありやなしや。」(p162)
たしかになくなったからといって「その現実にしつかりと目を向けて、電車のなかの二人のやうな生き方を」することは、源次郎とおなじくわたしたちもやはり「それはできない」。
ラストはさらに厳しい。12月7日の「最後の晩餐」のあと、信吉夫妻は妻の実家のある長崎へ、源次郎は市川国府台の陸軍病院神経科の病棟、みさをは下矢切へ、竹田は満州の開拓農場の小学校へ、森本は戸山の陸軍音楽学校へ、散り散りになる。4年後、長崎は原爆被災、満州はソ連の参戦で地獄、軍楽隊も船が沈んだり、東京にいても戦災にあったかもしれない。陸軍病院でももし「現実を直視する」治療が続いていれば、さらに症状が悪化したかもしれない。なお国府台の陸軍病院は、いまは国立国際医療研究センターとなり、下矢切は井上一家が20年住んでいた家があった場所だ。

「きらめく星座―昭和オデオン堂物語」(集英社)
芝居全体としての印象は、以前と変わらず、音楽と歌の多い音楽劇だった。1930年代は戦争への足音が聞こえると同時に、都市文化やいわゆるポピュラー芸術が華やかだった時期である。浅草のレコード店を舞台にしているので、流行歌がたくさん使われていた。「月光値千金」(榎本健一 1936)、「燦めく星座」(灰田勝彦 1940)、「一杯のコーヒーから」(霧島昇、ミス・コロムビア 1939)、「小さい喫茶店」(田中福男、唄川幸子 1935)、「青空」(市川春代 1935)、「チャイナ・タンゴ」(中野忠晴 1939)など役者たちが合唱する歌は、幸せな歌が多い(下線はユーチューブにリンクしている。ただし「小さい喫茶店」「青空」など、訳詩がシナリオと異なるものもある)。
「ひょっこりひょうたん島」のころから井上のシナリオには音楽がたくさん使われたが、その陰に宇野誠一郎の音楽と宮本貞子の歌唱指導があった。2人ともすでに故人だ。
役者では、音楽劇という点で、東京芸大声楽科出身の田代万里生は声がよく出ていてさすがにうまかった。また秋山菜津子はラストの「青空」などで練習の成果がよく出ていた。深谷美歩もいい声だった。なお、深谷美歩、阿岐之将一、岩男海之と、新国立劇場研修所出身者が3人もいるのはうれしい。
わたくしとしては、初演のときのインパクトがあまりにも強く、夏木・犬塚・斉藤・すま・藤木のキャストのほうが好きだ。役者、演出ともあのときの舞台をもう一度みたいと思った。
ただ、今回服部基の照明に感心した。裏文字の「オデオン堂」の店名ネオン(裏文字になっているのは、店内からみているから逆さになるのだろうか)、6つの防毒面の揺れる灯り、星座の光、8月15日のまぶしい陽光、ピアノの上の灯り、窓辺のスタンド、茶の間の電球・・・。とくに星座の光が印象的で美しかった。だから竹田の「ペガサスがちやうど真南にかかつてゐますな」(p11)、「晴れてゐればあのへんに十六夜の月が出てゐるはずなんだが。それに向ふにはオリオン星座」(p37)というセリフが生きる。また「あかいめだまのさそり ひろげた鷲のつばさ あをいめだまの小いぬ ひかりのへびのとぐろ・・」と、ふじが歌う「星めぐりの歌」(p141)にもピッタリ合っている。
92年の三演のときはすでに服部が担当していたので、わたしが知らないだけで、初演から担当していたのかもしれない。
ところで、わたくしがこまつ座を何度もみにいったのは、井上のシナリオの力が大きい。この芝居は1940年の11月3日(明治節)、46年2月11日(紀元節)、4月29日(天長節)、8月15日、11月23日(新嘗祭)、12月8日とカッチリ日時を限った2幕6場編成になっている。戦前の旗日(天皇制と深く結びついている)と開戦前夜、お盆かつ敗戦の日で、壁に日めくりが掲げられている(ト書きに「大型の日めくり」(p8)との明確な指定あり)。

120回公演ということと、井上ひさしは2010年4月に75歳で亡くなったが生きていれば83歳の誕生日ということで、終演後に特別トークショーが開かれた。参加したメンバーは唯一の所属俳優・辻萬長とこの日出演した木場勝己、久保酎吉、後藤浩明の4人、司会は井上麻矢(こまつ座代表)だった。
井上の思い出という質問に、辻氏は「稽古場でのニコニコした表情」を挙げた。再演、三演のときはありがたいが、初演は(いつも台本が遅れるので)笑顔をみると「あんたは書き上げたのだからいいよ。おれたちこれから死ぬ思いをするのに、ちょっとしゃくにさわった」と言っていた。井上は遅筆堂という別名もあるくらいで、役者だけでなく、観客も前売り券を買うときに、はじめの一週間くらいはまだ稽古が不十分だし、最悪は初日が遅れる危険性もあるので避けて買っていたことを思い出した。なかなかリスキーな観劇体験だった。
音楽劇ならではということで、音楽監督を何作も手掛けた後藤氏は「少年口伝隊」のギターの生演奏で、演出の栗山はタイト(短め)にといい、作者の井上は長めにというので、間に入り板挟みになりちょっと困ったと語った。それはたしかに困るだろう。なお後藤は「日本人のへそ」の再演(92年11月)のときにピアノ演奏のために来たのが井上との最初の出会いだったそうだ。演奏だけだと思って2人で交代でというと、井上に「役者としても出ないといけないので、それはちょっと」と言われ、もう一人の人(朴勝哲)に出てもらったそうだ。おお、そうか「黙阿弥オペラ」(95年1月)や「太鼓たたいて笛ふいて」(02年7月)など多くの作品で演奏した朴氏はこういうきっかけで出演することになったのかと、納得した。わたくしが朴をはじめて舞台で見たのは96年の「きらめく星座」だった。
後藤も、たしかにピアノがうまい。朴勝哲と同じく桐朋学園出身だ。ただしピアノ科ではなく作曲理論学科卒だそうだ。

こまつ座をよく観たのは、井上存命中の「シャンハイ・ムーン」(2010年2月)までで、その後は追悼公演の朗読劇「水の手紙」「少年口伝隊一九四五」(2010年11月)、「キネマの天地」(2011年 秋山のこまつ座初登場)、「木の上の軍隊」(2013年)しかみていない。大きな原因は観劇料が高くなったことだ。それ以外に西舘好子「表裏井上ひさし協奏曲」(牧野出版 2011/08 389p)を読み、都さんと麻矢さんとではずいぶん違うことを知ったことにもよる。
次にこまつ座をみるとすると、やはり好きだった「イーハトーボの劇列車」か「頭痛肩こり樋口一葉」で気にいった役者が出ているとき、あるいは「イヌの仇討」などまだみていない芝居のときだろうか。

今年も4軒、築地はしご酒2017

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築地には魚市場があるし、昔からの高級料亭もある。最近は事務所ビルが増えたので、かつてに比べると酒場の数はずいぶん多くなった。しかしこれまでの体験では2000-3000円で飲める店にはほとんど遭遇しない。土地代が高いわりに客が少なく、一軒め酒場や魚民のようなチェーン店があまりないからかもしれない。平均客単価5000円くらいの地域ではないかと推測される。そんな価格では、いくら料理がうまくてもわたくしにはかなり厳しい。
そういう環境で、築地はしご酒は500円のメニューが何品か用意されているので、料理はつまみ程度、酒はほんの一杯だけではあるが、1000円から1500円程度で店に入ることができる。店に入ればすこしは雰囲気がわかるので、店探しという点で貴重なチャンスである。
11月18日に開催された築地はしご酒は今年が第4回だが、わたくしが参加するのは3回目。今回は天候が悪く小雨のはしご酒だった。また合唱の練習日だったので、開始時間から1時間遅れの5時前に受付へ到着した。

1 築地 多け乃
現地に向かうと細い路地に10人以上の列ができていた。1人客はあまりおらず2-5人グループが多い。近くの人気店、天ぷらの黒川と間違えて並ぶ人もいた。

思ったほどの時間はかからず店内へ。この店にはたまたま3週間ほど前に初めて訪れた。料理の価格表示がない(時価)ことで有名な店でおそるおそる行ってみたが、たしかに普通に飲み食いすれば5000円近くになりそう(わたくしは3000円以内で収まった)だが、内容は良心的だった。3-4人の家族でやっている店だが、この日は客が多いため、元気のよい大将がややいらだっているようだった。前回より、女性スタッフの人数が増えていた。
1階はカウンターのほかテーブルが3つほどだが、2階があり食べログによると46席なので結構大きい。1階のコーナーにはお酉さまの大きな飾りがあり、景気がよさそう。毎年11月に買い替えているようだ。
前回はすずきの刺身を食べたが、この日は500円の天ぷらを注文。アジとアナゴかと思ったが、聞いてみると姫小鯛銀宝。岩塩で食す。見栄えはもうひとつだが、素材がいいのでやはりうまかった。プロの店だ。燗酒の銘柄は聞き損ねたが前回の徳利に「富翁」とあったので、そうかもしれない。

2 魚河岸三代目 千秋
まず店の場所がわからなかった。地図にはKYビル1階と書いてあるがビル内1階を1周しても見当たらず入口の店の人に聞くと地下1階だという。しかし地下にも見当たらない。もう一度聞くと、いったん外に出てビルの側面にあるという。なんとかたどりついたが先客がやはり10人くらい並んでいた。15分ほど待って入店できた。もっともはしご酒の場合、少し酔いがさめるのでかえってよいともいえる。
店内はL字のカウンターのみ。食べログでは11席、この日は椅子がなく立飲みだったので、もう少し多かったかもしれないが小さい店だった。食べたのは自家製さつま揚げと芋焼酎のお湯割り。銘柄は鹿児島の銀滴、なかなかうまい焼酎だった。しかしグループ客が多くて落ち着かない。隣は、山登りから帰って来たばかりとかで、男女4-5人の元気いっぱいのグループだった。

3 鳥藤
ちょっとおなかに何か入れたいと、築地魚河岸3階のフードコートにやってきた。大学の生協食堂のような感じなので、店の情緒はまったくない。
とりそば希望で訪れたが、すでに売り切れでとり鍋になった。鍋というよりはスープだった。それでも鶏肉が2切れと生姜の効いたつくねが3-4個入っていた。親子丼やとりめしで有名な店だが、鶏の専門店だけあってスープがうまく体が暖まった。

4 スタンドBar 上松
つぎに初参加の魚沼を目指した。ここは並ばず入れたが、「すでに料理は終了、飲み物だけ」というのでやめた。そしてスタンドBar 上松へ。
この店は昨年1ドリンクサービス(翌日以降1か月以内にはしご酒イベント参加店を訪れれば1ドリンクのみ無料というサービス)で訪問した店だ。比較的若い方がやっていてまだ開店1年あまり。そのときはアジの干物がおいしかった。この日は珍味2品、一見きゅうりのようにみえたが千葉のつぶ貝と緑のもずくの類、もう一品はトマトかと思ったらサーモンといくらの粕漬けだった。たしかに珍味だった。酒は秋田の春霞(赤ラベル)の常温だった。この店は品ぞろえがよく、味がよいことを今回も実感した。

今回も4軒回れた。スタートが出遅れるといろいろな不利益があることを実体験し、よくわかった。

さて、築地の居酒屋について紹介したいが、それほどよく知っているわけではない。いままで行った20軒弱(それも1回しか行っていない店が大半)のなかから、もっともよかった店を2店紹介する。
魚竹
かつて、築地のサラリーマンだった知人に教えられた店。築地から汐留に引っ越した電通社員が「どーしても連れて行きたかった」という噂のある店で、予約客でいっぱいだが1人なら入れるかも、といわれた。1回目は金曜夕方行ったが、やはり満席だった。2度目は木曜にいくとなんとかカウンター奥の席に座れた。トイレにいちばん近い席で、見上げるとたまたまマスターの調理師免状が掲示されていた。美濃部亮吉都知事のその免状の発行年月は1976年9月、40年選手ということだ。席はカウンターのみで11席。
その日食べたのは、「冬の味覚 魚竹特製鮪ねぎま鍋」「自家製するめイカ肝みそ」「ぬか漬盛り合わせ」など。酒の燗のつけ具合もよかった。レンジで温めているのが見えたので、チロリに移し替えているのがよいのか、保存状態がよいのか、あるいはほかの理由なのかはわからない。勘定は4500円ほどで、満足感と釣り合っていた。

鮪ねぎま鍋
はなふさ
ここは太田和彦さんが味酒覧第三版で推薦していた店だ。行ったのは2年ほど前だが、残念ながら記録をつけていない。ネット検索すると、ヤフー・ブログ「日本の酒場をゆく」にこんな紹介があった。

店主は、生まれも育ちも築地という生粋の地元っ子だ。
「魚河岸は、小さい頃から自分にとっては遊び場。学生の時はアルバイトもしていましたし、言ってみれば庭のようなものですね」。
毎朝築地へ仕入れに繰り出すのは店主の日課となっている。
そこで発揮されるのは、小さい頃から培われた類い希な目利きだ。
厳選された魚は、刺身は当然、煮付け、焼き、揚げなどと豊富な調理法で味わえる。
「手を加えすぎて、素材の味が崩れるのは嫌い」と、シンプルなものが多いが、それは裏を返せば、素材自体がしっかりしている証拠でもある。()

こういうウワサに違わぬいい店だったことはよく覚えている。
調理は2人でやっていて、ほかにお運びの女性がいたかどうか。客席はL字のカウンターに10人程度座れる。奥に小上がりがあり6人入れるらしい。店が小さいこともあり、やはりこの店も予約しないとなかなか入れない。
勘定はここも5000円程度だった。

左隣は玉子焼き屋さん

ウルボ――泣き虫ボクシング部

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12月2日(土)夜、東京朝鮮高級学校ボクシング部を描いたドキュメンタリー映画「ウルボ――泣き虫ボクシング部」(監督 李一河(イ・イルハ) 2015 86分 この日の主催:枝川朝鮮学校支援都民基金)を見に、江東区枝川の東京朝鮮第二初級学校(枝川朝鮮学校)に行った。その前に行ったのは大阪朝鮮高級学校ラグビー部を描いた「60万回のトライ」(監督:朴思柔、朴敦史)を見たときなので3年ぶりになる。

着いたのは夕方6時前、校庭では真っ暗な中で少年たちがサッカーの練習をしていた。講堂に入ると後方で、キムチやビールを販売していた。
上映に先立ち金剛保険から学校にテントの寄贈式が行われた。全国の朝鮮学校に寄贈しているそうだ。

そして86分の映画の上映が始まった。この作品は韓国の李一河(イ・イルハ)監督のドキュメンタリー作品だ。韓国で2015年に初上映、日本では2016年に練馬、参議院議員会館、大阪、豊橋などで自主上映、今年4月から渋谷や横浜の映画館で上映されたそうだ。
撮影に1年半、編集に6か月ということなので、登場する高校生は3-4年前に卒業した年代だと考えられる。

映画は、インターハイの予選、日本全国の朝鮮高校の中央体育大会、3年生から2年生への引継式などを主要イベントとし、東京朝鮮高級学校ボクシング部の生徒と監督の1年が描かれる。
ウルボ(泣き虫)というタイトルは、引継式も終わり卒業間近の3年生がキム・サンス監督とともに風呂に入っているシーンがあり、キム監督への映画スタッフ(たぶんイ監督)の「この3年生はどんな子たちでしたか」という質問に「ウルボ(泣き虫)」と答えたことに由来する。 
たしかに、試合に負けては泣き、勝っても泣き、膝の故障で試合に出られないといって悔し泣きし、よく泣いていた。最後は監督の先生も泣いていた。

過酷な練習、試合の前のプレッシャーや試合後の後悔も出てくる。監督の「心で負けるな、顔を上げろ」「君たちは3年間つらい練習にも耐えてきた」というセリフにみえるように生徒の成長の物語にもなっている。キャプテンの「青春、いましかない」というセリフもあったが、一言でいえば「青春のスポーツ映画」だ。
しかし7人の選手と女子マネジャー、監督だけの映画ではない。選手の家族、1世や2世の祖父母、相手チーム・大阪朝鮮高級学校の選手、習志野高校の坂巻監督、OBの2人のプロボクサーなど多彩な人びとへのインタビュー動画が映し出される。なかでも高校生の表情と言葉が生き生きしていた。
ボクシング部の活動がメインではあるが、大学検定試験、運動会、修学旅行(祖国訪問団という名称)、卒業式など学園生活も盛り込まれている。板門店の近くで食べたナポリタンがおいしかったというエピソードは、わけがわからず面白かった。
在日の生活は、日本社会の根深い差別と切り離せない。かつて指紋押捺制度、就職差別など制度上の問題があった。だいたい高校のクラブがどんなに強くても、公式試合に出場できないという問題もあった。廃止・改善されたものもあるが、やはり差別感は根強く存在する。文科省前金曜行動で保護者が「名前が朝鮮人っぽいという理由で『おい、朝鮮』『チョン』といじめてよいのか」と憤り(無償化はずしで)「機会均等を奪うな」「奪うなー」と絶叫していたが、それには十分な理由がある。
背景説明のため、「朝鮮人は帰れ!」「叩き出せ!」の大合唱の大久保・ヘイトデモ、京都朝鮮学校への襲撃事件(2009年)など日本社会での在日朝鮮人差別、無償化を求める金曜行動の動画も差し挟まれる。
朝鮮学校OBでプロボクサーになった選手が、韓国や共和国在住の朝鮮人でもなく、日本に住んでいるが日本人ではない在日は、「どこにも属さない」「悪くいえば属せない」と語ったが、そういう社会で生きていくうえで、在日の人びとにとって朝鮮学校は貴重な拠点だ。朝鮮語で学び、校内での日常語は朝鮮語を使っている場所。そして日本の敗戦後、自分たちが自分たちの手でつくった学校という自負と誇りがある。たとえば運動会は一族郎党が集合する一大イベントである。
ウリ・ハッキョ、民族学校がこの映画の本当のテーマだといえる。卒業間近の「いつでも学校に遊びにきなさい」という先生の言葉にも特別な意味が込められている。、
ウリ・ハッキョ、民族学校が映画のテーマという点では、昨年みた茨城朝鮮初中高級学校を描いた「蒼のシンフォニー」(朴英二〈パク・ヨンイ〉監督 2016)も同じだった。
ただこの作品はていねいに目配りをしているが、その反面、あまりに多くの要素が散りばめられているので、見ていて中心となるボクシング部3年生7人のディテールがわからなくなってしまった。一方、一人の人物を追ったものでもチームの活動を追ったものでもないので中心テーマが明快ではない。
なおわたくしはプロの試合も含めて、ほとんどボクシングに関心がなく残念ながらまったく知識がない。少し知識があれば、試合のシーンや練習風景をみて感動するショット、迫力あるショット、技術的な面の感想がいくつかあったかもしれない。それでもボクシングは個人競技だが、「60万回のトライ」のラグビーなどと同様に団体で戦うスポーツだということは理解できた。
そのほか、音楽がよかった。朝鮮学校の女性徒が歌う「」や舞踊がいいのはいうまでもないが、それ以外にも映画で使われていた音楽、たとえば「声よ集まれ、歌となれ」(文科省前金曜行動でよく歌われる歌)や「アリラン」、ロックの曲、バスのなかで部員が歌う「イムジン川」などもよかった。
 
終映後にトークがあると聞いたので、「100万回のトライ」上映のときと同様に、てっきり映画監督イ・イルハさんのトークだと勘違いした。ところが現れたのはボクシング部のキム・サンス監督だった。イルハさんは韓国在住のはずなので、仕方がない。
キム監督は子どものころに空手、学生時代にサッカーの経験はあるが、ボクシングは引継にあたり、前監督から教わっただけだそうだ。
「ボクシングを通して、ボクシング以外のことも学んで卒業してほしい」というのが信念のようだ。また、この映画をまだ見ていない人への希望を問われ「ボクシング部だけでなく、朝鮮学校に関心をもってもらえるとありがたい」と答えた。

最後に東京朝鮮中高級学校「高校無償化」裁判弁護団師岡康子弁護士から、9月13日の判決後の経過について説明があった。
12月18日の控訴理由書提出を前に週1―2回集まり、控訴審の準備を進めている。具体的には、文科省に新たな証拠を文書で求めたり、意見書提出の準備、裁判官の朝鮮学校への偏見を解くための手立てなどだ。
控訴審の第1回期日は3月20日(火)15時と決定しているので、また傍聴に集まっていただきたい。

☆日本国内の差別というと、沖縄差別、とりわけアベやスガ官房長官の差別は目に余る。12月12日夕方、参議院議員会館講堂で「山城裁判を知ろう!」という院内集会が開催された(主催:市民と議員の実行委員会 参加295人)。2014年7月22日高江に東京の警視庁機動隊が現れたときから急に暴力的になったそうだ。それまでは、沖縄県警は「公平中立」の方針に則り、デモ隊と現場指揮者とのあいだには日日の暗黙のルールがあった。それが「公平中立」を投げ捨て、沖縄防衛局の立場に寄りそうように変わった。その背景にはアベやスガの指令があり、たとえば海上保安庁の長官を呼びつけた結果、辺野古の保安庁が暴力を振るい海難者をつくろうとする行動を行うようになった。
山城博治さんの裁判は12月4日の論告求刑で懲役2年6月を受け、12月20日(水)に弁護側の最終弁論、そして3月14日に判決の予定になっている。
「こんな時代だからこそ、顔を上げ希望をもって闘いぬこう」と、スピーチのはじめに「沖縄今こそ立ち上がろう」「座りこめここへ」「辺野古へ行こう(「明日があるさ」の替え歌)、スピーチの最後に「喜瀬武原、空高くのろしよ燃え上がれ」で始まる「喜瀬武原(キセンバル)」の3番を歌った。いつも1曲くらい歌が入るが、この日は4曲も披露された。気合が入っている証拠だと思った。

人報連の「森友・加計疑獄と報道」

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12月17日(日)午後、「第33回人権と報道を考えるシンポジウム」が水道橋のスペースたんぽぽで開催された(主催:人権と報道・連絡会)。今年のテーマは「森友・加計疑獄と報道――ゆがめられた行政を監視する責任」、今年前半大きく注目を浴び、発覚後、安倍首相は憲法違反を犯してまで臨時国会を開かせず、そして「アベ難解散」で総選挙に逃げ込んだ2大「疑獄」事件だ。
パネリストは豊中市議の木村真さん、「加計獣医学部問題を考える会」共同代表の黒川敦彦さん、東京新聞社会部記者の望月衣塑子さん、人報連世話人の浅野健一さんの豪華メンバー、司会は人報連の山際永三事務局長だった。あまり広くはない会場は文字通りスシ詰め状態だった。
4時間にも及ぶ長いシンポジウムだったので、わたくしがとくに関心をもったところだけ紹介する。それでもずいぶん長文になってしまった。安倍独裁政権の強引さだけでなく、ここにはあまり書けなかったが、マスコミの功罪についても考えさせられるシンポジウムだった。

木村真さん(森友学園問題を考える市民の会・共同代表、豊中市議会議員)
木村さんの講演は3月末に議員会館で聞いた。地元豊中でどのように森友問題を発掘し、疑惑解明運動を展開したかということは「木村真・豊中市議が抉る森友問題の本質」(リンク)で書いたので、そちらを参照していただきたい。 ここでは、木村さんとマスコミの関わりについて話されたことに絞って紹介する。

昨年11月下旬にジャーナリストの西谷文和さんのインターネットラジオの番組に白井聡さんとともにゲスト出演し、森友問題を話した。そのとき西谷さんからマスコミ各社に情報提供してはどうかとアドバイスされた。それで名刺交換した記者のなかから十数人に連絡を入れたところ、毎日、大阪のNHK、大阪の共同通信の記者が取材に来てくれ「これは怪しい。独自に取材してみる」といってくれた。しかし一向に記事にならない。
これは何か具体的なできごとがないと取り上げにくいのではないか、と近畿財務局の職員を背任で刑事告発することにした。
じつはもうひとつきっかけがあった。12月に毎日放送が夕方の報道番組で取材に来た。17日の金曜に取材依頼の連絡があったので、「22日まで議会の本会議があるので23か24ではどうか」と答えた。すると「30分か1時間なのになぜ時間がとれないのか」とかなり強引に迫るので早めに取材を受けた。内容は政務活動費で「3年間で膨大な本(450冊)を買っている」というものだった。しかしなんら違法な点はないし隠したわけでもない。書名・金額・領収証を添付したからこそ取材に来たわけだ。ところが1冊ずつ「この本は豊中のどの条例と関係あるのか」「この本で、いったいどういう議会質問をしたのか」「この本はどんな政策実現に反映されたのか」と聞く。21日にオンエアされたものをみると、怪しげなBGMを流し「1対1で対応できるものではなく、何の役にも立っていない本もある」と答えたところだけ流していた。また事務所に入ってくるところから盗み撮りして、わたくしが机の上を片付けているシーンが映し出された。撮っていることに気づかなかったが、もし気づけばきっと「なんのあいさつもなしに撮影するのか」と気色ばんだと思う。もしカメラを遮ったりすれば、きっとその映像が流されただろう。これは5分間のミニ特集だったが、なぜ公共の電波を使ってこんな番組をと思った。10月からビラまきをしていたこともあり「森友問題をやると、お前なんかいつでもつぶせる」という警告かとも思った。こうなったら、つぶすかつぶされるのかだと腹をくくり、ビラまきの地域を拡大し2月8日に提訴、記者会見した。翌日大阪朝日が独自取材も加え7段ぬき記事を掲載し、一気に全国レベルの疑惑事件になっていった。
ただひとつ気になる点がある。この事件は、税金のムダづかいという意味でのたんなるオンブズ系ニュースではない。あくまでも、教育勅語を幼稚園の生徒に暗唱させ、ヘイト発言が日常化するカルト右翼学園に、政権中枢が肩入れした事件ととらえるべきだ。安倍は第一次政権のときに教育基本法を改悪し、育鵬社教科書の採択運動を行い、教育への介入に尋常ならざる執念をもっている人物だ。もしヨーロッパで首相がネオナチ学園に100万円寄付したりすれば大きな政治問題になる。大手メディアはこの点に触れていない。

黒川敦彦さん(加計獣医学部問題を考える会・共同代表)
黒川さんは、加計学園グループの岡山理科大学獣医学部の予定地である愛媛県今治市で、公文書の開示請求を行い加計疑惑を追及している。10月の総選挙では、安倍の本拠地山口4区で立候補した。

加計疑惑には2つの大きな論点がある。ひとつは国会でも追及され前川喜平氏がいう「行政が歪められている」という問題だが、わたしたちは、加計の獣医学部はそもそも計画がデタラメでカネについての疑義があることを追及している。
最前線として、50億の補助金詐欺事件とウィルス漏れが発生するずさんな設計の2つについて説明する。
わたしたちは、建築費は2倍程度に水増しされており、水増し分の約50億の現金は政治家に配られるのではないかと疑っている。つまり加計問題は政治とカネの問題というわけだ。今治市は36億円の土地無償譲渡に加え96億円(市64億円、愛媛県32億円)の補助金交付を決定している。しかし96億円が適正かどうか、市も市議会もだれも見積もりを入手せず、建築費が適正かチェックしていない。
わたしたちは独自に加計の建築図面を入手し、8月23日に公開した。建築費は木造住宅なら坪単価40万くらいからで、森ビルの六本木タワーですら110万円なのに、加計は図面から計算すると150万円になっている。図面には「外壁は6センチのコンクリートパネル」など仕様も記載されているが、建築の専門家にみせると倉庫に毛のはえたような仕様なので、民間なら70万円を切ってもおかしくないという。イオンモールはボリュームディスカウントもあるが、45万円で建てている。
加計は、建築着工統計用に33万平方mを80億でつくるという数字を国交省に提出しており、坪単価88万円ということになる。88万でも高いほうだが、学校建築物の単価としてはありうる数字だ。150万との差額が水増し分と考えられる。
図面の公開と同時にニュース23と報道ステーションがこの数字も含めて報道してくれたが、それまで沈黙を続けた加計から即座に4通のファックスが届いた。そのなかに80億は1期工事であり2期工事もあると書いてあった。建築費は136億ということになっているので、2期は56億ということになる。しかし2000平方m程度しかないので、坪単価952万円と、とんでもない数字になる。もともとウソをいっているのでだんだん辻褄が合わなくなり、以降加計はいっさいしゃべらなくなった。
11月の特別国会予算委員会で原口一博議員(民進)が追及し、文科省から「1期121万、2期216万」という数字が提出された。単価の精査は、文科省も内閣府も今治市もやらない。
この建物の設計は加計学園グループのSID創研で、取締役として加計夫人の泰代さんが就任している。施工は加計氏と親しい大本組とアイサワ工業だ。
もうひとつの「100%ウィルス漏れが発生する設計」を説明する。これは内閣委員会で山本太郎議員(自由)が追及してくれた。
鳥インフルエンザなど危険なウィルスを研究するBSL3という研究室は5坪しかなく、マウスも鳥も飼育できず実験もできない。しかも建物の真ん中にあるので、まわりは学生がうろうろしているし、ウィルスはだれでも乗れるエレベータで運ぶことになっている。
だからこんなところでウィルス研究はできないし、やらないのだと考えられる。しかしそれでは特区の要件(獣医師養成系大学・学部の新設の石破4条件)に合わなくなる。
最後に、山口4区で立候補し、「税金ドロボー、カネ返せ!!」のポスターを1000か所に貼り、ボランティアとカンパのみで闘った体験からイタリアの五つ星運動を紹介する。リカルド・フラカーロ下院議員が来日し11月28日に参議員会館で講演した。
五つ星運動は、創設6年目の2013年の総選挙に千数百人が立候補し、900議席のうち130議席(上院40、下院90)を獲得した。かかった金額は5000万、供託金がないので1人4万円にしかならない。ポイントは千数百人立候補させたことだ。その人たちがネットで友人に呼びかけたので、ネットが騒然となったそうだ。日本でも市民が立ち上がり、もっと立候補する人が増える社会環境になれば、こういう新しいムーブメントがつくれるのではないかと思う。
なお、安倍首相を相手に10月16日に刑事告訴し、12月20日に今治市を相手取った住民訴訟の第1回期日の裁判がある。多くの方に「モリカケ共同追及プロジェクト」への参加を呼びかけている。

望月衣塑子(いそこ)さん(東京新聞社会部記者)
望月さんは6月の菅官房長官記者会見でデビューし、質問を重ねて食い下がり有名になった。しかし「殺すぞ」という脅迫電話が新聞社にかかってきたそうだ。この日のスピーチでも「問題ない。関係ない」という菅官房長官の口癖や山本幸三・地方創生担当大臣の「わたくしめが言いました」の口マネを交え、雨宮処凛さん並みのマシンガン・トークが炸裂した。

2人の子どもの育休・産休を終え2014年に職場復帰し、武器輸出の取材を始めた。それまで事件一色、政治オンチのわたしだったが、4月1日に武器輸出三原則を大きく転換し「防衛装備移転三原則」が閣議決定された。国家のありかた、経済政策のあり方が、武器を売って稼ぐアメリカの軍産複合体のミニ版のように変わっていくだろうと、安倍政権に危機感をもった。
当時、官邸主導で、オーストラリアに12隻4兆2000億で潜水艦を輸出しろと指示を出し一気に舵を切っていた。そうりゅう型潜水艦は音が静謐だからだ。それだけに機微技術や機微情報のかたまりなのに、政権はリスクがわかっていないようだった。安倍政権の下、日本が変わっていくことを肌感覚で感じていた。
それに加え、伊藤詩織さんの準強姦事件で、2015年6月4日、中村格刑事部長が逮捕直前に執行見送りを指示する事件が起こった。その後不起訴になったが、中村氏は菅官房長官の秘書官を長く務め信頼の厚い人物だ。これまで十数年事件報道をやってきて、検事が執行停止させることはあっても警察のトップが止めることなど一度も経験がない。司法の場まで歪められ始めたと感じた。
6月に前川喜平・元文科事務次官に4時間弱のロングインタビューをした。なぜ安倍政権に疑問をもつようになったか聞くと、06年の第一次安倍政権の教育基本法改正がきっかけだったという。前川氏は旧教基法がとても好きで全文暗唱していて、とりわけ前文の「平和を希求」という文言が好きだったのに削除された。日本に民主主義を根付かせるためつくられたのに、これでは日本の教育のあり方が根本から変わっていく、安倍政権は非常に危ういと感じたと話した。一方の籠池氏も、それまでは「変なおっちゃん」と見られていたのに、教育基本法が変わり役所の人が自分をていねいに扱うようになった。「政治の力はすごい、安倍さんすごいわ」と心酔するようになった。
行政の場が歪み、政治が変わり教育の場も変えられていく。さまざまな疑問をもち安倍首相に聞きに行こうと思ったが、総理への会見では報道官が決まった人しか指さない。それでナンバー2の菅さんに聞くことにした。
本当は社会部が会見に出るのはご法度らしいが、部長に「もう少しモリカケを聞きたいので」というと「いいよ。キャップにだけ言っといてな」とOKが出た。それで前川問題で、読売報道の半年も前に内閣府が出会い系バー通いを把握していたことについて、「全省の事務次官にこんなことをやっているのか」と聞くと「そんなことやっていない」と答える。「不正の温床となるような場所に行き、教育者としてあるまじき」と紙をみながら何回もいう。そのことを聞くと「心から思っていることをいったまでだ。あなたに、紙を読んでいるか答える必要はない」と答える。
2回目は詩織さんのことを聞かねばと、事前に知っていたのではないかと思って聞いた。「知らない」という「警視庁において必要な捜査を行い、検察で不起訴になった。こういうことだ」。加計学園の文科省と内閣府のやりとり文書については、役人が身の危険を冒して告白しているのだから何としても再調査させないとと「きちんとした回答をもらっているとは思わないので」と繰り返し質問したが、菅さんは「仮定の質問に答えるわけにはいかない」というのが大好きだ。
望月さんは、幣原喜重郎首相が9条戦争放棄が生まれた事情を語った「世界は今一人の狂人を必要としている。(略)世界は、軍拡競争の蟻地獄から抜け出すことができない。これは素晴らしい狂人である。その歴史的使命を、日本が果たすのだ」という言葉で話を締めくくった。

浅野健一さん(同志社大学教授、人報連世話人、元共同通信記者)

わたしは「安倍晋三記念小学校疑獄」「加計学園獣医学部疑獄」と呼んでいるが、この2つの疑獄事件の報道は日本のジャーナリズムを少しだけ国際標準に近づける突破口になったと思う。モリカケ解散に追い込み、結果としては小池・前原につぶされたが、大きな潮流は続くと思う。
黒川さんの山口4区選挙に、2回応援に行った。安倍本人は選挙区に入らず、代わりに昭恵夫人が出陣式にやってきた。黒川さんは大胆にも「4区で立候補した黒川と申します」とあいさつし、山本太郎さんは夫人と握手していた。わたしは「国会証言しないんですか。100万円は本当に渡したんですか」と取材した。するとスーツ姿の男性に「もっと下がれ」「記者なら腕章をしろ」といわれたので「フリーだから腕章はない」と答えた。おそらく警視庁のSPではないかと思われる。「私人」のはずなのにSPが付くとは。最後にこぶしをグーにして腹を殴られた。抗議すると「あなたね、邪魔なんだよね」といって立ち去った。12月16日に正式に告訴状を送付した。街宣カーに乗り込んだ昭恵夫人の第一声は「参議院議員の山本太郎さん、お見えになられてありがとうございました」だったので、たいしたタマだと思った。
11月に大学設置審議会が認可を答申し文科省が認可したのですべてが終わったかのように思われているが、わたしはまだまだハードルがあると考えている。96億円の補助金はまだ議会に上提されていない。県知事は自民でなく、維新ということもあり、3月31日までに支払われない可能性もある。あきらめてはいけない。
この件について、黒川さんから補足説明があった。今治市も64億をいったん一般会計に組み込む必要があるが、議会審議は3月にある。また愛媛県は2018年11月に県知事選があるので、この件は選挙が終わってからにする可能性もある。また県・市とも一度に交付するのでなく分割払いになる可能性もある。

☆このほか、木村さんと浅野さんから11月に起きた大阪の人民新聞編集長別件逮捕事件の話があった。キャッシュカード2枚を金融機関から詐欺をしたという容疑で1か月勾留して起訴し、一方家宅捜索ですべてのパソコンや読者名簿を押収した。小さな新聞社なので編集長と2人で発行しているので発刊の危機に立たされている。現代の言論弾圧事件である。そのもう一人の編集者がなんと園良太氏だというので驚いた。今年3月11日の東電本店合同抗議で見かけた園氏が「Go West Come West!!! 3.11関東からの避難者たち」というグループを結成したとアピールするのを聞いたときにも驚いたが、新聞の編集もやっていたのだ。

「お笑い」の本拠地・大阪千日前にて

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大阪の千日前で漫才をみた。
NHK朝ドラ「わろてんか」のモデルは、もちろん吉本興業・創業者の吉本せいである。
ドラマでの拠点劇場は「南都風鳥亭」だが、これはなんば花月のもじりであることに年末になって気付いた。花鳥風月なので、そんなことは関西の人ならすぐに勘が働いたかもしれない。
もうひとつ理由があった。昨年秋、薬研掘ではじめて講談を聞き、話芸というものもなかなかたいした「芸」のひとつだということに気がついたことだ。落語は以前、春風亭正朝一門の寄席を何度か聞いたことがあり、次ははじめて劇場で漫才をみてみようということにした。
初笑いのため、なんばに出かけた。といってもなんば花月は料金がちょっと高目なので、向かいのよしもと漫才劇場に入ってみた。漫才劇場はビルの5階にあるが、建物自体がちょっと変わっていて、1階から3階はドン・キホーテなんば千日前店、地下1階がNMB48劇場、8階には府立上方演芸資料館「ワッハ上方」が入っている。

花月は2階席もあり880席なのに比べれば335席とかなり小さい。しかし満席でかつ立見の人が50人ほどいた。ほとんど女性・子どもかと思ったが、そういでもなく男性や高齢者もバランスよくいた。上演時間は1回120分だが、最後の30分は新喜劇で、漫才は11組、その他漫才・新喜劇それぞれに前説が付く。前説は携帯電話を切れとか録音・撮影禁止、場内飲食禁止などのアナウンスだが、NHKの公開放送のような拍手の練習まであったのには驚く。
普通のコンビは5分だが、持ち時間10分の芸人が4組あった。笑い飯、平和ラッパ・梅乃ハッパ、吉田たち、キングコングだった。比較的年長のコンビだったが、年長ということは、芸能の世界で長く生き残っているということなので、実力があるということだろう。たしかに何か特色のある芸人たちだった。平和ラッパ・梅乃ハッパは74歳と64歳のコンビだが、たしかに加山雄三、ベンチャーズやフラメンコなどギターの演奏がうまかった。漫才ネタとしては背中にギターを乗せて弾いていた。「一芸に秀でる」とはよくいったものだ。吉田たちは、一卵性双生児で、それだけでもたしかにネタ話をたくさんつくることができる。子どものころの花一匁、遠足のお菓子やおかずを交換しても中身は同じ、ライバル意識などネタが無尽にありそうだった。笑い飯は、人気ラーメン店の行列に割り込んだヤクザを注意するシーンとガムのかみ捨てを注意するマナー・ネタだった。仕種で笑わせていた。キングコングは「森の熊さん」の輪唱だった。ただ同じことをあまり何度もやるとしつこいと感じた。
ベテランに共通しているのは、声がよく、かつよく通ること、仕草が洗練されていることだった。仕種のほうは、型が決まっているといってもよく、日本舞踊、歌舞伎など古典芸能全般、いやバレーなど芸術全般に通じる。
出番が5分の若手のほうも自分たちの強みを磨き、それぞれのやり方で客にアピールしていた。
さや香(男性2人)は上戸彩と麻婆豆腐との比較というネタで勝負していた、kento fukayaは絵がうまかった。ツートライブはヤクザ言葉がネタ、アキナは枕草子の一節を使っていたが少し難しかった。尼神インターは女性2人、ブスをからかうネタだったがあまり面白くなかった。あとでテレビで見た時のほうが印象がよかった。修学旅行の夜のバカな中学生と教師の会話のクロスバー直撃は、あとで考えるとなかなか秀逸なネタという感じがした。その他、どつき漫才やダジャレの漫才もあった。
ただ、人を5分笑わせることはなかなか難しい技だということがよくわかった。 

よしもとヤング新喜劇はあの「ほんわか、ほんわか」というおなじみのテーマミュージックで始まる。調べると、20世紀初頭に作曲された「Somebody Stole My Gal」というデキシーの曲だそうだ。
関西のテレビ番組は、古くからスチャラカ社員(朝日放送)、番頭はんと丁稚どん(毎日放送)、てなもんや三度笠(朝日放送)などお笑いの伝統があった。土曜の昼下がりの吉本新喜劇はいまも毎日放送で続いている。植村花菜の「トイレの神様」にも「新喜劇録画し損ねたおばあちゃんを泣いて責めたりも した」という歌詞があった。
この日の舞台は花月うどんといううどん屋、役者は若夫婦(信濃岳夫、森田まりこ)、その父(ダブルアートのしんべえ)、アルバイト店員(松浦真也)、5年も行方不明の兄(守谷日和)、2人のヤクザ(吉田裕、ダブルアートのタグ)、地上げの不動産屋2人(諸見里大介、川畑泰史)の9人
行方不明の兄がつくった借金の取り立てに来る2人組のヤクザ、店を売れと迫る不動産屋、勝負は、勝てば取り立て、負ければ帰るなぞなぞで行う。解答の解説を森田が行うというパターンで進行。途中で5年ぶりに兄が帰宅するが、父は怒っている。最後は父が兄を許し、ヤクザはガラス拭きのパントマイムをしながら去っていき、ハッピーエンドで終わる。
ダブルアートのしんべえは鼻に目や口が集合した顔そのものがネタ、諸見里大介は大きな体格とシャ・シ・シュ・シェ・ショの滑舌が特色だった。

分析的に書いているので、ちっとも楽しんでいないのではないかと思われるかもしれないが、そんなことはない。笑うところは大いに笑わせていただき、初笑いになった。回りの客も笑っていた。とくに子どもが大声で笑うのを聞くのは気持ちがよい。しかし正直言うと、やや退屈なコンビや少ししつこいと感じるものもあった。
もう2000円出して花月で中田カウス・ボタン、今くるよなど有名な人をみたほうがよかったかというと、微妙なところだ。

なんばの街はかなり大きく、しかも地下鉄、南海、近鉄、JRの駅の場所が、地下でつながっているとはいえバラバラだった。よしもとは南海や地下鉄の駅からは近い。
なんば花月のライバル、松竹・角座は北に300mくらい、歌舞伎・新劇・松竹新喜劇の大阪松竹座は400mくらいのところにある。国立文楽劇場も北東へ600mくらいのところにあるので、笑いだけでなく芸能の集積地域でもある。

花月から南西に700mくらいの場所に難波八坂神社がある。鳥居をくぐるといきなり巨大な獅子頭に出くわし面食らう。高さ12m、幅11m。奥行き10mもある獅子頭の形の建物で、本殿ではないが、舞台になっていて奉納舞が舞われるという。大阪らしい、冗談のような建物だ。
よしもとから1.2キロほど南には、「商売繁盛笹もってこい」の十日戎で有名な今宮戎神社がある。マークはニコニコ笑っている戎である。ちょうちんにもこのマークが入っている。いかにも笑の神のような神社だ。

また千日前の商店街は食べ物店がメインだが千日前道具屋筋商店街というものもあった。厨房用品、包丁、食品サンプルなどの専門店が並んでいた。

☆古典芸能といえば、はじめて謡曲を謡った。10年近く前に矢来能楽堂で一度「」(ぬえ)の公演をみたことがあったが、謡うのは初めての体験だった。「高砂や この浦舟に帆を上げて」というかつては結婚式で謡われた有名な「高砂」である。一本調子のところはよいのだが、上げたり下げたり、伸ばしたりはなかなか難しいものだということがわかった。能楽協会専務理事の先生の謡を聞くと、浪曲のようなうなりも入っているし、ビブラートも付いている。
地声で腹から声を出すということはなんとなく知っていたが、とにかく大声で「ケンカしている」ような感じとまでは思わなかった。たしかに健康にはよさそうだった。

東京都中央区でみた印刷関連の文化遺産

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東京都中央区には「活字発祥の碑」がある。1873年(明治6年)本木昌造の弟子・平野富二が築地1丁目に活版製造所をつくったからだ。1876年(明治9年)に設立された秀英舎(後の大日本印刷)も現在の銀座4丁目にあった。
戦中から昭和20年代にかけて中央区(京橋区と日本橋区の合計)の印刷工場の数は23区で1位だったが、いまも中央区の地場産業は印刷業で、印刷業の事業所数は166のうち108で65%、製造品出荷額で73%を占めている(2014年工業統計調査報告)。

1年半ほど前、区のわくわくツアーというイベントで、東銀座にある中村活字という会社を訪ねたことがあった。いまも活版印刷を業務として営んでいると聞き期待したのだが、本や雑誌といったページものではなく、ハガキや名刺など端物の印刷をしているとのことだった。もともと都庁や役所に強い会社だったが、いまは全国の活版ファンからの注文に応えているとのことだった。

入船2丁目のミズノプリテック6階に「ミズノ・プリンティング・ミュージアム」という企業博物館がある。室内には、紀元前2200年のバビロニアの円筒印章やエジプトのパピルス文書(4-7世紀)に始まり、現存する世界最古の印刷物「百万塔陀羅尼(だらに)」という経文(770年)、鋳造活字印刷を発明したグーテンベルクの「42行聖書」(1450-1455)、イギリスで1850年に製造された鉄製印刷機コロンビアンプレスなど貴重な文化遺産が所狭しと並んでいた。1988年の社屋新築時に会長のコレクションを企業のフィランソロピー活動の観点から約160平方mのスペースに公開し、オープンしたものだそうだ。
百万塔陀羅尼とは、恵美押勝の乱(764)を平定した称徳天皇が、戦死した将兵の霊や鎮護国家を祈念するため無垢浄光(むくじょうこう)大陀羅尼経の一部を100万巻印刷し法隆寺・東大寺・興福寺・薬師寺・四天王寺など10の大きな寺に10万基ずつ奉納した経典である。経は木製三重の塔の上部の相輪に収められている。現存する世界最古の印刷物(770)で、いまも法隆寺に4万基ほど、その他博物館などが少し保有するが、そのひとつがここにあるというわけだ。

真ん中の茶色が本物の木製の塔(白いものはレプリカ)
福沢諭吉の著作が何冊も展示されていた。『西洋旅案内』(1867)、『西洋事情』(1870)、『学問のすゝめ』(1872-1876)、『民間経済録』(1880)などである。「「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」と言へり」で始まる『学問のすゝめ』は17編からなる。初版は500部ほどしか作成されなかったが、その後人気が出て350万部も出版された。初版で残っているのは10部だが、そのうちの1冊がここにある。

その他、印刷雑誌創刊号(1891年2月)、明治時代の東京の地図、世界三大美書といわれるウィリアム・モリスのケルムスコット・プレス版「チョーサー著作集」、ジョン・ホーンビイの「タンテ著作集」、コブデン・サンダーソンの「英訳聖書」などがあった。
印刷雑誌の印刷者は佐久間貞一(秀英舎の創立者)と記されていた。 
また印刷物だけでなく大きな印刷機械も何台も展示されていた。1850年イギリスで製造されたコロンビアンプレス、1860年やはりイギリスで製造されたアルビオンプレス、1885年ごろ平野富二が製造した国産印刷機1号の手引き活版印刷機などである。これは築地活版製造所でつくられたものだが、現存するものは1台しかないので2007年に日本機械学会から「機械遺産」として認定された。
歴史的に価値がある、世界各国の印刷関連物の「宝の山」のような展示の場だった。みればみるほどワクワクし、見ていて飽きない。

和文タイプ
しかしわたくしがとくに興味をもったのは、もっと最近のもの、たとえば活版印刷の活字やクワタ、インテルなどの詰め物、タイプ印刷用の和文タイプ、それにとって代わった初期ワープロ、富士通オアシス100などだった。
和文タイプは、わたくしが社会人になった40年ほど前は、企画書、契約書などの清書用にまだまだ普通にビジネスユースで使われていた。タイプ機を買って家で内職する主婦もかなりいた。やがてワープロに「進化」し、「ワード」「一太郎」などパソコン・ソフトに置き換わった。DTP組版ソフトとしてはクオーク、その後はインデザインが主流になっていった。
ミュージアムで、まだ展示品として整備されてはいなかったが、そう遠くない将来、これらも機械遺産に認定されるのではなかろうか。
この30年で印刷工程は、主としてコンピュータ化により大きく変化した。たとえば30年前にはオフセット印刷の写植や写真製版が主流だったが、DTPに変った。パソコン登場以前は、写植の切り貼りや修正、フィルムのネガ・ポジ反転の繰り返しやレタッチ修正が職人技だった。少年週刊誌の表紙の製版で、特定の製版工の人が有名になったこともあった。いまではCTPで直接刷版を作成する方法も普及している。
パソコンになる以前は、ロットリングで地図やグラフを清書するトレースという業務もあり、0.1ミリ罫をまっすぐきれいに引ける人が重宝された。しかしいまではイラストレーター(アドビ)を使えば、素人でもだれでも、直線でも曲線でも描けるようになった。また写真に写りこんでいる電線を消したり、肖像写真のバックをきれいに消すエアブラシという専門職種もあった。これもフォトショップ(アドビ)というソフトに置き換わった。こうした職人技の継承は、おそらくニーズがないのでムリかと思われるが、歴史的文化として、たとえばビデオ記録したり、当時の工具や材料、半製品などが保存・公開されるとよいと思う。できるうちにやっておかないとすぐに散逸・消失してしまう。このミュージアムのコンセプトとは異なるので、ここでは無理かもしれないが、印刷関連業界のどこかで心がけていただきたいものである。

☆今年のNHK大河ドラマは「西郷どん」で、主人公・隆盛は鈴木亮平が演じている。鈴木は2014年春の朝ドラ「花子とアン」で花子の夫、 村岡英治役を演じた。その職業は家業の印刷会社で、このミュージアムの機械が使用された。そこで鈴木もこのミュージアムの見学をしたので色紙が残っていた。

ミズノ・プリンティング・ミュージアム
住所:東京都中央区入船2丁目9-2 ミズノプリテック6階
電話:03-3551-7595(代表) 
休館日:土日曜日、祝日
開館時間 10:00~16:00 
入館料:無料
☆見学は予約制

2018.1.31 「国産印刷機1号の手引き活版印刷機」の製造年を「1885年ごろ」に修正した

再審請求中の死刑執行に抗議する

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国家による殺人の代表が戦争と死刑だ。1989年に国連総会で死刑廃止国際条約が採択され死刑廃止が国際社会の潮流となり、死刑廃止国141か国(事実上廃止の30か国含む)に対し死刑が残っているのは日本、中国、北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)など57か国となった(2016年末現在)。しかし日本では死刑廃止は遅々として進まない。それどころか、法務省は逆行することを行っている。
「答弁不能」の金田勝年法相は、委員会採決抜きの「奇策」による共謀罪成立(6月15日)から1か月ほどたった2017年7月13日、西川正勝さん(大阪)、住田紘一さん(広島)の死刑を執行した。退任3週間前の最後の「仕事」だった。西川さんは再審請求中で、きわめて異例だった。
昨年の年末12月19日、上川陽子法相は東京拘置所で2人の死刑執行を行った。2人とも弁護士付きで再審請求中、しかも一人は事件当時19歳の少年だった。執行2日前の12月17日にフォーラム90が上川法相の地元・静岡で集会を行い、袴田秀子さん(巌さんの姉)が上川事務所に死刑廃止の要請書を届けた直後のことだった。
安倍政権は、2006年から07年の第一次のときに10人、第二次で21人、合計31人に死刑執行したことになる。

1月25日(木)夕方、衆議院第二議員会館地下の会議室で「上川陽子法務大臣の死刑執行に対する抗議集会」が開催された(主催:死刑廃止国際条約の批准を求めるフォーラム90アムネスティ・インターナショナル日本監獄人権センター「死刑を止めよう」宗教者ネットワーク)。
安田好弘弁護士から報告があった。安田さんはドキュメンタリー映画「死刑弁護人」(監督: 齊藤潤一 東海テレビ 2012年)の主人公である。
安田弁護士は元少年Sさんの死刑確定直前に弁論再開の申し立てを最高裁に行ったが却下された。そして、再審請求を弁護団2チームで準備していた。まず1チームが責任能力がなかったことを新たな鑑定書も付けて争い、もしそれが却下された場合は事実関係で争うことにし、重要な証人とコンタクトを試みていたところだった。また12月19日の執行の日、別件で東京拘置所へ行っていたときに事務所から執行の連絡を受け、S君の母が遺体との面会を望んだのに、遺体引き取りを条件とする当局に「引き取りとは関係なく会わせろ」と当局と交渉し、母だけ対面できた。
以下、安田さんの報告の一部を紹介する。

松井喜代司さんは再審請求中だった。裁判所は再審を認めるか棄却するか決定するに当たり、当事者の意見を求めなければならないという規定が刑事訴訟法にある。ところが裁判所から求意見が届いていて意見提出前にもかかわらず、法務大臣が死刑を執行した。
再審請求中の死刑執行は昨年7月の西川さんの執行に次ぎ、2人目のケースである。ただ西川さんの場合、当局は「同じような再審事由で再審請求する。これは事実上死刑執行を妨害するものだ」という理由をつけていた。ところが今回は、個別事案については答えられないので差し控えるが、一般的問題として「関係記録を十分に精査し、刑の執行停止と再審事由の有無について慎重に検討し、これらの事由がないと認めた場合、はじめて死刑執行命令を発することができる」と答えた。法務大臣が判断し「再審事由がない」と判断し執行した。今回の場合、再審の理由があると主張し、裁判所から意見を求められその準備をしている最中に、裁判所の判断を得ずして自分たちで判断したということは、行政の司法への介入であり、もっといえば司法そのものを否定している、三権分立制度を否定していることになる。
また「関係記録」はすべて検察が保管しているから、再審請求すると裁判所は検察に請求するのですべての資料が裁判所にいっている。法務省が記録を十分に精査できるはずがない。だから担当検察官に聞いたのだろうが、これでは行政が行政に事由があるか聞いただけ、ということになる。
憲法32条「何人も、裁判所において裁判を受ける権利を奪はれない」とあるが、これは近代憲法、人権思想の根本の部分だ。しかも裁判は司法権に独占されている。この権利を奪っている。
よく刑事訴訟法で「死刑確定後、6箇月以内に死刑を執行しなければならない」と書かれているという話が出る。しかし但し書きで「再審請求したときは、その手続が終了するまでその期間に算入しない」と書かれている。6か月以内に再審請求していたときは死刑執行してはいけない。では6か月を超える場合どうなるか、これはなにも書いていない。死刑執行してよいとは書いていない。法務大臣は、いままでは4年か5年たってから執行してきた。
運用が変わったのであれば、新たに法律をつくって定めなければありえないことだ。なぜなら再審は、誤判を糺し人権侵害をなくそうという制度なのだから、6か月経過してもその趣旨を生かさなければならない。規定がないところで自分たちの権利を行使する以外のなにものでもない。司法権の侵害であると同時に、法律なくして市民の命を奪う独断専行だと、わたしは思う。

少年への死刑について述べる。永山則夫さんの処刑から20年たつがS君の死刑が執行された。18歳を超えた場合は死刑を宣告できるとある。しかし少年法で死刑を執行してよいとは書かれていない。
死刑宣告と執行は違う。なぜなら宣告は裁判上の問題だが、執行は行政上の問題だからだ。法務大臣が執行権をもっている。一方大臣は死刑から救う権限ももっている。彼は19歳のときに事件を犯し25年刑務所のなかで拘禁されている。彼の人生のなかでのこの拘禁の長さを考えると、生き直したのと同じくらいの長さになる。もう一度彼の死刑執行の意味を考え直してもよかったと思う。少年の更生を期待するのが少年法1条の理念だ。執行について、別の事件では、1条の理念が適用されている。ところがこの点について、法務相は何一つコメントしていない。会見で記者が、情報公開をどうするのか重ねて追及すると、情報公開するとその人たちのプライバシーの侵害になると答えた。周辺の人の名誉を棄損することになる。しかし名前も生年月日も、行状も全容を細かく発表している。まるで「高札」を書面で全国に流しているようなものだ。そんなことをしておきながら、何がプライバシーや人権への配慮だ。
再審請求中の94人の確定囚をやろう、弁護士がついていても本人が再審請求していてもやろうという意志表示だと思う。中のひとの精神的ダメージは非常に大きい、安心して眠れないのではないか。

菊田幸一・明治大学名誉教授から国連関連のニュースが2つ伝えられた。
1966年国連自由権規約が採択され、日本も1974年に批准した。この規約の手続き規定として死刑廃止条約(第2選択議定書)がある。規約批准国は死刑廃止に向け努力すべきなのに日本には一向にその姿勢がみられない。国連は定期的に意見書を出しており、昨年も日本の死刑に関し4,5項目違反のおそれがあるとコメントした。しかし日本政府はこの指摘に対する答弁書でことごとく反論を出し続けている。日弁連は、政府の答弁書に対する詳細な批判と反論を発表する予定である。
もうひとつ、昨年9月29日、国連で死刑問題に対する決議を行ったが、日本は反対意見を出した。おもな理由は日本の世論の8割が死刑存置だからというものだ。しかし生命権は絶対的なものであり、普遍的権利である。しかし、世論は相対的なものであり、普遍的な権利や理念に対抗できるようなものではない。
なお2016年10月日弁連は「2020年までに死刑廃止をめざすべき」という宣言を可決している。さらに市民、宗教界、学界などとともに死刑廃止の運動を展開しようとしている。

最後に「再審請求中の死刑執行は、憲法32条にある裁判を受ける権利をおかすものであり、違憲であってけっして許されてはならない。憲法を遵守すべき上川陽子法務大臣は自ら憲法違反を行ったことになる」「再審請求中の者への死刑執行は、冤罪を晴らす機会を閉ざすことに他ならない」「まだ成長過程にあり更生の可能性のある事件当時少年であった者への死刑執行は避けるべきである」「上川法務大臣に今回の執行に対して強く抗議するとともに、再び死刑の執行をしないことを強く要請する」という集会決議(一部抜粋)を参加者一堂で採択し、集会を終えた。

☆2月17日から23日まで、渋谷のユーロスペースで7回目の死刑映画週間「死刑という刑罰」が開催される。「獄友」(監督:金聖雄 2018年)、「白と黒」(監督:堀川弘通 1963年)など8本の映画が上演され、日替わりで森達也さん(映画監督)、坂上香さん(映像ジャーナリスト)らのゲスト・トークが行われる予定だ。

薩摩出身が活躍した警察の歴史――警察博物館

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あまりお世話になりたくない組織、警察の博物館をみにいった。
京橋の中央通と首都高がぶつかるあたりに7階建てのタテに細長いビルがある。1階には、古いパトカー、ヘリコプター、白バイ、さらに赤バイが展示されている。白バイは1936(昭和11)年からだが、それ以前は色が赤い赤バイだった。赤バイが1917年に設置されたのは、都内の自動車が1300台になり交通事故死亡者が1年で51人になったからとの理由で、バイクはアメリカからの輸入車インディアン製1000ccだった。パトカーもいまのように白黒2色になったのは1953年からで、それまでは白一色だったそうだ。

この博物館は、110番疑似体験、交番疑似体験、自転車の正しい乗り方を身につける自転車シミュレーターなど、主として小中学生の学習用の博物館だった。わたくしが最も関心があるのは歴史に関することなので、5階の「警察のあゆみ」を重点的にみた。なお残念なことに5階と4階(警視庁の今とこれから)は撮影禁止だった(1―3階は撮影可)。
明治維新で江戸城が開城した1868年4月、このときはまだ廃藩置県の前だったので、薩摩・長州・佐賀など12藩による「藩兵」という組織が設置され、12月には30藩に増えて「府兵」制度に切り替えられた。71年7月の廃藩置県により10月に東京府直轄の「ら卒」が置かれた。紺の洋服に帽子、靴、1mの棍棒をもつハイカラなスタイルだった。ら卒は3000人いたが内2000人は薩摩の士族出身だった。
薩摩藩与力の家に生まれた川路利良(1834-79)という人物がいる。蛤御門の変(1864)で西郷・大久保らに認められ重用された。
1872年ら卒総長となり、9月から1年ヨーロッパの警察制度を視察し、帰国後建議書草案を書いた。ポイントは3つ
 1 警察は内務省で統括する
 2 首都に内務省に直結する警視庁を設置する
 3 司法警察と行政警察を区分する 警察が消防も所管する
その他、十分な銃器を備えみだりに軍兵を動かさない、消防を警察の所管にする、などもあった。
これらが採用され、74年1月東京警視庁が鍛冶橋(東京駅の南のほう 旧津山藩邸)に設置され川路は初代大警視に就任した。いまも日本の近代警察の父といわれる。
ところが76年ごろから熊本・神風連の乱、秋月の乱、萩の乱と士族の反乱が続き、77年1月警視庁はいったん内務省警視局に吸収されなくなった。2月には西郷隆盛の西南戦争が起こった。政府軍とともに川路は別働第三旅団(警視隊)を率い、故郷鹿児島で西郷軍と戦った。西郷軍6800人死亡、政府軍6400人死亡という激戦だったが、警視隊からも878人の戦死者を出した。
1879年川路はふたたびヨーロッパを訪問したが到着して間もなく病気になり帰国し、数か月後45歳で死亡した。ただ小警視・佐和正(1844-1918 この人は薩摩ではなく仙台出身)らは視察を続け、オーストリア、ドイツ、フランスなどを歴訪し1年6か月後に帰国し視察結果報告を提出した。これがもとになり、1881年1月ふたたび警視庁が設置された。
警視庁の管下を40の区に分け、警察署(事務担当)と屯所(執行面担当)を併置し、1屯所に交番8か所、1交番に巡査を6人配置した。欠員・欠配がないなら、明治10年代に東京全体で320交番、1920人巡査がいたことになる。1881年の東京府の人口は112万人、2018年1月現在の推計人口は1375万人なので12分の1、対する警官は4万3505人(2016年4月)なので22分の1、当時は少なかったとみるか、いまが多すぎるとみるか(もちろんやっている仕事や機能が拡大していることもあるが)。
再設置され大警視という呼称は警視総監に変った。以前と同じように消防も管轄だったがそれ以外に監獄事務も総監した(ただし1903年まで)。
また庁舎はこのときも鍛冶橋にあったが、1931年に桜田門に転居した。2.26事件の5年前のことだ。

前述のとおり、日本の近代警察の父・川路は薩摩出身、創設時3000人のら卒の内2000人が鹿児島出身だが、ほかにもある。薩摩藩の軍楽伝習生30人余りが来日したヨーロッパ軍楽指導者に学んだことが日本の軍楽隊の始まりで、1936年に警視庁音楽隊が発足した。戦時中解散したが、戦後の1948年再発足した。初代隊長は旧陸軍軍楽隊長の山口常光(長崎県壱岐出身)だった。
そばに設置してあるミュージックBOXで薩摩藩軍楽伝習隊指揮者ウィリアム・フェントン作曲「君が代」を聞いた。現代の「君が代」より明るく和声がきれいに聞こえた。ただ歌詞が入るとやはりダメだったのだが・・・。この装置に入っている「警視庁行進曲」「ピーポくんの歌」ははじめて聴く曲だった。 
なお1949年6月に日比谷公園小音楽堂ではじまった水曜コンサートはいまも続いている。

5階の部屋の入口に1957年から2007年に殉職した警官(ここでは殉難者と呼ばれる)38人の遺影と6人分の遺品の展示があった。
殉職の原因(状況)や当時の新聞記事もあった。強盗と格闘中とか鉄道で女性を助けようとして列車にはねられたとか、あさま山荘事件で銃弾に倒れた指揮者(機動隊の隊長)もいた。たしかにそういう方がいた記憶はあるが、長野県警でなく東京の警視庁が出動していたとは知らなかった(応援だったようだが、大人数だった。辺野古の基地反対闘争にも住民排除のため東京や大阪の警察が動員された。いま機動隊住民訴訟が争われているが、昔から警視庁はその種のことをしていたのかもしれない)。
こういう大事件でなく、白バイで追跡中にほかの車両と接触とか、八丈島で高波にさらわれてというような労務災害もあった。
展示された遺品は制服、手帳、手錠などで、これらは職務上のものなのでここにあってもよいが、腕時計まであったのには少し驚いた。遺族に返してあげてもよいのに。ただ新しいものでも1990年までだったので、さすがに最近はこういう遺品の展示はやめているようだ。

4階「首都をまもる 警視庁の今とこれから」をみていくつか発見があった。
現在、警視庁には総務、警務、交通、警備(93年まで警ら)、地域、公安、刑事、生活安全(95年まで防犯)、組織犯罪対策の9つの部、犯罪抑止対策本部、オリンピック・パラリンピック大会総合対策本部など4つの本部と警察学校がある。警備部はSP、機動隊、災害対策などの担当で似た名前の警務は人事や職員の給与、研修などを担当する。地域は交番や駐在所の担当である。警察署の数は2016年時点で102、交番が826、駐在所が258ある。駐在所は警官住込みのところだ。これ以外にOBが詰める地域安全センターが82ある。

よく疑問に思う警察庁と警視庁の違いについて、たぶん警視庁より警察庁のほうが上だろうとは思っていたが、少し説明があった。警視庁を管理するのは東京都公安委員会で、その所轄は都知事、一方警察庁を管理するのは国家公安委員会で、その所轄は総理大臣、警察庁の地方機関である各管区警察局が各府県警を管轄するが、警視庁と北海道警察のみ警察庁本体が直接監督するという関係だ。1874年の警視庁発足以来、首都の治安を守ることは警察の特別な任務なのだろう。
戦後の1946年から2016年までの犯罪(刑法犯)認知件数のグラフがあった。20―25万件を推移していたのが、2002年の30万件をピークに以降14年間一本調子で下降し、2016年には13万4619件とピークの半分以下に減り、1946年以降の最少を記録した。これを長年の努力の結果とみるか、長引く不況で犯罪も減少とみるかは人それぞれだ。ただ、これだけ減っているのだから、「治安が危ない」「犯罪社会」と騒ぐのはどうかと強く感じた。

警察博物館
住所:東京都中央区京橋3丁目5番1号
電話:03-3581-4321(警視庁代表) 
休館日:月曜日(祝日にあたる場合はその翌日)、年末年始
開館時間 9:30~17:00 
入館料:無料

節分祭の新富座こども歌舞伎

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中央区には、いまも歌舞伎座、明治座、新橋演舞場、博品館などの劇場があるが、江戸時代には中村座(京橋から人形町へ)、市村座(人形町)があり、守田座も銀座六丁目(木挽町)からスタートした。これらは歌舞伎の江戸三座と称された。1873(明治8)年、守田座が浅草(現在の浅草6丁目)から新富町(現在の新富町2丁目6 京橋税務署の敷地)に移転し、名前を新富座と改めた。新富座では九代目團十郎、五代目菊五郎、初代左團次の三名優が芸を競い、新富座は歌舞伎の殿堂となったが、関東大震災(1923)で新富座は消失した。
こうした歴史を踏まえ、いまから11年前の2007年春「新富座こども歌舞伎」が発足した。現在、中央区在住の小学生ならだれでも入れるし、そのOB・OGたちは太鼓、鼓、笛などを受け持っている。また三味線や長唄は近所のおじさん、おばさんが協力しているそうだ。こうしたこども歌舞伎は、石川県小松市、愛知県新城市、滋賀県長浜市、三重県東員町、台東区浅草など各地に現存するようだ。

2月4日(日)午後、八丁堀(湊一丁目)の鐵砲洲稲荷神社で、節分祭公演があった。本来は2月4日が立春、一日前の節分に行うそうだ。

柝(き)の音、笛・太鼓の音楽、「東西、東西」のかけ声、「本日は、かくもにぎにぎしくご来場賜りまして恐悦至極に存じ奉りまする」の口上から始まる。これを緋毛氈のうえにちょこんと正座した9歳の少女が述べるので、かわいらしい。
今年も中央区湊の鉄砲洲稲荷神社の神楽殿で節分祭奉納公演が演じられた。この日の演し物は、「寿式三番叟」「三人吉三巴白浪 大川端庚申塚の場」「白浪五人男 稲瀬川勢揃の場」の3つだった。
寿式三番叟」は五穀豊穣を祈る日本舞踊のような感じだった。扇や鈴を持ち、金色に黒の横じまが入り赤い日の丸が付いた烏帽子をかぶり、ずいぶん派手な衣装だった。演じたのは、小学3年2人、4年1人の女子3人。

次に河竹黙阿弥の「三人吉三巴白浪 大川端庚申塚の場」。お嬢吉三、お坊吉三、和尚吉三は3人とも泥棒だ。まずお嬢吉三が夜の女・おとせに道を聞いて百両を奪い取る。それをみたお坊吉三がお嬢を強請り、切り合いになりかかったところ、今日は節分だからと仲裁に入ったのが和尚吉三、結局3人は義兄弟の義を結び、百両は行ったり来たりした末、和尚に渡り、幕となる。
「月も朧に白魚の篝(かがり)も霞む春の空、つめてえ風もほろ酔いに心持よくうかうかと、浮かれ鳥のただ一羽塒(ねぐら)へ帰る川端で、棹の雫か濡れ手で泡、思いがけなく手に入る百両・・・」(お嬢吉三)といった名セリフが登場する。
演じたのは、おとせ、お嬢、お坊は小学5-6年の女の子3人、和尚と金貸し太郎右ヱ門が5年と3年の男の子だった。一番年長のグループだけあり、演技も踊りもしっかりしていた。「新富座!」「○○ちゃん!」などの大向うもちゃんと飛んだ。ただし、おひねりはなく、代わりに終演後カンパを集めた。

最後は黙阿弥の「白浪五人男 稲瀬川勢揃の場
これも5人の盗賊の話で、お上の捕り手に追われ、もうつかまると覚悟を決め、「志ら浪」のそろいの番傘を手に、一人ひとり名乗りを上げる。まさに見せ場である。
「問われて名乗るも おこがましいが 産まれは遠州 浜松在 十四の年から 親に放れ 身の生業(なりわい)も 白浪の・・・」(日本駄右衛門)、日本駄右衛門のモデルは石川五右衛門だ。
「さて其の次は 江の島の 岩本院の 児(ちご)上がり 平生(ふだん)着慣れし 振袖から 髷(まげ)も島田に 由比ヶ浜」(弁天小僧菊之助)、
「続いて次に 控えしは 月の武蔵の 江戸育ち 幼児(がき)の頃から 手癖が悪く 抜参りから ぐれ出して・・・」(忠信利平)、義経千本桜に登場する狐がモデル。
「又その次に 連なるは 以前は武家の 中小姓(ちゅうごしょう) 故主(こしゅう)のために 切取りも 鈍き刃(やいば)の 腰越や 砥上ヶ原(とがみがわら)に 身の錆を 磨ぎ直しても 抜き兼ねる・・・」(赤星十三郎 美少年辻斬強盗・白井権八がモデル)。
「さてどんじりに 控えしは 潮風荒き 小ゆるぎの 磯馴(そなれ)の松の 曲りなり 人となったる 浜育ち・・・」(南郷力丸)

役者は、5人の盗賊を小学校3-4年の男の子2人、2-4年の女の子3人、捕り手が小学1-2年の男の子4人、女の子2人、なかでも赤星十三郎役の2年生の女の子が小さくて、声もかわいらしく、セリフをしゃべるごとに拍手がわいた。まさに役得だった。
全部合わせて1時間20分ほどの演し物だった。

最後に役者全員揃ってごあいさつ
節分で寒い季節でしかも屋外だが、前半は暑いくらいに日が照っていた。
野外公演なので、ふつうは黒御簾(みす)の中で演奏される下座音楽を生で聴けた。三味線の一団と笛・太鼓・鼓の部隊は少し離れたところにいる。笛・太鼓のほうは指揮者がいるようだった。なお地元の大澤(かつら)、金井大道具松竹衣装などのプロ集団も協力している。

鐵砲洲稲荷神社は、平安時代初期の841年創建と伝えられるが、このあたりは埋立地だったため何度か海側に移動し、江戸初期の1624年この地に建てられた。鉄砲洲という砂州に湊があり、全国から米・塩・酒・薪・炭が運ばれた。そこで船乗りの信仰を集めた。鉄砲洲と言う名は、種子島に伝わった鉄砲に似ていたとも、徳川家が入府の際、大筒の試射場であったからともいわれると、神社のウェブサイトにあった。氏子は湊、入船、明石町、新富、新川(一部)、銀座東などいわゆる京橋一帯にわたる。

泰明小学校校庭での元禄花見踊
10月末から11月初めに商店街や町会の連合である全銀座会主催の「AUTUMN GINZA」というイベントが銀座で開催される(かつての大銀座まつり)。そこに新富座こども歌舞伎も出演している。昨年は11月3日(祝)午後、銀座の泰明小学校校庭で、舞踊長唄「元禄花見踊」と歌舞伎「菅原伝授手習鑑吉田社頭車引の場」の公演を行った。わたくしは他の予定があり、口上と「元禄花見踊」の初めのほうだけみた。

大きなイベントとしては、5月5日の子どもの日に鐵砲洲稲荷神社の例大祭に出演する。
今年はその他、3月に浅草こども歌舞伎まつりにも出演する予定になっているそうだ。

白石草の「取材が明らかにした福島の〈現実〉」

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7回目の「3.11」が近づいてきた。福島原発事故を熱心に取材している白石草さん(はじめ ジャーナリスト、Our Planet-TV代表)の講演を阿佐ヶ谷市民講座で聞いた。
白石さんは1969年生まれ、早稲田大学を卒業しテレビ朝日系の制作会社、東京メトロポリタンテレビを経て2001年Our Planet-TVを設立、「東電テレビ会議 49時間の記録」で2014年の科学ジャーナリスト大賞を受賞した。
Our Planet-TVは9.11テロに対し報復・戦争という論調のメディアが多いなか、対話による解決を呼びかけて設立し、Standing together(みんなで声をあげ)Creating the future(一人ひとりが表現者となりよりよい未来をつくる)をミッション・ステートメントとするNPOで、インターネット放送制作配信とワークショップ開講を行っている。
白石さんの発言は、もう8年も前になるがフォーラム90の「原発を考え、死刑を考える」で少しお聞きしたことがある。
白石さんは映像ジャーナリストなので、講演もパワーポイントとビデオ動画など映像が中心だった。たとえば画像のなかには甲状腺ガンの手術動画やアイソトープ治療の厳格に管理された病室などもあった。文による講演の紹介は、かなりもどかしいことを予めお断りしておく。

3.11から7年目の福島の現状――福島原発事故の取材から考える

●福島県浜通りの現状
福島の浜通りは避難解除がどんどん進み様変りしているが、まず現状どうなっているのかお話する。
昨年春、(一部避難指示解除準備区域や居住制限区域が残るが)帰還困難区域を除き原則として避難解除され入れるようになった。JR常磐線も昨年、北は浪江、南は富岡が開業し、残る未開通は双葉、大野、夜ノ森の3駅となった。先日は「オリンピックの聖火リレーを福島で」「国道6号線を通ってほしい」という要望がいわきや双葉の地元から出された。6号線は常磐線より海側で福島第一原発の煙突が見え、帰還困難区域を通過している。そんな場所を2年後にノースリーブで駆け抜けられるようにし、政府は「世界で最も安全な原発」をアピールし、世界に原発を売り込もうとしている。
しかし富岡町役場の職員はだれ1人町に住まず、バスで2時間かけていわきや郡山から通勤している。議員で住んでいるのは1人だけ、町長も住んでおらず「町長の家を探せ」というプロジェクトがあるとの笑い話すらあるほどだ。元は人口1万人だったがいま住んでいるのは300人、うち100人は工事の作業員など新住民だ。300人のうち150人は駅前の復興住宅に住むが、元の家に住んでいる人は間隔が1キロほど離れたところに点々と住むので、夜は真っ暗ななか非常にこわい生活を送っている。
福島で最大のバス会社福島交通は、昨年まで6号線も常磐自動車道もバスを通過させていなかった。昨年1度だけ小高(おだか)中学の修学旅行をお願いされ常磐道を東京まで走らせた。
そんな場所に若いバックパッカーや鉄オタたちがホットパンツにノースリーブで遊びに来ている。
浪江や富岡は今年入学予定の子どもが、幼稚園から中学まで合わせて10-20人と聞いている。中学で3人以下なら普通は廃校だが、政府も町もどうしても存続させたいので、おそらく超小規模校として継続するだろう。
小高中学は37キロ北に避難していたが、昨春元の校舎に戻ってきた。Our Planet-TVは継続して取材を続けているが、1年生は10人、小学生は1クラス5人程度だ。「復興」のかけ声ばかりだが、実際に住んでいる人で65歳以下の人はきわめて少ないのが現状だ。
この3月でほぼすべての賠償が打ち切られようとしている。それどころか山形に避難している人たちを、厚労省の外郭団体が立退きと家賃支払いを求め裁判に訴えるという事態まで起こっている。
政府は、オリンピックを境に原発事故を克服した日本のすばらしさを世界に発信しようという戦略のようだ。

●甲状腺がん193人のいま
1986年のチェルノブイリ原発事故の際、ソ連(当時)は初期に健康被害調査を大規模に行った。一方、日本は1000人のみでしかも途中で打ち切ったので事故初期の被曝データがまったくわからず問題が大きい。2011年11月から事故当時18歳以下の38万人全員に県民健康調査を開始し、いま3巡目が終わり4巡目に入ろうとしている。その結果、193人の甲状腺がんの患者がみつかった。ただいったん経過観察になった人が後で悪性腫瘍と診断されてもその数は集計データに含まれないので、さらに人数が多いと推測される。
環境疫学の専門家である津田敏秀教授(岡山大学)は2015年に福島県中通りの甲状腺がん発生率は50倍、全体でも30倍と多発している。2巡目でも12倍の発生比率となっていることを科学雑誌に発表した。国際環境疫学会から2016年1月日本政府に、県外の被爆者にも検査し評価すべきとの勧告もあった。
しかし県の検討委員会は2016年3月「たしかに多発しているが、福島はチェルノブイリより低線量で、事故当時5歳以下の患者がいない。事故から4年でこんなに多発するのは事故由来ではない。検査しすぎたための過剰診断だ。だから検査は中止すべきだ」との見解を発表した。それから2年、国際がん研究機構(IARC)のプロジェクトに環境省が資金提供し、今春「原発事故のあと、甲状腺がんの検査はしないほうがよい」と提言する見通しになっている。
すると見つかったがんは、一生手術する必要のないがんということになる。これに対し、125人の手術を執刀した鈴木眞一教授(福島県立医大)は「過剰診断ではない。ガイドラインをしっかり守っている」と主張する。鈴木教授は日本甲状腺学会のガイドライン委員長だが、125例のうち、リンパ節転移している患者が97例(77%)、肺転移しているのが3例、甲状腺外に浸潤しているのが49例(39%)ときわめて重症化していたことを学会発表した。手術後再発している深刻な人もいる。また、1巡目ではみつからず2巡目でがんがみつかった69人のうち9割はA判定だった子どもだ。わすか2年で平均1㎝、最大3.5㎝と急速に成長している。
これを同じ程度のスクリーニングにより、福島・郡山・いわきの3市とチェルノブイリのゴメリ、モギリョフ、クリンシー、キエフなど5都市の甲状腺がん発生率を比較すると、ゴメリを除き、福島県の3市のほうが高い率になっていた。
がんと診断された子はどうなるのか、ブラックボックス状態なのだが、取材を重ね次のようなことがわかった。軽度の場合、半摘手術を行う。半摘の子が大半だが、再発すれば全摘しアプレーション治療を行う。その後、肺に転移したときはアプレーションのレベルを上げたアイソトープ治療とホルモン療法を行う。アプレーションとは、ヨウ素が甲状腺細胞に集積する性質を利用し、放射性ヨウ素を含むカプセルを服用し、ガン化した甲状腺細胞を内部被ばくさせて殺す治療のことだ。治療の前2、3週間ヨード制限食を食べ、体内のヨウ素を下げそこに放射性ヨウ素が入るので、甲状腺細胞が全部集まり死ぬ。人体そのものが高い線量になっているので、妊婦や幼児に近寄らない、水洗トイレを使用するなど管理も厳格だ。たいていは日帰り治療ですむが、肺転移すると2日間入院治療が必要になる。
特殊な施設なので都内にも6病院、東北・関東で19病院しか病室がなかった。福島では昨年、国内最大9床の病棟をふくしま国際科学医療センターの4階に新設した。取材に行ったが、遮蔽効果が非常に高いコンクリ壁を使用し、窓ガラスにも鉛が入り、鼻紙などを捨てるゴミ箱も鉛製になっている。
最近入院した女の子の話を聞いた。テレビは見られるが、人には会えずスマホも持ち込めない。何とかお願いして色鉛筆とノートを持ちこんだが、退室するときは全部捨てるという条件だった。その子は放射性ヨウ素を呑んで非常に体調が悪化し何度も吐いた。しかし吐しゃ物は線量が高いので看護師もだれも助けてくれない。一人で耐えたが、つらくて絵も描けなかった。彼女は、この治療は二度と受けたくないといっているそうだ。
この話も気になるが、もうひとつ昨年の検査で事故当時4歳だったガン患者がみつかった。いったん経過観察に分類されてその後がんになったうちの一人だったが、NPO法人・3.11甲状腺がん子ども基金の給付への応募でみつかった。これも衝撃だった。

●福島だけの問題ではない
事故直後の2011年3月20日に常総生協(茨城県守谷市)が呼びかけ、福島、茨城、千葉、宮城のお母さん9人の母乳の放射性ヨウ素を計測した。すると福島はゼロで柏で36ベクレル、守谷で31ベクレルと高い数値が検出された。あのとき何が起きていたかじつのところわからないが、米国防省のヨウ素による被曝量推計(3月11日~5月1日)では赤坂や横田(東京)も、小山(栃木)、百里(茨城)の半分程度とかなり高い。
2013年にチェノブイリから600キロ離れたドネツクの炭鉱夫の方(57歳)を取材した。事故当時4歳だった息子が13歳で甲状腺がんを発症し、まさかこんな離れたところでと思った。4度手術しいったんは寛解した。しかし20年近くたった30歳で再発し、31歳で亡くなった。甲状腺がんとはそういう病気なのだ。20年、30年たって再発し、死に至ることもある。この話を取材したとき、お父さんは苦しそうだった。
チェノブイリでは、遠く離れた低線量のところでも発症している。東京にも甲状腺がん子ども基金が給付している子どもが5人いる。少しでも子どもの首が腫れていたり調子が悪そうだと思ったら、早く病院に連れて行き、早期診断してもらったほうがよい。一度国が汚染状況重点調査区域と定めた線量が高めのところは、茨城、千葉、埼玉、岩手、栃木などに及び人口700万人になる。700万というとチェノブイリで被曝者手帳をもつ人の数と同じだ。福島を他人事とせず、息長く、そしてもっと若い人の体調にもまなざしを払うようにしていきたい。

まったく知らない話が多かった。子どもの甲状腺がんがみつかった話は知っていたが、こんなに悲惨なことになっているとは想像もしていなかった。また浪江や富岡という地名は6年ほど前にはよく聞いたが、避難解除されてもこういう状況だったことも知らなかった。
このあと質疑応答に移ったが、御用学者がなぜ生まれるか、ちっとも報道されないジャーナリズムはいったいどうなっているのか、マスコミや政府に期待できないのなら自治体職員が立つしかないのではないか、など活発な意見交換があった。
参考になることでは、活字媒体では岩波書店の「科学」が、この分野では他の追随を許さないそうだ。執筆者も科学者、ジャーナリストなどこれまでの枠組みにとらわれず起用している。たしかにバックナンバーの目次だけみても「社会のリスクと企業利益――原発事故と軍事誘導から考える」(2017.3)、「検証なき原子力政策」(2017.4)、「被曝影響と甲状腺がん」(2017.7)、「プルトニウムと再処理――日米の40年」(2018.1)といった特集が並んでいる。

阿佐ヶ谷市民講座は原則として毎月第3木曜の夕方、南阿佐ヶ谷の劇団展望で開催される。呼びかけ人は白井佳夫さん、斎藤貴男さんなど10人で、2016年から青井未帆さん、門奈直樹さんが加わった。
わたくしが阿佐ヶ谷市民講座を聞きにきたのは、2014年の青井未帆さん以来なので4年ぶりだ。はじめて来たのは2008年で保坂展人氏、新藤宗幸教授、若松孝二監督、菅孝行氏などいろんな方のお話を聞いた。地下鉄南阿佐ヶ谷のすぐ近く、JR阿佐ヶ谷からは10分くらいの青梅街道に近いところで、門も建物も一見古い民家のようではじめて来たときは驚いた。

朝鮮半島情勢、緊迫のなかでの3・1朝鮮独立運動集会

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平昌(ピョンチャン)冬季オリンピックの幕が下りた。
隣国では1950年以来朝鮮戦争が続き、いまは1953年以来の長い停戦状態であり、オリンピックは軍事対立から平和協定へ、平和や統一を進めるひとつのチャンスだった。開会式や閉会式で「対話」がなされ、朝鮮半島統一旗をもって入場行進が行われ、女子ホッケーの南北合同チームができた。ところが開会式でムン大統領や北の代表団、IOC・バッハ会長が立ち上がって拍手を送るなか、日本の安倍晋三首相とアメリカのペンス副大統領は二人とも座り込み、記者会見で「米韓軍事演習の実施を望む」などと冷水を浴びせ、当の韓国大統領に「内政干渉だ」と不快感を示された。なぜ隣国の平和促進、統一促進を歓迎できないのか、そして軍事対立を煽るようなことばかりするのか、謎である。隣国の軍事緊張は安倍首相にとってなにか利益があるのだろうか。

こうした風潮に異議を唱える集会がオリンピック閉会式の前夜、2月24日(土)夜、文京区民センターで開催された。3・1朝鮮独立運動99周年「止めよう!安倍政権があおる米朝戦争の危機 2・24集会」(主催:日韓民衆連帯全国ネットワーク在日韓国民主統一連合など6団体の呼びかけによる実行委員会)である。
昨年のこの会は、キャンドル革命成功直後に行われ、キム・ジャンホさんから明るく力強い報告を聞いた。今年は平和のオリンピックのさなかなのに、トランプ大統領と安倍首相は制裁強化一辺倒で、特に安倍首相は「圧力をかけ続ける」としか言わず、NHKの日曜討論はほぼ毎週北朝鮮情勢を扱っている。まるで戦争前夜の雰囲気である。
今年は、安倍の9条改憲に関する半田滋さんの講演とキャンドル革命後の韓国の平和と統一をめぐる現在と今後の展望についてハン・チュンモクさんのお話を聞いた。両国とも「平和」が差し迫ったテーマになっていた。

安倍政権があおる米朝の危機
      半田 滋さん(東京新聞論説兼編集委員、獨協大学・法政大学非常勤講師)

●攻撃能力を備えた自衛隊の装備
長期政権を続ける安倍首相は9条改憲を狙っている。9条2項は軍隊の不保持と交戦権を否認する世界にも例のない条項である。いままで自衛隊が合憲だったのは、侵略に対する「必要最小限の実力行使」であり、交戦権ではなく実力行使とされたからだ。自衛隊は他国のような攻撃的兵器はもたないとされ、2013年までの防衛白書では、日本が保持しない「他国に脅威を与えるような強大な軍事力」の例として「大陸間弾道ミサイル(ICBM)、長距離戦略爆撃機、攻撃型空母」の3つを挙げていた。しかし第二次安倍政権が成立した2012年12月から1年あまりたった2014年の白書からこの例示は消えてしまった。
来年の防衛予算は5兆1800億で、射程900キロの長距離巡行ミサイルを含み北朝鮮に着弾できる。これは2017年夏の概算要求には入っていなかったが、11月のトランプ来日で突然購入が決まり、追加された。同様に、迎撃しにくい弾道ミサイルで敵基地攻撃能力をもつ島嶼防衛用高速滑空弾も加わった。また護衛艦「いずも」の攻撃用空母化計画も進んでいる。北朝鮮まで戦闘機を飛ばすための空中給油機も4機持ち、上空で指揮できる空中警戒管制機(AWACS)も6機保有している。対地攻撃ができるF2戦闘機は10年以上前からあるし、F35ステルス戦闘機も今年から導入した。このように自衛隊は敵基地攻撃能力を一部保有し、さらにミサイルを保有するようになりつつある。それは安倍以前から一貫して準備してきたものだ。その他、イージス艦、そうりゅう型潜水艦、90式戦車、IT化された陸上部隊など、「必要最小限」どころか一般軍隊として、世界でも先端の装備品を備えている。
●活発化する自衛隊の海外活動
92年の国連平和維持活動(PKO)以降、10回2万人もの自衛隊員が海外で活動してきた。イラクやクウェートには特別措置法で派遣したが、2015年9月成立した安全保障関連法で、いつでもいつまででも、どこにでも派遣できるようになった。「存立危機事態」なら許されることになっているが、これは「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険があること」と定義されている。密接な関係にある他国とはたとえばアメリカのことだが、アメリカは1万キロも離れている。アメリカは世界のいろんなところで戦争をするが、たとえば中東でアメリカの軍艦が攻撃されるとなぜ日本人の生命や自由が脅かされることになるのか、関係ない。
当初、安倍首相はアメリカの軍艦で避難する日本人母子を自衛艦が護衛するという例で説明しようとした。しかしなぜ大使館が早い段階で母子に避難勧告しないのかとか、自衛艦が護衛に行けるのなら、そもそもアメリカの軍艦でなく自衛艦に乗せればよいという矛盾に気づき国会には出さなかった。それに代わりホルムズ海峡の機雷除去を持ちだした。これに対しイラン大使が「日本はイランの友好国ではなかったのか」と猛抗議をした。ちょうど7月23日の衆議院強行採決の日だった。参議院通過前には「いま現在の国際情勢に照らせば、現実の問題として具体的に発生するものとは想定していない」という答弁となり、最終的に「政府が総合的に判断」ということになった。政府のさじ加減次第ということだ。
安保関連法が成立し、まず南スーダンでかけつけ警護が発令された。次に日本海のアメリカのイージス艦に日本の補給艦が洋上補給を行った
北朝鮮の核依存の主張は、もし核を持たなければリビアやイラクのようにアメリカの餌食となる、深刻な教訓だというものだ。冷戦時代の米ソの相互確証破壊の理論で、核があればそうならないというものだ。2013年に外相が「アメリカは共和国と平和協定を締結し、武力攻撃をしないことを確約すべきだ」と述べた。
日本はイージス艦やPAC3などミサイル防衛システムを装備しているが、そもそも72年に米ソのあいだでは軍縮の観点からABM条約で、ミサイル防衛はしないことにしていた。さらに17か所しか守れないし、原子炉をカバーしていない。しかも核兵器禁止条約に参加もしない。
安倍政権は、北朝鮮とアメリカの危機をあおることはあっても、平和への取り組み、核軍縮の取り組みはゼロといってよい。
●憲法改定を止めるために
安倍政権は自衛隊を憲法9条に書き込もうとしてしている。あとでできた条文が前にできた条文を凌駕するのは法学の常識だ。自衛隊は自己増殖する。
日程的なことを考える。3月末までは来年度予算があるので、それ以降に憲法論議が始まる。秋の臨時国会で発議されると60―180日に国民投票となるが、来年は4月末に天皇代替わりがあるので5月以降になるだろう。
最悪のケースは7月の参議院選との同日施行だ。というのは国民投票は公職選挙法に縛られないので、戸別訪問もできるしおカネも使い放題、広告宣伝も14日前までできるので与党に有利になる。また地方自治の住民投票と異なり最低投票の規定もないので、人口の2割の賛成で憲法改定ができてしまう。自衛隊が軍隊になる。
できれば国会前にみんなが行き、「改憲の発議をするな」という運動を始めないと安倍の暴走は止められない。わたしたちの力は微力であっても、やっていかないといけない、と思う。

2018年激変する情勢と韓国民衆運動の方向

      ハン・チュンモクさん(韓国進歩連帯常任代表)
平昌平和オリンピックの応援に、日本の朝鮮総連と韓国民主統一連合の方が200人韓国を訪問された。総連は16年ぶり、韓統連も李政権とパク・クネ(朴槿恵)政権の間は訪問できなかったので10年ぶりになる。
当初の予定では、閉会式の日はパク大統領の任期最後の日、つまり大統領選挙になるはずだった。そうならなかったのはのべ1700万人が参加したキャンドル革命の成果だ。パク・クネを追い出し、監獄に送ったが、世界の革命の歴史のなかで銃と流血による成功はあっても、ローソクと市民の力で成功させたことはなかったのではないか。これはひとつの奇跡だ。
もうひとつの奇跡は、北が核武力をもち、抑止力をもつことを世界に宣言したことだ。北は世界のなかでも小さい国だが、核とICBMを保有しアメリカやロシアのような覇権国と対等に肩を並べられるようになったことだ。最終的に米朝はパワーゲームをどのように終結させるのか。わたしたちは、対話と交渉で解決できるという希望をもっている。わたしたちがキャンドル革命によりムン・ジェイン(文在寅)を押し出せたからこそ言えることだ。
平昌平和オリンピックに北は高位級代表団、応援団、選手を派遣した。そして開会式に南北合同チームが統一旗で入場した。ムン・ジェイン大統領もキム・ヨンナム(金永南)委員長も、バッハ会長も立ち上がり拍手した。しかしペンス副大統領と安倍首相だけが座ったままだった。南北の女子ホッケー選手が聖火台への階段を駆け上がるのをみたキム代表は涙を流したようだった。90歳を超える代表は胸がいっぱいになったのだろう。
2月23日アメリカは最大限の制裁を科し、北への物資をすべて遮断することを宣言した。アメリカが本当に友好国なのか、日本と韓国はしっかり見極めるべきだ。アメリカを克服しないと朝鮮半島の平和と統一、東アジアの平和と繁栄はない。南と北が和解と協力、南北首脳会談に向かうか、それともトランプや安倍が願うように韓米日合同軍事演習、戦争への道を進むのか、わたしたちはその岐路に立たされている。
オリンピックが終わればわたしたちはすぐ韓米軍事演習反対に立ち上がる。8月15日には全国決起集会を開催し、アメリカ大使館をヒューマン・チェーンで取り囲む。来年3月1日は朝鮮独立運動100周年に当たる。独立運動は国内的には自主独立運動だが、世界史的には民族解放闘争の側面もある。そこで平和を求める世界的集会を開催したいと考えている。ソウル、ピョンヤン、東京、ベルリン、アメリカなどで国際的な運動をつくっていきたい。

統一旗への寄せ書き
オリンピックには南北だけでなく、海外からも多くの人が応援にかけつけた。韓統連代表の8人もそのグループのひとつだった。またこの日の集会にはカナダのトロントから翌日の東京マラソンに参加する市民ランナーが参加し、「明日は統一旗をまきつけて走る」とアピールした。
そのほか沖縄・一坪反戦地主会関東ブロックから沖縄の問題、「許すな! 憲法改悪・市民連絡会」から憲法「改正」発議の問題、VAWW RACから「慰安婦」合意、「高校無償化」からの朝鮮学校排除に反対する連絡会から朝鮮高校生の裁判についてアピールがあった。また会場には大きな統一旗が広げられ、みんなで寄せ書きをした。

67校全国行脚の報告
その1週間前の2月18日(日)午後、同じ文京区民センターで「高裁での逆転勝利へ! 再決起集会」(主催:東京朝鮮高校生の裁判を支援する会ほか3団体)が開催された。
2月23日には朝鮮総連本部への銃撃事件が発生し、2人が逮捕された。これは明白なテロである。朝鮮高校生への無償化排除も、日本社会の在日差別の一環であり、日本国家による朝鮮学校へのテロともいえる。
集会の演題は3つで、まず3月の控訴審を前に、また2月19日の控訴理由書に対する国の反論を前に、3人の弁護士から控訴理由書の解説などがあった。控訴審第1回口頭弁論は3月20日(火)14:15から101号法廷で行われる。
次に在日本朝鮮人人権協会の朴金優綺さんから「国際社会から見た朝鮮学校差別問題」という報告があった。2008年以降、無償化排除に関し国連の自由権規約会議、人種差別撤廃委員会、子どもの権利条約委員会、社会権規約委員会から4回日本政府に勧告が出た。それに加え昨年11月16日に国連人権理事会で日本に対する第3回UPR(普遍的定期審査)の報告書が採択された。これは5年に一度定期的に行われる。自由権規約会議などの条約機関では勧告の対象は条約締結国のみ、審査形式は個人の専門家(たとえば人種差別撤廃委員会の場合、18人)であるが、UPRはすべての国連加盟国を対象に、国家による相互審査として行われる。ただし条約機関による勧告をベースにしている。
人権協会は、事前にNGOレポートを17年3月に提出し、17年9月に東京で15か国の駐日大使館にブリーフィングを行い、10月にジュネーブで13か国の外交団とのミーティングで要請をした。「朝鮮学校にだけ明確に差別したの? 21世紀にそんなあからさまなことをしていいの?」と驚いてくれた外交官もいた。その結果11月14日に審査が行われ16日の報告書では、たとえばオーストリアが「社会権規約委員会及び人種差別撤廃委員会による勧告に沿った形で、マイノリティの子どもが差別されることなく教育を受ける権利を享受することを確保すること」と勧告するなど、ポルトガル、パレスチナ、北朝鮮の4か国がこの問題で日本に対し勧告を出してくれた。
最後に67の朝鮮学校の全国行脚を昨年6月から12月に達成した長谷川和男さんから報告があった。朝鮮学校には、日本の学校が失った「学校の原点」が残っているとのことだった。なお会の前に、今年もスンリ基金に100万円の裁判カンパの贈呈式が行われ、会の最後に金曜行動でも歌われている「どれだけ叫べばいいのだろう奪われ続けた声がある」の「声よ集まれ、歌となれ」をみんなで合唱した。
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