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3000万人署名も集めた高校卒業式校門前ビラまき

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今年も卒業式の季節がやってきた。わたくしが校門前チラシ配布に参加したのは2008年で、一度だけ行けない年があったので今年で10回目になる。

都教委包囲・首都圏ネットワーク
のビラの表面はいつもと同じく「卒業生・在校生、教職員、保護者の皆さん 誰にも立たない、歌わない自由があります」というものでこの14年で被処分者はのべ480人を超えたことを述べる。今年は安倍首相の自衛隊明記の憲法9条「改正」、さらに「ひとりひとりが考え、いっしょに考えて行動していきましょう」と訴える。裏面は、トランプ大統領の戦争政策、安倍首相も戦争にまっしぐら、憲法9条改定を狙う安倍、改憲項目の教育無償化も落とし穴、と時事解説を行い最後は吉野源三郎の「君たちはどう生きるか」を引用し「若者たちが政治に関心を持ち声を上げるとき、社会は変わります。力強く未来を切り開いていきましょう」と結んでいる。

3月3日ひな祭りの日、今年ははじめて工業高校でビラまきをした。墨田区森下5丁目にある墨田工業高校だ。都営地下鉄新宿線菊川駅から400m、三つ目通りと小名木川にはさまれ、向かいは深川一中、東京都現代美術館(現在、大規模修繕のため休館中)まで600mの場所だ。この学校はたいへん古い歴史を持つ。明治33(1900)年2月東京府職工学校として菊川1丁目に設立されたので118年もの歴史がある。1948年から2004年まで50年以上中央区月島に分校があった。もうひとつ、2015年ノーベル生理学・医学賞を受賞した大村智博士が1958年から5年間定時制に勤務していた。墨工学友会作成の顕彰記念石碑が、敷地内でいちばん目立つ三つ目通りの交差点に立っていた。「実践 躬行」という大村さんの揮毫、研究業績、さらに石なのに顔写真が入っていた。機械、電気、自動車、建築の4学科があり、電気のみ2クラスで1学年定員175人ほど(全日制)の小規模校である。天気は快晴で、比較的暖かかったが、さすがに2時間立っていると体の芯から冷えてしまった。生徒はほとんど学生服の制服なので見分けやすい。女子は1割未満だが、かつての工業高校に比べると多くなったようだ。超ミニの制服だった。半分以上が自転車通学。生徒は「読んでください」と声をかけると、8割くらい受け取ってくれた。素直で、自転車の生徒には渡せないものの、「お早うございます」と声をかけると半分くらい会釈してくれた。逆に保護者の受取があまりよくなく半数くらいの受取だった。路上でビラは受け取らないという世相の反映だと思われる。お母さんたちは、下町だからかきれいな和服姿の方が多かったように感じた。校門内で案内係の教職員が6人ほどいたので、「先生、1枚どうぞ」というと「どんな内容ですか」と問われた。「ご卒業おめでとうございます。立たない、歌わない自由があります」というものですと答えると「いりません」ときっぱり拒否されてしまった。チーフ格のようにみえたが、ひょっとすると立場もあり受け取らなかったのかもしれない。またビラを手にわざわざ話しかけてくれた生徒が1人いて「こういうビラは生徒には渡さないほうがよいと思います」という。「どうしてですか? 国旗国歌の起立斉唱のとき、強制だと勘違いしている人もいるかもしれないので、そんなことはないことを知らせるビラなのですが・・・」と答えると、「もう時間がないので」と立ち去ろうとするので「話しかけてくれてありがとう」と答えておいた。態度はていねいでまじめだったが、こういう体験は初めてだった。学校側からは、8時半ごろ副校長がビラを手に出て来て「生徒に撒くなとはいえませんが、生徒に影響が出ないよう配慮をお願いします」と一度言われただけだった。「自転車の生徒には気をつけており、渡さないようにしています」と答えておいた。朝8時5分から10時までで1人で172枚撒けた。自転車通学の生徒が多いことを考えると、かなりの受取だったと思う。

3月10日は東京大空襲73周年の日だった。「安倍9条改憲NO! 中央区民アクション」の方といっしょに晴海総合高校の校門前で8人で撒いた。地下鉄月島駅から徒歩8分、1学年270人、女子が8割の学校だ。「安倍9条改憲NO!憲法を生かす全国統一署名」(3000万人署名ともいう)は昨年9月にはじまったが、中央区の会は11月に準備会からスタートし、正式発足したのは1月末である。わたくし個人としては、9月からいろんな場所で集め130筆ほどになった。署名の内容は、 1 憲法9条を変えないでください 2 憲法の平和・人権・民主主義が生かされる政治を実現してください。という2項目のシンプルな内容だ。中央区の都立高校はここ1校しかないので、この学校でやることになった。正面入り口には「第20回卒業式」という立て看板が1枚あるのみ、校舎側面の掲揚ポールに国旗、都旗、学校旗の3本が翻っていた。生徒はほぼ全員制服姿だった。昨年同様、生徒も保護者も受取が悪く、枚数は152枚にとどまった。学校側からははじめて10分ほどしたころに校門前指導をしていた生徒部の教師が「過度には生徒に渡さないでください」と言ってきたので、「受け取ってくれる生徒にしか渡していません」と答えておいた。学校からの注意はその1回だけだった。教師がそばで立っていた数分間は、ほぼすべての生徒がビラを受け取ってくれた。皮肉なものである。生徒の出欠確認が8時半、保護者の受付開始が9時20分と聞いていたので、その間、時間が空いてしまうと思っていたのだが、出欠確認は在校生だけで、卒業生は8時40分くらいから9時半くらいまでにボツボツ登校していたようだった。わたくしは3000万人署名はゼロ筆だったが、グループ全体で、通行人も合わせて14筆集まったのは収穫だった。

校門前行動のあと、14階建て100戸ほどの都営団地の全戸訪問を10人で行った。わたくしが戸別訪問をするのは初めての体験だった。半分以上は不在か空き家、インターフォンが通じるかドアを開けてくれた家も「お断り」「いま出かけるところで忙しい」などの対応で収穫はゼロ、しかし全体では18筆集まった。1週間前にチラシの全戸配布をしたせいもあるのだろうが、この率はすごいと思う。メンバーのなかには、30代くらいの男性と長話ができ、「改憲にはもっと議論が必要だ。ただ平和ボケしているのは確かなので、そういう意味でも議論が必要」といっておられた方や、署名用紙を渡すとわざわざ追いかけてきて署名を届けてくださった方もいたそうだ。そのあと駅前で署名集めをした。月に一度、太陽のマルシェというイベントをやっているので、その日時に合わせた。たしかにいつもより通行量が多い。わたくしは1時間弱で4人、グループ全体では26筆集まった。隣では英会話学校のチラシ配りをしていた。早朝から4時間屋外で立っていると、体がすっかり冷え切った。

総決起集会(小倉利丸さん)これに先立ち2月25日に今年も飯田橋の東京しごとセンターで総決起集会があった。10.23通達で処分された教員は14年で480人に上る。わたくしの印象に残った3人の報告の一部を紹介する。●2016年の卒業式の不起立で480人目の被処分者となった現職高校教員の方10.23通達以前は職員会議などでも「こんなのはおかしい」という議論があった。それから14年議論もなく、疑問も持たなくなった。2月末に包括的職務命令書が配布されたが、それに対し「ありがとうございます」という若い教員すらいた。いま50代後半の教員が定年退職すると、さらに状況は難しくなりそうだ。 ●今春から教科になる道徳を研究されている小学校教員の方入学者説明会で、入学前に身につけたい習慣を学校側が執拗に説明する。公が私に平気で介入して何とも思っていない。フランスでは、いろんな教育を受けデコボコ状態の子どもをいかに公教育に受け入れるかがスタートになっているのに、日本は、とくに最近では初めからパーッと均(なら)し、みな同じ状況にしてから学校に来させる。そんななか道徳の教科化が始まり、教科書を使い評価が始まるのは恐ろしい。ところが現場では、教科書や評価を全面的に受け入れる雰囲気になっている。なおどのように教科書を使うか、など具体的な提案もいくつか話されたが、対抗措置を取られてもいけないので、あえて紹介しない。●「オリンピック災害」おことわり連絡会の方東京都庁では「都民・国民の心を一つにする必要がある」との認識から昨年6月16日「音楽を流せばいつでも誰でも一緒に体を動かすことができる」ラジオ体操の普及促進を決定し、庁舎内で2020年まで毎日14時55分から体操をしている。この発想はまさにファシスト的なものだ。それだけでなく、8月には全国の都道府県に「ゆるキャラや知事自身が参加するラジオ体操動画の送付」を依頼し、京都、愛媛、熊本、徳島、神奈川など1府12県の動画が届いた。「ゆりーと君」の「みんなでラジオ体操プロジェクト」のぼりまで作成した。この団体は、学校での「オリンピック・パラリンピック教育」の撤回・中止を求める署名を募っている(ウェブ署名もできるこのサイトを参照)最後は、恒例の「団結がんばろう!」で締めた。

オープン間近、ソウルの植民地歴史博物館

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3月20日(火)夜、港区立勤労福祉会館で「まもなく開館!「植民地歴史博物館」3.20集会」(主催:「植民地歴史博物館」と日本をつなぐ会)が開催された。
この博物館は韓国の民族問題研究所が中心になり、2007年に建設計画を発表し、11年に建設委員会発足、17年2月に用地・建物の契約が締結された。
民族問題研究所は、植民地時代の「親日派」について研究を進め、強制動員真相糾明特別法の制定や強制動員被害者の補償訴訟支援など、植民地主義の克服のために活動を進めてきた研究団体だ。
一方、日本でも「植民地歴史博物館」と日本をつなぐ会が2015年秋から建設賛同金募集を開始し、17年4月に目標の500万円を突破、11月には1034万円を達成した。
報告とあいさつ

     李煕子(イ・ヒジャ)さん(太平洋戦争犠牲者補償推進協議会共同代表)
わたくしがこういう活動を始めたのは40代後半だが、いま70代になる。その間のみなさまとの交流で人情が厚くなっていることを感じる。それが活動の力になっている。
昨年、民族問題研究所が博物館の建物を購入し、年末に引っ越した。ただこの冬はたいへん寒くリニューアル作業が遅れたが、春になり本格的に動き始めた。
歴史博物館は、民族問題研究所の資料によるコミュニケーションの場であり、交流の場であり、痛々しい歴史を後世に伝える場だ。資料は歴史のなかで眠るものでなく、生き返って皆さんと共有できると思う。皆さんとともにやることで意味がある。今後は会議室の心配はないし、いっしょにお茶も飲める。この建物のなかですべて解決できる。いままで皆さんにいただいた友情に恩返しができるようがんばる。今後もずっと靖国裁判を続ける。何より、お元気で再会できることを祈っている。

植民地歴史博物館建設の現状と見通し
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     金丞垠(キム・スンウン)さん(民族問題研究所資料室長)
植民地歴史博物館が入る建物は、地下鉄1号線ソウル駅と南営駅の間、ソウル市龍山区青坡路にあり、地下1階、地上5階で総面積は1570.6平方mある。
地下1階は大半が駐車場だが、一部を倉庫とし販売用の書籍などを保管する。
1階は企画展示ができるギャラリーで、その他、公演・講義ができる小舞台のある文化スペースとカフェがある。各階の現状は、前日の3月19日に撮影した動画で放映され見ることができた。
2階がいちばん広く(285平方m)常設展示場だ。展示は4つのテーマと3つの特別スポットから構成される。
1つ目は、日帝の侵略、そしてどうやって植民地になったか、統治のためにやってきた人、苦しんだ民衆を明らかにする。資料(遺物)を並べるだけでなく、1919年3月10日に自分が独立運動に参加し、警察の取り調べを受ける小さい体験スペースもある。
2つ目は、戦時下の朝鮮人の生きざま、生活だ。強制動員された被害者の証言や辻子(ずし)実さんからの寄贈品によりどんな生活だったか明らかにする。実態を示す展示ならあるが、植民地統治に協力した人の半生の展示はほかにはない。
侵略で奪われたものだけでなく、支配を支えた親日派の歴史も必ず展示する。韓国において親日の歴史をどう清算するかは、これから民主主義的な価値を拡大させることに直接つながる問題だからだ。親日派と同時代に独立運動をした人もいる。2人の人生を比較させ、意図的に狭い空間で、いまの時代にわれわれはどう生きるべきか、未来世代に考えさせる企画展示を考えている。民族問題研究所が市民の力により18年かけてつくった親日の歴史人名事典のアーカイブをキャビネットにして閲覧できるようにする。このアーカイブは研究員だけでなく、韓国の市民の力から生まれたものだ。
1945年の解放後、親日の歴史を清算できず後遺症として軍事独裁に入った痛々しい歴史を乗り越えて、韓国と日本の市民が連帯し続けた市民の歴史が最後に展示される。
過去の展示だけでなく、現在悩み活動し、未来につながるようなものを、常に考えていく。常設展でも入替えできるようなものも考えているし、記念となる年には特別展の計画もある。
3階は専従の研究者が執務する研究室やコピー機室、新聞資料室、財団の事務所、事務総長室などがある。男女別トイレ、キッチン、弁当を食べたり休憩できる部屋もある。
4階は、移動ラックの書庫があり、4万5000冊の書籍を1か月半かけて整理を終えた。委員会や政府の報告書や、寄贈者の名前別のコレクションもある。データベースをつくり、来年あたりからウェブで公開もしたい。
書籍以外に3万点の歴史資料(遺物)の収蔵庫もあり、いまスキャン作業を行っている。。
5階は50人くらい入れる講義室と小さい会議室、セミナー室、遺族会の事務室があり遺族の資料もある。南山タワーがきれいに見えるビューポイントでもある。
屋上に上がると、正面にかつて朝鮮軍司令部があった龍山、別の方向には朝鮮総督府があった景福宮、朝鮮神宮のあった南山を見渡せる。建物の裏には抗日運動家たちの墓がある。植民地時代の主要な施設の案内板を設置する予定だ。
南山を中心に、主要施設のツアーを4コース開発している。少し遠くまで足を伸ばせば、ソウル歴史博物館刑務所歴史館や挺対協がつくった戦争と女性の人権博物館とも交流して、苦しく悲しい歴史から何を学ぶか、若者や皆さんに伝えることを考え準備している。
運営の原則は、市民の支持と市民とともにということを基本にする。毎週月曜のみ休館、入場料は青少年と一般に分けるが、高齢者・幼児、発起人・賛同者は無料にする予定だ。
今後のスケジュールは、4月いっぱいで工事を終わり、5月末に一般客の受入れを開始、その後オーディオや外国語サービスを整備する。
博物館というスペースのオープンだけでなく、いかに活用するかも大きな課題だ。日本の方だけでなく韓国でも各方面から協力があった。青少年向け図書作家の人たちと青少年向けプログラムを企画している。またゲーム制作会社の財団と、研究所がもつ歴史のコンテンツを使い、教育用ゲームをつくる協力が始まった。また学術協力や文化財の技術協力をいっしょに考えてくれる組織もある。
さまざまな活動として、多くの大衆や子どもたちとともにできることを今後考えていく。
人びとにアピールすることを考えると、韓国では8月29日の強制併合、8月15日の解放日があるので、15日から29日を歴史週間としてキャンペーンを行い、多くの開館セレモニーを行う予定だ。しかし5月末から展示はいつでも見学できる。
精一杯やっているが、足りないところはご指摘いただきたいし、皆さんといっしょにつくっていきたい。今度はぜひソウルでお目にかかりたい。

あいさつ        李煕子さん
歴史博物館のもつ意味を考えると、わたくしは、皆さまとともにやってきた30年以上の成果や資料がなくなることがつねに心配で、悩んできた。
日本政府が謝罪も補償もしないことに対し、皆さまが青春を尽くして黒い髪が白髪に変わるまでやった活動の歴史が博物館に込められることに大きな意義があるし、感謝の気持ちでいっぱいだ。
わたしは訴訟を数多く起こしてきた。回りからはいつも負けるのになぜ続けるといわれるが、わたしは訴訟にこだわってきた。理由は、皆さまとともに活動しながらやった裁判の記録は残る。裁判をやって負け続けても負けだと思わない。資料を残すことが勝つことだと思うからだ。
これからもずっと続ける。日本で訴訟を続けられるのは皆さまの支援のおかげであり、支援がなければ日本の役所に行くこともできなかったはずだ。
何十年と皆さまといっしょにやった活動の歴史が、博物館の建物に眠るのではなく、未来のために資料が生き返る。そういう希望をもってこれからもやっていく。そう考えると感謝の気持ちでいっぱいになる。韓国にいらっしゃれば、ぜひ恩返ししたい。いつでもお越しください。
司会 植民地主義の克服は人類にとって非常に大きい問題だ。いまだにヨーロッパの国々も清算・反省ができていない。そういう意味で、植民地の歴史をテーマにした博物館はおそらく世界で唯一のものだと思う。わたしたち全員でこれを育て、植民地主義を克服していける学びの場、ネットワークの場、運動につなげていけるひとつの拠点として、博物館を永遠に続けていけるようにみんなで確認する。
 最後に全員で集合写真を撮った。

この日に集会を行ったのは「ノー!ハプサ(NO!合祀)第2次訴訟」の第14回口頭弁論に原告の李煕子さんと李炳順さんが来日されたからだった。少しこの訴訟について触れる。靖国神社には2万1181人もの朝鮮半島出身者が合祀されている。しかも遺族に一言の断りもないままにである。そこで2007年原告10人でノー!ハプサ(NO!合祀)訴訟を提訴したが一審は2011年7月、控訴審も2013年10月23日に敗訴した。第2次訴訟は敗訴の前日10月22日に提訴し、無断合祀の取消(霊璽簿等からの犠牲者氏名の抹消)に加え、国に対し、遺骨の収容・返還を求めている(なおこの裁判以前に原告252人が2001年に提訴し2011年1月に敗訴が確定した在韓軍人軍属裁判があった)。

李煕子さんは1943年1月生まれ、1989年から父の記録を探し始め、96年に防衛庁(当時)から死亡の記録を受取り、97年に靖国神社に合祀されていることを知った。そこで2001年に取消しを求め、日本政府と靖国神社を相手取り在韓軍人軍属裁判、2007年にノー!ハプサ(NO!合祀)訴訟を始めた。
李炳順(イ・ビュンスン)さんは前から李煕子さんから裁判所での陳述を勧められたが、お母さんと2人暮らしで、お母さんの健康状態がよくなかったせいもあり来られなかった。今回やっと訪日し陳述することが実現した。

李炳順さん

靖国合祀取消裁判の原告として訪日し、今日、裁判所で陳述した。父の悲しみを日本の裁判所まで来て、語ることができた。
長い間支援してくださったことに感謝の気持ちでいっぱいだ。今後も、遺族の悲しみを共にしてくださる皆さまのご支援、ご協力をよろしくお願いしたい。ぜひソウルにお越しいただき、再会できることをお祈りする。

また弁護団長の大口昭彦弁護士から「一方的合祀がいかに韓国の原告を苦しめているかということを膨大な歴史的証拠を集めて訴えた。しかし日本政府と靖国神社は、事実問題に足を踏み込むと絶対に勝てないことがわかっている。そこで事実認定の認否問題に入らない。戦術として民族的人格権はまだ裁判規範になっていない、だから歴史的事実は法廷で問題にならないと主張している。しかし歴史的事実から出発すべきであり、逃げ口上は許さない」と解説があった。今後7月に証人を決定し、9月から証人尋問に入ると、進行の見通しを説明した。

2006年の「学校と地域をむすぶ交流会」、GUNGUN裁判、「あんにょん・サヨナラ」のリーフ
☆わたくしはいまから12年前の2006年2月に日本キリスト教会館で行われた15回「学校と地域をむすぶ交流会」で、李煕子さんが教育塔を考える会の方や小泉靖国参拝違憲訴訟の会の方と参加したパネルディスカッションをお聞きした。「遺族に死亡通知もせず勝手に靖国に合祀するのはあまりにもひどい、許せない」という日本政府への怒り、どうしても合祀を取り消さない靖国の不条理な態度や右翼団体のヘイトのエピソードをお聞きした。
その日のプログラムはとても充実していて、各地からの報告では、大阪・愛知・北九州などのほか、東京から増田都子さん、根津公子さん、渡辺厚子さんと当時のオールスターが勢ぞろいした。さらに広田照幸さん(当時東大助教授、現在日大教授)の「愛国心のゆくえ」という対論まであった。
なお、その半年後の7月わたくしはポレポレ東中野で映画「あんにょん・サヨナラ」をみた。李さんが「汚い朝鮮人は(靖国から)出て行け」と罵られるシーンもあった。

赤道の下のマクベス

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初台の新国立劇場で、鄭義信(チョン・ウィシン)の「赤道の下のマクベス」をみた。敗戦から2年の1947年夏、シンガポールのチャンギ刑務所の死刑囚の話であり、いかにも重い内容だった。登場人物は、日本人3人、朝鮮人3人、そのほか刑務官と看守2人の計9人。

罪状は明確には示されないが、ニューギニア戦線で戦った黒田(56 年齢は役の上の設定 カッコ内の名は役者名 平田満)は巡警隊でゲリラの首謀者を刺殺したその罪。黒田はゲリラの捜索を行い、首謀者だった小さな村の村長を初年兵の朝鮮人が銃剣で刺殺することになったが仕留められず、傷ついた村長が突進してきたところを無我夢中で刀で斬殺した。元大尉の山形(42 浅野雅博)は、泰緬鉄道建設の鉄道隊の要請のままに捕虜を使役し、殴り、場合によっては拷問を命じた。部下で山形を慕う小西(35 木津雅之)は捕虜のアーサーがラジオを持っていたことを報告し、スパイに疑われたアーサーは激しい拷問にかけられた。朝鮮人軍属の場合はもっと悲惨だ。みな捕虜の監視人に志願した。
春吉(22 丸山厚人)捕虜の監視をするだけなら、楽な仕事だ。おまけに給料までくれるったら、誰だって飛びつくさ。月五十円の給料だ。二等兵は六円だぞ、六円。(p113 ページは白水社「悲劇喜劇」2018年3月号のシナリオ 以下同じ)。しかし、植民地・朝鮮なのでそう単純ではない。このあたり「慰安婦」問題と似ている。 
文平(23 尾上寛之) 雨と泥と下痢にまみれて死んでいく捕虜を(略)医者もいない、薬もない・・・、真っ青な顔をした捕虜が、僕のところに来て、「ベンジョ、スピードゥ」って言うんです。下痢だから、作業を休ませてくれって、返事する暇もなく、彼はたまりかねて繁みの中に入っていくんです。(略)それでも、彼らを作業に追いたてなくちゃならないんです。鉄道隊が毎日、捕虜を寄こせ、寄こせって、せっついてきて・・・健康な奴だろうが、病人だろうが、作業に駆り出すほかなくて・・・(p114)。
春吉 おれは村長に命令された・・・両親は断った。三度断ったら、日本人巡査が来た。それでも断ったら、巡査が村長に「配給切れ」って命じやがった。「餓死しろってことですか」って聞いたら「天皇陛下の命令に従わん奴は銃殺だ」・・・行きたくねぇって言えるもんか。(p113)
文平 二年たてば戻れる、月五十円の給料がもらえる、帰ってきたら日本人並みの待遇にする・・・みんな嘘でした。(p113)
南星(26 池内博之)田舎でぶらぶらしてたら、いずれ日本の炭鉱に引っ張られたさ。すぐ隣に住んでた幼なじみも、炭鉱につれてかれた・・・。(p115)
しかも戦犯となり、「公平な裁判じゃない! 勝ったもんが、負けたもん裁いてどうするのだ!」(p108)という裁判の結果、あげく死刑判決だ。朝鮮人にとっては、不条理そのものだ。
文平の手紙「ある時は日本人と呼ばれ、ある時は朝鮮人と軽蔑され、ある時は軍人としてもちあげられ、ある時は軍属として辱めれながらも、日本に尽くしてきた過去・・・それが、私たちにとって最も苦しい思い出となって、私たちを苦しめます(略)」(p105)
春吉 誰のせいにしたら、いい!・・・誰、憎めばいい!・・・祖国は解放されて、喜びにあふれてるはずだ・・・なのに、なんで、おれはここにいる!? なんで、日本人として裁かれる!? なんで、死刑になる?(略)教えてくれ・・・誰か、教えてくれ!・・・(朝鮮語で)ウェニャグ? ウェー!(なんでだ!)(p122)
日本人にしても、「上官の命令は事のいかんを問わず無条件服従するのが、日本の軍隊や。誰が好き好んで、喜んで捕虜、虐待するか・・・」(p107)という言い訳はある。
しかし、黒田はさらに次元を一段階上げて「反省」する。少し長くなるが重要なところなので、山形との問答を書き写す(p128)。
黒田 わしが殺したんは、一人、二人やない・・・おまえさんら、アジアの民の何千、何万を殺した。五族協和じゃ、八紘一宇じゃちゅうて、太鼓叩いて、笛吹いて・・・結局、欧米列強から解放するどころか、むしりとるだけむしりとって・・・。
山形 われわれは台湾、朝鮮、そのほか植民地ば単純に搾取したわけやなか。情熱ばそそぎ、教育ばほどこし、橋ばかけて、線路ば敷いて、共存共栄ば目指したばい。
黒田 あげく無理やり戦争に駆りだして、無駄死にさせたんやないか。
山形 大東亜共栄圏建設のために、われわれは必死で戦うてきた。殺人やなか、聖戦ばい、聖戦。 (略)
黒田 嘘っぱちや! なんもかんも嘘っぱちや! わしらは大本営の大嘘に踊らされて、無駄に命奪うて、無駄に命落として・・・あのニューギニアの地獄に、どんな大義名分がある? あのむごたらしい、あのおぞましい・・・あれを聖戦と呼べるんか!
 (注 ニューギニア戦線はとくに兵隊や軍属で餓死した人が多い地域だ。死んだ兵の人肉を食べた話は奥崎謙三「ヤマザキ、天皇を撃て!」(新泉社1987)で知った。 原一男の「ゆきゆきて、神軍」(1987)という映画もあった)
山形 ・・・
黒田 大本営こそが、大戦犯や。大本営の元締めは誰や? ほんまに裁かれなならんのは誰や?
山形 不敬ばい! 取り消さんね、今ん言葉!
黒田 いくらでも言うたる! 泰緬鉄道建設のために、連合軍捕虜一万三千人とアジア人労働者数万人の命を奪うたのは誰や? それだけやない、大東亜戦争で散ってった三百十万のわしら日本人死者と、三千万のアジア人の死者と・・・その命は誰が償うんや!
まさに「植民地責任」を問うわたしたちと、「自虐主義」と嘲笑する日本会議などヘイト勢力との問答そのままのようだ。シナリオの末尾に内海愛子「キムはなぜ裁かれたのか」(朝日新聞出版 2008)、樽本重治「ある戦犯の手記――泰緬鉄道建設と戦犯裁判」(現代史料出版1999)など10冊あまりの書籍リストが参考資料として掲載されているので、史実にしっかり基づいているようだ。「太鼓叩いて、笛吹いて」は井上ひさしの林芙美子を主人公にした戯曲のタイトルそのものだ。
そして、黒田は南星の足元にひれ伏す(p128)。
(略)
南星 なんの真似だよ
黒田 許してくれ・・・。
南星 なんでおれに謝んだ? お門違いだろ。おれはもうすぐ死ぬんだぞ。
黒田 そやから、なおさら許してほしい。
(略)
南星 おっさんが死んだら・・・あの世で、ゆるしてやらぁ。
南星 死んじまったら、もう日本人も朝鮮人もねぇからな・・・。(p129)
こんなに重い芝居だが、舞台は南国だ。「バタビアからスラバヤに向かう汽車の中から見た風景は、まるで天国だ・・・田んぼに緑の稲穂が揺れて、その間に、赤瓦の家がぽつんぽつんと見えて・・・ゆっくり、ゆっくり、汽車は田んぼの真ん中走ってって・・・」。(p109)
ブンガワンソロや「赤道直下マーシャル群島 ヤシの木陰でテクテク踊る」の「酋長の娘」の歌、ジャワの思い出として「スラバヤの市場には見たことのない果物が並んで・・・バナナは山ほどどっさり、果物の王様ドリアン、女王マンゴスチン、マンゴー、パパイヤ」(p109)というセリフもあり、意外に明るくギャグも出てくる。鄭のシナリオならではだろう。

シナリオ上の工夫としては、「マクベス」の引用がある。会場ロビーで、鄭・平田・池内の鼎談のビデオを流していた。そのなかで鄭は「マクベスは王を殺さなくてもよかったのに、なぜ殺したのか」、「南星は、芝居のなかで驚くべき回答を出した」と語っていた。
その回答とは、
南星 女房にそそのかされたからか?・・・ちがう・・・理由はひとつだ・・・自分で破滅の道を選んだ・・・そう、選んだんだ、自分で。(p126)
南星 おれも自分で自分を死刑台に送る道、選んだってわけだ・・・(笑って)笑っちゃうよな・・・自分は、自分だけは公平で、正しいつもりで・・・けど、結局、結局だ、鉄道隊の言いなりに、捕虜を差し出した・・・そいつは事実だ。言い訳できない・・・それで、それでだ、差し出した捕虜が死んじまったことに責任ないなんて、知ったこっちゃないって、そんなわけにいかねぇよな。悪いことした覚えがないっつったって、そいつは所詮女の言い訳だ。悪いことしちまったんだ。自分ですすんで、殺人のお先棒かついだんだ。(p126)
マクベスは、高校生のとき英文のダイジェスト版、学生のとき文庫本で読んだはずだが、大釜の前の3人の魔女の会話、バーナムの森が動く場面、「女から生まれたものには殺されない」というマクベスが「帝王切開で生まれた」という男(マクダフ)に殺されるシーンしか覚えていない。ネット検索で「マクベスを読む」というサイトをみつけ、斜め読みすると、たしかに南星の幻のセリフも、マクダフ夫人と息子の「鳥」や「謀反人は絞首刑になる」というセリフ(p125 第四幕第二場 ファイフ。マクダフの居城)もそのままあった。
南星の「ポッポー。シュッシュッポッポッ」という汽車のマネ、とくに死刑台への道を「驀進する」掛け声は哀切だった。
新国立劇場書き下ろし三部作の時代設定は『焼肉ドラゴン』(2008年)は1970年ごろ、『パーマ屋スミレ』(2012年)は1963年ごろ、『たとえば野に咲く花のように-アンドロマケ』(2007年)は1951年ごろだが、この芝居はさらに前の1947年ごろの話で、一方、鄭は1957年7月生まれなのでだんだんリアリティがなくなっている。逆に理論というか理屈はどんどん純粋化、高度化が進んでいるようにみえる。たとえば、マクベスを劇中劇でやるのもそうなのだが、いままでは在日朝鮮人のみを扱っていたが、この芝居では朝鮮半島の朝鮮人、植民地朝鮮と日本の問題へと踏み込んでいる。
このテーマでの芝居では、わたくしは平田オリザの「ソウル市民」五部作のうち三部作をみたことがある。

役者が男性のみの芝居は宝塚の男性版だが、それほどむさくるしいとは感じなかった。
役者としては平田と池内が中心のはずだが、尾上、浅野も好演し、木津、丸山も熱演していた。
また刑務官・ナラヤナン(チョウヨンホ)と2人の看守(岩男海史中西良介)の3人は新国立劇場演劇研修所出身だが、今後期待が持てそうだった。
それにしても、役者全員が男性の芝居ははじめてみた。近いのは、昔のつかこうへい事務所の「ストリッパー物語」(1975年初演)だが、根岸季衣が主演ということもあり、やはりちょっと違う。「木の上の軍隊」(2013年)は3人しか俳優がおらず、1人が語る女・片平なぎさだったので存在感が大きかった。演技のレベルと質がそろっていたので、鄭の演出の成果、あるいは6人のチームワークがよほどよかったのかもしれない。
南星と黒田は役の上では30歳の年齢差だが、実年齢でも23歳差なので、黒田が池内を「親父のかわりに抱きしめて」も不自然ではなかった。
なお前述のビデオで「鄭の実父が朝鮮人憲兵だったこと」を初めて知った。 
「2006年まで厳しい環境だった」と言っており、なんのことかわからなかったが、この年に韓国政府が朝鮮人BC級戦犯を「日帝強占下強制動員被害者」と認定し、名誉回復したことをパンフの鄭と宮田慶子の対談で知った。
『たとえば野に咲く花のように』には、「日本のお先棒ばかついだ憲兵」「あんたが憲兵やっとったおかげで、村八分たい。もう向こうには帰れん。帰ったら、石ば投げられる」という家族のセリフがでてくるが、これも体験からきているのかもしれない。

火事と喧嘩は江戸の華 消防博物館

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四谷三丁目にある消防博物館を見学した。地下1階、地上10階のうち5フロアが展示スペース、その他図書資料室が1フロアある。1月にみた警察博物館とどうしても比較してみてしまう。大きな違いはこちらは江戸時代の火消しを大きく扱っていることだ。当時の消火方法は放水ではなく、建物を壊す破壊消火だったことなど、いろいろ知らないことがあった。
●江戸の消防
江戸の火消しは武家火消と町火消に分かれていた。
武家火消は三代家光の時代の奉書火消し(1629)に始まり、16家の大名を指名した大名火消(1649)に発展した。なかでも忠臣蔵の浅野家は名人と呼ばれた。明暦の大火(1657)のあと、四家の旗本に命じ、幕府直轄で常設の4組(1組100人)の定火消(じょうびけし)という組織をつくり、のちに10組まで増設した。与力、同心という役職もあった。熱に強いラシャでできた火事装束をまとった。江戸時代は平穏な太平の世となったため、出世するには火事場での働きぶりがものをいい、自分の活躍を目立たせるため装束もどんどん派手になった。ピークは1780年代だという。武家の奥方の装束や皮の羽織も展示されていた。

一方、町人の町方火消しは、1718年南町奉行大岡越前守がつくった町火消組合に始まる。ふだんはトビとして建築・土木関係の仕事をしていた。半鐘の「ジャン」という音で「すわ火事だ」となると火事場にかけつけた。やはり人気商売で、歌舞伎や浮世絵にもよく取り上げられた。「火事と喧嘩は江戸の華」とはよくいったものだ。いろは48組の纏(まとい)が有名だが、「ひ、へ、ら、ん」の4文字はなくかわりに「百、千、万、本」の4文字を加えた48組だった。いま見る纏にはたいてい黒線が入っているが、当初は、わ、る、か、の3組にしか入っていなかった、わ組、る組は寛永寺、か組は湯島を守る組で特別な組だったそうだ。
ところで、消防というと放水して火を消す仕事だと思っていたが、江戸時代にはそうではなく、建物を壊して類焼を防ぐ破壊消火が主だった。これには驚いたが、日本の家は木と紙でできていて大火になりやすいため、類焼を防ぐことが防火だったのだ。そこで道具も柱を倒す刺又、天井や屋根を壊す鳶口、屋根に上るための梯子がメインだった。龍吐水という手押しポンプもあったが、力も弱く10mしか飛ばないので、もっぱら火消しの体を冷やすのに使われたというので驚く。トビの職人が多かったことも納得がいく。

破壊消防活動中の町火消
1761年の分間江戸大絵図が展示されていた。江戸城を中心に、北は王子、南は芝、東は亀戸、西は高田馬場まで出ている。これによると定火消屋敷は、八重洲河岸、小川町、半蔵門、駿河台など江戸城の周囲に10か所ほどあった。武家屋敷の名前も書かれていた。尾張徳川の所領があちこちにあった。築地近辺では、浜御殿(浜離宮)のほか、尾張、伊藤、刑部などの名がみえた。刑部はどうやら一橋徳川家の屋敷のひとつのようだ。

●明治の消防
時代が明治になり、消防の世界もがらっと変った。まず大名火消しは明治元年(1868)に廃止され火災防衛隊が編成されたが1年で廃止となった。町火消しのほうは1872年に39組の消防隊となった。1874年東京警視庁が創設され消防は警察の管轄下に入った。
80年に消防本部(83年に消防本署)が設置され、84年に2階建て、薄緑色の庁舎も建造された。場所は警察と同じ敷地、つまり鍛冶橋の旧津山藩藩邸跡地だった。のち東京駅建設にともない有楽町の帝国劇場や第一生命ビルのあるあたりに移転しその後、警視庁とともに桜田門に移った。職員も公務員となった。
また1870年に英国製の蒸気ポンプなどを輸入し、破壊消防から注水消火へ変革を遂げた。

国産の蒸気ポンプも1899年に20馬力の馬牽き車両ができた。とはいってもマキで石炭に火をつけ、蒸気が出始め放水するまでに20分もかかったという。だから消防署の近くで火事が発生したときは、近所を何周か走り回ってから現場にかけつけるという笑い話のようなこともあったそうだ。なおこのころは官民混成の消防隊で、公務員は靴、民間はわらじを履いたそうだ。また1880年に消防ラッパが採用され、消防隊の進退の合図に使われたが半年で廃止され、6年後に復活した。制度もなかなか追いついていけなかった。
1898年に上水道が整備され、消火栓も設置され始めた。馬牽きでない消防用自動車は1917年に輸入されたが、関東大震災(1923)を契機にさらに強化された。1924年にアーレンス-フォックス消防ポンプ自動車が丸の内分署、スタッツ消防車が第5分署(いまの上野消防署)、1925年にいすゞ・メッツ梯子自動車(全伸長24m)が第一消防署(いまの日本橋消防署)、1929年にはマキシム消防車が神田消防署に配備された。丸の内、上野、日本橋、神田などが当時の消防の拠点であったことがわかる。
1932年12月には有名な白木屋デパートの火事が発生した。初の高層建築火災で、24mの梯子では足りず、1938年に33mまで伸ばせる梯子車を導入した。
また1927年には火災専用電話の番号の112から現在の119への変更、30年12月1日に広報活動の一環として防火デーの行事を開始し、1936年には交通事故の増加に対応し救急車6台で救急隊を設置した。

●自治体消防に変わった東京消防庁
敗戦後最大の消防の変化は1948年3月に自治体消防に変わり、警察から独立した東京消防庁が発足したことだ。23区だけでなく1959年以降、多摩地区の各市町村から委託され消防業務を担当し、いまでは10方面本部、81署、職員1万8408人、車両1974台を保有する大組織となった(2018年4月時点のHP)。なお大島、八丈島などの島嶼部と稲城は自前の消防本部がある。なぜ稲城が委託しないのかはよくわからないが、稲城市消防本部のHPによれば「現段階では単独のほうがメリットが大きいという選択」とある。ただ「現在の稲城消防署の装備では委託を受け入れてもらえないという経費面の要因」もあるようだ。
なお警視庁や県警の上に警察庁があるように、東京消防庁の上に総務省消防庁がある。ただし警察庁と異なり、直接的な指揮権はなく助言や指導、調整等にとどまる。日本全体の消防法令や基準の策定をしている。
庁舎も59年に初めてできた。場所は永田町1丁目11-39、隼町の交差点近く、現在永田町合同庁舎のある場所(町村会館の東隣)である。その後76年に大手町1丁目に移転した。
1961年に消防科学研究所、66年に航空隊を設置し、はじめてヘリコプター「ちどり」を導入した。1969年にはオレンジの制服の特別救助隊(レスキュー隊)が発足した。74年に水難救助隊が発足、八王子、青梅、秋川、奥多摩には山岳救助隊が設置された。

珍しい話としては、警察は白バイの前に赤バイを運用していたが、消防にも交通渋滞時の対応として1969年に赤バイが導入された。マンション火災などに活躍したが76年に廃止となった。しかし95年の阪神大震災で消防自動車が動けなかったことを契機に97年に再発足した。

消防庁音楽隊は1949年7月に発足したが、部員を23人募集した。うち19人が海軍軍楽隊出身、2人が陸軍軍楽隊出身だった。警察の初代指揮者が旧陸軍軍楽隊長の山口常光であったのに対し、消防の初代指揮者・内藤清吾は旧海軍軍楽隊長で対照的である。それで旧海軍軍楽隊のイカリマーク付きのユーフォニウムやコルネットが展示されていた。またC管でなくD♭管の木製フルートやナチュラルトランペットといった珍しい楽器が展示されていた。また警視庁音楽隊が日比谷公園小音楽堂で4月から7月の間水曜コンサートを開催しているのに対し、消防音楽隊は同じ会場で4月から10月の間、金曜コンサートを開催している。

バスケット内で操作が可能な30mのイベコ・マギルス梯子自動車 1983年志村消防署に配置された
わたくしは江戸、明治など古いものに関心があったが、3階には「消防隊に変身」「消防隊にチャレンジ」など子ども向けのゲームやシミュレーションも充実し、地下には本物の消防ポンプ車や梯子車が7台あり、ヘリコプターも2機展示されていた。子どもたちは大喜びで、バギーを押すお母さんたちが何組も来場していた。

消防博物館
住所:東京都新宿区四谷3丁目10番
電話:03-3353-9119 
休館日:月曜日(祝日にあたる場合はその翌日)、年末年始
開館時間:9:30~17:00
    (図書資料室は水・金・日の13:00~16:30) 
入館料:無料

太田和彦さん推薦の月島の岸田屋

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勝鬨橋をわたり、晴海通りを少し東に進み交番を左折し橋を渡ると、もんじゃストリート(月島西仲通り商店街)の地図がある。図上だけでも50店以上のもんじゃ焼き屋があり、それ以外に清澄通りとのあいだの路地に結構店がある。ただしこの看板の先には左右に比較的新しいマンションがあり、すぐもんじゃ商店街が始まるわけではない。両側とも元は石井鐵工所の工場だったそうだ。左はいまも石井鐵工所の本社が入っている。そのブロックを越えると月島西仲通り四番街の看板がかかっている。北東から南西へ400mほどの商店街で一番街から四番街があり、岸田屋のある四番街は勝どきに近い南のほうである。
岸田屋の左隣には西仲通り商店街事務所・中央スタンプ月島支部事務所、右にはもんじゃ焼屋が4軒並んでいる。

この店に来るのは4回目、前回は2015年9月末の火曜だった。今回は月島在住の方に連れて行っていただいた。この店への来訪歴50年を超える大ベテランだ。
わたくしが初めて訪れたのは20年以上前だが、この店の存在は太田和彦「完本・居酒屋大全」(小学館文庫 1998年)で知っていた。他の居酒屋とは別格扱いで「究極の居酒屋」として、大阪・天王寺の明治屋、和歌山・白浜の長久酒場と並ぶ日本三大酒場として紹介されている。
「居酒屋料理のすべてがここにあるといってよい。平均価格は500円か」、「背後に築地市場という絶好の場所を得て、とにかく新鮮な魚を安く、モツは一にも二にも下ごしらえ」と、ベタ褒めである。鱈どうふ、まぐろかけじょうゆ、さらし鯨、はまつゆ、白魚玉子とじ、そして煮込みを紹介している。客のスタイルも描写されているが、店の人について「主人と奥さんは台所でけんめいに料理をつくり、我々が月島のジャンヌ・ダークとよぶようになった娘さんも必死でお運びしているが、なにせこの客の多さで(以下略)」と紹介されている。最後に小さい字で約70種の全メニューと価格まで記載されている。
5時の開店の時間には満席で、もしかすると入れなかった人もいたかもしれない。一度目に来たときは夏の7時過ぎで、やはりいっぱい、連れて来ていただいた門前仲町のA先輩としばらく外を散歩して店に入れるのを待った記憶がある。月曜の夕方でこんなものなので、連日似たような風景だと思う。一巡目に入れなければ、1時間は待つことになるだろう。
店内はコの字型のカウンター + 壁に向かったカウンターの3列になっている。席数は25-26か。客は意外に若いグループが多かった。
同行した方の話では、昭和20年代後半にはすでに店があったそうだ。
親父さん夫婦と息子夫婦でやっており、太田さんが「ジャンヌ・ダーク」と呼んでいるのは下の娘さんだそうだ。その後親父さんと息子が亡くなり、メニューから「まぐろかけじょうゆ」「赤貝さしみ」など生(なま)物がなくなった。そして「ジャンヌ・ダーク」の姉の子どもたちが手伝うようになったそうだ。もちろん家族でない従業員もいるが、基本は家族経営のようだ。
2回目に来たのは2010年12月で、たまたま隣に並んで待った客から「この店は店内で写真は撮れない」と聞いた。しかし今回聞いてみると、他の客が写っていなければかまわないとのことだった。なおその客は東京中の有名居酒屋に詳しく、赤羽の店を教えていただき、その後行くと、やはり開店時間から満席の店だった。

牛にこみと菊正宗のぬる燗
まず注文したのは、菊正宗のぬる燗と名物・牛にこみ(500円)。初めのお猪口の一杯目はじつにうまかった。
次に二階堂のお湯割りに切り替えて肉どうふ(680円)を食べた。ネギがとてもうまかった。2人でひとつ頼んだが、一人なら豆腐だけでも十分な量があった。
らっきょう(250円)は大粒で酢の味がしっかりしていた。竹の子煮(450円)は旬の時期は少し過ぎていたが、木の芽の香りがしておいしかった。お新香(350円)もおいしかった。肉や魚はもちろんうまいが、この店は野菜も意外においしいことがわかった。
また干しホタル(400円)というものを注文した。ホタルイカなら食べたことはあるが、いったいどんなものかと思った。考えるより実物をみて食べたほうが早い。アジの干物など干物のジャンルなのだが、なかなかうまかった。珍味といってよいだろう。

干しホタル、お新香、竹の子煮
太田さんにならって、全部ではないが、その他のメニューを紹介する。トマト300、もろきゅう300、くらげときゅうり450、そら豆400、ポテトサラダ 300、めかぶ350、ズワイガニ酢の物500、ぬた500、にこごり350、シラス沖漬400、辛子めんんたい450、もずく300、干ホタル400、クサヤ520、こまい生干し450、焼はま700、いかげそ焼450、いか焼450、竹の子煮450、れん草おひたし250、はまつゆ450、なめこ汁350、いわしつみれ吸物350など。たしかおにぎりもあった。
酒は、焼酎では麦が二階堂、いもは薩摩こく紫、日本酒は看板には新泉とあるがたしか菊正宗と松竹梅の2種類だったと思う。もちろん生ビール(中)650、瓶ビール大650などはある。

肉どうふ
料理も酒もうまく、店のスタッフなど店の雰囲気もよい。いい居酒屋の条件を備えている。何よりいいのは、いっしょに行った人と話がしやすくなる店であることだ。3回目に行ったときは、3人で訪れ、そのなかのBさんはわたしは初対面の方だったが大いに話がはずんだ。残る一人はじつは1回目に連れて行ってもらったA先輩で、その人の知合いだったが、半年ほどたったころにA先輩が突然亡くなった。そのことをまず伝えたのもたった一度しか会っていないBさんだった。また今回同行した人も、飲みに行くのは初めての方だったが、話が大いに盛り上がった。そういう店は最高だ。
7時半ころ店を出ると待っている人が8人いた。入ったときはシャッターを開けたばかりで外観をよく見なかったが、真ん中に大きく「酒」、左に「岸田屋」右に「大衆酒場」と、まさに決まっている。

☆太田和彦「完本・居酒屋大全」には店探しで大変お世話になった。このブログでも取り上げたことのある、虎の門・升本甘酒横丁の笹新秋葉原の赤津加根岸の鍵屋赤羽まるます家三軒茶屋の味とめ中野の第二力酒蔵宇田川町・佐賀築地の魚竹、などはこの本で知った。書いていないが、いい店では湯島のシンスケ、自由が丘の金田、道玄坂の芝浜、大塚の江戸一、門前仲町の魚三酒場、銀座の三州屋、千住の大はしにも、機会があればまた行って書いてみたい。ご主人がガンで亡くなった幡ヶ谷のたまははきなどもなつかしい。
太田さんの本は、ほかにも「居酒屋味酒覧」「東京 大人の居酒屋」など何冊か買って持っている。八重洲のふくべ、中目黒の藤八、自由が丘の銀魚など、たいてい書かれたとおりいい店なので、信頼している。

古関彰一の「法的・歴史的にみた沖縄・排除の論理」

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4月22日午後、飯田橋の東京しごとセンター地下講堂で「琉球/沖縄シンポジウム 第7弾」が開催された(主催:琉球/沖縄シンポジウム実行委員会)。
オープニング前、会場には喜屋武マリー with MEDUSAのハードロックの曲が流れていた
   
琉球/沖縄シンポジウムは琉球新報の新垣毅さんの「沖縄の自己決定権―その歴史的根拠と近未来の展望」(高文研 2015/06)の出版を契機に、新垣さん、高橋哲哉さん、上原公子さん、阿部浩己さんらのシンポジウム開催からスタートした。今回は「沖縄 憲法なき戦後――講和条約三条と日本の安全保障」(古関彰一/豊下楢彦 2018/02 みすず書房)を発刊した古関彰一さんの講演である。
わたくしは2010年3月に法政大学で行われたシンポジウム「『普天間』―いま日本の選択を考える」を聞きに行き、パネリストの一人が古関先生で、「いつのまにか日米安保を政治家以上にメディアが日米同盟というようになった」という発言を覚えている。
この日の講演では、沖縄は27年ものあいだ米民政府の直接統治におかれ、日本の憲法も選挙法も適用されなかったこと、ただしアメリカの植民地とはいえないこと、米軍基地と自衛隊基地は性格がまったく違うことなど、わたくしが知らなかった事実が明らかにされた。そして沖縄は日本の周縁の地として、アメリカからも日本本土からも差別的な扱いを受けてきたこと、それは植民地や少数民族にも通じる問題であることなどを知った。

日本国憲法制定過程から排除された沖縄 今も続く平和的生存権侵害

                古関彰一さん(獨協大学名誉教授)
沖縄を見るには、ひとつの視点だけでなく、いくつかの視点が必要だ。たとえばアメリカのなかで沖縄をみるときにも戦後初期は国務省(外交官)と国防省、とりわけ統合参謀本部(軍人)とではまったく違い、深刻な対立があった。今日は、日本全体のなか沖縄をどうみるかという視点、アメリカからみた「植民地」としての沖縄への歴史的視点、太平洋全体のなかの沖縄の位置という国際的な視点などをお話ししたい。

1 「日本国民」の誕生――沖縄分離の意味
まず日本のなかでの沖縄についてだ。日本国民とはなにかがわからないと、沖縄の分離や現在の沖縄の位置がわからない。
法的に日本国民を考えると、憲法10条に「日本国民たる要件は、法律でこれを定める」とあり、その法律とは国籍法で、2条の1「子は、次の場合には、日本国民とする。出生の時に父又は母が日本国民であるとき」である。81年に女子差別撤廃条約が発効し、日本が締結するまでは「父」のみだった。いずれにせよ血統主義で、アメリカ、カナダ、オーストラリアなどの「どこで生まれたか」で国籍が決まる生地主義ではない。日本は戸籍法が非常に重要で、出生したときに「父母の氏名及び本籍」を届け出る(49条2の2)ことになっている。戸籍は家族が中心で、親の国籍がそのまま子どもに継承される。国民とは国籍所有者を意味する。国籍は日本国という日本全体であり、日本国のなかのどこに住んでいるかは問題にならない。
沖縄の場合はどうか。戦後、日本本土はGHQに間接統治されたが、沖縄は米民政府(USCAR=United States Civil Administration of the Ryukyu Islands)に直接統治された。軍人の直接支配でないのは1952年の講和条約締結を前提にしていたからだ。
よく講和条約3条で「沖縄は日本から分離された」といわれる。しかし3条を読むと「日本国は、北緯二十九度以南の南西諸島(琉球諸島及び大東諸島を含む。)(略)を合衆国を唯一の施政権者とする信託統治制度の下におくこととする国際連合に対する合衆国のいかなる提案にも同意する」、しかしそれができない場合は「合衆国は、領水を含むこれらの諸島の領域及び住民に対して、行政、立法及び司法上の権力の全部及び一部を行使する権利を有するものとする」とあり、沖縄は国連の信託統治の下におき日本国が了解することと、それができない場合アメリカが「行政、立法及び司法上の権力の全部」を行使するとことになっている。仮に沖縄が国連に信託統治を提案したとしてもそれは受け入れられない。そのことをアメリカはわかっていた。これは統治権をもつことであり、アメリカが主権をもつということだ。
ただ、沖縄を分離するとか、日本の主権がどうなるかはまったく書かれていない。日本とも、アメリカとも、もちろん沖縄とも書かれておらず、国会で大問題になった。そのころ講和条約の大統領特使のJ.F.ダレスは「潜在主権」(residual sovereignity)という言葉を造った。学者は「残存主権」と呼ぶ。どこの国の主権にも属さず、どこの国の国民でもないまま27年間統治された。
アメリカの文書には沖縄とか沖縄人、沖縄県民という言葉は出てこず、「琉球諸島」「琉球人」という言葉しか出てこない(沖縄は3か所のみ)。72年の沖縄返還協定も正式名称は「琉球諸島及び大東諸島に関する日本国とアメリカ合衆国との間の協定」で、沖縄も「返還」という言葉も出てこない。アメリカは45年4月に沖縄に上陸し、日本の敗戦より前に「ニミッツ布告」を公布し、日本本土の法制度を無効にした。
46年2月、連合国最高司令官の命令(SCAPIN)として、本土在住の沖縄人の調査を行ったが、そのタイトルは「朝鮮人、中国人、琉球人、台湾人の登録に関する覚書」だし、沖縄の人は、旧植民地体制下の人と同じカテゴリーに分類され、氏名、年齢、住所のほか職業まで記入することになっていた。これは外国人の扱いで、事実上沖縄は本土と分離されていた。本土に旅行するにも「許可」が必要だった。そして米民政府は52年2月本土の憲法に当たる「琉球政府章典」を公布し、琉球立法院は本土の戸籍法とは別の「戸籍法」を制定した。まったく日本国民扱いしていない。
しかし一言だけ申し上げたいのは、アメリカは沖縄を領土にはしていない。そういう意味では植民地ではない。アメリカはイギリスの植民地で独立を戦った国の成り立ちからしても領土分割はしない。それに代え、統治権をすべて取るようなことはパナマ、ベトナムなど世界各地でやってきた。沖縄だけではない。彼らの統治方式は、かつての植民地ではなく、そういうやり方だということを申し上げておきたい。

2 日本国憲法と沖縄
日本の戦後は8月15日に始まったといわれるが「昭和天皇実録」をみると、6月18日沖縄は玉砕状態となり、牛島満司令官が「決別電報」を打ち、すぐ天皇に届けられた。直後の22日の御前会議で天皇が「もうやめよう」と言い出した。沖縄戦を考えずに戦後はありえなかったということだ。8月15日ではなく、このころから戦後どうするかを考え始めた。だから9月4日の詔書に早くも「日本は平和国家になる」という文言が入っている。
GHQも民主主義の確立のため憲法をつくり、45年12月に選挙法を改正し、婦人参政権が確立した。しかし沖縄や北方領土は「勅令を以て定むる迄は選挙はこれを行わず」と選挙の停止を定めた。在日朝鮮人・台湾人などの選挙権も同時に停止された。
憲法43条で「両議院は、全国民を代表する選挙された議員でこれを組織する」と定められている。しかし沖縄の人は選挙権もなく国会議員に立候補もできない。それでどうして「全国民の代表」といえるのか。
国家や国民とはどういうことなのか。ただ少しだけいうと、法律用語として「国民」ができたのは憲法以降だが、一般用語としてポピュラーになったのは日清戦争以降だ。沖縄にとっても日清戦争は大きな意味をもつ。沖縄は明や清と長い交流があったが、手を切って日本と手を結ぶきっかけは日清戦争で日本が清に勝ったことだ。(そして徴兵制もできた)

3 「植民地」でない「植民地」
沖縄の戦後は、植民地統治の影をかなり映している。植民地である台湾や朝鮮以外に「租界」があった。租借地であるが、事実上の統治権を行使した。イギリスの香港や上海が古いが、日本も租界地をつくった。いろいろ調べるとまさに沖縄統治そのものだ。支配の仕方を改めて教えられる。
日本本土は1952年以降、日米安保条約のもとに置かれている。本来は安保条約に基地は必要がない。日本は安保条約6条で基地を定めているので一体化しているが、フィリピンは米比防衛条約と軍事基地条約を別に結んでいる。最近沖縄県が地位協定について、ドイツやイタリアと日本を比較分析した報告書を出した。
日米安保では「全土基地方式」で日本のどこでも米軍は施設及び区域を使用することを許される。そんな国は世界にほかにはない。考えてみると、沖縄ははじめからそうしていたので、どこでも基地として取り上げられた。そのことが本土に使われた。けして沖縄だけの問題ではなく沖縄の人たちの苦悩がわたしたちに及んできている。
また憲法との関係でいうと、米軍基地と自衛隊の基地は法的にまったく違う。自衛隊の基地近くにも家族寮がある。しかし自分たち(自衛隊)専用の学校やスーパーはつくらなくてよい。外国の基地はそうはいかないので、基地という言葉は使わず「施設及び区域」という用語を使い、軍事基地以外にスーパー、教会、学校、ハンバーガーショップなども含む。沖縄には大学(ただし分校)もある。外国の基地があるとまったく地域が変わるということを考えないといけない。
日米安保は、冷戦下、ソ連の脅威から日本を守るためと考えられてきた。冷戦終了後も安保はかわらず、今度は日米同盟と言い始めた。なぜ日米安保は続くのか、何のためかと考え続けてきた。つくづく思うのは、アメリカ人、とくに軍人にとって日米安保の基本は米軍基地の存在であることだ。だから絶対に基地をなくさない。鳩山首相が「最低でも県外」といったときに、アメリカの高官が「反米主義者」と呼んだという話もある。
世界の米軍基地を考えると、ドイツ、日本、韓国、台湾などに多くある。すべてかつてのアメリカの敵国だ。平和を考えるときこの構造を考えないといけない。
日米安保の問題を考えることは米軍基地を考えざるをえない。それが基本にあると考えている。

講演のあと、「各界からの発言」ということで、3人の方からスピーチがあった。

滝本匠さん(琉球新報記者)
滝本さんは新垣さんと同期入社で新垣さんと交替で今年4月から東京に赴任、いままで那覇で基地担当記者だった。東京駐在は2回目で前回2009年は民主党政権ができたときだった。
「県外からは、ゲート前に来ていただき支援していただくことももちろん歓迎だが、それだけでなく自公政権が安泰だという現状を、沖縄の声も踏まえ選挙で何とかしていただきたい。これは、沖縄だけでできることではないから」と訴えた。

佐々木史世さん(沖縄の基地を引き取る運動・東京)
「沖縄の基地を引き取る運動」は沖縄差別をなくすため2015年3月大阪で立ち上がり、その後福岡、新潟、長崎、東京など全国9地域で活動している。基地引き取りは高橋哲哉さんの「沖縄の米軍基地――「県外移設」を考える」(集英社新書 2015.6)で有名だが、この運動は市民が自発的に立ち上げた。
沖縄の基地は、日本本土の基地を反基地闘争により沖縄に押しつけた経緯がある。米軍基地の70%が国土面積1%の沖縄に集中しているがために、少女暴行殺害事件、飛行機からの部品落下事件などが発生し、生存権、教育権はじめ基本的人権が侵害されている。本土の人は日米安保賛成が8割なのに基地はいらないというのは沖縄差別ではないか、と考える。県外移設を本土で応えるのが基地引き取りだ。日米安保を選択した責任を果たさないといけない。仮に安保反対論者であっても、反対の世論をつくれなかった責任をとるべきであり、政治的選択肢をひとつでも増やすこともわたしたちの活動のひとつだ。長く沖縄に負担を強いてきたが、そろそろ本土が責任を果たすべきだ。いろんな考えの人がいると思うので、基地引き取りについて議論を深めたい。

野平晋作さん(ピースボート共同代表)
東京MXの「ニュース女子」問題で昨年12月今年3月BPOが勧告を発表し、MXは4月から「ニュース女子」の放送を打ち切った。ただしMXは内容の問題ではなく、編成上の変更としかいわないので、抗議を続けている。なお東京MXはDHCの代理店業務を止めたので全国35局のうち18局は4月から放送をやめたが、青森テレビ、秋田テレビ、奈良テレビ、テレビ高知、大分放送など17局は続けている。それで「わたしはDHCを買いません」というタグをつくった
今日の話題に関連する話をひとつ。アメリカのノースダコタ州で、パイプライン建設地が先住民族の聖地だったので、「脱植民地主義運動」として反対運動をしている女性がいる。支援者がこの運動を「平和、民主主義運動」として語ると、彼女は「この運動が白人に乗っ取られた」と感じるという。沖縄の現状を変えるために憲法を守ることこそ沖縄を救うことになるとときおりいわれるが、はたしてそうなのか。沖縄では、復帰運動が憲法を獲得し、立憲主義を実現する運動だった時代もある。しかし復帰以降、現行憲法のもとで、ずっと沖縄が切り捨てられてきた現実がある。これでは沖縄の声に応答することにはなっていない。沖縄の自己決定権と本土の植民地主義の問題を考えるうえで、ノースダコタの方の言葉は示唆に富む。
またピースボートで東南アジアの人々と「差別と非寛容、そしてロヒンギャ」というテーマで最近、会議をしたが、ロヒンギャに限らず少数民族の差別の背景には植民地支配や迫害を正当化するフェイクニュースが共通にあると実感した。

このあと、長めの質疑応答があった。議論になったのは、ひとつは「沖縄の基地を引き取る運動」の理念についてだった。これは運動の趣旨が短時間だったため説明不足だったからだと感じた。また、沖縄現地での基地反対闘争には、運動する側にも自重すべき面もあるのではないかという意見についても紛糾した。これは事実確認や誤解に基づく発言である一面もあったと感じた。

ラ・フォル・ジュルネ2018 待ち時間の楽しい過ごし方

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今年の連休も有楽町の国際フォーラムにラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン2018を聞きに行った(以下、ラ・フォルと表記する)。
今年のテーマは「モンド・ヌーヴォー 新しい世界へ」で、異文化交流や亡命作曲家を指すようだが、よくわからなかった。

ただ新しいものへのふれあいという意味では、最後に聞いた6人の打楽器アンサンブルによる「ウェストサイド物語」は、マリンバ主体のメロディ楽器とティンパニなどのリズム楽器の組み合わせで、こんなやり方の打楽器アンサンブルでがあるのかと新発見した。40年くらい前に芸能山城組を知ったときの「衝撃」をなつかしく思い出した。

●最も楽しめた演奏2つ

「Percussion Sextet-S」というグループでバーンスタインのウエスト・サイド・ストーリー(菅原淳編曲)から「プロローグsomewhereマンボトゥナイト」の4曲が演奏された(プログラムにはこの4曲しか書かれていなかったが、このほか「アメリカ」もたしかにあった)。舞台には打楽器が何種類も並んでいた。ビブラフォン、3台のマリンバ、グロッケンシュピーゲル、チューブラーベルなどがメロディ楽器として使われ、ティンパニー、ドラムセット、タンブリン、クラベス、カウベル、ボンゴなどがリズム楽器として使われる。その他、クラクションやパフパフと音の出るもの、わたくしが名前を知らない打楽器もたくさんあった。演奏も感動できるもので、こんな方法があるのなら、場合によっては演奏会を聞きにいきたいとインフォメーションで尋ねてみた。本部に問い合わせてくれて、東京音大の2年、3年、4年、院生の男性4人、女性2人のラ・フォル用に編成されたグループだということがわかった。恐るべし東京音大。

もうひとつ、わたくしが楽しめたのは、エロイカ木管五重奏団だった。わたくしは2014年のラ・フォルでヨハン・シュトラウスの「春の声」「クラプフェンの森にて」「ラデツキー行進曲」を聞いたことがある。今年のプログラムはダンツィの「木管五重奏曲」、ドヴォルザークの「スラブ舞曲8番」、ヨハン・シュトラウスの「観光列車」だった。
今回も三菱1号館での屋外コンサートだった。屋外で管楽器の音が聞こえるとうきうきしてくる。
グループ紹介のときに話されたが、演奏よりトークで人気があるグループなので、今年は演奏を充実させたそうだ。たしかにダンツィは4楽章すべてを演奏するなど演奏を重視していた。しかしやはり今年もトークは秀逸だった。屋外で少し風があったので「みな、譜面が飛ばないように注意している。でも、自分以外のメンバーの譜面が飛ぶと面白いだろうなと思っている」という話には観客みんな笑ってしまった。
オケの曲を5人で分担して演奏するのは、たしかに大変そうだった。今回フルートの女性の方はエキストラだったが、「観光列車」ではフルート、ピッコロ、さらにホイッスルまで持ち替えて演奏していた。それもあり、「観光列車」は名演だった。ちょうどわたくしがフルートやオーボエの対面に立っていたせいもあり、高音部がよく聞こえた。一方、クラリネットとホルン、ファゴットの低音のハーモニーもよかった。

●クラリネットを聞いた
前記のエロイカ木管五重奏団と後述の島村楽器のブースで、クラリネットの音色を聞いたが、今年のマスタークラスには珍しくクラリネットのクラスがあった。
先生のラファエル・セヴェールは1994年生まれ、14歳でパリ国立音楽院に入学、2014年パリ国立音楽院の3人の同窓生とアンサンブル・メシアンを結成。ということはまだ23-24歳、生徒の若山修平さんも大学院生だと思われるので、年はあまり変わらないはずだ。
そのせいか「○○してもよい」「わたしは別のやり方をしている」というふうにていねいな言い方のアドバイスをしていた。練習曲はシューマンの幻想小曲集作品73、ホルンやチェロでも演奏される。
「コントラストをつけていい。ピアニッシモをもっと小さくすべき。フォルテはもっと吹けたらいいなあ」「1回目は大きく、2回目は、そのコントラストで小さく」「恐れず表現しきる」「もっとミステリアスに」などと演奏のアドバイスをしていた。
「ピアノに寄り添い、カーブを描いて曲を終わる」「中間部が早すぎた。テンポの統一感が重要」「ここは動き過ぎ。3曲目への余力を残すためテンポアップしすぎない」とのコメントもあった。
もうひとつ、有料コンサートで、ストラヴィンスキーの「兵士の物語」のクラリネット+ピアノ、ヴァイオリン版の演奏を聴いた。吉田誠(クラリネット)、オリヴィエ・シャルリエ (ヴァイオリン)、エマニュエル・シュトロッセ (ピアノ)の3人の演奏だった。鋭角的な曲で、クラリネットは旋律楽器というよりリズム楽器として使われている感じだった。
いつもいっしょに活動している強みかとも思えたが、わたくしには、チェロのヤン・ソンウォンを加えたトリオ・オウオンのドヴォルザークの「ピアノ三重奏曲 第4番ホ短調 ドゥムキー」のほうが印象が強く、聞きごたえがあった。わたくしがピアノ・トリオを聞くのは、94年1月の宋倫匡、林峰男、仲道郁代のコンサート(曲目はハイドン、ヘンデル、ブラームス)以来なので24年ぶりになる。
シュトロッセの安定し力強いピアノが音楽を支え、メインはシャルリエのヴァイオリン、シャルリエをみつめ演奏するヤン・ソンウォン、3人の息が合った演奏だった。6楽章形式だが4楽章のメロディには聞き覚えがあった。ピアノ・トリオというとアルゲリッチなり中村紘子さんなり、バリバリ弾きすぎる三大巨匠の競演のような演奏になりがちだが、今回はピアノが非常に安定して落ち着いた演奏で、こういうスタイルもよいということを発見した。なお昨年マスタークラスで教えるシャルリエをみた。

●ラ・フォル・ジュルネの楽しみ方
わたくしが来場するのは今回で6回目になる。2013年に「この音楽祭は無料のプログラムが充実している」、2015年には「若手音楽家の育成がメインで、発表の場としての無料コンサートが聞きもの」と書き、昨年は無料プログラムの混雑や時間について少し書いた。
無料プログラムの「聴き歩き」をする場合、重要なのが時間管理だ。コンサートの開始時間に間に合わないといけないし、一方コンサートの終演が5分、10分延びることもある。終演予定時間の5分から10分後にそわそわ小走りに退場する方をよく見かける。座って聞こうとすれば1時間近く前に行き、待っているあいだ何をするか考えておいた方がよい。
マスタークラスの場合は90分前から整理券配布なので、先生の人気度も考慮して配布開始の15分前でよいのかあるいは30分前にいった方がよいか判断もいる。
並んでいる時間、待ち時間の使い方もひとつの課題だ。たとえば1時間待って初めの10分だけ聞いて、マスタークラスの整理券を取りに走るということも今回あった。
今年の体験談から待ち時間の過ごし方を記す。
地下2階のキオスクホールの場合、回りの企業ブースでイベントがある。わたくしはローランドで坂本真由美という方の電子ピアノ演奏のラフマニノフの前奏曲「鐘」、島村楽器のブースのクラリネットの「リーフレック」という音量増幅パーツ体験を、待ち時間に聞いた。わたくしが聞いたのはクラリネットだが、ピッコロ、フルート、サックス、トランペット、コルネット、フレンチホルンにも共通して使える器具だそうだ。

洗足学園大学オケは本番の20分前からリハーサルをやっていた。客席から檀上のコンマスに声をかけている人がいたので、家族かと思った。しかし次にコントラバスの人にも声をかけていた。どうやら、見映えの問題かなにかで、客席への姿勢の角度を指示しておられる教員の方のようだった。しばらくして指揮者登場。ところが3分ほど演奏して、指揮者が突如、台から下りて客席中央の通路まで駆けだした。何事かと思ったらどうやらスタッフの人と、音の回り方をチェックされていたようだ。普通のホールではないのでこういう配慮も必要なのかもしれない。
映画とは違うので「メイキング」とはいわないかもしれないが、音楽がつくられていく段取りを見学するのも待ち時間の楽しい過ごし方のひとつということがわかった。音楽のつくりかたの見学という点では、マスタークラス見学も似ている。
そして並んでいる前後の方とのおしゃべりという手もある。クラシック愛好者という共通点があるので、話が合うこともある。マスタークラスの待ち行列で、後ろの女性と話をすると、バッハ(2009年第5回)やモーツァルト(2006年第2回)のときのマスタークラスのことを話しておられたので、わたしよりずっと古いラ・フォルのファンのようだった。
その他、三菱一号館など回りを見渡せる屋外会場の場合、演奏者の向こう側に立つ観客の表情、ファッションをみるというやり方もある。ただ、待ち時間はひたすらスマホをみたり本を読んでいる人もかなり多いのは当然だ。
地上キオスクステージやB2のキオスクステージは、偶然通りかかって「チラ聴き」する機会もある。たとえば地下1階を通行中に、曽我大介指揮・アマデウス・ソサイエティのイタリア奇想曲が聞こえてきた。下を見下ろすかたちだったので蘇我さんのややオーバーアクション気味の指揮がみえた。あとで調べると慶応ワグネルのOBオケとして発足したとあるので、レベルも高そうだ。一度じっくり聴いてみたくなった。
地上キオスクステージでのヴァイオリン・リサイタル プロコフィエフの「5つのメロディ」の初めのほうを少し聞いた。演奏者は洗足学園の2人の学生で、若い才能を育てるこのイベントの趣旨に合うものだった。
こういう偶然の出会いの「チラ聴き」も楽しい。
わたくしはエリアコンサートはほとんど聞いていないが、実際には聴く価値のあるプログラムもたくさんあるのではないかと思う。今後のことで主催者に希望するなら、いまは会場、時間、演奏者名しか発表されないが、できればプログラム(曲目)も事前に公表してほしい。もっとも往復の時間のことも考えるとなかなか行けないかもしれないが・・・。

その他いくつかの演奏を聴いたので、一言コメントを記しておく。
●丸の内フェスティバルシンガーズ&丸の内交響楽団(総監督・指揮 岸本祐有乃

今年はオッフェンバックのオペレッタ「天国と地獄」ハイライトだった。オアゾの「おおひろば」というロビーの後ろのほうからみたので、歌はまだ聞こえるが、セリフがあまり聞き取れなかった。残念ながらストーリーはほとんどわからなかった。
前方にオーケストラがいたが、少なくとも管打はたいへんじょうずだった。ひょっとすると音大出身者が何人か入っているのかもしれない。

●アンサンブル・オプシディエンヌ 

見たことも聞いたこともないグループで、曲目は13世紀から15世紀のアルフォンソ10世、バイユー、ヘンリー8世などの曲。自分たちで、笛や弦楽器、打楽器を演奏しながら合唱する古楽アンサンブルだった。世俗曲ではあるが、王侯貴族の音楽はこんなものだったのかと思った。「ロミオとジュリエット」の映画を思い出した。

クレームをひとつ。楽しい2日だったが、スタッフの方があまりに何も知らずちょっと弱った。
●アンサンブル・オプシディエンヌは、まったく知らないグループだったので、地下2階のインフォメーションで、器楽なのか合唱なのかと尋ねてみたが、まったくわからなかった。正解は楽器演奏をしながら歌うスタイルだったのだが・・・。
アンドレイ・コロベイニコフのマスタークラスの整理券は並んで無事に入手できたが、2分前に会場に行くと「開演5分前で締切」でキャンセル待ちになってしまった。整理券配布の際に説明したはずだとスタッフがいうが、わたしの周りの人は同様に聞いていないとのこと。たしかに整理券に「開場は15分前」の下のほうに小さい字で「開演5分前までにお越しいただけない場合は・・」という但し書きはあるのだが・・・。
40分くらいしたところで、出てきた人がいて、かつ指導終了が10分ほど延びたので合計30分ほど聴くことができた。また40分待っているあいだに列の後ろの方とお話ができたのはよかった。アンドレイのファンで、「日本人は技術は高くても演奏家としての能力が低いといっている」ことなどいろいろ教えていただいた。
練習曲はベッリーニ=リストの「ノルマの回想」、生徒は太田糸音さん。入場すると、「イントネーションをつける」「悪い預言者が語るようにシリアスに」「ここはオーケストラの伴奏のイメージで。ここで歌手が出てくる」など、実践的で演出家風のアドバイスが山のように出てきた。入場前にお聞きしたお話がよくわかる指導だった。
●エレベータの乗り場で、スタッフに「昨年はマスタークラスがあったが、今年はどこで聴けるのか」と尋ねておられる方がいた。ところが「今年はありません」と説明していた。そんなことはないので、ガラス棟の4階で、開演の90分前から整理券を配布すると説明してあげたが、なんともひどい話だ。
●B2のブースに「クラシカ・ジャパン」が出展しているはずなので、場所がどこかB2で立っていたスタッフに聞いてみたが、「B1のインフォメーションに上がって聞いてほしい」との返事、ちょっとひどいと思った。
10年以上やっているイベントなので、主催者のKAJIMOTOも少し緊張感が緩んでいるのかもしれない。

地味だが上品、そして緑の織 国展2018

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今年も、六本木の国立新美術館で開催された国画会の92回国展をみにいった。まず一番みたい工芸の「織」の展示会場、3階に向かった。
今年の特徴のひとつは一見地味だが、よくみると上品な作品だった。
たとえば祝嶺恭子「礁」(以下、人名の下線は原則として国画会のサイトにリンクしていて、作者の2018年の出展作品もみられる)。地味だが、近くに寄ってよくみると花織のパターンもあり上品だ。

陽山めぐみ 手紡木綿絣「穀雨」
小島秀子「デルフィニウム」、デルフィニウムとは何か知らなかったので、ネット検索するとキンポウゲ科の花の種類で、近所の花壇でゼラニウムなどとともに咲いているのをみつけた。似たモチーフで、清水昌子「麦秋Ⅲ」は麦の穂のパターンだった。
紺地にネオンのような蛍光色の花織が編み込まれたルバース・ミヤヒラ吟子「花織モザイクⅡ」、和宇慶むつみ 首里花織着物「竹落葉」などがこの傾向の作品だ。

和宇慶むつみ 首里花織着物「竹落葉」
ヒッチナー千恵「夏の夜」、格子縞の布と2色のリングの布の2枚の布を重ねて影が映り込んでいるようにみえる。しかし布は一枚しかなく、この作品の前で会員の方たちが話しておられたのが聞こえたが、どのような織り方をしているのかよくわからないそうだ。不思議な魅力の作品だった。
作品そのものよりタイトルに注目したのが、浅倉広美 着物「クラムボン」だ。クラムボンは宮沢賢治の「やまなし」に「クラムボンはわらったよ。」「青くてね、光るんだよ。」などと登場する。紺地に水玉がフワフワ浮かんで、賢治の作品を表現している。

多和田淑子 ロートン織帯地「緑の調」
もうひとつの特徴は緑をベースにした作品が目立ったことだ。濃い緑、渋い緑、鮮やかな緑、深い緑などいろいろだが、「風薫る五月」という季節にちょうど合っていた。
加藤富喜「春、たねを蒔こう」、山下健「花織着物」、根津美和子「風ひかる」、澤村佳世「オクラレルカの頃」、池田リサ「板締絣着物」、村江菊絵「行く春」、池田尚子「五月の小径」、などたくさんあった。わたくしはシンプルで大胆なデザインの多和田淑子のロートン織帯地「緑の調」が好きだった。
このほか、わたくしが好きな作品をいくつか。黄緑、青、紫、オレンジなどぼんやりした縞模様の坂本ゆみ「春、はな、はる」、青から緑へ縦線のグラデーションになっている土居ももの「自然」、グレーの上品な縞の富田禎子「眠れるダウンタウン」、グレーの地に波紋が広がる杉浦晶子「たゆたふ」など。
今年はわたくしの一押しはないが、最後に会場をもう一周してみてやはり国展賞受賞の陽山めぐみ 手紡木綿絣「穀雨」は受賞が妥当なように思った。

●染では、やはり柚木沙弥郎「型染布」はアルファベットの15文字を並べたものだが力強かった。その他、くっきりした形と色の佐藤圭子「甘茶蔓」、緑のシンメトリーの岡本隆志 飾布「流水」、例年どおり可愛らしい熊谷もえぎ「花まつり」が好きな作品だった。

堀中由美子「釉彩蕎麦猪口揃」
●陶芸では、例年と同じく阿部眞士川野恭和などの白磁が好きなのだが、その他、堀中由美子パステル調の色の「釉彩蕎麦猪口揃」、新垣修「青釉壷」のサンゴ礁のような緑の色、ガラスの岡林タカオ「突起丸文硝子蓋物」のガラスの向こう側の突起が不思議な感じで印象に残った。また二俣勝之助「緑釉指描組平皿」は緑の皿が5枚セットになっているところがよかった。

昨年、会員、準会員、会友のシステムについて教えていただいたが、今年は新人賞、奨励賞についてお聞きした。国画賞はその年のナンバーワンということはわかる。しかし今年の新人賞で山川響子さん(会友)の作品があったが、この方は10年近く前から作品をみていた記憶がある。どういう趣旨の賞なのかスタッフの方に尋ねてみた。国画賞、新人賞はそれぞれ別に会員が投票するものの、国画賞は1点のみなので、ナンバー2のような位置づけなのだそうで複数受賞もあり今年は3人が受賞した。では奨励賞はどういうものかというと、これは工芸のなかの織、染、陶、木工・漆の4部門から毎年それぞれ1人、合計4人選ばれることになっているそうだ。
なお他の部門、たとえば絵画では損保ジャパン日本興亜美術財団賞、版画では平塚運一賞、前田賞など、彫刻には新海賞、千野賞など、写真では福原信三賞、ニコン賞など独自の賞がある。

●1階と2階の絵画部にて

茂木桂子「Roter」(左)と岩間喜代美「通り過ぎる風景」
茂木桂子「Roter」 今年も、CH47のような前後に大きいローターを付けた軍用大型輸送ヘリの作品だった。   
たまたま隣は岩間喜代美「通り過ぎる風景」。パンダが寝ころぶ平和な野原に、上から戦闘機(爆撃機かも)が一直線に飛んでくる。小さく戦車もみえる。その後ろには鷹か鷲のような猛禽類が戦闘機を追尾するように飛ぶ。手前を通過する電車の座席にはスマホを操作する女性が座っている。女性は一心にスマホの画面をみていて何も気づいていないが、次の瞬間には地獄絵が展開されそうだ。あるいはこの電車は難を逃れ、何もなかったかのように通りすぎるだけかもしれない。まるで2015年9月とか2018年の現在を活写しているような絵画だった。

福島和子「fishing-B」(左)と梅田勝彦「花雲」
国画賞の梅田勝彦「花雲」、新人賞の福島和子「fishing-B」。顔の大きな女性のアニメ風の絵で 似たような作風に見えた。これらも、見ようによっては、不気味な絵である。
いつものスタイルの作家、たとえば瀬川明甫堤建二上條喜美子の作品をみるとほっとする。
わたくしの趣味なのだろうが、群像に注目した。たとえば同じ顔、服と髪型が少し違う女性30人が並ぶ稲垣考二「続・雛壇」、多くの客のなかになぜか象や裸の男女が何人かいる佐々木豊「船上のパーティ」、渦潮の絵の上下に修学旅行なのだろうか、80人ほどの高校生の顔写真が並ぶ椎名久夫「刻の流れ」、子ども6人、老人9人が並ぶ瀬川明甫「時のかたち」などだ。

●1階の彫刻部にて

神山豊「Megaptera」 
神山豊(海洋彫刻家)、2年前は人魚、3年前は鯨で毎年、木で海の生物をつくる作家だが今年は「Megaptera」(ザトウクジラ)だった。ハンドルと歯車があり、いかにも面白そうだが、「係の人がいるときだけ動かせる」とあった。1度目はだれもいなかったので、おそらく1日に何度か動かすのではないかと考えた。2回目に行ったときもやはりだれもいなかったので受付の方に聞いた。すると動かしてくれたうえ、作家の神山さんがすぐ近くのshonandaiギャラリーで個展をやっていると教えてくださった。それで帰りに立ち寄ってみた。来客中でお話はできなかったが、こういう出会いもあることがわかった。
坂本雅子「いきものがかり」は、会場が少し薄暗いせいもあり、本当にウサギを抱えた少女が少し向こうに立っているようにみえた。

国画会とは無関係だが、たまたま2階で「こいのぼりなう!」という須藤玲子のテキスタイル作品が特別企画として展示されていた。(正式名称 こいのぼりなう! 須藤玲子×アドリアン・ガルデール×齋藤精一によるインスタレーション
300匹のこいのぼりが天井高8m、2000平方mの展示室を1周して泳いでいる。床に寝心地のよさそうな布の椅子が並んでおり、老若男女が寝転がって眺めている、なかには昼寝している人もいるようだ。
300種類の布を1点ずつ、染めてつくったものだそうだ、
寝ころぶと密やかな音が聞こえてくる。風鈴が6種類、インドネシアの森の音、大覚寺の虫や鳥の声など、このサウンドはSoftpadというグループの作品だ。
椅子も作品のうちかとスタッフの人に聞くと、これは無印良品で購入したものだそうだ。ただ置き場所はおそらく指定があったのだと思う。なおコイの骨になっている4本のプラスチック・リングもやはり購入したものとのことだった。
わたしは参加しなかったが体験コーナーがあり、準備された色とりどり、さまざまなデザインの四角いペーパーを使って、自分のこいのぼりをつくるイベントを開催していた。

☆国展では、女子美術大学や沖縄県立芸術大学出身の工芸作家をしばしばみかける。東京芸大にも工芸科があることを知り、1月末に上野で卒展をみにいった。しかし国画会とはかなり傾向が異なり、メインは金工(鋳造および鍛造)、次は漆芸、ガラス、陶器などで、テキスタイルの作品は少なかった。自分の専攻は2年になるときに決めるそうだ。
デザイン科の作品で、染っぽいものがあった。作者に聞くと、布を買いデザインしてインクジェットでプリントしたそうだ

日本橋でみたオペラ「イリス」

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水天宮の日本橋公会堂で日本橋オペラ研究会主催の歌劇「イリス」(ピエトロ・マスカーニ作曲)をみた。オペラをみるのは2013年5月の新国立劇場での「ナブッコ」(ヴェルディ)以来なので5年ぶりだ。
マスカーニのオペラというと「カヴァレリア・ルスティカーナ」(1890)が有名だが、8年後に作曲されたこのオペラもきれいなメロディの作品だった。日本橋オペラ研究会という名前から推測して、オペラ好きのアマチュア団体かと思ったら、メンバーは音大出身で二期会や藤原の会員の多いプロの団体のようだった。2013年に発足し、15年に「トリスタンとイゾルデ」(ワーグナー)、16年に「トスカ」(プッチーニ)の公演を行った実績がある。

指揮の佐々木修さんは、武蔵野音大出身、カラヤン国際指揮者コンクール入賞、演出の舘亜里沙さんは、東京藝大楽理科出身、安宅賞受賞、「ヘンゼルとグレーテル」「トリスタンとイゾルデ」「ラ・ボエーム」などのオペラ演出者である。タイトルロールの福田祥子さんは大阪国際音楽コンクール第2位、テノールのオオサカ役上本訓久さんは、ナポリ留学のあと藤原歌劇団団員、バリトンのキョウト役飯田裕之さんはドイツ、ウィーン留学のあと個人リサイタルを中心に活動中の方だ。その他、テノール根岸一郎さんは、武蔵野音大だけでなく早稲田の仏文も出て、ソルボンヌで比較文学のマスターを取得、テノール木野千晶さんは京大工学部でドクターを取り、二期会研修所を出て東京二期会会員、こういう変わり種もいる。錚々たるメンバーだったので、レベルは高かった。
ただひとつだけ普通のオペラと違うのは、オーケストラがいなくてピアノ独奏だったことだ。役者が全員そろい、衣装も着て大道具・小道具もあるので、セミオペラ形式というらしい。指揮者は客席の最前列に座り、ピアノは舞台の左側でスポットライトが当たっていた。普通は指揮者が入退場するときに拍手が起きるが、そういうことはなく、少し気の毒だった。
ピアノ1台で数十人のオケの音楽を表現するのは、楽譜があるにせよ、並大抵でない芸術性が要求されると思った。舞台稽古のときはアップライトだったが、本番はグランドで、伴奏の小滝翔平さんのレベルの高さがよくわかった。オーケストラなら打楽器などを除き、一人くらい失敗しても致命的ではないが、1人でオケをやっているのだから、万一失敗すれば音楽が止まってしまう。非常に重要な役割だ。
「イリス」はあやめ(アイリス)の意味で、日本の吉原を舞台に、いたいけな娘イリスを盲目の父からさらってきた手配士キョウト、イリスに純粋に片思いするオオサカ、盲目の父チェーコがからむ話だ(詳しくはこのサイトを参照)。プッチーニの「蝶々夫人」と同じようにジャポニズムの作品だ。プログラムの解説によるとマスカーニとプッチーニはミラノ音楽院在学中、同じ下宿にいたこともあるほど仲がよかった。2人の違いは日本人女性すなわち川上貞奴のミラノ公演(1902年)をみたかみなかったかの違い、とある。
北斎の浮世絵「蛸と海女」に着想を得た「タコのアリア」も登場する。娘が漆黒の海から出てきたタコに「快楽」のなかで絞め殺されて死ぬという場面だった。
なおこの日の会場日本橋公会堂は明治時代から旧日本橋区役所があった場所なので、貞奴とも縁があり、また元・吉原は明暦の大火まで人形町にあったという。

じつは、区民特典として立ち稽古を見学するチャンスが11回あった。そこで4月に1時間、5月半ばに2時間、合計2回見学させていただいた。一度目は2幕の半ば、二度目は3幕の初めを中心に練習していた。演出者はしぐさや移動方法、大道具・小道具すべての責任者のようだった。音楽を含め全体統括は指揮者がやるのだろうが、演出と指揮の役割分担が少しわかったような気がした。とくに2度目は浮浪者がゴミをあさる群像劇で、どの人のどの行動を際立たせるためほかの人はこう動くなどの指示があり、見せていただいて有意義だった。ラ・フォル・ジュルネの記事でマスタークラスやリハーサルで「音楽のつくり方(メイキング)を見られてよかった」と書いたが、今回はオペラの「つくり方」が少しわかった。
また1幕の合唱「太陽讃歌」を聞くことができた。練習なのでフルメンバーではなく、女性5人、男性5人だったが、「私の本質は慈悲であり、永遠の詩、そして愛である。熱と光、そして愛なのだ」(訳詩はこのサイトより)。すばらしい出来栄えだった。以前アマオケに入っている人に「弦楽器の場合、tuttiではダメでsoliを弾けるようなレベルだとよい」と批評されたことがあった。理解が間違っているかもしれないが、まさに、みんな独唱で歌えるレベルの人が10人で歌っているような感じで「感動」した。
さらにテノールの屑拾い役・根岸一郎さんの美声に聞きほれた。

プログラム記載の舘亜里沙さんの演出ノートで読んだだけなのだが、紗幕が重要な役を果たす。紗幕(しゃまく)とは、紗のような薄い布地で作られた幕。照明により後ろが透けて見えたり見えなかったりする、御簾のような幕のこと。奥の景色が幻影のようにみえるので「まやかしのユートピア」を創り、イリスを魅力ある女性に見せ、一躍イリスは吉原の人気者となる。またイリスにとっても幕の後ろは楽園だと感じる。さらに2人の女性ダンサー(遠藤綾野、矢嶋美紗穂)が幕の向こうで踊ったり、一人が黒、一人が白の衣装をまとい幕をはさんで踊ったりして演出効果を高めた。紗幕の効果を十分生かした演出になっていた。
舘さんは「《イリス》の世界を、単なる1人の少女の悲劇としてだけでなく、ユートピアを見ようともがいた人々全員に振りかぶった悲劇として、ご覧いただければ幸いです」と締めくくっている。
演出では紗幕とダンスのほか、3幕で根岸さんが舞台上手の高いところで歌ったシーンの「輝く月、群青の空」が強く印象に残った。
指揮者が何をしているのかは、私にはまだよくわからなかった。稽古の段階では、歌詞の出だしを歌ってリードしたり、歌手や伴奏者の間違いを指摘したりされていた。

会場の日本橋公会堂(日本橋劇場)は、半蔵門線水天宮前から2分の蠣殻町にあり、大きさは1階277席、2階147席、合計424席の中規模のホールで、土地柄、日舞や長唄など和ものの発表会や演目が多いようだった。花道やセリもあり、照明設備が充実していた。ただしオーケストラピットはこのホールだけでなく、中央区のホールにはひとつもない。
隣の台東区には東京文化会館や浅草公会堂、江東区にはティアラこうとう、港区にはサントリーホール、メルパルク東京など、千代田区には東京国際フォーラム、日生劇場、東京宝塚劇場などがある。そこで「中央区にもピットのある公共ホールを」という署名を集めていた。もちろん賛同署名した。
400席あまりの客席はほぼ満席、女性が9割ほどだったが、結構オペラファンがいるものだと感心した。

開演前のロビー
加藤嶺夫写真全集「昭和の東京5 中央区」(デコ 2017/11 159p 監修・川本三郎、泉麻人 1800円)という写真集を図書館で借りた。蠣殻町の近くでは1丁目の新大橋通り沿いの1967年3月の写真が掲載されている。茅場町から400mほど北に歩いた交差点付近で、右折して50mほど進むと公会堂、左折して150mほど先に日本橋小学校や社会教育会館があるあたりだ。いまはミニストップや蠣殻町東急ビルがあるが、東京オリンピックから3年後の51年前は、お茶の共和国本店、洋服店、もつやき店、とんかつ店、歯科などの店が並んでいた。すべて2階建てのいわゆる看板建築の店だ。50年前の都電が走っていたころの都電通りの商業地の風景はどこでもこんなものだったのだろう。

問題が多い日科の中学道徳教科書

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昨夏から連続4年連続で実施される教科書採択。今年は中学道徳教科書の年だ。5月最終週にスタートした教科書研究センターを皮切りに、全国の採択地区で見本本の展示会が開催されている。わたくしは5月半ばに出版労連の会議室で行われた「教科書を考えるシンポジウム」でだいたいの問題点を把握してから江東区千石の教科書研究センターで検定合格8社(光村、学研、廣済堂あかつき(あかつき)、日本文教出版(日文)、東京書籍(東書)、教育出版(教出)、学校図書(学図)、日本教科書(日科))の教科書をみた。
1セットしかないため、悪い前評判の高い、日科に「人気が殺到し」順番待ちとなった。

8社の教科書のうち5社の表紙(上:左から学研、日科、光村、下:学図、教出)
昨年の採択のときにみた、小学校道徳教科書が思い出された。
小学校のときは、全体に国語の教科書のよう。ただし「徳目」に沿ったことに限定し「どんな気持ちだったと思いますか」などと聞いているので、「心の押しつけ」になっているものがかなり多いという感想を抱いた。
中学の場合、「ちょっといい話」「少し心に(突き)刺さる話」が並んでいた。ただし設問を使って22の徳目に「誘導しよう」という点ではまったく同じといえる。

「二通の手紙」(学研3年98-99p)
8社すべてが収録した教材が2つある。「二通の手紙」(白木みどり)と「足袋の季節」(中江良夫)だが、前者は文科省「私たちの道徳」(2014年)のものを使っている。ここまでくると、事実上の国定教科書にほかならない。
「二通の手紙」は徳目「法やきまりを守る」の教材として収録されている。主人公は動物園の入園係の元さん、定年まで働いていた。妻をなくし、それまでのまじめな勤務ぶりが認められ再任用の話があった。入園終了時間直後、閉門の15分くらい前に小学3年くらいの女の子が3,4歳の男の手を引いてやってきた。「今日は弟の誕生日だから」と手に料金を握りしめ泣き出しそうな顔をしていた。同情し特別に入場させた。ところが2人は閉園時間になっても出てこない。職員総出で園内を捜索し1時間後にみつかった。数日後、子どもたちの母親からおわびと感謝の手紙が届いた。しかしもう1通上司に届いた手紙は元さんの停職の「懲戒処分」の通告だった。時間だけでなく、子どもたちだけで入園させてはいけないという規則もあった。その日限りで元さんは職場を去って行った。

本来、どうすれば子どもの希望と園のルールを両立できるか、たとえばもう一人の係員が子どもに同行するなど、大人として子どもの要望を満たせるような第三の方法を考えることも解決法のひとつのはずだ。それを「ルールを守る」と、初めから答えを出しておいて討論させるのだから、一方的であり、「考える道徳」「議論する道徳」にはならない。(中学生でも学校や教科書の意図に気づく)

今年4月23日(月)NHKのクローズアップ現代で「“道徳”が正式な教科に 密着・先生は? 子どもは?」という番組を放映していた。
杉並区の小学校4年の道徳の授業で「お母さんのせいきゅう書」という教材を使い、家事の無償労働をテーマにした授業だった。教師の意図は「母親の無償の愛を通じて、「家族愛」について考える」というもので、たしかにそういう意見も数人の子どもから出たが、一人の生徒が「私は0円なのよ、お母さんの気持ちになってみなさいよ。せっかく家事とかをしているのに。子どもっていいな。えらいことをするとお金をもらえるから」と考えて、「私も子どもがいいな」という意見を述べ、先生に反駁された。授業後、泣いてしまって顔を洗っている男の子の姿が映し出された。生徒の母は「仕事をしながら自分(子ども)のために家事もこなす、母親のことを思っての発言だった」というもので、この場合は担任が授業後に個別に児童に話しかけ、サポートしたことになっていた。
こういう回答は中学生の場合、さらに多角的多面的に出てくると思われる。本当はそれらをもとに「自分の頭で考える授業」が始まるはずだが、先生方は対応できるのだろうか。
また、「二通の手紙」は「法とルール」で、「六千人の命のビザ」(杉原千畝の話)は徳目「国際理解・国際貢献」の教材だが、杉原こそ本省の領事館退去命令も守らず、ビザの発給も本省に認められなかったのだから「法とルール」の観点からなら完全にアウトになってしまう。下村元文科大臣や安倍首相、麻生財務大臣はどうコメントするのか、聞いてみたいものだ。もっとも彼らは、役人が積極的に「忖度」し文書改竄や虚偽答弁をしてくれるから、何が起ころうと困ることも迷うこともないのかもしれないが・・・。

日科の教科書は22の徳目ごとに生徒に内心と行動を自己評価させる
そのうえに評価の問題がある。
文科省は、道徳の評価について「道徳科では、特に、数値で評価して他の子供達と比較したり、入試で活用したりすることはしません。「国や郷土を愛する態度」などの個別の内容項目の評価はしないので、「愛国心」を評価することなどあり得ません」とウェブサイトで説明し、2016年に松野文科大臣(当時)は「児童個別の成長のありさまを文章で記述する」と答弁していた。
しかし8社の教科書のうち5社で3段階から5段階の評価表を付けている。
教出は、全教材に対し3段階の「心かがやき度」で「新しい発見があったりためになった」かどうか自分なりに色を塗り評価するもの、東書は「教材について興味をもって読めたか」「授業の内容について深く考えることができたか」など4項目を学期に1度4段階で評価するもので、まだましだった。
日文は別冊・道徳ノートで1教材につき1p感想を書かせた末尾に「授業の内容」(印象に残ったから残らないまで)、「友達の意見や話し合いから新しい発見や気づき」(有りから無しまで)、「自分の考えを深める」(できたからできなかったまで)、「これから大切にしたいこと(わかったからわからないまで)の4項目を5段階評価するものだが、ある意味で抽象的な自己評価なので、まだ許せる。
しかし、あかつきは別冊・道徳ノートで「日本人としての自覚をもち、国の発展に努める」など22の徳目について学期に1度「できなかった」から「とてもよくできた」の5段階で評価するものだ。もっとも極端なのは日科で「国を愛し、伝統や文化を受け継ぎ、国を発展させようとする心」など22の徳目ひとつずつに「意味はわかるけれど、大切さを感じない」「大切さや意味はわかるけれど、態度や行動にすることができない」「大切さや意味は理解していても、態度や行動にできる時とできない時がある」「大切さや意味は理解していて、多くの場面で態度や行動にできている」など、内心や行動そのものを自己評価して学校に提出しろと言っているので、これはひどいと思う。
生徒の自己評価という抜け穴を利用したともいえるが、教師が生徒の自己評価を利用しないとは考えられない。
道徳という教科は中学生にとって「ウソ」と「ごまかし」のテクニックとやり方を練習し学ぶ時間になってしまうことが懸念される。「道徳」を学校で教科として教え、かつ評価するむずかしさは、小学校以上にはっきり現れることだろう。

伊勢の神宮(日科3年)。「集団や社会とのかかわり」の最終ページのコラムだが、左ページは「自然や崇高なものとのかかわり」の章扉。意図的な配置だろう。
その他、日科の教科書には、懸念される教材が散見された。
●小学校では「出会いがしらの会釈は15度、ていねいなあいさつは30度、ちゃんとあやまるときは45度」とお辞儀する角度まで指定する教科書があった(光文5年)が、中学の日科(3年56p)にも
「最も礼儀正しい振る舞い」「最も無礼な振る舞い」を答えさせる題材がある。
真心とは別の「うわべだけの態度」「表面的な見せかけ方」を重視する教育結果に陥りそうである。
●小学校道徳には「下町ボブスレー」で「ポーズを決める安倍首しょう」と顰蹙を買う写真が掲載されている教科書が合格した(教育出版5年)。中学では、安倍首相の2016年12月27日の真珠湾での演説(抜粋)を掲載したのが日科だった(2年152p)。アベらしく謝罪は一言もなく「御霊よ、安らかなれ」という慰霊のみだ。敗戦後70年の2015年8月15日に長岡市が姉妹都市ホノルルの真珠湾で「白菊」という慰霊の花火を打ち上げたという記事が4pあり、そのあとに「和解の力」という安倍のコラムが1p付いているのだが、まるでアベ演説を入れたいがために「忖度」の手段として、「白菊」をもってきたようにみえた。
●「伊勢の神宮」というコラムが出ている(日科3年p148)。「神宮」と「式年遷宮」の2つの記事から成り、「神宮」には「『神嘗祭』は(略)神宮の恒例のお祭りの中でも、最も重要なお祭りとされています」とあり、「式年遷宮」は「我が国の伝統文化のルーツを伝え、技術の保存継承にも大きな役割を果たしています」と説明されている。なぜ道徳という教科で、戦前以来ふたたび中学生が「国家神道」を学ばないといけないのだろう。
日科の教科書にはいろいろ問題があることがよくわかった。

○その他、これはシンポジウムで知ったことだが、道徳は歴史や科学ではないので、歴史的事実や自然科学の知見に沿っていない説明でも教科書に掲載して差し支えないという考えがあるそうだ。
たとえば「六千人の命のビザ」(杉原千畝の話)で「日本はドイツと防共協定を結んでいる国です。そのために、あなた方ユダヤ人にビザを出すのは難しい立場にあります」との文に「生徒が誤解する表現である」という検定意見をつけ、「私は数人分のビザなら発行することができますが、これほど大勢の人たちにお出しするのは難しい立場にあります」(学図2年192p)に修正することになった。

教科書展示の話題なので、中心テーマは教科書にしたが、教師の「教え方」にも大きく左右されると思う。「考える道徳」「議論する道徳」という点では、10年以上前に社会科の増田都子教諭が実践した「紙上討論」が参考になる(このサイトを参照)。討論形式でやるとどうしても「口が達者な生徒」な意見に流れるという考えから、あくまでも「紙上」で討論を繰り返すものである。
以前からいわれてきたことだが、道徳科はほかの教科と異なり、哲学・倫理学などの学問の裏付けがない。その弱さからくる欠陥が小学校と比較しても、いっそう大きくなったように思える。
繰り返しになるが、中学生にとって道徳の時間が「ウソ」と「ごまかし」のテクニックとやり方を、練習し学ぶ時間にならないとよいのだが・・・。

「コリアに平和の道を」 東京朝鮮中高級学校文化祭

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こ6月17日(日)東京朝鮮中高級学校の文化祭が開催された。わたくしは午後別の予定があったため、10時開幕ということで朝一番に十条に行った。この学校には「東京朝鮮高校生の裁判を支援する会」の集会で2回ほど行ったことがあるが、生徒と接するのは初めてのようなものだった。

朝鮮半島情勢はこの1年半ほどで劇的に変化した。いまにも戦争が始まりそうな国際包囲網、安倍首相の「恫喝」と「最大限の圧力・制裁」が一変した。2016年秋からのキャンドル革命による朴槿恵(パク・クネ)政権の訴追と逮捕・裁判、文在寅(ムン・ジェイン)政権の誕生、南北対話、平昌(ピョンチャン)冬期オリンピックでの南北合同チームと統一旗での入場、38度線を越えた4.27板門店宣言、そして6月12日の米朝首脳会談での「朝鮮半島での恒久的で安定的な平和体制の構築」と「朝鮮半島の完全な非核化」に向けた共同声明である。朝鮮戦争の休戦から終戦へ、さらに平和条約締結という道筋も見え始めた。
受付横では祖国情勢、民族教育展示会というタイトルの展示が行われた。メインは4月の4.27板門店宣言、金・文の2人の首脳が共に板門店の国境線を越えてできた宣言だ。「平和 新しい時代の幕開け」というタイトルが踊り、「世界各国の声」も展示されていた。
朝高生の一日、一週間、年間行事の解説展示もあった。文化祭(6月)、運動会(10月)、校内合唱コンクール(2月)など、日本の高校と同じ行事もあるが、「祖国講習」(8月)は民族学校ならではだ。1学年5クラス、120―130人だそうだ。
「朝鮮の芸術団」では、牡丹峰(もらんぼん)楽団、青峰(ちょんぼん)楽団、万寿台(まんすで)芸術団などが紹介されていた。大型ディスプレイに公演が映されていたが、平昌オリンピック成功祈願イベントのものだそうだ。
展示は、1年生は冷やしうどん、焼肉丼、焼きそばなどの売店、2年生は歴史、3年生は美術という分担になっていて、3年は来月修学旅行で平壌へ行く。平壌への修学旅行は茨城朝鮮初中高級学校の「蒼のシンフォニー」(朴英二〈パク・ヨンイ〉監督 2016)をみて知っていたが、「制裁一本やり」の安倍政権の下、高校生の平壌訪問もできなくなったかと危惧していたので、続いていてよかったと思った。
また文化祭は当初6月10日開催の予定だったのが、チラシにも17日に延期された跡があり、これはひょっとすると12日の米朝会談の結果をみてからという考えからかとも思ったのだが、受付で尋ねると、梅雨入りの時期なので、天候の関係でずらしただけとのことだった。

売店は1年生が冷やしうどん(300円)、クレープ(200円)、焼肉丼(400円)、スムージー(200円)、焼きそば(300円)、タピオカ(200円)、ラーポッキ(400円)、キムチチャーハン(400円)などクラスごとに異なるメニューのものを色とりどりのテントの下でつくって売っていた。日本の学園祭でもよくみかける光景だ。

大きな多目的ホール(食堂)では、美術部と3年生の共催で「進む展」という美術展をやっていた。一番目立つのは、会場まんなかの「想いは昇り」という3年生の共同制作だった。青い地から青と白の風船がいくつも天のほうに上がる。真ん中には天に届く柱がある。よくみると足跡で、3年生全員の「自分の想い」が書かれていた。わたくしはハングルが読めないがひとつだけ「コリアに平和の道を 統一」と日本語で書かれたものがあり、これはわかった。
朝鮮半島は今、非核化、統一に向けて行動を起こしている(略)朝鮮学校の生徒たちはどんな思いを馳せるのか。彼らの思いは天高く、これから目の当たりにする未来に向かって進んでいく」との紹介が添えられていた。たしかに歴史的な瞬間に居合わせた3年生だ。
 白いひなげし畑のなか、チマチョゴリを着た白鳩が赤いツメの鷲(?)に連れ去られようとしている絵も強く印象に残った。


2階の教室では、白頭山、開城・板門店、京畿道・ソウル、済州島、平壌の5つの朝鮮名所の展示があり、写真を撮れるようになっており、また自分の名前をハングルで書いたパスポートをつくり、各教室でスタンプを押すシステムになっていた。白頭山の部屋には、頂上にある「天地」(チョンジ)というきれいな池の模型などがあり、初めに入った部屋のせいもあるだろうが、充実していたように思った。池の水を一口飲むと100年生きられるという言い伝えがあると生徒に教えてもらった。また1938年の金日成の抗日抗日パルチザン活動の記念碑があるそうで写真があった。

わたくしが一番興味深く見学したのは1階の「朝日友好の歴史」という展示だった。歴史的なものでは、朝鮮通信使、鬼ノ城(岡山県)、奈良、高麗神社、あきる野市(妙見宮が百済様式の建物)など。朝鮮通信使、高麗神社は知っていたが、朝鮮様式の山城・鬼ノ城(岡山県)、あきる野は知らなかった。最近のものではイギョラ杯(東京で行われる国際友好親善ユースサッカー大会)、枝川裁判、ミレ(枝川朝鮮語講座)、サランの会長谷川和男代表の全国朝鮮学校訪問、高校無償化裁判への協力など。「友好的な日本の芸能人」ではアントニオ猪木議員とデビ夫人が取り上げられていた。
トップは1990年9月28日の金丸信(自民)、田辺誠(社会党)、金正日(朝鮮労働党)の三党共同宣言で、日本の朝鮮への「公式的な謝罪」と補償」を明言している。これ以降、どんどん情勢が悪くなった。海部首相の時代だったが、考えると28年前のこの時代がピークでどんどん後戻りしている。
その後、小泉訪朝の日朝平壌宣言(2002年9月)、安倍政権下で採択された唯一の合意文・ストックホルム合意(2014年5月)があるが、拉致・核・ミサイルで関係はどんどん悪化した。
 
最後に、東京朝高無償化裁判「スンリ基金」の募金箱を見つけた。ほんの少額だがカンパのお金を入れた。 
わたくしは11時過ぎに学校を出ないといけなかったのだが、昼前後から特設ステージで舞踊、テコンドー、歌舞、合唱が披露され、グラウンドでは12時キックオフで明大中野や法政二高とのサッカーの試合が行われたはずだ。
少しだけ男子高校生8人の合唱を聞くことができた。打楽器8人、弦楽器2人の伴奏付きだ。女子の合唱や舞踊はよく見ていて、美しさに感動したが、男子の合唱も力強いものだった。

次回はもう少し余裕をもって音楽や舞踊もみて、生徒ともう少し話したいと思った。
そのときは、いまより日朝関係はよくなっているだろう。トランプがいうように、韓国や日本が経済支援するようになれば、さすがに朝鮮学校にだけ停止している高校無償化も止める理由はなくなり、一般の高校生と同じ「待遇」になっていることを期待する。

労働法制改悪のスタート

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6月29日(金)昼前、多くの国民の反対にもかかわらず参議院本会議で「働き方改革関連法案」が可決され、とうとう「働き方改革法」ならぬ「働かせ方改革法」が制定されてしまった。
法案の基礎となる厚労省のデータそのものが2割間違っていたことの発覚に始まり、始業も終業もなく就業時間という概念そのものを消滅させ、労働基準法を根本から破壊する「高プロ制度」(高度プロフェッショナル制度)にはとくに反対が強かった。しかし裁量労働制の適用業種拡大の法律のみ取り下げたが、「戦争法」のときと同様に、労基法、労働契約法など8本の法律が一括で改定・制定された。

「働き方改革」反対の横断幕(2018年5月23日昼の議員会館前集会)
残業上限規制の大企業への適用や高プロ制度は来年4月、遅いものでも同一労働同一賃金(派遣会社を除く中小企業)が2021年4月に施行される。
特に評判の悪い高プロ制度は労働基準法を根本から崩壊させる悪法なので、同時に成立した罰則付き残業規制の対象外となっている。
衆議院本会議で可決されたのは1か月前の5月31日、厚生労働委員会採決は5月25日だったが、それに先立つ5月22日(火)夜、日比谷野外音楽堂で高度プロフェッショナル制度の導入に反対する集会(主催:日本労働弁護団)と国会請願デモが行われた。
連合(内田厚・副事務局長)、全労協(金澤壽・議長)、全労連(小田川義和・議長)の労組の3つのナショナルセンターが珍しく勢ぞろいした集会だった。

高プロ制度の問題点は数々ある。
対象者は年収1075万円、普通のサラリーマンの給与の3倍以上ということになっている。だが国会審議なしで省令で変更できる。「小さく生んで大きく育てる」といまからウワサされている。労働者派遣法の規制を緩めたため非正規社員が4割以上に激増したように、年収要件を徐々に引き下げ、社員の4割が「高プロ」扱いを適用されることも起こりかねない。
そもそも厚労省のデータの2割が間違っていたことに関し、尾辻かな子衆議院議員(立憲民主)は「レストランで注文した料理が出てきてその2割が腐っていたとき、2割捨てればそれでよいというのではなく、全部つくり直すのが普通だ。労政審の段階からやり直すべきだ」と皮肉った。
誰も望んでいない制度という批判もあった。ヒアリングした労働者はたった12人、それも会社の人事担当者同席でヒアリングをしたという。さらに2015年4月の(前身の)法案提出までにヒアリングしたのは1人だけで、こんなものに立法事実はない、と福島みずほ議員が議員会館前集会でよく訴えていた。労働者ばかりでなく、経営側やコンサルタントからみても、導入を望む機関はほとんどないという。
なによりも、就業時間や残業という概念がない就業スタイルなので、過労死が増えることは必然であり、就業時間の把握すらできないため、「過労死」の検証すらできなくなる。
安倍首相は、面会を望み官邸前に座り込みを行った「全国過労死を考える家族の会」の人との面談にも応じなかった。応じないどころか、まるで無視しそもそも返事もなかった。

檀上でアピールする寺西笑子さん(左端)
全国過労死を考える家族の会・寺西笑子代表
(22日)午前中に衆議院厚生労働委員会で参考人陳述を行ってきた。
「高プロ」を絶対に許してはならないという強い思いで、5月16日に安倍首相に面談申し入れのファックスを送信した。期日は本日(5月22日)にしていたが、いまもってなんの返答もない。電通の高橋まつりさんのご遺族には会ったのに、わたしたちには会わない。
大切な家族を過労死でなくし、一番過労死をなくしたいと思っているのがわたしたち家族の会のメンバーだ。国民の命を守る法律をつくるのが国会なのに、逆に命を奪ってよいという法律をいまつくろうとしている。
今日いろんな議員から質問を受けたが、議員のなかにはわかっている議員もいるが、わかっていない議員もいる。今日は経団連や経営者などが法律に賛成する意見を述べた。その意見を聞いてもわたしたちはなぜこの法案を出してきたのか、ますますわからない状態だ。しかし、働く人の命を奪う法律は絶対につくらないでほしい。まして強行採決という暴挙は許してはならない。明日も家族の会は官邸前座り込みを行う。過労死のない社会をともに築くよう、応援をお願いしたい。

昨年2月に安倍首相と官邸で面談できた電通・高橋まつりさんの母も6月の採決の瞬間を見届けたあと、「残念という気持ちと絶望。命より大事な仕事はない。今回の結果は非常に残念です」と語った(東京新聞6/30 28面より)。

高プロへの反対はもちろんだが、違う視点からの反対もあった。上限規制そのものもこの法案では不十分というものだ。罰則付き残業時間規制の導入は大きいが、しかし、この法案では、繁忙期は単月で100時間未満、年720時間まで、と過労死ラインの残業を法律で認めることになった。これは逆に後退である。

浅倉むつ子・早大教授
2015年から「かえせ、生活時間プロジェクト」という活動を行っている。長時間労働は、生活時間そのものの確保を奪っているという発想でいる。だから「高プロ」導入には断固反対だ。いくら専門職、高給取りであろうが、人間であり生活者だ。
1日の労働時間規制が基本であり、労働時間の上限を過労死基準にするのでは効果はない。基準に合わせた労使協定を増やすことにしかならない。わたしたちは、時間外労働は時間で返せ、時間で清算しろと主張している。
長時間労働は、自分の命と生命を脅かすだけでなく、家族のための活動、社会的活動、地域のための活動を他人任せにすることだ。また長時間働く文化をつくることは、長時間働けない人、たとえば妊娠している人、障がいのある人、育児・介護をする人を排除することになる。
わたしたちはこれを機会に、まやかしの働き方改革でなく、本当の意味で労働時間を問い直す議論を巻き起こしていきたい。

浅倉さんがおっしゃるように、たしかに「いくら専門職、高給取りであっても、人間であり生活者だ」。また長時間労働は家族のための活動、社会的活動を損ない、障がい者や育児者・介護者を排除する結果をもたらす。
逆にいえば、人間にとって「労働」とは何かを考えるよい機会でもあったはずなのだが、与党の「多数決採決の強行」でチャンスは消滅した。

「働かせ方改革」のほか、TPP11も6月29日に成立し来年早々に発効の見通しともいわれる。日本の農業・畜産業は壊滅するかもしれない。7月22日(日)の閉会までに与党はIR法案や来年の参議院選挙「改革」など重要法案を「多数決」で成立させようとしている。安倍本人は11日から18日までヨーロッパ、中東に外遊するにもかかわらずである。

キャンドルを手に「真実は沈まない」を合唱(2018年6月5日、日比谷野音でのオスプレイ飛ばすな!首都圏行動)
振り返ると、第一次安倍政権のときに教育基本法「改正」(2006年)が強行された。
2012年12月の第二次安倍政権発足後、大きいものでは特定秘密保護法(2013年)、「戦争法」(平和安全法制  2015年)、「共謀罪」(テロ等準備罪 2017年)が次々につくられ、原発再稼働、沖縄の辺野古埋立、武器輸出解禁、(憲法改正でなく)閣議決定による集団的自衛権容認を実行するなどムチャクチャと「暴走」が6年近く続いている。またNHK、内閣法制局、日銀などの首脳のすげ替えで次々に「組織」を乗っ取り、意のままに動かすように変えた。あげくのはてに森友・加計事件のような「エコ贔屓」・ファミリー政治が露見するまでになった。さらにウソを隠ぺいするため、存在する公文書を「ない」と言い張り、証拠を隠すため公文書の「ねつ造」を行わせ、国会で「ウソ」の証言までさせる。財務次官がセクハラで辞任、文科省局長が不正入試の「収賄」で逮捕される社会に急転換しつある。
黒田・日銀総裁の「異次元の金融緩和」にならっていえば「日本政治史上、異次元の政治家」だ。
若者たちが、官邸に向かって「ウソつくな! 本当のこと言え!」とシュプレヒコールする情けない現状、まず安倍が退陣することから始めなければ、何も始まらない。
  光は闇に負けない 真(まこと)はウソに負けない 
  真実は沈まない けしてあきらめない
      (キャンドル革命のテーマソング「真実は沈まない」の日本語バージョン)

青年団の日本文学盛衰記

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平田オリザ青年団の2年ぶりの新作「日本文学盛衰記」を吉祥寺シアターでみた。
明治生まれの文豪がたくさんでてきて会話をかわし、そのなかに現代の風俗が噴出する。たとえば日大アメフット部、「西郷(せご)どん」(ただし今年だけ)、蜷川幸雄の死、アルマーニの制服で有名になった泰明小学校(島崎と北村が卒業生)、女を土俵に上げない日本相撲協会など、セリフに入れ込んでいて笑った。
開演前の場内アナウンスで「ただいまより青年団第79回公演「日本大学盛衰記」、失礼しました、「日本文学盛衰記」を上演いたします」にはみんな笑った。アフタートークで、「日本大学と日本文学は一文字しか違わない。それを発見した自分の才能にすごい」と自画自賛していた。昭和30年代に古今亭志ん朝や谷幹一が日曜の昼にやっていたコント番組「サンデー志ん朝」を思い出した。
観劇直後は、一種のお笑い文学史のような作品という印象をもった。しかし販売されていた上演台本を家で読み直すと、構成がしっかりできている秀作であることに気がついた。

一幕四場の芝居で、一場・北村透谷の葬儀 1894(明治27)年5月、二場・正岡子規の葬儀 1902(明治35)年9月、三場・二葉亭四迷の葬儀 1909(明治42)年6月、四場・夏目漱石の葬儀 1916(大正4)年12月という構成で、うまい具合に6-8年の間隔になっている。すべて告別式の精進落としの場でたたみの大広間のみの舞台という設定である。こういう芝居をかつてみた気がして思い起こすと、井上ひさしの「頭痛、肩こり、樋口一葉」(1984)だった。1890年から98年のお盆の日の夕方から夜、和室二間を舞台にしていた。

オリザ直筆のサイン入り上演台本
島崎藤村、北村透谷、田山花袋、二葉亭四迷、石川啄木など、日本近代文学史にふさわしい大作家・文豪が次から次へと登場する。四場では24人もの文学者(うち女優14人)が登場するため7㎝×20cmくらいの名前を書いた布を胸につけている。だが考えてみると、基本的には冒険王と同じく「青春群像劇」のジャンルに入る演劇だ。
本当に宮沢賢治と坪内逍遥が会った可能性があるのかというような疑問があったが、生没年を調べてみると、坪内は1859年6月22日(安政6年5月22日)―1935年2月28日、宮沢が1896年8月27日―1933年9月21日なので確かに可能性はあった。しかも賢治のほうが1年半ほど先に亡くなっているのには驚いた。二葉亭の葬儀で啄木が鴎外や漱石、島村抱月と出会ったという話は本当らしい。啄木も二葉亭(長谷川)も朝日新聞社の社員で、啄木は葬儀の受付を務めた。
登場作家は40人弱にも及ぶが、1860年前後生まれの第一世代、70、80年代前後生まれの第二世代、そして芥川龍之介や宮沢賢治などもっと若い世代の3層に分類できる。このなかで第二世代の島崎藤村と田山花袋が1871年の早生まれで、同学年の主人公だ。
文学盛衰という点では、作中四迷の告別式の雑談で、夏目が次のように解説している。
「私たちはこの二十年、どうすれば内面というものを言葉にできるかを考えて来ました。長谷川さんは(略)「自由な散文」が必要だと気がついた。北村君は、それを見つけることができずに苦悩した。
長谷川君の発見した新しい日本語で、国木田君は「武蔵野」を書いた。私たちは、世界を描写できる言葉を獲得した。同じころ、正岡君は病床の六畳間から宇宙を描写した。そして、そこで得た言葉を使って島崎君と田山君は、それぞれの方法で内面による真実の告白を書くに至った。」(上演台本p60 以下ページ数を振った出典は同じ)
これが盛衰の「盛」である。
では盛衰の「衰」は? 太宰、織田、坂口の無頼派トリオが解説してくれている。
太宰「大衆が文学を読むようになり、毎年のようにベストセラーが生まれ、作家は長者番付の常連になります」
一堂「おー、」  田山「やったー」
坂口「二十世紀の終わりまでは、」
織田「やがて、小説はだんだんと読まれなくなります」
太宰「まぁ、ほかに面白いものが、いろいろありますからねぇ」
織田「とりあえず、小説は携帯で読まれるようになります」(p73)
太宰「やがて、機械が小説を書くようになります(略)過去の皆さんの優れた名作をすべてデータとして蓄積して、ついに最強の小説が生まれます。人々はこぞって、その小説を読みました。とにかく最強に面白かったからです」
坂口「そして、人々は、二度と小説を読まなくなります。(略)だって、最強の小説を読んでしまったから」(p74)
これがメインのストーリーで、そのあとは「機械が小説を読むようになる」とかハイゼンベルクの不確定性原理の話が出てSFのようになり、数億年後にどこかの惑星で、新たな一人の北村透谷や子規が生まれるようだ。
最後に原作者の高橋源一郎が自撮り棒をもって登場し、葬儀に出席したみんながミラーボールの下で踊り狂う。しかもその踊りは、なぜか昔の「モンキーダンス」や「ツイスト」のようで、音楽が「およげ!たいやきくん 」の東京スカパラダイスオーケストラ版なのだ。

この最後のほうはよくわからなかった。しかし平田の言葉によれば「そのときに楽しいものをやる、楽しければよい」という考えで演出しているようだった。たしかに役者の皆さん、楽しそうだった。

サブのストーリとして政治や国際関係の話が出てくる。近代日本の最初の海外侵略は維新から7年目の台湾出兵(1874)だが、この芝居には朝鮮の金玉均暗殺(1894)、閔妃暗殺(乙未事変 1895)、朝鮮をめぐる日本、清国、ロシアの対立、直接出てくるわけではないが日清戦争(1894-95)と日露戦争(1904-05)、元自由民権運動家の壮士、大矢正夫も登場する。
与謝野鉄幹は乙未事変との関係を疑われ裁判にもかけられたが、「妻をみとらば才たけて」(「人を戀ふる歌」)を朝鮮時代につくった。
森鴎外は文学者というだけでなく、この芝居では陸軍の内部情報がわかる人物として登場していた。中国との戦争で制海権の問題、シベリア鉄道の工事とロシアとの戦争などをワイドショーのコメンテーターのように解説する。1908年二葉亭は奉天やハルビンを経てロシアのペテルスブルグに赴任した。
朝鮮半島問題がでてくるのは、平田が「ソウル市民」の連作を書いたからだろう。この点は優れていた。
言葉は政治の言葉としても使われる。田中正造の天皇への直訴文は幸徳秋水が書いたものともいわれる。平田自身、旧民主党・鳩山首相のスピーチライターをしていたこともあった。漱石は韓国併合の前年1909年に1か月間朝鮮・満州の旅行に行った(p53)。啄木は韓国併合を批判し「地図の上 朝鮮国に くろぐろと 墨をぬりつつ 秋風を聴く」(p54)と詠んだ。
菅野「思想をもって、それを言葉にしただけです。考えたら罪ですか。言葉にしたら罪ですか?」(p60)と鴎外に問う。夏目が「政府は、その言葉が、内面の何を表しているのか不安でたまらないから・・・私たちは国民国家を作るために、新しい日本語を育てた。しかし、これからは、(略)国家もまた、言葉を敵とするでしょう」(p61)と答える。
そして幸徳や菅野ら12人が大逆事件で死刑執行され、啄木は「われは知る、テロリストの かなしき心を」(『ココアのひと匙』1911)と詩を書く。

作家でないご近所の斉藤、田中、佐藤、鈴木という3人が道化役となりワイドショー風に「北村の自殺の理由」、蜷川やジョン・ケアード演出の「ハムレット」、「和田アキ子デビュー50周年」、石原さとみの「校閲ガール」やシンゴジラの日系三世・米国大統領の特使役の英会話など現代の世間話が語られる。最後の4場ではこの3人(同じ役者)は太宰、織田、坂口の無頼派トリオに置き換わり、志賀や芥川の将来を言い当て、白秋や光太郎が「戦争賛美」の詩を書くことを予言する。、。
構成上この3人の存在は、4つの場を文豪の葬儀の場にに設定したのと同じくらい大きい。

役者としては、中江兆民(一場)、陸羯南(二場)、池辺三山(三場)、坪内逍遥(四場)とふけ役をこなした志賀廣太郎がファンということもあるが充実していた。「大河降板でご心配をおかけしたが」とのコメントがあったが、やはりすこし痩せて(年相応の)衰えが隠せないようにみえた。
森鴎外役山内健司、夏目漱石役ヒゲの兵藤公美もしっかりした演技だった。
ただ、漱石、志賀直哉や宮沢賢治が女優なのには驚いた。たんに、青年団の役者の男女比の問題なのかもしれない。しかしジェンダーの問題をからめるのなら、1人くらい男優が女性作家の役をやってもよかったように思った。

公演後のアフタートークで、平田がいくつかヒミツを語った。
美しきものの伝説」(宮本研)との類似について質問され、そのうち文学だけでなく、「日本演劇盛衰史」を書こうと思っていると答えた。おそらく今回も出てきた坪内逍遥や島村抱月から始まるのだろう。わたくしとしては村山知義や内田栄一(と、たとえば東京ザットマン)がどう扱われるのか(あるいはそもそも登場するのかどうか)、また平田より一昔古い黒テント・赤テント、自由劇場、つかこうへいなどの捉え方、平田と同時代の遊眠社と野田秀樹、には強い興味がある。

今後のことを二つ。
かつて駒場アゴラで、主演クラスの女優なのに下足番までやっていたひらたよーこ、そういえば最近姿をみないので、いまどうされているのかとスタッフに聞いてみた。「退団した」とのことだった。帰宅してからネット検索すると、平田は7年前に離婚し、2013年に団員の渡辺香奈と再婚、55歳で子どもが誕生したとあった。おめでたいことはおめでたい話なのだが、役者としてのひらたよーこファンだった私としては残念なことだ。
もう一つは個人的なことだ。日本文学史には散文、小説だけでなく、和歌から始まる短歌、俳句など韻文・短詩型の文学の大きな流れがある。この芝居でいうと、子規、碧梧桐、虚子、伊藤左千夫、晶子、啄木、白秋、牧水、藤村の詩などだ。わたくしにとってこれらは国語の教科書以上に読んだことがない、未踏の領域だ。いつか踏査する必要があると感じた。

ザ・空気2 誰も書いてはならぬ

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二兎社の「ザ・空気2 誰も書いてはならぬ」を池袋の東京芸術劇場シアターイーストで観た。
「誰も書いてはならぬ」というタイトルは、もちろんプッチーニの歌劇「トゥーランドット」に出てくる「誰も寝てはならぬ」(フィギュアスケートの荒川静香のイナバウアーで有名になった曲)のパロディである。
ザ・空気」は、テレビの人気報道番組の制作現場での「空気を読む」ことの問題点を抉り出した作品で、2017年1月に初上演された。昨年の読売演劇大賞の最優秀演出家賞(永井愛)、優秀作品賞、優秀女優賞(若村麻由美)を受賞し有名になった。今回はその第二弾で、記者クラブの大手新聞社やNHKの政治部がテーマとなっている。

舞台はビルの屋上で手すりがあり左手には高置水槽がある。ただし場違いな感じでビーチパラソルとガーデンチェア、小さいテーブル、おまけにクーラーボックスまである。
しかしここは永田町の首相官邸と通りを隔てた国会記者会館屋上なのだ。
毎週金曜夕方、反原発官邸前抗議行動が実行されているが、国会記者会館はわたくしが月1度参加している歩道のすぐ近くにある。ただ屋上に、高置水槽やポンプ室があるかどうかは見たことがないのでわからない。

たまたま大規模修繕なのかシートがかかっている国会記者会館
登場人物は5人、ネットテレビ局アワ・タイムズ代表井原まひる(安田成美)、リベラル系全国紙政治部記者官邸キャップの及川悠紀夫(眞島秀和)、大手放送局の解説委員兼政治部記者・秋月友子(馬渕英里何)、保守系全国紙政治部の若手記者・小林司(柳下大)、保守系全国紙論説委員の飯塚敏郎(松尾貴史)。
このなかで秋月はNHKの大物解説委員・岩田明子記者にうり二つである。少し詳しく岩田のプロフィールをウィキペディアを引用して紹介する。
1970年生まれ、千葉県船橋市出身。船橋市立薬円台小学校、千葉大学教育学部附属中学校、県立千葉高等学校、東京大学法学部を卒業。1996年4月、NHKに入局、岡山放送局を経て2000年に東京・政治部に異動、内閣官邸記者クラブにて、森喜朗首相、古川貞二郎内閣官房副長官の担当を務め、後の内閣総理大臣である安倍晋三を官房副長官時代から担当。2013年、43歳で政治担当の解説委員となり、記者も兼務している。
安倍の外遊時に背景解説などで画面に登場するのはみなさまご存知のとおりである。つまり安倍が46歳で森の官房副長官を務めたころから20年近く密着取材してきた記者である。首相近辺のスクープは数知れないスター記者であるが、安倍ベッタリ報道でも知られる。

井原は、社名が似ているせいかOur Planet-TV代表の白石草さんを連想させた。白石さんはテレビ朝日系の制作会社、東京メトロポリタンテレビを経て2001年Our Planet-TVを設立。福島原発の「現在」の取材を続けている。
飯塚は保守系全国紙ということなので、産経か読売ということにる。たとえば産経の阿比留瑠比や石井聡かとも思われるが、「メシ塚」と綽名されるというので、「田崎スシロー」と呼ばれる時事通信・田崎史郎がモデルとも考えられる。ただ、わたくしはあまり詳しくないのでよくわからない。
及川と小林にモデルがいるのかどうかはわからない。作劇上、欠かせない登場人物であることはわかる。

ストーリーは下記の通り。
ある朝、小林が記者クラブのコピー機に記者会見での首相の回答の「指南書」を偶然発見し、他社ではあるが尊敬する先輩の及川に相談する。それを聞いた及川は秋月を疑い、直接問いただすがきっぱり「私ではない」と否定される。そして秋月は飯塚を呼び出し「あの方がお困りです。おやめください」と申し渡す。なんと、秋月も別バージョンの指南書を書いていたので、指南書が2つもあると総理が混乱するというのである。
なお芝居のストーリーのモデルは、2000年5月、森喜朗首相(当時)の「神の国発言」の釈明記者会見前日に「明日の記者会見についての私見」という首相への指南書がみつかった事件である。JanJanブログによれば、西日本新聞の記者が記者クラブ内のコピー機に忘れられていたこのメモを見つけ、そのメモとこの問題に関する記事を掲載したが、ほとんどの大手メディアは無視した。「指南役」はNHK政治部記者の大木潤氏とのことだ。2000年5月というと安倍の副官房長官就任直後だ。岩田記者がその後同じようなことをしたかどうかはわからないが、NHK政治部にはそういう「伝統」があるらしい。
井原は、たまたま記者会館屋上から地上の反原発抗議デモを撮影しようと会館に入り込み、記者の話の一部始終を聞いてしまい、飯塚の決定的セリフをICレコーダーに録音する。また井原も及川も、ジャーナリストで反権力の桜木(故人)と仕事をしたことがあった。本当は、井原は記者クラブ外の人間なので、会館に出入りすることすら(現状では)できない人間なのだ。
Our Planet-TVが実際に2012年7月、原発抗議デモを取材・撮影するため国会記者会館屋上の使用を国会記者会や衆議院議長に求めたが断られたことを初めて知った。

役者では、松尾貴史がよかった。
自宅のプリンターで印刷するのでなく、記者クラブのコピー機を利用した理由として、「A4サイズでは見にくいのでB4サイズに拡大するため」「読みにくい漢字にルビを振る」などまるで「未曾有」をミゾウユウと読んだ麻生財務大臣のことを言っているようだったし、安倍のものまね・口癖にも笑った。
飯塚は携帯の着信メロディを、救急車サイレンの首相秘書官、副首相はゴルゴ13のテーマ(これは麻生が元クレー射撃でモントリオールオリンピックに出場したことからだろう)、官房長官は菅が秋田出身なのでドンパン節、総理はパトカーのサイレンと使い分けている。音によりメシ塚の態度ががらっと変わる。
違う話になるが、日曜午後のFM「きらクラ!」の前番組が「トーキング ウィズ 松尾堂」なので、たまに最後の5分ほど聴くことがある。声しか聞こえないせいもあり、そのパーソナリティと俳優・松尾貴史が同一人物だとは想像もしなかった。

このように楽しく笑える芝居で、内容もなかなかシリアスなのだが、しかし芝居としては生っぽく、もうひとつ練れていないように思った。わたくしが二兎社の芝居をみるのが「パパのデモクラシー」(97年4月)、「歌わせたい男たち」(2005年10月)に続く3回目ということもあるかもしれない。「歌わせたい男たち」は都立高校卒業式の緊迫した状況をあまりにもリアルに表していた。それと比較することはかなり酷なな話かもしれない。

記者クラブの弊害については、人権と報道・連絡会の会報やジャーナリスト・上杉隆さんにより知っていた。販売パンフのコラムによれば800余り存在するようだ。各省庁、裁判所、県警、都道府県、いくつかの産業界にあることは知っていたが、800もあるとは! 市役所まで含めるとそんな数になるのかもしれない。
パンフの「総理番・小林記者の1日」がなかなか興味深かった。
今年4月から総理番をしている30歳の男性記者という設定になっている。朝7時に自宅を出て7時半に政府高官自宅前に向かい朝駆け、総理が官邸に入る8時15分から夜の会食終了の21時までベッタリ(総理番は数名で日替わりの担当)、その後も政府高官自宅前で夜討ち、23時に終了し帰宅、とかなりハードな日常のようだ。記事は、この日の場合でいえば昼前後に夕刊用の記事、夕方17時すぎに朝刊用の記事(20行ほど)を書いたようだ。
もちろんフィクションだが、永井さんのことだから、何人かを取材してつくったのだろうと思う。

物販コーナーの永井愛さん。著書を購入された客にはサインしておられたらしい。

定年後の人とのつながり

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「定年後の生活」シリーズは、これまでに2回掲載した。退職して初めて体験する失業保険のもらい方「失業給付・狂想曲」(2017年4月25日)と 乏しくなった小遣いの範囲でいかにして展覧会やコンサートを楽しむかという「格安コンサートと展覧会の歩き方」(2017年8月25日)である。
今回は、これまでの人間関係が途絶えた状況下、どのように「人とのつながり」を築き、もっと端的にいえば人との会話をどのように成立させるかという問題を取り上げる。
高齢者にとって、人や社会とのつながりは重要だ。
会社に所属し毎日通っていれば、たとえ「おはようございます」「お疲れさま」といったあいさつに近い会話を含め、日常的にコミュニケーションがある。しかし退職後は、会社の人間関係がなくなる。下手をすると数日間、コンビニなどレジでの会話以外だれとも話をしていない、心のなかでの自分自身との対話のみということも現実に起こる。わたしのように一人暮らしの高齢者だけの問題だと思っていたが、家族のいる友人でも、奥方との会話は自分自身との対話の延長なので、同じ状況だと言っていた人もいる。「自分と同じことを考えている人がほかにもいたとは」と驚かれてしまった。
なお高齢者でも働いている人はもちろんいるが、それは「高齢者の仕事」という項をつくってそちらで詳しく論じたい。
社会運動や趣味の「サークル」、学校などの「同期会」もあるが、ここでは、主として地域の人とのつながり、地縁について述べる。

この春「定年が楽しみになる!オヤジの地域デビュー」(清水孝幸 東京新聞出版部 2018年3月)という本を読んだ。
50歳を過ぎた著者(1962年生まれ)は、定年後の居場所を探そうと、地域での活動を始める。
内容は、1 サークル編(仲間づくり 社教の将棋サークル、スポーツクラブのカヤック体験、アロマスプレーづくり、握りずし教室など、区民カレッジや講座受講をきっかけにサークルに参加して仲間づくりをした体験談)、2 趣味講座編(学ぶ・習う  男の料理、菓子づくり、ヨガ、区民マラソンなど)、3 地域のイベント編(楽しむ 銭湯、マンションの防災訓練、終活セミナー、ラジオ体操、国際交流サロンでのもんじゃ焼きづくり、地区防災訓練など)、4 ボランティア編(役に立つ プレディー、絵本セラピー、街の清掃、高齢者施設のボランティア体験など)から成る。巻末の寺脇研氏の解説には「さまざまな趣味を獲得していくうちに、清水さんはボランティア活動に入っていく。それが生涯学習の最大の効用なのである」と記されている。
たまたま同一区内在住で、同じ社教(社会教育会館)を利用しているせいもあり、同じようなことをしているものだと感じた。
たとえば社会教育会館、区民カレッジ、区内銭湯などの「場」の利用、認知症ボランティア、区民マラソン、終活セミナーなどイベントへの参加は同じようなことをしているなあ、と感じた。だれも、思いつくことは同じということだろう。
わたしはあまり利用していないがシニアセンターや女性センター・ブーケに行ったこともある。また本書を読んで刺激され、盆踊りの練習やさくらんぼ種飛ばし大会(友好都市・東根市との共催イベント)には初めて参加してみた。またどうやら下町はお祭りやイベントが盛んなようで、桜の花見、祭り、花火、盆踊り、サマーフェスティバル、子ども歌舞伎など地域参入の糸口となるイベントは数々ある。ここに書かれていないものでは、秋の「まるごとミュージアム」や築地はしご酒というイベントがある。まるごとミュージアムでは会場の主宰者やスタッフと話をしたり、はしご酒では店のスタッフや客から珍しい情報を得ることもある。

本願寺の盆踊り。外国人観光客の参加も多い
しかし著者との違いもある。著者は、実際には定年前の現役世代で、平日日中の活動をまだできる状態にないことと、相対的には「若い」世代なので、「定年後」の実態と異なる点がある。
たとえば年齢の関係で著者は利用していないようだが、シルバー人材センターやシルバーワーク中央、敬老館の風呂、平日昼間のプール教室は、地域の方との会話のチャンスの場でもある。
シルバーでいっしょに働いた同僚と休憩時間に出身地やこれまでの職歴などの身の上話をすることは自然のなりゆきだ。また、風呂では男性とはほとんど話はしないものの上がってからお茶を飲む場所があり、そこで女性も交えて世間話をするとか、プール教室で親しくなった人と、近くの居酒屋で待ち合わせ一杯やることもある。
また住んでいるところが地元なので、別の場で知り合った人と別の場で偶然出会いびっくりすることもある。
本書の冒頭のあたりに「小学校のボランティアで仲よくなった男子と街で出会い声をかけられた」ことや「マラソン大会に出たとき将棋サークルのメンバーが応援してくれた」といった話である。わたくしも、たまたまシルバー人材センターの仕事をいっしょにやった人と銭湯で再会したことや、合唱サークルでお世話になった方と、区民カレッジで同じグループになり奇遇にびっくりした体験がある。

高齢者にとって自治体の「おしらせ」は情報の宝庫だ
このようなきっかけ探しに「区のおしらせ」など自治体広報紙は宝の山だ。わたしの区では月に3回発行されうち2回は新聞折り込みだが、毎月1日号は公共の場所に取りに行く必要がある。かつてサラリーマン時代には新聞だけでも見るのに精いっぱいで、区報や都報は大見出しだけ見て捨てていた。その他、都の広報、都議会だより・区議会だより、購読新聞社の広報紙、地域新聞などもサラリーマン時代に比べると格段に細かい部分までながめるようにしている。たとえば都市計画審議会の傍聴広報が出ていて、傍聴しずいぶん充実した議論をしていることを知り驚いたこともある。
わたくしも2回しか参加していないのだが、2か月に一度築地居留地研究会という地域の公開講座が開設されていることを「おしらせ」で知った。おそらく郷土史研究会は全国どこでもあると思われる。ただしこの会は地域限定ではなく、横浜、神戸など全国の居留地とも連絡を取り合っているようなので幅広い「趣味のサークル」のような面もある。知識欲も満たせるし、人脈がいろいろ広がる可能性がある。

築地居留地研究会定例報告会
ただ、天気の話や世間話だけするのも何だし、本当は考えの近い人と少し話ができると理想だと思うこともある。これは地域の人との偶然のつきあいのなかで相手を見つけるのは、かなり時間がかかりそうだ。わたくしの場合、たまたま地裁や国会前との距離が近いせいもあり、裁判所の傍聴席や報告集会でよく会う方も少しずつ増えてきた。また官邸前集会で前に住んでいた地域の知人と少し情報交換することで満たしている。

なお、著者の清水氏はこの本の発刊直前に東京新聞政治部長に就任しているので、いまはこの本で書いていたころの「日常」とは生活が変わっているだろうと考えられる。いわずもがなだが、わたくしは著者とは一面識もない。

残念! 閉店近い渋谷の富士屋本店

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浜田信郎さんのブログ「居酒屋礼賛」(7月27日付記事)で渋谷の富士屋本店が10月半ばに閉店する予定ということを知った。「今後は、閉店を惜しむ人たちで、ますます混雑してしまうんだろうなぁ」と締めくくられており、食べログのコメントをみると開店の17時でも列をつくっているとある。また「状況によって(閉店を)前倒しするかもしれない」」ということだったので、矢も楯もたまらず、伺うことにした。
来店するのはおそらく6年ぶりである。

この店は渋谷駅から歩道橋を越えて桜丘町方向に5分程度の便利な場所にある。シブヤ経済新聞の記事には「自社ビルの地階」とあったので、富士商事ビル全体を見渡すと角にギター店がある8階建てのかなり大きなビルだった。「大衆立呑酒場富士屋本店 清酒カンバイ」とある目立たない入口から急勾配の階段を下りる。左右に「サマータイムマシン・ブルース」、ミュージカル「FREE TIME, SHOW TIME『君の輝く夜に』」、竹宮恵子カレイドスコープ展、石井光三オフィスプロデュース「死神の精度」など場所がら演劇関係のポスターがたくさん貼ってある。もちろんピースボートの「地球一周の船旅」のポスターもあった。
入店したのは開店直後の17時10分くらいだったが、ウワサほど満席ではなく7割くらいの入りだった。
この店にはじめて来たのは、いまから20年近く前の2000年ごろだ。それまで立ち飲み居酒屋に行ったのは、池袋西口の桝本屋酒店と四谷の鈴傳くらいだった。池袋は、偏見かもしれないが、いわゆる「労務者」風の方も訪れる店だった。そこで意気投合したお客さんに東口の別の店に誘われ、ご馳走していただいた記憶もある。四谷の客はほぼ全員サラリーマン客で、ブランド日本酒を1杯600円から800円くらいで飲ませる。日本酒に関する意識が高い客向けの店だった。一般的には角打ちの立飲み店は、乾きものを肴に1杯か2杯ひっかけて30分以内に退散するのが一種のルールのようなものだ。

いつもにぎわっている店内(ただし写真は2012年2月のもの)
富士屋の客は、ほぼ全員サラリーマン(フリーの自営業者含む)だ。わたくしも上司を連れて訪れたことがあった。ずいぶん気に入ってくれた。だから30分よりはもう少し長めの滞在時間になる。
店内は、基本的にはロの字形で左側の2つのコーナーが飛び出しており、壁際にも席がある。(食べログによれば)80人くらい入れる大型店だ。
メニューは、ハムカツ200、アジフライ500、はんぺんチーズ揚げ300、豚カツ400など揚げ物、びん長まぐろのブツ350、さばの味噌煮300、地ダコの刺身350、〆さば350など魚、水なすの浅漬350、谷中生姜300、しいたけの天ぷら300、ポテサラ300、ゴーヤチップス350など野菜、その他、ちくわ天ぷら250、揚げシューマイ350、さつま揚げ250、厚揚300、肉豆腐350、もずく酢350、冷奴200、塩から200など、酒飲みが好きそうなツマミはたいてい何でもある素晴らしい店だ。それも短冊や黒板に山のように書かれているので高揚する。
わたくしはこの日、まずサッポロ黒の小瓶(300)と〆さば、次に酒(寒椿 300)と大葉入り白菜漬け(250)を注文した。

入口に近い壁にテレビが置いてあり、高校野球の佐久長聖対旭川大高4-4の延長戦をやっていた。11回を終わり12回に入るところだった。(13回から)日本で初めてタイブレークをやった試合だった。
両側の壁には、かなりの数の色紙が並んでいる。大滝秀治の色紙が3枚あることは前から知っていたが、今回よくみるとその他、吉田類3枚、おんな酒場放浪記・倉本康子、「運徳才」の船越英一郎、JWP女子プロのLeon、阿部サダヲ、荒川良々などのものが掲げられていた。場所がよく、やはり人気店だからなのだ。BS-TBSの「夕焼け酒場」のポスターがあるのはわかるが、なぜか2014年の航空自衛隊の航空機カレンダーがかかっていた。
ビール会社の和服姿の美人画ポスターはよくみるが、この店には宝焼酎のものがあり、珍しい。

6年前のわたくしの記録には「驚くことに女性2人連れ、若いアベック、そして若者3人連れなどが多くなっていた。店の人が『吉田クーン、冷蔵庫の下の段の氷出して』と声をかける。若いのに常連さんのようだ」と書いている。今回もこんなに早い時間なのにポツリポツリ女性客の姿がみえた。周囲の男性客と談笑中だった。この時間の店のスタッフは男性5人、女性1人、イイチコのエプロンの方がチーフのようだった。女性が、シブヤ経済新聞で紹介されていたおかみのヨシエさんかもしれない。この日も男性スタッフから「おあと、ナス味噌ーッ」と元気のいい声が飛んでいた。こちらも注文したくなる。
気分がよくなったので、最後に焼酎お湯割りと店の名物ハムカツを注文した。これが誤算だった。普通お湯割りというと、コップに焼酎を注ぎ湯でわって出してくれるのだが、この店はホッピーの中・外と同じように、焼酎の小瓶(360mlくらい)を1本と小さいジャーが出てきた。3杯くらい飲んだつもりだが、飲みきれず残してしまった。残念!
考えてみると、立ち飲み居酒屋は、ポストなどのランドマークと同じで、同じ場所にあって当たり前のように思っている。しかし「いい居酒屋は永遠にあると思うな」という格言の典型である。こんなにいい店が閉店とはじつにもったいない。「閉店は、東急不動産が中心となり進める再開発計画によるビル取り壊しに伴うもの」(シブヤ経済新聞)とのこと。

都電が走っていたころの渋谷駅周辺(ミニチュア 東横百貨店屋上の観覧車、子ども電車などがあった遊園地まで再現されていた)
数年前から渋谷駅周辺は大変身中だ。すでに東口の東急文化会館はヒカリエに建て変わり、西口の東急プラザは2019年度完成予定で工事中。東急東横線その他、駅の場所も変わるようだ。
もっと前のことを思い出すと、よく来たヤマハ渋谷店、映画館の全線座、大盛堂書店はすでにない。ブックファーストですらもうない。東急プラザにあったロシア料理の渋谷ロゴスキーもない(いまは銀座5丁目のメルサにあるらしい)。

わたくしの渋谷のもっとも古い思い出は、東急文化会館の隣あたりにあったクラシックの生演奏が聞けるカフェのような店だった。いまの価格でいうと1500円から2000円でワンドリンク付き、1日2回くらいの公演だった。クラシックのサックスのソロ・コンサートを聞き、ちょっと得した気分になれた。
もしやと思って、渋谷駅北側ののんべい横丁を通り過ぎると、まだ昔のまま残っていてホッとした。
10年もたてば世の中が変わって当たり前。要するにこちらが年をとったというだけの話かもしれない。

●富士屋本店
電話:03-3461-2128
住所:渋谷区桜丘町2-3 富士商事ビル B1F
営業:17:00~21:30 (土曜は20:30まで 揚げ物のL.O. 30分前まで)
   日曜・祝日・第4土曜は閉店

中学校・道徳の教科書採択に思う

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今年も教科書採択の8月がやってきた。普通は4年に1度なのだが、「特別の教科・道徳」が通常の学習指導要領改定より1年前倒しで検定されたため、昨年が小学校道徳、今年が中学校道徳、来年が指導要領改定に伴い小学校全教科、再来年(2020年)が中学校全教科と4年連続の採択が続く。

5人の教育委員たち(手前の2人は教育委員会事務局)
わたくしの住む採択区では8月8日に採択の定例会が行われた。
当日の討論の要旨は下記のとおりだった。
A委員(元・PTA連合会代表):授業の組立てやすさという観点から、東書、学研みらい、光村に注目した。そのなかで東書は、冒頭に4つの視点を掲げ、生徒がぶれずに考え、議論する道徳となり、役割演技の工夫もあるので、東書を推薦する。
B委員(保護司):子どもが主体的に学習することが大切だと考える。自分の考えを他者に伝える活動を学ぶことで、道徳性を身につけることができる。
そこで東書と学図に注目した。東書は冒頭に4つの視点と主題、2つの発問が示され、ぶれずに学習に入れるし、じっくり考え議論することができる。また役割演技しやすいように「アクション」というページが設けられ、付録のホワイドボード用の紙を使えば自分の気持ちを容易に表現できる。
一方、学図は冒頭に「内容項目」「深く考えるポイント」などがあり、生徒が目当てを意識して学習できる。また「学びに向かうために」「心の扉」「学びの記録」などの工夫もある。
この2社を検討し、生徒がじっくり考え議論する道徳を目指すには、東書が向いていると思うので、東書を推薦する。
C委員(弁護士):道徳が教科となった経緯を考えると、主たる要因のひとつとして「いじめ」問題がある。
東書は、いじめ問題が起きやすい年度初めに「いじめ」を配置するユニット構成になっている。また生徒が多面的多角的に考えられるようになっている。
各社、さまざまな工夫をこらしている。日本教科書は、マイノリティ、たとえば障がい者、性同一性障害など人権教育に配慮した教材を多く取り上げている。
ダイバーシティは大切な視点だが、いじめがやや少ないと感じた。そこで総合的に考え東書を推薦する。
D委員(元・PTA連合会代表):本区における道徳教育の必要性を考えた。人口増加が続いており、また2020東京オリンピックに向けますます外国人の訪問が増えていく。そこで子どもたちには、社会的マナーやルールを身に付け相手の気持ちを考え、自主的に行動できる人になってほしいと願っている。それがいじめの減少にもつながる。
教員は型にはまらず、生徒の発言をより多く引き出せる授業展開になることを期待する。
その点で、冒頭に意識づけをする問いを設定し、最後に「学びの道しるべ」で3つの発問を設定し、自然に生徒が考え議論することにつながる教育出版を推薦する。

4委員の提案を受け、最後に委員長がまとめた。
E委員長(区の前・企画部長):自分で考え主体的に判断し、議論する道徳、そして教科化の要因として「いじめ問題」があったことはおっしゃる通りだ。
東書、学研、教出は自分の問題として考える工夫をしており、バランスが取れた教科書だ。
日文、あかつきは分冊になっている。教員の授業展開をサポートできる点では価値があるが、「書くこと」が中心になり教員が工夫できることが少なくなる。
3人の委員が推薦した東書を候補にしたい。

ということで東書に決定した。

教科書に関する集会や教科書展示会でみた日本教科書が採択されなかったことはひとまずよかった。
5人の教育委員がそれぞれ各社教科書を読みこみ、各自の観点から検討したことがわかった。ただ、わたしたちが展示会でみる書籍だけでなく、各社が作成したパンフレットも参照しているのではないかと思った。

ところで、日本教科書が「人権教育」を重視していることをわたくしは知らなかった。教科書センターで、もう一度日科の教科書をみてみると、2年の「だから歌い続ける」(p64)でLGBTを教材に取り上げたことを言っているようだ。次ページ(68p)に〈届けたい言葉〉「友達の詩」、69pに〈込められた想い〉「人は違う。それでいい」というコラムを連続して掲載しており、たしかにこの部分はよいと思った。ただ、たとえば東書も2年「今度は私の番」という教材で障がい者アスリートを取り上げ、脚注でLGBTの説明をしていた。
8月24日時点で、全国590採択地区中203地区で決定したが、わたくしの元に届いている情報では、日本教科書採択地区は栃木県大田原市1つだけに留まっている。大田原は2005年から扶桑社の歴史教科書、いまは育鵬社の歴史・公民教科書を採択している特異な自治体である。
なお日本教科書は、会社としての財務状況がよほど厳しいようで、資本金の全額6600万円を取り崩し減資する決算公告を8月20日付けで掲出している。

それより重要な問題は、来年4月から中学で実際にどのように教えられるかだ。
じつは教科書採択を前に、2回公開授業を見に行った。
(いまの中学は生徒の個人情報などに非常に厳格で、校内の撮影は事実上すべて禁止だったので、残念ながら写真は1枚もない)
●A中学の公開授業
まだ教科書がないせいもあるのだろうが、教師の手作りの教材で授業を行っていた。
2年生のテーマは「中学生は大人か、子どもか」というもの。おそらく民法改正で2022年4月から18歳成人に変わる、つまり現在の14歳が初の18歳成人になることから組まれたものだろう。
授業の冒頭で生徒に寸劇をさせ、それをもとに生徒が現実にどう扱われているか体験談を話させたり、自分の考えを発表させたりしていた。
「大人と思う」については「体が成長した」「駅で大人料金を取られる」という意見、「子どもと思う」については「バイクは16歳、酒は20歳にならないと飲めない」「回りの人に迷惑なことをしている」「親に行動を制限されている」などの意見があり、「子ども」という意見のほうがずっと多かった。ところが「どちらでもない」という生徒が一人現れた。こういう場合、NHKの「クローズアップ現代+」でで出てきた小学校の授業では先生が反駁し生徒が黙ってしまう(泣いてしまった)という場面があったが、この学校ではそんなことはせず、意見を述べさせた。「小学校時代と比べ責任感がつき、しっかりしてきた。いっぽうまだ子どものところもあり、人に迷惑をかけることがある。だから中どもだ」という意見で、なるほどと思った。そしてこういう授業をできる教師がいるのなら、道徳の授業があってもよいなと、力づけられた。
3年生は「福澤心訓」といわれるもの、たとえば「世の中で一番さびしい事は、○○です」「世の中で一番尊い事は、○○です」の○○は何か、生徒に話し合わせるものだった。これは下手をするといかにも「道徳授業」的な福沢なり、二宮尊徳なりの「教え」の注入になるのではないかと危惧した。しかしそれは杞憂に過ぎず、授業の前に教員が「諭吉の考えが正解というわけではない」「自分の頭で考えることが一番大事」ということをはっきり宣言していた。
「世の中で一番尊い事」は「他人を尊重すること」「感謝の気持ちをもつこと」「すべての命を大切にすること」「人権侵害がないこと」「夢中でやれることがあること」「協力し、いがみ合わないこと」などの意見が発表された。
ちなみに心訓では「世の中で一番さびしい事は、する仕事のない事です」「世の中で一番尊い事は、人の為に奉仕して決して恩にきせない事です」となっている。

ただ、あの内容盛りだくさんの教科書をみると、もし全部こなさなければいけないとするととてもこんなにていねいな授業はできない。しかも「設問」で22の徳目に「誘導」しているし、教員も「道徳」専門の教員は(いまのところ)おらず担任がやることになっているので、難しいこともおこりそうだ。さらに「評価」の問題もある。参観後、グループに分かれて少し討論する機会があったので、そんな懸念を伝えておいた。
●B中学の公開授業
当日受け取った「授業内容のお知らせ」をみて、注目したのは1年のクラスの「死刑制度の賛否について」だった。わたくしも関心の深い問題だし、それを1年生にどう教え、どんな着地点が生ずるのか、ぜひみてみたかった。ところが行ってみるとC.W.ニコルの「みんな、かけがえのない命」という文章を読み、「自分の先祖のありがたさ」を考えるという内容だった。どこかで「死刑制度」の問題が出てくるのだろうとずっと聞いていたが、生徒の黙読、朗読が続き、その後先生から「なぜ僕たちは生き残っているのか」「生命が先祖からつながっているところをどこで感じるか」という質問があり、それを班で議論し、班の意見をまとめて発表するというようなことが続き、どうやらテーマが変わったようで期待外れだった。仕方なく他の学年の「正しい言葉、適切な言葉」「社会連帯の自覚」という授業を見に行ったが、いかんせん時間が足りなく、一人で考え、グループでまとめる、といった討論授業の形式の見学で終わってしまった。

東京の場合、このサイトに都内のすべての小中学校、中高一貫校、障がい児学校の道徳授業地区公開講座(授業参観)の予定が公表されている。わたくしは次は、今年から教科化された小学校の道徳を見に行きたいと考えている。

じつはもっと心配なのが高校の新教科「公共」だ。いまの予定では東京オリンピックがある2021年に教科書採択の予定になっている。
高校には、さすがに道徳という教科は(ほとんどの県では)ないものの「新学習指導要領・総則」に「各学校においては,第1款の2の(2)に示す道徳教育の目標を踏まえ,道徳教育の全体計画を作成し,校長の方針の下に,道徳教育の推進を主に担当する教師(「道徳教育推進教師」という。)を中心に,全教師が協力して道徳教育を展開すること」(p22)とあり、さらに「公民科の「公共」及び「倫理」並びに特別活動が,人間としての在り方生き方に関する中核的な指導の場面であることに配慮すること」(p23)とある。「公共」や「倫理」の教員がいかにも「道徳教育推進教師」を担当すべきであるかのように書かれている。

☆昨年8月の小学校道徳の採択定例会も傍聴に行った。ところが定員がわずか10人、集まった24人はほとんど教科書会社の社員で、わたくしが知る範囲で区民は5人、抽選で傍聴できたのは1人だけだった。これはあんまりだと、いくつか都内の例を調べると台東区、府中市、調布市など全員入れるところもあったし、人口がわたくしの区と比較し半分くらいの市なのに20人とか50人近く入れているところもあった。そこで教育委員会に傍聴定員増員の要請を提出した(賛同署名250筆あまり)。その結果、7月の定例会で教育委員会傍聴人規則の定員の部分を「ただし教育長が特に必要があると認めるときは、これを変更することができる」と改定し、今年は傍聴人が40人入れる大きな会議室に変更してくれた。残念ながら台風模様の天気のためわたくしがわかる範囲の区民は少し増えただけだったが、無抽選で全員入れたのでよかった。

国立映画アーカイブに改組されたフィルムセンター

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東京駅八重洲口から10分、銀座線京橋駅または浅草線宝町から1分の都心に国立映画アーカイブがある。京橋のフィルムセンターと呼んでいた施設が、この4月国立映画アーカイブに変わったのだ。日本で6館目の国立美術館だそうだ。「映画のために誕生」「映画を残す、映画を活かす」をキャッチフレーズに「全ては映画のために」という国内最大のフィルムアーカイブだ。
ここには学生のころよく通った。一番は1976年年頭の〈開館5周年記念〉小津安二郎監督特集のときで、40日余りの上映日のうち20日近く通った。

入館したところに第一福宝館、旧日活本社など4枚の建物写真とともにこの建物の説明パネルが掲示されている。この場所は日活の前身4社(吉澤商店、Mパテー商会、横田商会、福宝堂)のうち福宝堂の映画館・第一福宝館があった場所で、1912(大正元)年以降は、京橋日活館、その後1931(昭和6)年から4階建ての日活本社となった。1952年、そういう由緒正しい場所に国立近代美術館が開館(日活本社は有楽町に移転)し、フィルムライブラリーが誕生した。

7階展示室の常設展「日本映画の歴史」はよくできていた。岩波書店の『日本映画史』(佐藤忠男  全4巻 1995)でも読んでいればよかったのだろうが、わたくしは知識の断片しか持ち合わせていないので、体系的な理解への道筋が見えたように思えた。「1 日本映画のはじまり 映画前史~1910年代」から「7 日本のアニメーション映画」まで7つのブロックに分けて解説・展示があった。とくに明治から、「第二次大戦後の黄金時代」(1945-1950年代)の時期がすばらしい。
「前史」は、1803年オランダの幻燈を江戸で上映したことに始まる。ルイ・リュミエールと文部省学芸官・中田俊造の珍しい記念写真もあった。
大手5社を中心に映画製作会社の系譜が掲示されていた。細かいところまでみると、自分とも少し縁があることがわかった。たとえば東宝の前身会社のひとつに京都のJ.O.スタヂオがあるが、その跡地は1946年にわたくしが就職した会社の工場用地になった。太秦には数社のスタジオがあったが、近隣の西山の竹藪でときどき時代劇のロケをやっていた。東映の東京撮影所(前身は太泉映畫)や東映動画は、高校生のころ近くが通学路だった。蒲田駅東口の松竹蒲田の跡地は、2012年に「梅ちゃん先生」のツアーのときに訪れた。区民ホールのエントランス付近には松竹橋の親柱がある。
「2 サイレント映画の黄金時代 1920年代」には、女優の採用やクローズアップの純映画劇運動を提唱した帰山(かえりやま)教正の監督第一作「生の輝き」(1919 主演・花柳はるみ)、村田実の「路上の霊魂」(1921)のスチール、衣笠貞之助「狂つた一頁」(1926)のフィルム(5分間の抜粋)と脚本原稿、撮影メモなど、名前しか知らなかった人名や映画がいくつも展示されていた。

「狂った一頁」(1926)のフィルム(5分間)と脚本原稿、撮影メモ
3 トーキー革命へ(1930年代)
「マダムと女房」(五所平之助 松竹1931)、「人生のお荷物」(五所平之助1936)、「若い人」(豊田四郎1937)、「限りなき前進」(内田吐夢1937)、「淑女は何を忘れたか」(小津安二郎1937)などのポスターが掲示されていた。おそらく戦前の映画黄金時代、都市文明の頂点の時期だろう。榎本健一、古川ロッパが活躍した時期だ。「若い人」のヒロイン・江波恵子を演じたのは市川春代だった。市川の名は井上ひさしの「きらめく星座」で「青空」を日本クリスタルで吹き込んだ歌手ということで覚えている。ユーチューブでその盤は出てこなかった。
田中絹代というと、わたくしにとっては「大学は出たけれど」(1929)や「落第はしたけれど」(1930)の可憐なスターだが、若いころは清水宏、島津保次郎、五所平之助らの映画のスターでもあったようだ。
「限りなき前進」の主役は江川宇礼雄だ。例によって小津の映画の話になるが「青春の夢いまいづこ」(1932)や「東京の女」(1933)に出ていた二枚目俳優で、なつかしい。

小津の「淑女は何を忘れたか」 左は戦後の「東京物語」(1953)と撮影台本
栗島すみ子はわたくしは小津の「淑女は何を忘れたか」(1937)の「麹町の夫人」役で飯田蝶子、吉川満子らと出演していたのををみただけだ。これはベテラン時代の作品だが、若いころのポートレートやブロマイドが展示されていた。
わたくしはほとんど見ていないのだが、日本のチャンバラ映画の「伝統」はしっかりしているようだ。1926年に「目玉の松ちゃん」尾上松之助(日活)が亡くなったあと、大河内傳次郎(日活→J.O.スタヂオ)、阪東妻三郎(マキノプロ→阪妻プロ)、嵐寛寿郎(マキノプロ→寛プロ→大映)、市川右太衛門(マキノ・プロ→右太プロ→松竹)、片岡千恵蔵(マキノ・プロ→千恵プロ→大映)、林長二郎(のちの長谷川一夫 松竹→東宝)の六大時代劇スターの時代が到来した。鞍馬天狗は観ていないが、「男はつらいよ 寅次郎と殿様」(1977)で観た。

丹下左膳(大河内傳次郎)、鞍馬天狗(嵐寛寿郎)などチャンバラ映画のポスター
4 戦時下の日本映画(1930年代後半から1945年) 
しかし時代は「戦時下」へと暗転する。1939年には映画法が制定され、映画人の登録制、事前検閲が当たり前となり、外国映画の制限やニュース映画の強制上映が行われる。「日本ニュース78号 三妃殿下傷痍軍人慰問所を御訪問ほか5本」や「支那事変後方記録 上海」(1938)や「満州映画」という雑誌(1937)が展示されていた。満州映画協会は甘粕正彦が理事長を務めていた。

5 第二次大戦後の黄金時代 1945年~1950年代
黒沢明の「羅生門」(1950)のヴェネツィア国際映画祭金獅子賞のトロフィ、溝口健二の「西鶴一代女」(1952)、成瀬巳喜男の林芙美子原作「稲妻」(1952)や「浮雲」(1955)、木下恵介「カルメン故郷に帰る」(1951)、変ったところでは本多猪四郎の特撮映画「ゴジラ」(1954)、独立プロの今井正「にごりえ」(1953)、新藤兼人「裸の島」(1960)のポスターが並んでいた。

ただ「6 日本映画のひろがり 1960年代以降」は、監督1人にスチール1枚、たとえば山田洋次は「男はつらいよ」第1作(1969)、羽仁進は「初恋・地獄篇」(1968)、大島渚は「青春残酷物語」(1960)など38人分38枚のスチールが壁面に展示されているだけで、もの足りなかった。
「7 日本のアニメーション映画」は日本のアニメは優秀なので、1つのコーナーを割り振っていた。大藤信郎の影絵アニメ、東映動画の「白蛇伝」、岡本忠正の「キツネとモグラ」などの展示があった。

この常設展のパンフやカタログがないのは、いかにももったいないと思った。
企画展は「没後20年 旅する黒澤明」。「羅生門」「七人の侍」「椿三十郎など黒沢映画の海外でのポスター展だった。わたしは、なるほどなるほどと一回りしただけだが「面白い」という知人もいた。自分なりにイタリア、スウェーデン、ロシア、ポーランドなど国別比較をして、黒澤観・黒澤受容の違いや表現の比較をすると面白かったかもしれない。

「七人の侍」(1954)のイタリア(1955)と西ドイツ(1962)のポスター
ホールでの映画上映は6月に地下1階の小ホールで「戦時下の日本アニメ」、8月に2階の長瀬記念ホールOZUで「坊っちゃん」(丸山誠治 1953 東宝)を見た。坊っちゃんは、主演が、池部良の坊ちゃん、マドンナ・岡田茉莉子、赤シャツ・森繁久弥、お清・浦辺粂子と豪華な顔ぶれだった。ただマドンナと坊っちゃんとの青春映画になっており、マドンナと坊ちゃんの行く末がよくわからないせいか、私たちには「もうひとつ」だった。
アニメのほうは「桃太郎の海鷲」(1942)と「フクチャンの潜水艦」(1944)の2本立てだった。もちろん小学生向け「戦意高揚」映画だ。「フクチャンの潜水艦」は、南洋に行ったり北極海と思われる氷山の地域に行ったりでストーリーはよくわからなかったが、アニメとしての日本の技術力の高さが、とくによくわかる作品だった。
その他、ちらっと見ただけだが、4階図書室もキネマ旬報の大正8年から15年、1950年の復刊1号から全号、イメージフォーラムの1980年6月の創刊準備号から95年7月まで全号揃いなど、宝の山だ。何度でも行ってみたくなる「垂涎」の施設だった。

1階ロビーには、「人情紙風船」(東宝1937)、「都会交響楽」(日活1929)など名画ポスターが多数展示されていた
国立映画アーカイブ
住所:東京都中央区京橋3丁目7-6
電話:03-5777-8600 
休館日:月曜日(祝日にあたる場合はその翌日)、年末年始
    図書室は日曜、特別整理期間も休室
開館時間:11:00-18:30(入室は18:00まで、月末金曜のみ20:00閉館で19:30まで)
     映画上映はこちらを参照 
料金:上映 一般520円/高校・大学生・シニア310円/小・中学生100円/
   障害者(付添者は原則1名まで)無料
   ☆定員:310名(各回入替制・全席自由席)
   展示 一般250円/大学生130円/シニア・高校生以下及び18歳未満、障害者(付添者は原則1名まで)無料
   ☆20人以上の団体割引あり

伊丹十三――メディアの世紀の日本のダ・ヴィンチ

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わたくしは、昔から村山知義賀川豊彦のようないくつもの才能をもつ多面的な人物に興味がある(典型は15世紀のダ・ヴィンチだが)。
そんな一人で、もっと新しいメディア時代のマルチタレントとして、伊丹十三がいる。
「お葬式」「マルサの女」などの映画監督のイメージが強いが、それは1984年51歳以降の顔である。監督になる前に、商業デザイナー、イラストレーター、エッセイスト、俳優、テレビマン、CM作家と、雑誌・書籍・テレビ・広告のメディアの世界をまたぐ6つの顔があった。さらに、伊丹十三記念館の展示では音楽愛好家、料理通、乗り物マニア、猫好き、精神分析啓蒙家という側面にもスポットを当てているが、やや趣味に近いので、ここでは省略する。

松山の中心商業地・大街道から砥部行きの伊予鉄バスで15分ほど、東石井に伊丹十三記念館がある。開館は2007年5月、延床面積860平方メートルの施設である。生まれてから松山東高校生徒までの少年・池内岳彦(本名・義弘)伝を加え13のテーマから成る常設展示がある(このパートのみ撮影可能だった)。
岳彦は1933年5月、京都・鳴滝生まれ。5歳で東京・祖師谷に転居、世田谷区立桜第一小学校入学、8歳で再び京都に戻り、師範付属国民学校に転入、6年で特別科学教育学級に編入。これは敗戦直前の45年1月から2年だけあったエリート養成制度で、東京では平川祐弘、鈴木淑夫、藤井裕久らが出身生だ。

小学1年のときの野菜の絵
まず驚くのが、岳彦少年小学1年のときのナス、キュウリ、サヤエンドウの野菜の絵である。父・万作の松山中学時代の友人で俳人の中村草田男が大事に保管していた。なんとも味のある絵だ。よく見ると観察力が際立っていることがわかる。朝顔日記、玉葱日記などもあるが、アゲハ蝶のスケッチがすばらしい。ナミアゲハという和名のほかPapilio xuthusという学名まで付されているが、それが活字体のレタリングのような書体なのだ。高校生時代の作かと思ったら小学6年のときの作とあり、「天才だ!」と驚いた。

小学6年のときのナミアゲハのスケッチ(昆虫観察ノート)
46年京都府立一中(現・洛北高校)に進学するが、半年後の9月父・万作が死去、48年山城高校付設中学に転校し49年高校進学、しかし50年1月以降は休学し、50年4月松山東高校に転入した。2年生のときに大江健三郎が県立内子高校から転入し親しくなる。当時のクラス写真が展示されていた。名門校だが、男性26人、女性24人が写っている。男女共学に変わり、旧制中学と女学校が統合されて間もなくのころだ。しかしなぜか半年後の10月から休学し、52年4月東南に2キロ弱の松山南高校2年に転校し、54年に卒業した。のちに伊丹の妹・ゆかりが大江の妻になり親戚になるが、わずか半年のつきあいだったわけである。

卒業後、上京し商業デザイナーになる。文藝春秋社の雑誌「漫画読本」の社内吊り広告(60年ごろ)、安岡章太郎の単行本(66年 文春)、さらにATGの「アート・シアター」(創刊号から13号まで担当)が並んでいた。図案家、版下屋と呼ばれていた時代(いまはグラフィック・デザイナー)で題字のレタリングやカットまで自分で描いていたのが伊丹らしい。
デザイナー時代に河出書房の「知性」の編集者・山口瞳とも知り合った。山口がこの編集部にいたのは3年ほどの短期間なので、やはり伊丹は運が強い。目次デザインや車内吊り広告を担当した。

「伊丹万作全集」(筑摩)、山口瞳の単行本の装丁、漫画読本の車内吊り、「アート・シアター」
イラストレーターの顔もある。「ミセス」(文化出版局)のブーツや傘などの細密なイラストは小学生のときのアゲハ蝶を思い出させる。「女たちよ!」(文藝春秋社)の、たとえば室尾犀星の顔やダッグウッド・サンドウィッチの正しい持ち方のユーモラスな線画をみると、80代の晩年のピカソのクロッキーを思い起こさせる(少しオーバーかも)。映画「妹」で、壁面に青空の絵を描きながら自死する俳優・伊丹がいたが、もしかするとあの絵も伊丹自身の作品だったのかもしれない。監督になる前、俳優以外の仕事でわたくしたちがいちばん知っていたのはイラストレーターの顔だったのかもしれない。

犀星の顔(「女たちよ!」)とバッグ(「ミセス」71年)
エッセイスト 伊丹のエッセイの単行本は「ヨーロッパ退屈日記」「女たちよ!」「日本世間噺大系」(いずれも文藝春秋社、現在は新潮文庫で読める)「問いつめられたパパとママの本」(中央公論社)など多数あるが、わたくしは1冊も読んでいないのでなんともいえない。ただ今回「ガイドブック」に収録されているエッセイのごく一部(20篇くらい)を読んだ。だいたい400字詰め2―7枚程度(特別短いものは200字前後)だが、どれもエッセンスが効いていて秀作だった。

俳優 伝説の「北京の55日」(ニコラス・レイ)や「ロード・ジム」(リチャード・ブルックス)は観ていないが、日本映画の「日本春歌考」(大島渚1967)、「妹」(藤田敏八1974)、「もう頬杖はつかない」(東陽一1979)、「家族ゲーム」(森田芳光1983)などは印象が強くよく覚えている。俳優生活の始まりは1960年(27歳)の大映のニューフェイス(芸名・一三)だったというので驚いた。「おとうと」(市川昆1960)、「金瓶梅」(若松孝二1968)、「わが道」(新藤兼人1974)、「スローなブギにしてくれ」(藤田敏八1981)、「細雪」(市川昆1983)、「居酒屋兆次」(降旗康男1983)、「草迷宮」(寺山修二1983)にも出ていたそうだ。見れば思い出す、と思う。

テレビマン 国鉄提供・テレビマンユニオン制作、1970年10月スタートの「遠くへ行きたい」に71年4月からレポーターとして出演、73-74年には「天皇の世紀」(大佛次郎原作、テレビマンユニオン制作)に出演、製作スタッフの役割も果たしていたようだ。
わたしはその当時はテレビをほとんど見ていないので、番組のこともわからない。しかし77年の「アート・レポート」はクリストやウォーホールの作品も出てきたようで、ちょっと見てみたくなる。

CM作家 「ジョニー・ウォーカー・赤」、松下電器・冷蔵庫ビッグ「ルーツ篇」、「西友のお中元」、味の素マヨネーズ「かあちゃんの手紙篇」、タカラCANチュウハイ「伊丹宣言篇」などをつくった。これも上記「テレビマン」と同様、見ていないので記憶にない。ただし注目すべきCMとして「一六タルト」のシリーズがある。
この記念館の案内表示に「伊丹十三記念館/ITMグループ本社」とあった。ITMは伊丹の略かというくらいに考えて、受付で聞くとICHIROKU TOTAL MIXTUREの略だそうだ。わたくしは一六タルト自体知らなかったのだが、愛媛では有名とのことで、それなら松山との縁、あるいは松山東高校の縁でつくったのかと思ったら、まったく違った。一六本舗の玉置泰社長が一六タルトの新しいを企画したとき、電通提案のタレントリストに名を見つけて伊丹に決め、渋谷で会った。そして湯河原の伊丹邸で「成績篇」「手洗い篇」「贈物篇」の3タイプ(各30秒と15秒)を撮影し、79年年頭から県内で放映を始めた。伊丹が松山弁で「もんたかや。まあ一六タルトでもお食べや」と語りかけるCMで話題になった。
その後、玉置社長は伊丹映画第1作「お葬式」から9作「マルタイの女」まで全作品の製作を務めた。さらに伊丹プロダクションの社長、伊丹の死後は伊丹十三記念館を運営するITM伊丹記念財団の理事長も兼務している。記念館ももともと一六本舗の敷地だった場所にある。

映画監督 やはりこれがすごいと思う。先にも触れたように監督第1作「お葬式」は1984年11月51歳の作品で最後の9作「マルタイの女」が96年64歳の作品なので、13年間のものだ。
20年くらい前にみた映画もいくつもあるが、半年ほど前に、まだ見ていなかった「タンポポ」(1985)、「大病人」(1993)、「静かな生活」(1995)、「スーパーの女」(1996)、「マルタイの女」(1997)の5本をまとめてみた。面白かった。もう一度「マルサ」「ミンボーの女」や「お葬式」をみたくなった。今回見た5本のなかで一番可能性を感じたのは、意外かもしれないが原作・大江健三郎の「静かな生活」(1995)である。

企画展は今回が4回目で「おじさんのススメ」。「食事、酒、お洒落」「デザイン」「自作の宣伝」など4ジャンルから成るが、常設展の12の顔のうちいくつかを、さらに深く突っ込んだ展示だった。
その一角に父・伊丹万作コーナーがあった。「無法松の一生」のシナリオで有名な万作(1900-1946)は息子を上回る波乱万丈の人生で、1926年26歳のときには松山で中学時代の友人3人で「おでん屋」を営業したこともあった。しかし経営不振で1年しか続かなかった。もっと詳しく知りたかったが、受付の方に聞くと、かつて企画展で扱ったことがあり人気がよかったので、その一部をいまも展示しているとのことだった。
中庭には桂の木が草のなかに1本植えられている。展示のトップに宮本信子館長がビデオで「中庭の草の上で腹這いになって本を読んでいる人がいる。伊丹十三だ。そばにはシャンパンのグラス」と語っていたまさにその風景だ。
屋外には一見馬小屋あるいは納屋かと思ったら、イギリスの紺色のベントレーが止まっていた。乗り物マニア・伊丹最後の愛用車だったそうだ。

ガイドブックとチケット
ショップコーナーでDVDや書籍が販売されていた。ガイドブックは文庫本サイズで472pもある充実した書籍だ。税込1404円だったのでさっそく買い求めた。伊丹の2大特徴は、知的好奇心と、卵焼きのエピソードにみられるように「凝り性」であったことがあることがよくわかった。
かつて新書版サイズのガイドブックをつくりたいという要望があり、100pくらいの博物館ガイドをつくったことがあったが、こういう手もあるとわかった。
ブックカバーは黒一色、袋も透明ビニールに入った黒の紙だった。記念館の外観も黒だが、イメージカラーはシックな黒のようだ。

伊丹十三記念館
住所:愛媛県松山市東石井1丁目6番10号
電話:089-969-1313 
休館日:毎週火曜日(火曜日が祝日の場合は翌日)
開館時間:10:00~18:00(入館は17:30まで) 
料金:大人800円 高・大学生500円 中学生以下無料

大街道のバー露口の店内
せっかく松山に行くのならと、伊丹記念館と同じくらい期待していたのが大街道のバー露口だ。今年8月で開店60年、80代の露口貴雄さんが店主、奥方の朝子さんと2人で営む13席のサントリー・バーだ。長い間、浜田信郎さんのブログ「居酒屋礼賛」を愛読しているので、わたくしにとっては何年も前から来ている店のような気がした。お二人のお人柄も、想像どおり、浜田さんの記述のままで、なじみの感じがした。
ブログ効果か、わたくしより前に並んでいる方がいた。大阪から来訪されたそうだ。開店直後から6-7人客が入っていた。壁には吉田類さんの色紙とサントリーの故・佐治敬三社長の「燦」という色紙が飾ってあった。吉田さんは高知出身で、高知と愛媛の居酒屋を訪ねる番組をもっていてその取材で来られたとか。
昨年末に亡くなった「花へんろ」の脚本家・早坂暁氏の話などで盛り上がった。わたくしは、その日訪れた伊丹記念館や前日に行った大江健三郎生家のことを調子に乗って話したが、地元の方も含め、みなさん結構熱心に話を聞いてくださった。
なお浜田さんは今年もお盆のころ来訪されたとか。また早坂さんと同じ北条出身の方らしい。

旅人にやさしかった大洲、内子、そして松山

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1960年代にNHKの朝ドラ「おはなはん」で有名になった大洲で、驚くような博物館を見つけた。「大洲レトロタウン 思ひ出倉庫」だ。
館内に入ると、「二人の銀座」( 和泉雅子 山内賢)、「虹色の湖」(中村晃子)、「白い色は恋人の色」(ベッツィー&クリス)など60年代後半の歌が聞こえてくる。

昭和30年代のまちの情景は映画「三丁目の夕日」などで有名になり、たとえば石神井の練馬区立ふるさと文化館や青梅の昭和レトロ商品博物館など、日本中いろんなところにミュージアムがある。多くは駄菓子屋やブリキのおもちゃの展示が多い。ところがこの施設は、その水準にとどまらず、散髪屋、バイク屋、ボタン屋、貸雑誌屋などが当時の店頭そのままのかたちで再現されている。60年代の飲み物というと「スカッとさわやかコカ・コーラ」だったが、ビン・缶ともに商品モデルの変遷が並んでいる。そして公平性を図るためか、ペプシやクラウンも同じようにたくさん並んでいた。
おそらくわたくしより年長の団塊の世代のマニアの方が「情熱」を傾けて収集された個人コレクションだろうと思った。受付の方に聞くと、そうではなく、まだ59歳の方のコレクションということなのでまったく驚いた。7月の豪雨災害でお気の毒にも本業の喫茶店は大きな被害にあったが、この施設は助かった。いったい元は何の建物だったかお聞きすると、家具だかの倉庫だったので、温度変化にも比較的耐えられる建屋なのだそうだ。あまりにも暑い日で、これだけコーラをみると飲みたくなった。驚くべきことに屋外にはコーラの昔の自販機があり販売中だった。150円だったが、もちろん買って飲んだ。今のようにペットボトルでなく、機械に付いている栓抜きで金属の栓を抜く形式だった。
脇にタバコ屋、駄菓子屋、辻遊び道場などの店が並ぶポコペン横丁があった。黒い板塀にはマツダランプ、ウテナ粉白粉、ハト印赤線ビニールなどホウロウ製の広告看板が山のように掲示されていた。残念ながら日曜のみ営業とのことだった。
その他、大洲商業銀行の建物を使った赤煉瓦館、おはなはん通り、明治の家並、少し離れた場所に大洲城があった。「おはなはん」だけでなくテレビや映画のロケ地としてもよく利用されているようで、「東京ラブストーリー」(永山耕三・本間欧彦 フジテレビ1991年)でリカが完治に気づかれないよう、 密かに完治のマンション宛に別れの手紙を投函した赤ポスト、「男はつらいよ19作 寅次郎と殿様」(山田洋次 松竹77年)で殿様(嵐寛壽郎)に寅さんがラムネをご馳走した茶屋(ただし茶屋はいまは残っていない)、「となり町戦争」(渡辺謙作 角川映画2007年)のロケ場所「ポコペン横丁」などに「おおずロケ旅」の表示があった。観光用のものだけでなく、寿司屋の隣に、いまだに民進党の蓮舫党首のポスターが貼られているのをみてこのレトロさは「天然」か、と思った。
なおJRの伊予大洲駅から、城など古い町並みが残っている地区までバスで5分ほどかかる。このあたりは商業地としてはサビれ、駅に近い地域が繁盛しているそうだ。ところが7月の水害は肱(ひじ)川そのものでなく、能力以上にダムの放流をやりすぎたための決壊で、被害にあったのは駅に近いほうの地域だったそうだ。そういうことで、古い町並みや城はなんの被害もなかった。

左から2軒目が大江健三郎の生家
大洲から電車で15分、内子も町並み保存で有名な町だ。駅からバスで16分、わたくしはレンタサイクルで40分ほどかけて行ったが、ノーベル文学賞受賞作家の大江健三郎氏の生家が内子町大瀬にある。駅から1キロくらいのところを国道379号線が走っており、それを道なりに8キロほど行けばよいだけだ。8キロで40mほどのゆるやかな上りだが基本的に林間コースで人家は少ない。初めて走るところなのでときどき不安になった。肱川の支流・小田川に沿っているので、
少なくとも景色は涼しい感じがした。
目的地は大瀬本町の成留屋地区だ。街道沿いに酒店、米穀店、電器店、種苗店、宅急便取扱い店、愛媛新聞販売店などが並ぶ古い商店街だ。旧村役場はすぐのところ、小学校も100mくらいのところなので集落の中心部だったと考えられる。ただ大江家は商家ではないし、もちろん観光施設ではない。健三郎は男4人女3人の7人兄弟の5番目の子だった。近所の人に伺うと父は和紙の原料・ミツマタを集める仕事をしていたが、その後ガスを商うようになり、斜め前に大江燃料店という看板の家があった。いまは長男の子ども(孫かもしれない)が小学校の教員になり、家を守っているとのことだ。母・小石さんが生きておられたころは時おり奥方・ゆかりさんや子どもを連れて帰郷することもあった。母校の大瀬小学校で光さんのコンサートをしたこともあった。小石さんは毎日のように大瀬中学の近くにある庚申堂にお参りしていたので、1994年に再建されたときに健三郎が「庚申堂」という題字を書いたそうだ。大江は1935年1月生まれなので、小学校は国民学校時代の大瀬小学校に入学した。校舎は昨年黒い木造に建て替えられたばかりで、石造りの校門だけ当時のものかもしれない。中学は47年開校の新制大瀬中学の1期生のようだ。現行憲法施行の年だった。中学も1992年大江の友人、原広司の設計で新築された。そして内子駅の近くにある内子高校に50年入学したが2年になるとき松山東高校に転校し、伊丹十三と知人になった。
なお、内子高校には42回全国高校文化祭長野大会に吹奏楽部がアルプホルンで出場56回インターハイにライフル射撃で出場という珍しい種目の看板がかかっていた。
1994年暮れのノーベル文学賞受賞後は大瀬を訪問することはまったく途絶えたそうだ。本人が望まなかったのか、公民館で聞いても資料コーナーのようなものもなさそうだった(旅行後に気づいたが、お遍路さんの宿泊施設になっている「大瀬の館」に書籍や資料が展示してあるそうだ。ただ原則無人の施設なので、見学するのは難しいかもしれない)。大江の小説によく出てくる森や谷間はこんな雰囲気だったのだろうかとイメージしつつ自転車を走らせた。

大瀬の森や谷間
といってもわりに熱心に読んでいたのは『「雨の木」(レイン・ツリー)を聴く女たち』(1982)ごろまでだった。ただ『取り替え子』(チェンジリング 2000年)は読んだように思う。いちばん好きな小説はなんといっても『万延元年のフットボール』(1967)だ。

大瀬からの帰り道、内子に入るあたりに道の駅「からり」がある。一見したところ野菜・果物など農産品のかなり大きな直売所とレストランがある普通の道の駅にみえる。しかしただ者ではなかった。2015年に国交省が全国の道の駅から全国モデルとして選んだ6つのうちの1つで、17年には農林水産祭「むらづくり部門」で内閣総理大臣賞・農林水産大臣賞を受賞した。
スタッフの方に、その理由をお聞きした。まず地域で採れた農産物しか置かないこと、次にトレーサビリティ(出荷者情報)まで含めたIT化、POS化が進んでいることを挙げた。梨、ぶどう、桃、柿などの果物で有名な土地だが、特産品としてもち麦という麦、花粉症に効果があるナリムチンを含むじゃから、内子豚などがある。直売所の商品には大小2種のQRコードが付いていて、客がその場でトレーサビリティ(栽培履歴)を閲覧し「安心感」を得ることができる。それを支えたのは、勉強会から始まりいまでは400人が登録する出荷者協議会だ。直売所を経営するのは第3セクターの(株)内子フレッシュパークだが、会社はシステム構築とパソコン取扱い方法をアドバイスするだけで、生産者が自分で入力することになっている。入力しなければ出荷・陳列することも代金の受取すらできない。徹底している。
その背景には、内子町が1970年代から町並み保存を展開し、自力の地域おこしを続けてきたことがあるそうだ。したがって平成の大合併も内子にとってはメリットがないので、町のまま残った。その実力と自信があるということだ。
7月の洪水では内子にはなんの被害もなかったが、特産品の内子豚の食肉処理場やもち麦の精米施設が町外にあり稼働しなくなったため大きな被害を受けたとのことだった。サプライ・チェーンが複雑に広がるなか、想定外の突発事態が生じる社会の反映のようだ。
昼食にうどん処「あぐり亭」でもち麦の天ぷらうどんを食べた。一見そばのように黒っぽいが太くしっかりした麺だった。天ぷらというとエビを想像するが、この店はがぼちゃ、なす、ピーマン、大葉など野菜の揚げ物だった。野菜はなんでもできる土地だそうだ。

ツム・シュバルツェン・カイラーの「シュバイネ・ブラーテン」
内子の町並みはたしかによく保存されていた。白蝋の取扱いで明治の豪商になった上芳我(はが)邸、大正10(1921)年ころの薬屋の生活と商売を展示する「商いと暮らし博物館」、大正5(1916)年、町の旦那衆18人が発起人として開設した芝居小屋の内子座など大きな施設や重要文化財がいくつもある。それらすべての施設の周囲の通りや交差点を含めた町並み全体の保存がすばらしい。
メインストリートをかなり上がった本芳我邸の隣に「ツム・シュバルツェン・カイラー」というドイツ料理店がある。創業5年目で、ドイツ人のマスターと日本人の奥さまが2人でやっている店だ。意味は「黒い猪」だそうだ。マスターが好きなパソコンゲームがあり、ゲームに出てくる居酒屋の名がこれで、もし自分が店を始めるならこの名がよいとずっと考えていたので、この店名になったとか。聞いてみないとわからないエピソードである。
注文したメインは「シュバイネ・ブラーテン」だが、まずビールと「内子チーズとドイツ香草のカプレーゼ」をお願いした。カプレーゼとは何かわからなかったが、カプリ風のサラダとか前菜ということのようだった。基本的にはトマトとチーズだが、内子チーズとは何か。内子の酪農家と蔵王や北海道で修業したチーズ職人が共同してつくった工房の産直チーズだそうだ。
シュバイネ・ブラーテンは、何日も乳清に漬け込んだ豚肉をホロホロになるまで数時間煮込んだ料理だ。肉ももちろんだが突合せのマッシュポテトやパンもおいしかった。
ママさんは東京や京都やドイツにも住んだことがある。しかし東京は人間が住む場所ではないと失望し、郷里の愛媛県(ただ内子ではないそうだ)に戻ることにし、内子で店を開いた。
内子はドイツ南部にあるローテンブルクと2011年に姉妹都市盟約を締結した。ローテンブルクは第二次大戦で町が破壊され町並み保存を熱心に取り組んだという縁があり、20年以上前から内子の中高校生をローテンブルクに派遣していた。そんなこともあり、ドイツ料理店をオープンするに当たり、大変親切にしてくれたそうだ。難点は古い家屋で断熱性が悪く、夏は暑く冬が寒いことだそうだ。本格的なドイツ料理店は西日本にはほとんどないそうで、わたくし自身7年前にベルリンで食べて以来だったので、旅先の「ここで食べられる」とは感激した。

道後温泉本館
今回は、大洲、内子、松山の3泊4日の旅で、ブログ(9月13日の記事含む)に書いた以外では、松山で、3階に「坊っちゃん」の間のある道後温泉本館、子規記念博物館、学校では伊丹の母校、松山東高校と南高校、旧制松山高校や松山農科大学などを母体とする愛媛大学、寺では四国霊場51番札所・石手寺、城は大洲城と松山城にも寄った。松山東高校の正門近くには安倍能成の胸像があった。
松山は意外に大きな町で、デパートでは三越と高島屋の両方があった。もう30年以上前のことだが、岐阜が人口40万人で、松山や、西宮、船橋などと同規模という話を聞いたことがあった(現在の松山の人口は51万人)。たしかにそのくらいの規模や歴史がありそうだった。
なお愛媛大学のミュージアムはなかなか充実している。ちょうど「明治150年 明治時代の四国遍路展」が開催中だった。遍路は1周するだけでなく、2周以上する人が2割もいて、しかもその半分は7~24周もしている、とか明治の神仏分離令で変更になった札所が88のうち9か所も出現したことなど、知らなかった事実を知った。またわたくしはみていないが、この大学は昆虫のコレクションが北大、九大に次ぐ国内3位で、その展示を見られるそうだ。

大洲「思ひ出倉庫」のコカ・コーラのコーナー(左はクラウン・コーラ)
わたくしが行ったのは大洲、内子、道後温泉、松山だけだが、愛媛はお遍路さんを歓迎しもてなす「伝統」があるからか、どこに行ってもホスピタリティが豊かなように感じた。観光施設やレストラン、交通機関のスタッフは質問するとどこでも親切・ていねいに教えてもらえた。だからこんなに長い記事を書くことができる。さらに路面電車の運転手がわからなくても、横で話を聞いていたお客さんが自分のスマホで調べて教えていただけるようなことまであった。また「漱石が教えた旧制松山中学がNTTの近くにあったはずだが、どこかに石碑がないか」と通行人に聞くと「自分のまちの歴史や文化なのに何も知らずすみません」とあやまられてしまい、恐縮したこともあった。お遍路へのもてなしだけでなく、城下町の伝統もあるのかもしれない。要するに、旅人にやさしい街ということだ。
そういえば、ドイツ料理店のマスター、チーズ工房の職人、旅の案内所 「旅里庵」(たびりあん)のスタッフも県外からの移住者だ。
この記事で、愛媛の7月の被災に触れたが、道後温泉で客が激減しているという話を聞いた。「当時テレビで映すのは、いちばん被害が大きかった地域ばかりで、なんの影響も被害もなかった観光地が多くあるので、ぜひ知らせていただきたい」との切実な要望を伺った。
愛媛に限らず、倉敷、広島、北海道などほかの被災地でも同じようなことがありそうだ。
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