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日本のまんじゅうの始まり――塩瀬総本家

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日本のまんじゅうの始まりはいつか、ご存知だろうか。餅は古代からあるはずだし、草餅も古代からありそうだ。それならまんじゅうも同じような時期からあったのではないか、と思ってしまう。しかしそうではなく意外に新しく室町時代から、それも中国人が日本でつくり始めたと聞き、驚いた。
9月22日、聖路加病院を会場に2か月に1度開催されるNPO法人・築地居留地研究会で、明石町の塩瀬総本家34代当主・川島英子さんの講演を聞いた。

塩瀬は、室町時代に奈良で饅頭屋を始め、その後京都、さらに江戸日本橋に移り、今は築地明石町に本店がある。江戸時代は幕府の将軍家御用達、明治に入ってからは宮内省御用達の老舗である。「女官物語」(斎藤渓舟 1912)には「元来大奥に納める菓子は、東京では塩瀬と黒川(赤坂の虎屋)がもっぱら御用命を承っている」とある。
川島さんには「まんじゅう屋繁盛記――塩瀬の六五〇年」(岩波書店 184p 2006年5月以下ページ数は本書のページを示す)という著書があり、その内容も加えて紹介する。ただ講演や著書には一族の歴史や墓石の改修や記念碑を建てた経緯も詳しく出ていたが、それらは省略し、菓子の作り方を中心にまとめた。

本店での川島英子さん
1349年、日本人僧侶・龍山徳見禅師と禅師を慕う俗弟子の中国人・林浄因が元から日本にやってきた。この頃は室町幕府の初期で、南北朝が続いていた。茶道が勃興しつつあったが、茶子(ちゃのこ 茶菓子のこと)は柿、干しブドウ、焼昆布などが主だった。また点心があったがそうめんなどと同様のものだった。
僧侶は肉は食さないので、代わりに小豆を茹で甘葛という草の汁を絞って煮詰めた甘葛煎(あまずらせん)を甘味として加え小麦粉で包んで蒸した「まんじゅう」を作ったところ、たいへん好評だった。
当時、砂糖は高級で薬用として輸入され、その代用が甘葛煎だったが、甘葛煎も貴重で、甘味といえば柿や栗を干したものという時代だった。
これが塩瀬饅頭の誕生、わが国の饅頭の誕生となった。日本中どこでも見かける饅頭は、これが始まりだった。
「小麦の発酵した香り、ふわふわした皮の柔らかさ、艶やかさ、そして小豆餡のほのかな甘さ」と著書で表現されている(p19)。浄因は奈良でまんじゅう屋を始めた。
やがて後村上天皇(1328-1368)も気に入り、官女を林浄因の妻に下賜した。
林浄因は結婚に際し、紅白饅頭をつくり、諸方に贈り、そのうちの一組を子孫繁栄を願って大きな石の下に埋めた。これが奈良市の中心部、近鉄奈良駅から50mの漢国(かんごう)神社境内にある林(りん)神社の裏に今日まで「饅頭塚」として残されている。現在、嫁入りや慶事に紅白饅頭を配る風習はここに始まる。ただ林浄因は二男二女をもうけたが、望郷の念を募らせ、妻子を残して中国に帰ってしまった。しかし妻子がまんじゅう屋を続けていった。
別のサイトによると「5代目くらいでしょうか。林紹絆(りんしょうはん)が、中国に渡って宮廷菓子のつくり方を勉強してきたのです。それが薯蕷(じょうよ)饅頭です。大和芋を擂(す)って、米の粉と混ぜて作る皮ですね。もともと薯蕷饅頭は、中国の宮廷料理でした」とある。
餅(ピン)は小麦粉を練ったものだが、米、粟、ヒエなどを練ったのが「」(コウ 米へんに、善の上のほうを書き下にれっか(四つ点))であり、この皮は山薬●(さんようこう)と呼ばれる。塩瀬の菓子の進化がわかる。
まんじゅうの柔らかさは、いもの水気と粘り気とその日の湿気の三者が影響するが、結局、職人が手のひらに感じる柔らかさが決め手となる。職人がいうには、耳のところで引っ張ると「プッ」と音がする。それで仕上がりをみるそうだ。まさに「職人技」である。 塩瀬総本家のまんじゅうは600年間製法を変えず、手作りでつくっている。
さて、紹絆が帰国したときは応仁の乱のさなかで、とても京都で商売をできる状況ではなかったので、一族は三代目の浄印の妻の実家だった三河の国・塩瀬(愛知県設楽郡塩瀬)に疎開していた。それ以降名前を塩瀬と名乗るようになった。

本饅頭。左は豆大福
7代目の林宋二は本饅頭を考案した。これは小豆のこし餡に蜜づけした大納言を入れて、ごく薄い皮で包み、そのまま丁寧に蒸し上げた逸品だった(p66)。宋二は徳川家康と親しく、長篠の合戦(1575)の際、陣中に献上し、本饅頭を兜に盛って供え、勝利を祈願した。そこで本饅頭は兜饅頭とも呼ばれる。
この宋二は文化人で出版にも乗り出し「饅頭屋本節用集」を刊行した。節用集は用字語釈を示した国語辞典のような書籍で、イロハ引き実用辞書の総称ともなった
宋二は京都南家の当主だったが、北家の当主・宗味は茶人でもあり、利休の孫娘・栄需を妻にした。宗味は帛紗(ふくさ)を改良し紫色の「塩瀬帛紗」を売り、好評を博した。茶子としてつくり始めた饅頭だが、帛紗も塩瀬と深い縁がある。わたくしは茶道のことはまったくわからないが、「塩瀬の帛紗」は普通名詞になっているそうだ。
戦後の塩瀬は、結婚式などの引き出物としての菓子を中心に販売し、いまは松屋銀座、大丸東京、日本橋高島屋など多くのデパートに支店がある。メニューもまんじゅうだけでなく、干菓子、生菓子、羊羹、ゼリー、栗ぜんざい・葛きりなどにレパートリーを広げている。

立教学院発祥の地(明石町10)
居留地とのかかわりでいうと、塩瀬総本家の本店がある場所はかつて居留地の一部でユニオン・チャーチがあった地である。ユニオン・チャーチは、すべての外国人が礼拝できる教会で、居留地17番Bに1872年(明治5年)から1902(明治35)年まであった。教派を超えて、横浜、神戸に次ぎ日本で3番目にできた。1899年に条約改正で居留地がなくなったため、その後数年で原宿に移転した。また研究会の会場、聖路加病院からわずか200-300mの間に、立教学院、立教女学院、慶応義塾、明治学院、青山学院、女子学院、暁星学園などの学校の発祥の碑やアメリカ公使館跡の碑などがいくつも建っていた。

講演の後、エクスカーションでお店を訪問したが、店でも詳しくていねいな説明があった。壁には、室町幕府8代将軍・足利義政直筆の「日本第一番 本饅頭所林氏 鹽瀬」という五七の桐花紋が入った看板が掛けられている。戦前には現存しており写真を元に1983年に復元したものだそうだ(62p)。足利義政(1436―1490)は晩年に銀閣をつくり、妻は日野富子である。

また驚いたことに店の奥のほうに、庭付きの茶室が建てられていた。林浄因の「浄」も入れて「浄心庵」という名前にしたそうだ。白砂の石庭だけでなく、手前には川や橋までつくられていた。

川島さんは、90代なので、かわいいという表現は失礼かと思うが、先日亡くなられた日舞の人間国宝・花柳寿南海さんに少し感じが似た小柄で、かわいらしい婦人だった。

豊洲市場の開場と築地の今後

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10月11日(木)豊洲市場が開場した。一般見学も13日から始まったので15日に見に行ってみた。晴海大橋の手前から銀座方面の車道は渋滞していた。水産物や青果の業者の方は関係者なので、ある意味では環2暫定開通までの約1か月仕方がないともいえるが、都バスや江戸バス(区バス)の乗客はとんだとばっちりである。
まず水産仲卸売場棟へ向かう。豊洲は築地市場の約1.7倍、約40万平方メートルということだが、とにかく広く延々と歩かされる。まず到着するのが魚がし食堂だ。築地にもあったカツサンドのセンリ軒、親子丼の鳥藤、とんかつの小田保などが並んでいた。築地で早朝から外人客の列ができていた寿司大は、まだ外国人観光客がそれほど来ていないせいか以前ほどの行列ではなかった。寿司の価格は3000円から5000円程度。まれに2500円で食べられる店があると行列がすごかった。

すき間から1階を見下ろすだけの見学者コース
その先に仲卸の見学エリアがあった。しかし2階から1階を見下ろすだけで、それも店舗の屋根部分のすきまからのぞくような形で、ほとんど何も見えない。商品はほぼ何も見えない。出口のあたりに「魚がし横丁」という一般見学者も買えるエリアがあり80軒近い店が入っている。茶葉や海苔、つけもの、卵焼き、包丁、包装用品、ゴム長などの店はあるが、驚くことに魚や野菜を扱う店は1店もない。

豊洲には、驚くことに魚や野菜を扱う一般客向け店は1店もない
豊洲の「売り物」のひとつ屋上庭園から下りるエレベータのなかで、「たったこれだけか? 少しぐらい店をみせてくれたっていいじゃないか!」というつぶやき声が響いた。乗り合わせたみなさん、納得の表情だった。歩くだけ歩かされ、まるでアトラクションのないTDL見学のようだった。
次に道路を隔てた水産卸売場棟に向かう。
ガードマンの方に「マグロのセリは何時からか。また人数制限はあるのか」と聞いてみた。「わたしたちには何も知らされていない」というので「どこで聞けばよいのか」と尋ねると「それもわからない。豊洲市場のサイトをウェブでみて判断してほしい」とのこと。東京都らしいお役所的な運営手法だと思った。
最後に青果棟に行った。通りに、なのはな、いちご、えんどう、わさび、さくらんぼ、などのプレートがあり、それぞれ生花、果物、野菜などの店が集まっていたので、少し期待する。しかし水産物と同じく天井方向のすき間からのぞく感じで臨場感はまったくなかった。
築地に比べ、見学客にとって交通事故の危険を感じず歩ける市場でその点はよかったが、肝心の魚や野菜といった商品を見ることも買うこともできない市場なのだからつまらない。

仲卸し売場棟の屋上庭園
豊洲は移転前からいろんな不具合が指摘されていた。10月9日の文春オンラインに要点がまとめられていたのでポイントを紹介する。
 1 建物が傾いていて9月上旬に横幅約10メートル、段差約5センチの大きい「ひび割れ」が発見された。しかも都はその事実を把握しながら隠ぺいしていた。埋立地なので、地盤が弱いようだ。
 2 床が薄くターレが走り回るには床耐荷重が足りない。たとえば2.5トン積めるフォークリフトなのに800キロの積載制限を設けている。床が抜けないようにという予防策なのだろう。
 3 自慢の地下水管理システムだったはずなのに、9月下旬、汚染水がマンホールから噴出した。
 4 湿度が高い。カビが生えるかもしれない。
 5 水産物と青果との買い回り動線を考えていない設計
 6 サイドが開くトラックに対応していないトラックヤード。
 7 卸棟と仲卸棟をつなぐターレ用地下道を泥縄式でつくったが、狭くてカーブが多く危険
  ・・・など。
そういえば、マグロの解体ができない仲卸店舗の狭さとか、昨年8月には長雨のせいで90店舗以上でカビが大量発生ということもあったが、どうなったのだろうか。
また、そもそもの大問題、土壌汚染とそれに伴う有害な汚染地下水、そして「食の安全」が何も解決されていない。

「見学は9月29日で終了しました」とのパネルをもつ警備員
これに先立ち10月6日(土)は築地市場閉場の日だった。前日までの小雨が上がり、9月並みの暑さが復活した日だった。
勝どき門はいつもと同じようにトラックや車がたくさん出入りしていた。波除神社の前には、移転反対の「築地でええじゃないか」の大きな旗の前で「豊洲で不備が発覚すればいつでも築地に戻ってくる」というスピーチの声が聞こえた。
海幸門は開いていたが、警備員が「水産・青果仲卸売場の見学は9月29日で終了しました」というパネルを手に、一歩も売場の方向には進めないようバリケードを張っていた。そ一方、警備員や市場の方向にカメラを向ける一般観光客がたくさん並んでいた。
ただいつも外国人観光客が列をつくっている8号館の大和寿司や寿司大は、数日前に閉店ズミだったが、牛丼の吉野家1号店は客が群れをなして並び「最後尾はこちらです」というプラカードを手にしたスタッフが対応していた。

さらに1週間前の9月29日(土)の午後、築地市場から霞ヶ関の農水省へ向かう参加者300人(主催者発表)の大きなデモが小雨のなか実行された。
有名な方では、共産党の笠井亮衆院議員、吉良よしこ参院議員、宇都宮健児さんなどが参加していた。
東京ガスの工場跡地で、いまも有毒物質満載の汚染地であること、豊洲市場は床加重が不足している件、開場間近なのに壁のひび割れがみつかった件など、「築地市場はまだ100年もつ。豊洲市場はポンコツ市場」とデモ隊の声が築地に響いた。

7枚の「解体工事のお知らせ」
築地市場の境界フェンスには解体工事のお知らせが7枚並んでいた。青果卸売・仲卸売場、青果別館、水産仲卸売場、東卸冷蔵庫など7工区に分けそれぞれ2-3社の共同企業体(JV)で施工するからだ。「発注者氏名 東京都知事小池百合子」という名前がやけに目立った。2年前の都知事選では、「立ち止まって考える」とアピールしていたのに2年立ち止まっただけで、根拠のない安全宣言を出し、いまでは解体工事の「責任者」である。皮肉というか、なんとも感慨深い。

閉場の日の場外市場は、いつものとおり、外人観光客が大入りだった。一見歩行者天国の道路にみえるが、警備員は「ここは車道です。車両の通行を妨げないよう、通すようにしてください」とスピーカーでテープを流しながら歩いていた。
しかし魚や野菜を一般客が買えない豊洲は問題だが、市場のない築地場外市場も、そのうちボディブローのように影響が効いてくるだろう。

関東大震災後の1835年に開場して以来83年の歴史は終了した。前日の金曜には、「これを機会に廃業する」と昼にあいさつを兼ねて近所の豚カツ屋に「最後の食事」に来た業者の方も多かったそうだ。
これから築地がどうなるのか。2020東京オリンピック終了後の跡地利用のプランが決まらないと何も決められないかもしれない。アベが望む国際カジノ場になるかもしれないし、中央区が本腰を入れ、来年7月からますます活発化するホテル街になる可能性もある。
だれも体験したことがない築地の新たな世界が始まる。

「区民スポーツの日」に高齢者スポーツを考える

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わたしの住む区では、毎年秋に「区民スポーツの日」というものがあり、目玉のひとつはマラソン大会である。マラソンとはいうものの長くて10キロ、わたくしが出たのは50歳以上の男女混合5キロなので、マラソンとはいえない距離だ。

これを機会に高齢者のスポーツについて考えてみた。友人たちとの話によく出てくるのはウォーキングである。図書館までの往復とか犬の散歩が多い。これらはたいてい毎日なので、ラジオ体操と並び高齢者スポーツの「王道」である。
次はトレーニングで、「ほぼ毎日行っているので、体がずいぶんスリムになった」という人が結構いる。それに類したものでは水泳や太極拳がある。たしかに朝プールに行くと、高齢男女の常連客が多い。
もっとスポーツらしいものでいうと、ゴルフやテニスをやっている人たちがいる。あまり親しくないので、どの程度の頻度でやっているのかはわからない。だが、とても楽しみにしている。もっと激しいものでは不惑(あるいは還暦)ラグビーや剣道をしている人たちがいる。ただ、それは高齢者の体調維持のレベルを大きく超えた「趣味」の世界といえる。
わたし自身は、30代のときに週1度トレーニングを始めた。若い女性の間でエアロビクス(有酸素運動)教室のブームが終わりトレーニングに切り替わったころだった。目的は体調維持のための「何か少しは運動でも」に過ぎなかった。最初に行ったところでは、サーキット・トレーニングを5セットほどやらされた。非常にきつく、3セットほどでへばった。しかし2回、3回と続けるとやがて習慣になり、行けない週があると「なんとなく気持ちが悪い」状態になった。その後勤務先の変更や転居などで、トレーニングの場所は5か所ほど変わった。しかしわたくしがやっていることはどこもほぼ同じで、10種目ほどを基本的に2セットこなしている。
その間での大きな変化は屋外のジョギングが加わったことだ。はじめは室内のトレッドミルを使っていたが、ベルトの上を二十日鼠のようにクルクル走ったり跳ねるよりは、外の空気を吸いながら走ったほうが気分がよいことに気付いた。それでトレーニングの最後に外の公園を走ることにしたのは30年ほど前のことだ。
そのうちウェスト(お腹)が出てきて、週一度では追いつかないことを自覚し、もう一日ジョギングをやることにした。トレーニングは休日にやっていたので、もう一日は平日夜、勤め帰りということになる。ちょうどそのころ銭湯で服を着換え皇居周回ジョギングをしているOBがいることを聞き、その人にならうことにした。初めは大手町(神田)の稲荷湯、事務所が引っ越してからは半蔵門のバン・ドゥーシュで、両方とも皇居周回の「聖地」である。はじめは体調維持がいちばんの目的だったが、やがてストレス解消に目的が切り替わっていった。さらに気持ちよく銭湯につかるための準備運動としてのジョギングになり主客転倒してしまった。そして銭湯通いが週1回から2回に増え、うち1回は皇居周回だが、もう1回は代々木公園、神宮外苑、落合の近くの山手通り沿いなどから選択、と範囲が広がっていった。走りながらみる景色も変化するのでよかった。これで週3回のエクササイズとなる。
その後、大病をしたり退職したりで環境が変わった。
週に一度のトレーニングはいままでどおりだが、銭湯&ジョギングはなくなった。その代わり65歳以上は100円で入れる銭湯、もしくは敬老館での無料入浴を発見し、ジョギング帰りに風呂に入るようにしている。敬老館はどうやら常連が多いようだ。わたくしはせいぜい週1度だけなので常連にはなれないが、顔をわかる人も出てきてあいさつするようになった。
冬になると寒くて体にこたえるので、1月以降はプールに行くことにした。これも65歳以上は公営スポーツ施設を無料で使えることが大きい。平泳ぎは子どものころ水泳教室(とはいっても古式泳法で有名な学園)にいっていたので泳げるが、ほかは25mクロールを泳ぐと「息も絶え絶え」という状態だった。そこで昨年はクロール教室、今年はバタフライ教室に通った。おかげでここ1か月クロールで100m泳げるまでに上達した。バタフライは25mがやっとという状態でまだまだである。
原則として週3回汗を流しているのなら、きっと健康は大丈夫だろう、とみんなに言われる。だがそれはまた別の話である。寄る年波で、ちゃんと3軒の医者に通院し、薬も毎日3種類服用している。高齢者の医者通いについては、そのうち稿を新たにして触れてみたい。

土佐礼子とM高史(左)
さて初めの「区民体育の日」の話に戻る。
もともと体育は苦手、とくに野球、バスケットなどボールを扱う種目は苦手で、学生のころ「体は小さいし足は遅い。おまけに多摩扱いはへた、と三拍子揃っている、と評された。自分でも文科系だと思う。上記のようにジョギング歴は20年近くになるが、レース出場は長く避けてきた。性格がマジメなので、きっと本番までに計画的に練習することになりそうだったが、「義務」で走るのはイヤだったからだ。しかしこの年になればよいかもと昨年初めて出てみた。いまは1-2キロしか走っていないので、5キロ完走できるかどうか不安だった。それで事前に何度か練習し、完走できそうな自信がついた。今年は、スタートの位置取りを失敗し、後ろから何番目かだったので気分的に焦った。きっと昨年より悪い記録だと思ったが、結果は順位は下だがタイムは10秒ほど上回っていた。この日も土日のみ昼の12時から営業している銭湯に寄って汗を流した。
今後もこれ以上の距離を走るつもりはないし、年寄の冷や水にならないよう、ほどほどの運動を末永く続けていきたいと願っている。スポーツの日からもう3週間近くたっているのに左膝が痛くなってきた。整形外科に行くとレントゲンを撮ってくれたが骨には異常がなく、水もたまっていない。とりあえず湿布をしているだけだ。高齢者にとってのスポーツは、趣味でやっている人を別にすると、こんなところが落ち着くところではないかと感じる。高齢者にとってのスポーツは、趣味でやっている人を別にすると、こんなところが落ち着くところではないだろうか。

相撲体験(写真は2017年)
なお、スポーツの日ということで、マラソン大会にはM高史の準備体操、ゲストランナー土佐礼子(昨年までは有森裕子)のトークがあり、そのほか、元読売ジャイアンツ仁志敏久の少年少女野球クリニック、平野早矢香の少年少女卓球クリニック、相撲体験などさまざまなイベントが開催された。

昨年のゲストランナーは有森裕子だった

青年団の「ソウル市民1919」

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青年団の80回公演「ソウル市民1919」をこまばアゴラ劇場で観た。青年団の芝居は、たとえば今年6月にも観たがこのところずっと吉祥寺シアターだった。ブログの記録をみると2009年12月の「北限の猿」以来なので、10年ぶり近くになる。

わたくしは「ソウル市民」(初演1989年 時代設定は1909年 韓国併合の前年)と「ソウル市民1939 恋愛二重奏」(2011年)は2011年秋、「ソウル市民 昭和望郷編」(時代設定は1929年)は2006年に初演を見たが、「ソウル市民1919」(初演2000年)はまだ見ていなかった(その4つのほか「サンパウロ市民」という作品があるそうだ)。
まさに3・1独立運動開始の日の午前にフォーカスした作だ。わたくしは、3・1朝鮮独立運動の周年集会(もちろん韓国で行われる集会ではなく日本での集会)には、毎年ではないものの10年以上参加しているので、もちろん関心があるテーマだ。
明治末期に朝鮮に渡り文具店を経営する日本人一家の、能天気さと心のなかの根深い部分に巣食う朝鮮人差別を描く作品だ。この芝居は東京で11月11日まで公演されたあと、12月2日まで地方公演が続く。以下はネタバレ注意でご覧いただきたい。

初演のころの「悲劇喜劇2000年7月号」(早川書房)の「『ソウル市民』から『ソウル市民1919』へ」(p20-22)というエッセイで、平田は「(1919年3月1日の午前中)半日の日本人の有り様を、徹底的にコミカルに描き出すことで、植民地支配者の滑稽な孤独を浮き彫りにしようと考えた」と書いている
篠崎一家は、病気で寝ている大旦那(舞台に姿は現さない)、息子夫婦(いまの主人)、興業部門を統括する叔父夫婦、内地での結婚に1年足らずで失敗し出戻った妹、大旦那の妾の子の6人が主要人物で、そのほか書生、番頭(経理部長)、女中(日本人2人、朝鮮人2人)の富裕な大家族、さらに妹の友人とその母、オルガンの先生、そして内地から興業にやってきた相撲取りと興業師が登場する。
「朝鮮人は牛も馬も食べるが、四足でも机は食べない」「じゃあシナ人と一緒だ」(p15 ページ数は劇場で購入したシナリオのページ数、以下同じ)、女中も(書生に向かって)「あんたたちみたいなのがいるから、朝鮮人にまでバカにされるのよ」(p4)と朝鮮人女中の前で平気で言い、妾の子も「お袋死ぬまで、この家来ちゃいけなかったんだ。犬、朝鮮人、妾の子、玄関からはいるべからずってね」(p25)と、素朴な差別観が表出されている。この点は「ソウル市民」で「裸になったとき、朝鮮人と日本人の見分けはつくか」というセリフが出てきたことが思い出させた。
「朝鮮が一緒になりたいから一緒になったんでしょ」(p25)、「でも朝鮮人は、みんなで何かするってことが出来ませんからねぇ」「すぐ喧嘩しちゃうんだから」(p27)。
「ソウル市民」で紹介されたように、篠崎一家は教養もあり上品な家なので「これからは、殖産興業だけではなくて、文化でしょうね」「文化、芸術、スポーツなどを通じて、内鮮一体を実現していく」(p22)、「内地で米が足りないからって、その分を朝鮮に作らせるっていうのは、どうでしょう」「最近の総督府のやり方は、僕もどうかとは思ってるんですけどね」(p34)という「理屈」は頭に入っている。
出戻りの幸子はさらに徹底している。「わたしは、朝鮮で、朝鮮人たちと楽しく暮すの」(p40)とはいうものの、その理由は「内地はじめーっとしていてわたしにはダメなんですよ。(嫁ぎ先の地主の家に米をもってくる小作人をみて)あんな貧乏な日本人見たの初めてだったんだもん。びっくりしちゃって」(p39,40)と、日本人は豊かで朝鮮人名貧しいのが当然という思い込み丸出しのいう無邪気さである。
篠崎家からも女中たちが次々に「失踪」する。「どうして出かけるの?」「朝鮮が独立したんで」「は?」「どうも、いろいろとお世話になりました(略)」「さよなら」(p52,54)、日本人たちはきょとんとしているが、出ていってしまう。これに対し奥さまは「なんか、なくなっているものないかだけ、見といたら」(p39)と無自覚のまま口走ってしまう。
しかし、なぜこの日、町中の通りに朝鮮人たちが集まって「ニコニコ」し、「マンセイ」を叫ぶのか、想像もつかない。何年も現地で暮らしているのにハングルを覚えようという気はないし「マンセー」が「万歳」だということにやっと気づくか気づかないかというありさまだからだ。

この後も、「結婚するならロシアの亡命貴族なんか、いいんじゃないか」(p56)、オルガンのお稽古、庭の石を動かす、などとりとめもない話が続き、ラストは「東京節」の替え歌で
「京城の中枢は明治町
  パゴダ公園、慶福宮、
  いきな構えの三越に
  いかめし館は総督府(略)
 ラメチャンタラ ギッチョンチョンデ パイノパイノパイ」
を3番まで振りをつけて女性3人に日本人女中まで加わって歌うが、
「シナもロシアも朝鮮もみんな仲良く京城で
 東亜の夢が花開く」
まで行くと、ちょっと狂気じみているというか、「夢みる日本人」というか・・・。なお、この京城版の歌詞の替歌は、ユーチューブを検索しても出てこない。ひょっとすると、この芝居のために平田がつくった歌詞なのかもしれない。才人である。
朝鮮侵略や差別のルーツは幕末の吉田松陰あたりにあるのかもしれないが、普通の日本人にとっては、やはり1910年の韓国併合が大きいと思われる。差別感は100年後の現在も日本社会に根深く残り、街頭でのヘイトスピーチなどではっきりみられる。たとえば東京朝鮮高校裁判の高裁判決(敗訴)も、下村や安倍の差別感の反映のひとつといえるかもしれない。

2階が70席ほどの小さいホールになっている
役者では、まず島田曜蔵だ。
「ソウル市民」には謎の手品師、3作「昭和望郷編」には満蒙文化交流青年会の一団、「1939 恋愛二重奏」にはヒトラー・ユーゲント(ドイツ青年愛国同盟)の少女が出てきた。この作品には相撲取りが出てくる。相撲といえば日本の「国技」だが、関取・甲斐ガ岳は体こそ大きいが気はとても小さく、余興で「熊や虎」と取り組まないといけないかも、と想像しただけで、椅子のクッションにお漏らししてしまうほどである。あげくにマスクをかけて、内地に逃げ帰ってしまう情けなさだ。「ごっつあんです」というセリフを連発する島田曜蔵がコミカルに・演じていた。
そして朝鮮人女中役のたむらみずほ申瑞季(シン・ソゲ)のアイルランド民謡「霧の滴」(Foggy Dew)がすばらしかった。感情の起伏にに満ちた哀切なメロディが2人の朝鮮人女中により韓国語で歌われる。てっきり、朝鮮の抵抗の歌かと思ったが、じつはアイルランドのイングランド軍に対する抵抗の民謡だそうだ。東京朝鮮中高級学校の女声合唱で美しい歌声は知っていたが二人のデュエットもとても美しく?迫力があった。ただ歌のあと3分ほど韓国語の台詞が続くので、ここまで続くのなら字幕があるとよいと思った。
そして堀田由美子役の井上みなみ荻野友里の幸子と同年代という設定にはムリがあったが、溌剌とし無邪気な演技をみて、将来青年団を背負って立つ女優に育つかもしれないと感じた。

19時半開演、19時10分開場(自由席)なので、19時前に駒場の駅に着いた。まだ寒くはないもののとっぷり日は暮れている。前は吉祥寺シアター同様外に並ぶしかなかったと思うが、いまは1階の室内でも待てるようになっていてチラシ、販売本のほか、上段に現代日本戯曲大系(三一書房)、シェークスピア全集などが図書室のように並んでいた。
向かいは東大電気という昔ながらの電器店、隣はマイバスケット、その先に居酒屋かこ、手前に南海食堂 昔ながらの小さい商店街なのでなつかしい感じがする。

舞台には6人がけの大きなテーブルがあり、大きな食器棚が二つある。なかのティーカップ、グラス、皿、茶碗など高価そうにみえる。吉祥寺シアターと異なり、舞台と客席の距離がずいぶん近いのではっきりクリアにみえるせいもあるのだろう。そういえばテーブル、椅子などインテリアも高価そうだ。かつてここに来ていたころみた小道具、大道具とはレベルが数段違うような気がする。そういえば役者の発声や演技もかつてとはレベルが違うような気がする。あのころの青年団はどこに行ったのだろうか。

「悲劇喜劇2000年7月号」のエッセイで平田は「この年の4月に私は劇団員の筒井陽子と結婚した。5月、連休を利用して、私たちはヨーロッパに新婚旅行に出かけた。(略)十年ぶりの欧州の地で、私は「ソウル市民」の構想をほぼ固める。(略)帰国後、数週間で私は一気に「ソウル市民」を書き上げた」と書いている。
先のわたくしの09年の記事の末尾に「ひらたよーこさんが開場前の案内をやっていた。そしてハネてからも寒いなかあいさつのため立っていた。こまつ座の井上都さんもわりと最近まで紀伊国屋ホール入口であいさつに立っていた。好感をもてる」と書いていた。10年の時間の差は意外にというか、じつにというか遠いことを実感した。

☆久しぶりに渋谷の「とりすみ」に行った。井の頭線の出口から50mのところにあるが、行くのはたぶん20年ぶりくらいだ。これも元は浜田信郎さんの「居酒屋礼賛」で知った店だ。この日は、エリンギのバター炒めとお腹がすいていたので焼きそばを食べた。酒は日本酒と焼酎のお湯割りだった。
たまたまカウンター席の隣の席が20年くらい通い続けている常連さんで、話が弾んだ。駅そのものも含め変貌が激しい渋谷。富士屋本店も閉店したが、こういう安くてボリュームが多く、かつ落ち着いて飲める店がまだ残っているのはありがたいことだ。

エリンギのバター炒め
☆本題とは離れるが、女優の角替和枝が10月27日原発不明がんで亡くなった。64歳とのこと。芝居つながりということでここに記す。わたくしは「ヒポクラテスたち」(1980年大森一樹監督)の医師夫婦の気の強そうな若妻の印象が強い。プロフィールで、内田栄一の東京ザットマンで芝居をはじめ、つかこうへい事務所を経て東京乾電池に移籍ということを知った。どこかで舞台もみていたかもしれない。哀悼の意を表する。

公使館、教会そして学校のまち明石町――築地居留地ツアー

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今年も11月4日に「中央区まるごとミュージアム」が開催され、「築地居留地ツアー」に参加した。
今年は安倍政権が明治150年キャンペーンを張っている。築地の北・明石町は、いまでは聖路加病院と聖路加国際大学以外はごく普通のマンション街だが、150年前には東西500m、南北300m(周囲の日本人も住む雑居地域を含めてもその3倍)ほどの小さな区画に居留地があった。
ガイド役は、NPO法人築地居留地研究会のスタッフの方が務められ、まず築地居留地について概要説明があった。なおこの記事を書くにあたり、「築地外国人居留地歴史マップ(築地居留地研究会)、「東京築地居留地百話」(清水正雄 冬青社 2007)、「築地外国人居留地」(川崎晴朗 雄松堂出版 2002)を参考にした。

立教学校の校長で建築家・ガーディナーが本願寺の屋根に上って1894年に描いた居留地のスケッチ(立教大学所蔵)
築地は埋立地である。江戸開府から50年ほどたった1657年3月の明暦の大火で江戸市中の大半が消失した。その瓦礫を埋め立ててつくったのが築地で、浅草横山町にあった西本願寺も明暦の大火で消失し移った寺だった。赤穂藩の上屋敷をはじめ、上位の幕臣の住居がある地だった。
幕末の1858年、幕府は日米修好通商条約を締結し、7都市を開港開市することにした。まず59年に神奈川、長崎、函館が開港、すこし時間はかかったが維新後の1869年1月1日、一番遅く築地が開市、新潟が開港し外国人居留地が設置された。そのため居留地にあった武家屋敷や民家は移転させられ、更地になった。また木管の下水を敷設し、その遺物がタイムドーム明石をつくるときに発掘された。なお、開港と開市の違いは、開港は埠頭が必要で、外国人は借地権と建物所有権を有した。その一方、開市では建物所有権はなく借家権だけあったことだ。
ただ、築地は横浜や神戸と違い、海が遠浅なので大きい船は入れない。そこで見切った外国人貿易商は横浜に戻ってしまった。もともと52区画のうち20区画しか借主が現れない不人気で、すべての区画がさばけたのは15年後の84年だった。貿易商のあとにやってきたのが、外国公使館、教会、学校などだった。そこが神戸、横浜、長崎などと築地が大きく異なる点だった。
公使館ではアメリカ公使館がその代表である。1874(明治7)年から90年に赤坂に移転するまでこの地にあった。石標が8つ残っており、うち3つは赤坂のアメリカ大使館に寄贈され、ここに5つ残っている。

聖路加大学敷地に残る星と白鷲と星条旗の石標
その後1899(明治32)年7月に不平等条約が改正され、居留地は廃止されたが洋館は残った。しかし1923年の関東大震災で焼失・壊滅してしまった。いま明石町に残っているのはトイスラー記念館(1933年宣教師館として竣工)、カトリック築地教会(現在の建物は1927年竣工)といずれも震災後のものだ。強いて挙げれば、アメリカ公使館の石標、明石小学校脇のイギリス積みの煉瓦塀くらいしか残っていない。
学校関係では、慶応の碑は1970年代からあったが、明治学院以降の9つの学校の発祥の碑は築地居留地研究会の活動の成果ともいえるそうだ。そこでこの日のツアーも学校跡地の碑を中心にみて歩く会になった。

人数の関係で二手にわかれてエクスカーションが始まった。まず集合場所の聖路加病院の敷地内にあるトイスラー記念館をみた。トイスラー(1876-1934)は聖路加病院の初代院長のアメリカ人宣教医師である。宣教師館として1933年に建築された2階建ての洋館で、立派な暖炉があった。壁面に小さな写真がびっしり掲示されていた。英文の聖書に、ところどころ「Chichi to Ko to Seirei」「Hajime ni ari,ima ari」などと日本語の発音をローマ字でタイプ打ちした紙が貼りつけられている。当時の宣教師が日本語で布教しようとした特別な聖書だった。
かつては200mほど東に建っていたが98年の病院大改築の際、この場所に移築されたとのこと。地下1階にはボイラーがあったが、いまは災害時用の貯水スペースに転用されている。

トイスラー記念館(1933年建築)
居留地近辺は、その門前町となり外国人向けの商店や、外国人向けに牛乳をつくる牧場ができ、芥川龍之介の父・新原敏三が牧場「牧耕社」を経営し、芥川は長男としてこの土地で生まれた(ただし掲示板は生地の少し南にある)。居留地の南西隅に「生誕の地」の掲示がある(実際の生誕地はもう少し北のほう)。ただ生後7か月で母の長兄・芥川家の養子となり両国で育った。なおこの土地は朝ドラ「あさが来た」で有名になった五代友厚が明治7年に福島県の銀山経営をするために事務所をおいた場所とのことだ。

居留地南の聖ルカ通り沿いの慶應義塾発祥の碑のところでちょっと驚くような話を聞いた。てっきり福沢諭吉がこの地で慶応義塾を開校したものだと思ったら、そうではなく中津藩士・岡見彦三が、同藩出身で大阪の適塾の塾頭になっていた福澤諭吉を講師に推薦して招聘し1858年に開いたのが慶應義塾だそうだ。講師は福沢以前に他藩出身の佐久間象山や松木弘安(後の寺島宗則)などが務めていた。

「慶應義塾発祥の地」の石碑。左奥は「解体新書」をかたどった蘭学事始地の碑
さて隅田川沿いの土手の明石町河岸公園を北に歩いて、下の道路を南に戻ったところにマンションが2つ並んでいた。ここは居留地6番A,Bの跡地(居留地の番号はこちらの地図を参照)で、かつて宣教師のカロザース夫妻が経営するA6番女学校と婦人宣教師ヤングマンが経営するB6番女学校という長老派系の2つの学校があった。その後この2校は新栄女学校として合併し、その後麹町の桜井女学校も合併して女子学院となった。
その西の17番にはまんじゅう屋の塩瀬総本家がある(この記事を参照)。この場所にはかつて英米の約12のプロテスタント会派共同のユニオン・チャーチがあった。ユニオン・チャーチが表参道に移転したあと、1906年にアメリカン・スクールが入ったが、白金(港区)生まれの元駐日大使ライシャワーが通学した。
また17番には東京一致神学校もあった。これはアメリカ長老教会、スコットランド一致教会、アメリカ改革派教会の3つが合同でつくった学校で1877(明治10)年に開設された。これが明治学院大学につながるので「発祥の地」の碑が設置されていた。ただ、明治学院はアメリカ長老教会の宣教医師ヘボン(ヘップバーン)が横浜で開いたヘボン塾の後継のひとつで、フェリスや女子学院の兄貴分ということになっていて、妹分の2校が兄より古いのはおかしいという先生がいたので、いまでは明治学院もヘボン塾開設の1863年を創立年としている。

その向かいの18番にはスコットランド一致教会の宣教医ヘンリー・フォールズ(1843-1930)の自宅があった。そして東京ではじめてのミッション病院「築地病院」を近くにつくり、日本人に目の障がい者が多いことから訓盲院をつくった(いまも築地4丁目に東京盲唖学校発祥の地の碑がある)。またモースの大森貝塚の土器で古代人の指紋を発見し、これをイギリスの学術雑誌「ネイチャー」に投稿し、科学的指紋の研究が始まった。これをきっかけに、指紋はスコットランドヤードや日本の警視庁など世界の犯罪捜査に応用されることとなった。
少し南が長老派系であったのに比べ、北のほうの13,14,15番のあたりはメソジスト系で13番には海岸女学校(その後の青山女学院)や青山学院発祥の地があり、14番には現在滝野川にある女子聖学院があった。

「雙葉学園発祥の地」の石碑
少し西のブロックはカトリックの系統になる。45番は雙葉学園発祥の地で、小さくかわいい「双葉」の石碑がある。「徳に於いては純真に、義務に於いては堅実に」という校訓が刻まれていた。道路の向かいの南側36番には、いまもカトリック築地教会があり、暁星学園発祥の碑がある。暁星はこの教会のなかの神学校で始まった。これらはフランスカトリック教会や修道女ラクロ・マチルドがいたサンモール修道会の影響下にあった。1874年に聖ヨゼフ教会として始まり、77年から1920年まで司教座があり、東京大司教館の地位を占めた(その後、文京区・関口教会に移転)。この教会は角地にあるが東西方向が居留地通り、南北方向が居留地中央通りと名付けられている。
居留地中央通りを隔てた西側の42,43番には米国バプテスト教会の系統の東京中学院(のちの関東学院)があった。そのはす向かいの37,38,39,26,27には立教女学院と立教学院があった。

中央区というと銀座や日本橋の印象が強いが、この明石町には日本に7つしかない居留地があった。もっと知られてよい歴史的事実である。ただ関東大震災で洋館はすべて消失し、なにも残っていない。これが神戸や横浜と違うところだ。もう少し整備されてもよいと思った。学校、公使館、教会というと、いまの港区のような街だったのかもしれない。30年ほどのわずかな歴史だが、歴史的価値は大きい地区だった。

なお居留地研究会は、アメリカ、ペルー、フランス、スウェーデンなど9か国の公使館があったので、今後も学校だけでなく大使館へも働きかけたいとのことだった。
また11月3日には第11回外国人居留地研究会全国大会がこの研究会主催で開催され「居留地と女子教育」というテーマで横浜、長崎、神戸など全国7都市から発表があった。

全国大会7都市のシンポジウム(聖路加国際大学アリスホール)
今年のまるごとミュージアムでは、ほかに泰明小学校の「泰明と銀座」展(泰明小開校140周年写真展)、新富座こども歌舞伎、京橋図書館の「平成のわがまち中央区」を振り返る(写真とベストセラー、資料の展示)、月島図書館の「小川幸治氏の絵にみる月島」(絵画展)、築地社会教育会館の区民文化祭作品展などをみた。

☆まるごとミュージアム恒例の銭湯巡り。今年は月島温泉に行った。温泉という名前だがもちろん銭湯だ。ビルの2階にあるが、この店が珍しいのは1階が月島観音という観音堂があることだ。これは戦後の1951年月島の西仲通り商店街の有志が長野の善光寺にお願いし如来像と観音菩薩像を「奉還」し、別院として観音堂を建立したものだ。そして再開発事業でビルになった2001年9月にこの場所に移設したと「縁起」に書かれていた。
下足入れが99、男性ロッカーが48、カランの数が17、風呂は水風呂、普通の温度の浴槽、電気風呂、サウナなどがある一般的な銭湯だ。珍しいのは露天風呂が付いていることだ。サイズは3人ほど入れるのでまあまあだが、景色はまったく見えない。都会なので仕方がないとあきらめた。
なお「洗面化粧台を使ったら、その度にぞうきんで拭くように」「自分の髪の毛は流しでなくゴミ箱へ」「飲料水持ち込みご遠慮ください」など細かい注意書きがたくさんあった。店の方に聞くと、銭湯のルールを全然知らない観光客がとんでもなく非常識なことをするから、とのこと。都心観光地ならではの苦労があるようだ。
大きなビルに入っていて、商店街の街路に面したところにはもんじゃ焼き屋が3軒、洋食屋と串焼き屋が各1軒、スーパーのダイエーが1店、裏の3階以上はマンションで60戸ほど入居しているのでかなりの規模のビルのなかの銭湯である。
住所   東京都中央区月島3-4-5 2F
電話   03-3531-1126
営業時間 14:30―23:45(土日・祝日12:00~23:45)
定休日  無休

スタートした即位大嘗祭違憲訴訟の会

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いまからほぼ30年前の1989年は、昭和天皇が1月7日早朝87歳で亡くなり、テレビは全局とも追悼番組のみで、民放の生命線であるはずのCMが消える異常な日々から始まった。国民「総謹慎」のような日常は前年9月の「下血」から始まり、死後しばらく歌舞音曲の「自粛」が続き、2月24日の大喪の礼を迎えた。
皇位そのものは1月7日に継承されたが、即位の礼は翌90年11月12日、大嘗祭は11月22,23日に行われた。使った国費も巨額で、89年12月の予算原案の段階で81億円、最終的には政府全体で123億円ともいわれる。日本はいまも「天皇制」が根強く残存し、「国民」に浸透していることを改めて思い知らされた日々だった。

それから30年、11月9日(金)夜、文京シビックセンターで「即位・大嘗祭違憲訴訟の会 立ち上げ集会」が開催された。呼びかけ人のあいさつに続き、30年前の天皇代替わりのときに大阪の訴訟で中心となり活躍した加島宏弁護士の講演があった。

2019年代替わり儀式の法的諸問題――先の即位礼・大嘗祭違憲訴訟の経験を踏まえて

               1990年即位・大嘗祭訴訟弁護団 加島宏弁護士
1 先の即位礼・大嘗祭違憲訴訟提訴
1989年天皇の死、そして90年になりあわただしく発表された即位礼・大嘗祭。あのときは大嘗祭は政教分離に反するので国の行事にはできないが、しかし国費は出すことに決定した。
わたくしは当時すでに政教分離の裁判に携わっていたので、即位礼・大嘗祭が日本の伝統文化といっても、もし伝統文化が憲法より上で日本を支配しているとすると、どう考えても理屈が通らない。そこでみんなで止めようという訴えかけをすることにした。90年7月、松山で行われた政教分離訴訟全国交流集会の終了間際に「訴状の案も委任状もできている」と呼びかけると、みんな「やろうやろう」と言ってくれた。しかも納税者であることを証明する書類を付けてもらったにもかかわらず、2か月で900人もの委任状が全国から集まった。

2 先の即位礼・大嘗祭に対する違憲訴訟提訴
この裁判は、思想信条、信教の自由、政教分離を打ち出しても一筋縄ではいかない。何かひとつ裁判所がひっかかるものをということで「納税者基本権」という権利を使うことにした。どんな原告でも、どんな宗教の信仰者でも無宗教者でも共通してもつ権利だからだ。
当時は朝日新聞阪神支局の銃撃(87年5月)や長崎市長銃撃事件(90年1月)、フェリス女学院大学学長宅への銃撃(90年4月)のあとの時期だったので、注目する人も多く9月の大阪地裁提訴の原告は987人、10月の第二次提訴で526人、11月の第三次提訴で147人、合計1700人弱の大原告団となった。
1人1万円の損害賠償を求めたが、92年11月の一審判決は本当に素っ気ないものだった。
原告はなんの被害も被っていない、心が痛んだというが、それは自分勝手な政治的信条や怒りの感情、憤激の情などにすぎず、裁判所はそういうものは認めない。したがってその他のことは何も判断しない。政教分離かどうかなど理屈に遡って判断するまでもなく、棄却する、というものだった。
徒労感に襲われたが、原告団と相談し、ふたたび委任状を集めて控訴した。
高裁の裁判官はこちらの話はちゃんと聞いてくれ、95年3月の判決は、結論こそ請求棄却だったが、注目すべきものだった。「大嘗祭が神道儀式としての性格を有することは明白であり」「少なくとも国家神道に対する助長、促進になるような行為として、政教分離規定に違反するのではないかとの疑義は一概に否定できない」。さらに即位礼が国事行為であることを認めつつ「現実に実施された本件即位礼正殿の儀は、旧登極令及び同附式を概ね踏襲しており、剣、璽とともに御璽、国璽がおかれたこと(略)神道儀式である大嘗祭諸儀式・行事と関連づけて行われたこと、天孫降臨の神話を具象化したものといわれる高御座や剣、璽を使用したこと等、崇教的な要素を払拭しておらず、大嘗祭と同様の趣旨で政教分離規定に違反するのではないかとの疑いを一概に否定できない」(略)「国民を主権者とする現憲法の趣旨に相応しくないと思われる点がなお存在する」とあった。
即位礼についてまでここまで、きっちり判断してくれるとは予想していなかった。
かつてない裁判所の判断だし、しかも高裁判決として温存したほうがよいと考え、全国の控訴人とも相談のうえ最高裁への上告は行わなかった。
ただ今後の裁判でも、国が原告の思想・良心の自由、信教の自由を侵害しどんな損害を与えたのか、原告がなぜ裁判を起こしたのか説得し、原告がどのように権利を侵害されたのか証明しないといけない。                           

3 2019年代替わり儀式で考えうる訴訟形態
わたしなりに、考えうる訴訟形態を考えてみた。2種類考えられる。
1)通常訴訟 
国を被告として国費支出差し止めや損害賠償請求する訴訟である。国費の支出や儀式の実行は、事実行為なので処分又は裁決を争う行政訴訟ではなく、通常訴訟になる。
2)住民訴訟
首長が即位礼や大嘗祭に招待され出席したときに、その費用の賠償を地方公共団体に対し住民が起こす訴訟である。前回は自然発生的に鹿児島、大分、東京など全国各地で住民訴訟が起きた。
住民訴訟がすばらしいのは、利益侵害の立証や、納税の証明書がなくても住民ならだれでも裁判ができることだ。なぜなら住民なら地方自治体の費用を負担していることが当然だとされているからだ。これは戦後、連合軍が地方自治を強化するため地方自治法242条の2の住民訴訟の条文に入れたからだ。

4 納税者基本権
納税者基本権とは「憲法に適合するように租税を徴収し、使用することを国に要求する権利」であり「憲法条項に従うのでなければ、租税を徴収され、あるいは自己の支払った租税を使用されない権利」である。
これについて当時日本大学教授だった北野弘久先生に教えを乞い、アメリカにも「taxpayers sue」(納税者訴訟)というものがあることを知り渡米して何人かの学者から学んだ。
しかし納税者基本権を好意的に評価してくれる学者は税法学の三木義一教授(現・青山学院大学学長)と憲法学の後藤光男・早大教授くらいしかいない。
ただ、この基本権を認めた判例はなく、学説も消極的だ。その理由は4つ挙げられる。
1)これを認める憲法・法律の規定がない
2)国民による租税の支払いと、政府による国費の支出とは法的になんら関連がないから、たとえ違憲の国費支出があったとしても、それによる納税者の具体的権利侵害など存在しない。これを分断論と呼ぶ。政府にとってまことに都合がよい理屈だ。
3)納税者訴訟は客観訴訟(客観的な法秩序の適正維持を目的とする行政訴訟)であり、特別の法律規定がない限り、我が国の裁判制度上許容されない。これは戦後の大御所、成田教授が論文で述べたもので、なかなか乗り越えられない。
4)権利として不明確。平和的存在権に対するものと同様の評価である。
分断論についてひとつ思い出がある。名古屋で、母親からの遺産相続の際、国家予算の6%が軍事費なので相続税の6%は納税しないという訴訟を起こした名古屋の弁護士や、自営業者で確定申告の6%分をわざと納税せず理由書を提出したが差押えられたとき「差押え処分無効確認」の訴訟を起こした人たちがいた。これに対し、裁判所の判断は、税金の使い方は議会が議決したものなので、国民は意見を言えないというものだった

次に今回の訴訟の弁護団からS弁護士のスピーチがあった。

憲法の「政教分離」の歴史的意義を再考察する

加島弁護士の整理のとおり、この訴訟は即位・大嘗祭差止めの形式を取り、内容としては政教分離が拠り所となる。今後数百人に上るとみられる原告団の権利がいかに侵害されたか、納税者としての権利、個人の信教の自由、思想・良心の自由など個別の権利が侵害された、あるいは侵害される虞れがあるから即位・大嘗祭を差し止める必要があるし、また強行されたなら国家賠償を求めることになる。憲法判断がされれば有利な闘いを進められるだろう。
加島弁護士の整理にあった大阪高裁の判決で、即位・大嘗祭が神道儀式と無関係とはいえないという判断は、今後も変わらないと考えられる。問題は、そこまで判断が至るかどうかだ。
信教の自由や政教分離は、特定の信仰を持つ人のみの権利なのかどうか、特定の信仰をもたない人にとって政教分離が自分の問題になるのかならないのか、この点を考えたい。
政教分離は信教の自由を保障する政治的なひとつの制度である。憲法の政教分離の歴史的経緯を考えると、GHQから神道指令が出て国家神道をやめ、新憲法をつくる際、神道と政治を切り離そうと設けられたことは間違いない。そこには個々の人の信仰の自由との関係というより、戦前の国家神道と政治のあり方、政府のあり方ではまずいという問題意識があった。そうなる前の戦前・戦中の社会はどんな社会で、人びとはどんな目にあわされていたのか、同じ過ちを犯さない制度というところに立ち至って、政教分離をもう一度裁判所で議論し判断しなければならないということを裁判官に述べたい
裁判は、もちろん原告の権利を保護し回復するためのものだが、もう一方で市民が公のものごとに関わるひとつの方法ではないか、一人ひとりが公の場で議論するための場、フォーラムなのではないか、と考える。国に対し裁判を起こし、そのなかで「わたしは一市民としてこう考える。ここがおかしいのではないか」と主張し、反論があり、それに対し、「法律や憲法に照らし、こう考えるのがよいのではないか」と議論の結果として判断を下すのが裁判のあるべき姿ではないだろうか。それが裁判所に求められることではないか、ということをぜひこの裁判で訴えたい。
具体的な段取りとしては、弁護団の皆さまと議論を進め、12月に訴訟を提起したい

現行憲法20条、89条の政教分離は戦前の国家神道に対する反省から生まれた。したがって特定の信仰をもたない人にとっても重要な権利である。この説明はじつにすっきりしていて、なぜ特定の信仰のない自分がこの訴訟に参加しようとしたか、腑に落ちた。
訴訟委任状はこのサイトで入手できる。

このあと、30年前の訴訟の事務局長、北海道の方、先日高裁敗訴判決が出た安倍靖国参拝違憲訴訟の弁護団などから、短いスピーチがあった。

元号表示のないスッキリした2019年カレンダー
☆代替わりまであと5か月に迫っているが、なぜかこの問題、天皇制の問題に関し異論があまり聞こえてこない。この種のものでは「新元号制定反対署名運動」がある。11月初めの時点で6000筆集まったそうだ。わたくしもいろんな場所で署名を募り60筆ほど集まった。署名はこのサイトからダウンロードできる(ウェブ署名はこちらのサイトから)。
いま市販している2019年のカレンダーの8-9割は西暦のみだそうでスッキリしている。いまでも西暦から1988を引いてはじめて平成の年がわかる仕組みになっているが、来年からはこの計算がもうひとつ増え2018を引く計算が必要になる。もうこんなことは今年限りにしてもらいたい。

議員会館前でスピーチする上西充子さん
☆天皇制以外にもうひとつ世間の関心が薄すぎるのではないかと懸念する問題がある。アベ自公政権がこの臨時国会で12月10日の会期中にムリに通そうとしている入管法改悪・在留資格新設の問題だ。宿泊業の食事の配膳やベッドメイキングといった単純労働で「熟練した技能」とはいったい何なのか、技能実習制度で失踪した外国人の調査データもデタラメだったが、聞けば聞くほど「現代の奴隷制度」に思えてくる。
ちょうど11月19日の総がかり行動で、翌日緊急行動があるということで20日(火)昼に議員会館前の「拙速な入管難民法改正案の撤回を求める緊急国会行動」に参加した。土建、介護労働、外国人移住者など関係労組も参加する充実した集会だった。政府の計画は、建設、介護、外食業など14業種で2019年度だけで47000人もの外国人労働者を受け入れるという規模の大きさだ。
この「奴隷制度」は、少子高齢化社会へのアベ政権の解決策でもあるが、日本の少子高齢化移行と同じくらいのインパクトの大きい問題だ。もっと積極的に深くとりくむべき問題だと強く感じる。
また、「ご飯論法」で話題の上西充子さんの「国会パブリックビューイング」という新しい試みも大きな可能性を感じさせるものである。

少しアッパーな店を訪ねた築地はしご酒2018

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11月17日、今年も築地はしご酒に参加した。第5回だがわたくしが参加したのは4回目。昨年は別件で遅れて参加し、しかも小雨が降って寒く、移動が大変だった。しかし今年はよい天気だった。出店数は2016年37店、17年43店からさらに増えて49店だった。
15時30分受付開始、16時集合なので、15時15分ごろ行ってみたが、すでに長蛇の行列、おそらく本願寺前に200人は並んでいた。前日までに1300人予約チケットが売れたという。

本願寺の内側だけでなく、外の歩道にまでかなりの人が並んでいた
受付し、15時45分ごろ「ギンザ うおぬま」へ直行した。昨年は18時半ごろ到着したところ、もう食べるものは売り切れとのことであきらめたのでそのリベンジだった。ただしその後一度だけ行った。新潟県魚沼産のコメしか扱っていないとのことで、たしかにさばの棒寿司はうまかった。
この時間なら屋外のイスで待つ1番だった。今回の500円メニューは、焼さば棒寿司、タラ白子ポン酢、のどぐろ一夜干しの3種類、そのなかからタラ白子ポン酢をお願いする。酒は鶴齢の冷やおろし。白子は久しぶりに食したが、いかにも白子の味で満足した。蔵元の青木酒造から応援の女性が手伝いにきていた。その方の話では、今日の鶴齢も4種類あり、雪男、冷やおろし、山田錦生原酒、あと一つはにごり酒だったか・・・。冷やおろしは9月ころからで、10月はさらに熟成させた酒が出てきて、11月になると今年の新酒が出始めるとのことだった。日本酒も毎月のように楽しみがあるそうだ。これははじめて知った。
規模はカウンター10席、奥にテーブル席が10席あるようだった。

鶴齢の冷やおろしとタラ白子ポン酢
「うおぬま」の前で並んでいると、次にやってきたのは7人ほどのグループだった。職場が築地で同僚のグループとのことだった。聞くとこのイベント参加3年目というので、推薦できる店をお聞きした。「築地の貝」がよかったとのことだった。ただし京橋郵便局の先で遠いので、距離を考慮したほうがよいとのアドバイスをいただいた。この日はそれほど急ぐ理由はなかったのでためしにいってみた。
高級レストランのような店構えで、カウンター内には男性が4人、板前さんではなく料理人とかシェフの感じで、うち1人は調理はせず指示だけ出すチーフのようだった。ホールは女性4人、うち一人は酒の管理専門のようで、席数はカーブを描いた大きなカウンターとテーブル席合わせて40席と規模の大きい店だった。
500円メニューはつぶ貝のエスカルゴ風、蛤の炭火焼、姫サザエのつぼ焼き、ムール貝のグラタンの4種類。わたくしは姫サザエのつぼ焼きと滋賀県湖東の酒・明尽を注文した。湖南というのは地図でみると野洲の南、草津線で甲賀に向かう途中の場所だ。サザエはメニュー写真でみた印象よりずいぶん小さかった。「姫」とあるのでこんなものかもしれない。酒は、ちょっとなんとも言えない。たしかにスッキリしていた。貝に合う酒というとこういうことになるのかもしれない。この店なら、ムール貝のグラタンと白ワインのような洋風のもののほうがよかったもしれない。
店を出ると塀のある立派な料亭が何軒かみえた。新大橋通りより西側(銀座側)にはいわゆる昔からの新橋芸者のいる店の町で、築地や新富町とは少し雰囲気が違う。

その帰りに、京橋築地小学校近くの「和み 竹若」に立ち寄った。この店は、はしご酒イベントの翌日から使える1ドリンクチケットで2回尋ねたが、1度目は年末で休業、もう1回は全席貸切で連続して入れない店だった。やはりリベンジで訪れた。
7階建てのビルの2階に入っている。1階は「鮨の竹若」という姉妹店。
例によって500円メニューはサバの煮びたし、ホタテの煮おろし、アジのなめろうの3種類。そこでサバの煮びたしと黒霧島のお湯割りを注文した。やっと入れたが、基本的には洋風で広いラウンジの高級寿司店の感じだった。隣のテーブル席は、どうやら航空会社の客室乗務員のような3人グループが談笑していた。

最後にもう一軒、この近くの熊ごろうに行った。この店ははじめのうおぬまで会ったグループの行きつけの店と聞いたので、いってみた。地下1階の店なのに、結構人が並んでいて行列の途中で注文を聞かれた。
500円メニューは北海道珍味3種、おでんだった。おでんと長野中野の清酒・勢正宗を注文した。おでんは予想と異なり手羽先のおでんだった。「あの宮川食鳥鶏卵店の手羽先!」というキャッチフレーズが付いていた。鶏の味がよく出た出汁でさすがにいつも行列している宮川食鳥鶏卵店でよかったが、店内に入る前の階段下での飲食となりやや興ざめだった。
どうしてこんなに人気があるのか、屋外のスタッフに聞くとマスターの人柄とのことだった。そういうタイプの店なのかもしれない。

今年は3軒にしておこうと思っていたが、結局昨年、一昨年と同じく4軒になった。一品一杯では落ち着かないので、そういうことになる。16時に飲み始め、それなりに歩いたはずなのだが、17時半頃に飲み終えてしまった。
どういうわけか今年はちょっと高級そうな雰囲気の店ばかりで、隣の席の人と仲良くなるタイプの店ではなかった。ただ熊ごろうは違うかもしれない。

秋葉原の駅から260mの場所にこんな店が・・・。
☆築地はしご酒ではないが、最近、ずいぶん久しぶりに秋葉原の赤津加に行った。ブログに書いたのは2009年3月なので10年近く前、その後一度来たように思うが、久しぶりであることは確かだ。この日は昭和通のほうから来たので、つくばエクスプレスのトンネルをくぐったりしていて道がわからなくなってしまった。かつては電気街だったが、ネコ耳の客引き女性がいたりして違う町に来たような気がした。
やっとたどり着いたのは開店直前の17時だった。白い壁に黒塀で、以前も場違いな感じはあったが、いっそう異次元の感じが強まっていた。しかしいい店であることは変わらず。30分くらいで満席になった。いままでは一人だったこともありカウンターばかりだが、今回は菊正宗の看板の下の一番奥のテーブルに座った。ひとつ手前は外国人グループが談笑していた。現在の秋葉原らしい光景だ。
この日頼んだのは、穴子の白焼き、カキ鍋、煮込み、お新香盛り合わせ、など。飲み物はもちろん菊正宗の燗酒と芋焼酎だった。
居心地がよくついつい長居してしまった。

辺野古新基地建設強行を許さない 山城博治・怒りの絶叫

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安倍・菅・岩屋政権は沖縄の辺野古への土砂投入を12月14日(金)に開始することを宣言している。長年の沖縄県民の願い、故・翁長知事の対日本政府との闘い、民意の結晶ともいえる玉城デニー知事誕生と玉城知事の強い要請にもかかわらずである。

12月6日(木)夜、「沖縄の民意を踏みにじるな! 辺野古新基地建設強行を許さない首都圏集会」が一ツ橋ホールで開催された(主催:基地の県内移設に反対する県民会議戦争させない・9条壊すな!総がかり行動実行委員会、「止めよう!辺野古埋立て」国会包囲実行委員会 参加600人)。
豊岡マッシーさんの「翁長追悼」「玉城デニー応援歌」などのビデオ、30秒CMと歌のオープニング、野平晋作さんの主催者あいさつに始まり、国会議員の報告、沖縄からの報告、行政法学者の解説、など盛りだくさんのプログラムだった。
なかでも、山城博治さんの「現地沖縄からの報告」は、こぶしを振り上げ「安倍、許さん!」「琉球セメント、恥を知れ!」「いま声を上げないで、いつあげるんだぁ!」(このビデオの46分20秒、52分10秒、1時間5分20秒のあたり)の怒りの絶叫が非常に迫力があったので、山城さんのスピーチを中心に報告する。また白藤博行さんの行政法学者としての解説も、わたくしのような素人は知らない話で参考になったので、当日のスピーチと配布資料から一部を紹介する。

山城博治さん(基地の県内移設に反対する県民会議 共同代表)
国交省の執行停止決定は自作自演などというものではなく、安倍が「君たち沖縄防衛局ではダメだからオレが直接やる」と国交省にやらせた、そういう行政のあり方だ。内閣一体とはこのことだ。安倍、許さん!
琉球セメントはセメントをつくる会社、その桟橋はセメントを出荷する港であり、そのための許可を県から得ているはずだ。それなのに政府が辺野古埋立に使う土砂を搬出することを公然と了解している。これは民間会社がすることではない。政府からいくらもらっているか知らないが、県民に背を向け、県から許可を得た港でそんなことをやる、あるいは政府にやらせたのか。琉球セメント、恥を知れ!
琉球セメントは目的外使用を強行し続けるなら許可を取り消すこともできるし、琉球セメント安和(あわ)工場閉鎖に至ってしまう。「わかっているのかセメント会社」といいたい。あるいはわかっていてやらせているのか、信じられないような異常な世界が進んでいる。
赤土防止条例違反だというと、山積みした土砂でなく直接トラックで運んだので違反ではないと開き直る。しかしこの会社はセメントをつくる会社のはずなので、ベルトコンベアを辺野古の海に土砂をもちこむようなことに使うことが、許されるはずがない。
3つのお願いがある。
玉城デニー知事が琉球セメント安和工場を閉鎖することへの激励をお願いしたい。県民はそのような社会的存在を許さない。船には1600トンほどの岩ずり(土砂)が入っており4隻なので7000トン弱の土砂を積み、どこかの海で14日の出撃に備え待機しているようだ。今日(6日)現地の情報を聞くと、わたしたちの仲間のカヌーチームが午前中、岩ずりを積んだ船を止めた。
機動隊はきっと問答無用で荒れ狂うだろう。暴力がさく裂しても負けるわけにはいかない。その姿にエールを送っていただきたい。
2つ目のお願いである。北上田毅さんは技術者で、政府に情報開示を請求し分析に、わたしたちに情報を流し、わたしたちの理論的支柱になってくれている。最近の著書に「辺野古に基地はつくれない」(岩波ブックレット 2018/09)がある。いま孤軍奮闘してくれているが、ぜひ全国の仲間に北上田氏を支える技術者の力添えをお願いしたい。赤土防止条例や環境条例に照らし、政府がいかに無法であるか手助けをお願いしたい。
3番目に、政府のあまりにも無法で理不尽な行動は見過ごせない。いまは沖縄だからやっているのかもしれないが、こういう手法はやがて政府のすみずみまで及ぶことは間違いない。これを止めないといけない。来年度の予算は100兆円を超える。防衛費は5兆2000億だが、それにアメリカからの兵器輸入の借金5兆円を加えると実質的に10兆円を超える。
憲法を変え軍事国家になり、わたしたちを絞め殺そうとする政治が公然と行われている。そのことにいま声を上げないと、いつ上げるんだぁ!ぜひ力を貸していただきたい。長い長い闘いになるがこれからもいっしょにがんばってまいりましょう。

最後に会場のみんなとともに「沖縄 今こそ立ち上がろう」の大合唱があった。
「今こそ立ち上がろう 今こそ奮い立とう
 沖縄の未来は 沖縄が開く
 戦さ世を拒み 平和に生きるため」
  会場は熱気に包まれた。

●8月31日の沖縄県の埋立承認撤回に対し、防衛省は知事選をはさみ10月17日に国交省に承認撤回の執行停止を申し立て10月30日執行停止を決定し11月1日から工事を再開した。行政法学者の白藤博行さん(専修大学教授)から、この手続きの間違いや問題点の指摘があった。

沖縄県の埋立承認の「撤回」は、いったん利益を与えた処分の撤回(授益処分)となるので、そう簡単にはできない。白藤さんも参加した辺野古訴訟支援研究会で時間をかけて理由を探索した。
撤回の理由は
 1 もともと承認は公有水面埋立法にもとづくものだった。この法律の4条には「1 国土利用上適正且合理的なること」「2 其の埋立が環境保全及び災害防止に付十分配慮せられたるものなること」とある。承認後にマヨネーズ状の土地であることが判明した。その土地の上の基地など環境保全も災害防止にも反している。
 2 承認を与えた仲井眞弘多知事は事前協議など留意事項を付けたのに、いっさい守らず工事を開始し続行している。
 3 これに対し、行政命令を20回も繰り返したのに一顧だにしない。
 4 承認後策定したサンゴやジュゴンなどの環境保全対策の不備から支障を生じた、
など5点である。
これに対し、国(沖縄防衛局)は埋立承認撤回の執行停止申し立てと審査請求を行った。しかし行政不服を申し立てるのは私人であり、行政不服審査法7条2項の適用除外にあるように「固有の資格」に立つ国の行政機関が請求人になれるはずがない。
行政不服審査法の審査請求の根拠は地方自治法にある。沖縄防衛局は255条の2第一項の所管大臣に請求したが、そもそもここから間違っている。故翁長知事は職務代行者を富川盛武副知事に定めていた。ただ埋立承認については謝花喜一郎副知事に権限委任していた。したがって委任していたのだから、審査請求する相手は255条の2一項の国交大臣ではなく255条の2第二項の職務代行者である富川副知事ということになる。
そこで国交省の執行停止決定は違法なので取消を求め、11月29日に国地方係争処理委員会に申し出た。前回の申し出のとき、委員会は審査せず却下した。この委員会は本当は地方自治の砦のはずなので、きちんと審理しろといいたい。

辺野古土砂反対全国連絡協議会首都圏グループの毛利孝雄さんから「辺野古埋立に必要な土砂2100万立法mの75%は奄美、九州、瀬戸内海など本土(西日本)から持ち出される計画になっている。しかし特定外来種侵入防止対策についてまだ具体的案が示されていない。環境汚染を防ぎ生物多様性の損失を防ぐためぜひ反対署名(このサイト)に賛同していただきたい」とアピールがあった。

●集会の初めに、赤嶺政賢・衆院議員(共産)、本多平直・衆院議員(立民)、日吉雄太・衆院議員(自由)、福島みずほ・参院議員(社民)、藤田幸久参院議員(国民)、伊波洋一参院議員(沖縄の風)、柚木道義・衆院議員(無所属)の5党2会派から辺野古問題へのアピールがあった。
遠藤仁彦沖縄防衛局次長は国交省からの出向で港湾埋立の専門家であり、つまり防衛省と国交省の合作であること、琉球セメントはかつては山口県の宇部興産の関連会社で安倍首相との関係が疑われること、土砂搬出の桟橋入口付近にカミソリ刃付き鉄条網を張り巡らせたこと(その後、撤去)など、わたしが知らないことも多くあった。
カンパ要請で菱山奈帆子さんから「沖縄で闘う人を本土から来た機動隊が排除し、本土の土砂で沖縄の海を埋め立てるとは、本土による、日本政府による沖縄の侵略そのものではないか。本土のわたしたちは絶対に許してはならない」というアピールがあり、そのとおりだと感じた。
最後に、藤本泰成さんから12月13日18時から市谷の防衛省正門前で抗議行動をするという行動提起があった。

12月7日夜の入管法改悪反対国会正門前行動 アピールしているのは小池晃議員(共産)
☆辺野古への攻撃に先立ち、アベ政権は12月8日早朝、入管法改悪を強行採決で成立させた。聴取票の集計ミスから立法事実も説明できず、受入れ業種・人数すべて政令であとから決めると、まるで法案の体をなさないもので、「説明すればするほどボロが出る」からと審議時間を極力短くした産物だった。
わたくしは11月23日の記事の末尾で20日昼の議員会館前緊急集会に参加したと書いたが、その後も6日昼に参議院の議員面会所受付、7日夜国会に向かった。
正門前ではちょうど小池晃議員がアピールし、集まった若い人たちは「野党はガンバレ」「国会なめんな、勝手に決めるな」とシュプレヒコールを上げていた。裏の議員会館前に行くと、歩道の向かって左にはいつものサヨク勢力、右には日の丸を林立させたウヨクグループが「日本解体阻止」という旗を立てるシュールな光景がみられた。
安倍は何度か「立法府の長」と言っていたが、単なる言い間違いではなく、本当にそのつもりでいると思えてきた。日本は戦前は天皇主権、戦後憲法からは国民主権だったが、いつからか安倍主権の国になっていた。麻生副総理が5年ほど前に「(ワイマール憲法が)だれも気づかないで変わった。あの手口学んだらどうかね」と発言し顰蹙を買ったが、いつのまにか安倍主権の国になっていたようだ。

闘う労組・関生支部の多田謡子賞受賞

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12月15日(土)午後、2年ぶりに多田謡子反権力人権賞受賞式に参加した。今回の受賞は、パレスチナBDS民族評議会、優生手術に対する謝罪を求める会、全日本建設運輸連帯労働組合関西地区生コン支部の3団体だった。
関生支部(全日本建設運輸連帯労働組合関西地区生コン支部)は闘う労組として有名だが、わたくしはヒゲの戸田ひさよし門真市議のメールマガジンや2010年7月の日比谷野音での集会で5か月のスト打ち抜きの実態を聞いて、知っていた。最近になり、7月から大阪や滋賀で大弾圧を受け、武委員長はじめ40人もの人が次々に逮捕されたということを聞いた。そこで、関生支部・武谷新吾さんのスピーチを中心に紹介する。
武谷さんのお話は、内容は切迫した話のはずなのに、全編ゆったりした大阪弁で、「警察の弾圧のやり方がエゲツない」「こんなやつらに負けるわけにいかへん!」接見禁止の長期拘留の体験談でも「たまに出てくるゴキブリと遊んだ」など、ユーモアもとりまぜ、会場の参加者を元気にさせた。
弾圧に抗し生コン労働者の生活と権利を守り闘う――全日本建設運輸連帯労働組合関西地区生コン支部
                  武谷新吾さん

●7月からの弾圧の経過
弾圧の起点は昨年のちょうどいまごろ、12月12日からのゼネストにある。ストの目的は生コンの出入り業者であるダンプやミキサー車の運賃引き上げだった。
もともと生コン業界は、麻生、住友、三井、三菱など財閥系のセメントメーカーに一方的な価格で原料を買わされ、ゼネコンに生コンを買い叩かれるはざま産業で、力が弱い。そこで1970年代には構造不況業種に指定されたが、中小零細企業を協同組合に結集させて買い叩かれたり、メーカーの一方的値上げをさせないようにした歴史がある。
2015年に経営者側が、生コン価格の値戻しをするため、労組も協力してもらえないかと要請にやってきた。そこで値戻しに成功した場合の2つの条件を付けた。
ひとつは退職金などの原資にできるよう1立法メートル当たり100円の労働者基金をつくり拠出すること、もうひとつは出入り業者の運賃引き上げである。経営者側は値戻しが成功すれば2つを実行すると約束した。
そこで関生支部も、協同組合に結集するよう中小零細企業への説得を始めた。しかし建築資材関連の業者のなかには暴力団関係の企業も多い。そういうところへの説得はわれわれしかやれないということで協力し、4月に大同団結が成った。すでに94年に大阪広域協同組合はあったが、中身ができたのはこのときだ。そして100円基金のほうはつくったが、運賃引き上げはなかなか実行しない。2014年末には9000円だった価格が17年には15000―16000円に上がった(いまは17000円とほぼ2倍)。
そろそろ約束を果たしてほしいと、実行を求めると、会社の体力が疲弊し利益蓄積につながるところまで生コン価格がまだ浸透していないという。では「2018年4月にいくら、8月にいくらと段階的に上げる約束を文書にしてほしい、それなら12月のストは打たない」と譲歩した。しかし回答が来ないのでストに突入した。すると4日で交渉に成功し、大阪広域経営者会(労組の窓口)のみならず、滋賀、京都、奈良、和歌山も値上げに合意し、あとは大阪広域の執行部だけというところまでこぎつけた。すると執行部の理事長、副理事長が「関生は犯罪者集団だ」というキャンペーンを張り、今年1月には法務部に、元在特会メンバー、ヤメ検、警察OBを結集させ関生支部つぶしを始めた。
このように業界内部の問題だったのに、大阪府警や滋賀県警などの権力がこれに乗った。
●弾圧のねらい・本質
80年代に労組は産別運動を目指し、業界団体と集団交渉を行った。年間休日104日(週休2日)もその成果のひとつだ。
かつて名神高速道路、山陽新幹線、大阪万博と建設ラッシュが続き、生コン工場が100しかないのに150工場分の受注がある状態だったが、その後、終息し旧通産省は生コンを構造不況業種に指定し中小企業近代化促進法を施行した。工場削減のため商工中金の低利融資も始めた。合併した場合、被吸収会社の労働者は合併会社が引き受けたり、組合員以外の周辺労働者にも拡張適用すると定める32項目の協定を82年夏に結んだ。この運動は関東にも広がろうとした。
そのとき、大槻文平(三菱鉱業セメント会長、日経連会長)は「関生型の運動は資本主義の根幹を揺るがせる。箱根の山は越えさせない」とコメントし、大阪・東淀川警察が82年に50人を逮捕する大弾圧を行った。
これは今回の滋賀県警とよく似ている。まず大阪兵庫生コン工業協組理事長、大阪兵庫生コン経営者会交渉団長、近畿2府4県の協同組合連合会会長の経営者3人を逮捕した。この3人は裁判ですべて無罪になった。次に、104日の年間休日の約束を破り大阪の阪南協組が抜け駆けし6工場が出荷したので、実損回復を要求したところ、恐喝の疑いで80年9月名古屋や東京のメンバーを含め三十数人が逮捕された。その当時は長期拘留はなく、22日で保釈され裁判となった。今回も、先に7月に経営者を逮捕した。
その後、2005年に大阪広域協組を強化するため有力なアウトサイダー17社18工場を加入したとき、弾圧があった。武委員長はじめ4人が強要未遂・威力業務妨害で逮捕された。これは加入を約束していたのに、前日に加入しないと言い出したので抗議行動したことに対してだった。日本の司法は産別運動を認めないので、抗議行動は違法だと有罪になり、1年拘留、9か月接見禁止となった。
今回の出入り業者の運賃引き上げのための12月12日のストに対しても、強要未遂・威力業務妨害で弾圧されている。
滋賀県のほうは、アウトサイダー業者が、道路使用許可を取らなかったり、道路を汚したりガードマンを付けなかったりすることに対するコンプライアンス(法令順守)運動をしたことが恐喝だという。「法律を守れ」ということがなぜ恐喝なのか、ムチャクチャだ。滋賀県警では、公安や警備部門でなく、組織犯罪対策課という暴力団対策のセクションが動いている。暴力団対策法は暴力団に限定しているのに、なぜ労組に適用するのか。これは安倍政権が闘う労組、抗議する労組を潰してしまえ、という見せしめのようなものだ。抗議行動の現場に行っていない委員長や副委員長まで逮捕したのは、共謀罪逮捕のはしりのようなものだ。
これがいったいだれの利益になるのか、という問題がある。いまは生コン価格は17000円だが、関生支部がつぶれれば、ゼネコンはこんな高値では買わない。値段が下がればシワ寄せは労働者に行く。
●弾圧をはね返す今後の方針
1995年の阪神・淡路大震災のとき阪神高速や山陽新幹線の橋脚がたくさん倒れた。これは、本当は10台のミキサーが必要なのに5台ですませ、時間効率をよくするため水をたくさん入れて早く回転させた手抜きのためだった。公共性のある仕事をしていることをこれからもっと広報し、産業別組合の正当性を訴えていきたい。
また闘う労組との共闘を密にする。これは韓国、フィリピン、台湾など海外の労組との国際連帯も含む。そして弾圧のなかでも関生支部の運動方針を計画したとおり実践する。とくに組織拡大と教育学習を重点に取り組み、労組なので春闘や経済闘争もしっかりやる。また安倍をひっくり返さないとどうしようもないので、来年の参議院選など政治闘争も行う。東京ではだれかが「こんな人たちに負けるわけにはいかない」と言ったが、大阪弁でいうと「こんなやつらに負けるわけにいかへん!」と、これからも頑張るのでご支援をお願いしたい。

これに応え、参加者はそれぞれ檄布を書き、大津地裁宛て「関生役員4名釈放」要請の署名に協力し、会場カンパを手渡した。

優生保護法による強制不妊手術に対する謝罪要求――優生手術に対する謝罪を求める会
この会のスピーチは、愛知県から参加された方1人も含め、4人のリレートークで行われた。

●優生手術とは何か
優生保護法は、人権をもつ人間よりも国の利益、公益を優先して生まれてくる子どもの数と資質をコントロールしようとしてつくられた法だ。できたのは1948年、敗戦から3年目のことだ。その前は兵士を増やすため「産めよ、増やせよ」の政策だった。人工妊娠中絶を認めない刑法の堕胎罪が厳しく適用され避妊も不妊手術も強く規制された。ところが敗戦で食糧がないところに引き揚げ者が多く、政策を転換した。堕胎罪は残したまま、条件付きで避妊も不妊手術もできるようになった。
その条件が優生保護法だ。優生保護法の目的は不良な子孫の出生防止、母性の生命・健康の保護とある。不良な子孫とは、障がいや病気をもつ人のことだ。少なく生まれる子どもだから、将来優秀な労働力になる五体満足で病気のない子がほしいという優生政策からできた法律だ。その手段が人工妊娠中絶と不妊手術だった。不妊手術は優生手術とされた。
それ以上に病気や障がいをもち、それを子孫に伝える可能性があるとされた人に手術を行ってよいとされ、3条で、この手術は本人の同意がなくてもよいという規定があった。国から見ればどんな人も人口政策の対象で、この人は社会的厄介者、「生きる価値がない」とレッテルを貼った。とくに女性は産む性なので人口政策のターゲットになりやすかった。自分たちは支援者というよりも、自分に突き付けられているいやらしい人口政策、生まれるべき人とそうでない価値のない人を国に決められるということだ。そういう発想をなくさないと、安心して生活できない。
この手術は各都道府県にやらせたので、予算消化のため「1位北海道、2位宮城」などとランキングを発表したり、北海道は「祝 1000人突破」というパンフまで作り全国配布した。
この法律は96年に母体保護法に改正された。優生手術は障がい者への差別に当たるからという理由だった。それまでに同意のない手術が16500人、麻酔薬を使ったり、身体拘束をしたり、だまして連れてきてよいという通達も出していた。しぶしぶ同意した手術が8500人、合計25000人が不良な子孫の出生を防止するため、優生上の理由で生殖の機会を奪われることになった。大きな人権侵害だ。
●会の活動と国賠訴訟の始まり
96年に法改正があったが「過去の優生手術は許せない」と女性グループ、障がい者団体、研究者などが1997年に「優生手術に対する謝罪を求める会」を発足し、国に謝罪と補償を求める運動をしてきた。
今年1月末に仙台で優生手術の被害者が国賠訴訟を起こした。この会で電話ホットラインを開設したころ、連絡をくれたのがIさんで、弁護士と相談して提訴した。
Iさんは中学3年のとき施設に入れられ、その後女中のような仕事をあてがわれ給料は全額職親(しょくおや)に振り込まれていた。数か月後に麻酔薬を打たれ数十分の間に手術された。実家に帰った時に「子どもを産めない体になった」ことを知って驚き「かたきを討つ」と心中決意した。心身ともに苦しみを味わった。毎月生理のときに七転八倒の痛みを味わい、、結婚したあとなかなかこの話を切りだせなかったが、夫が親戚から聞いたようで離縁になった。50歳のときに自分に関する資料をみせてほしいと情報開示請求した。答えは「あなたの年だけ資料が廃棄されていてない」というものだった。
97年にこの会をスタートさせ行政の人と話したとき「あれは優生保護法に沿い、厳格な手続きで処置をしただけ」という。わたしたちは法律を守っただけで、責任は議会にあるといっているようなものだった。
●訴訟の拡大と家族の会結成
いま、仙台を含め全国6か所で訴訟が始まった。憲法13条個人の尊重と公共の福祉に違反するという裁判だ。Iさんのニュースを聞き、義理の妹のことを思い出し資料請求すると優生保護台帳が出てきたので訴訟に踏み切った人もいる。
またニュースを聞いた男性で、中学生のころ実父と不仲で問題行動を起こし、教護院に入れられた人がいる。入所後数か月で手術をされ先輩から「子どもができなくなる手術だ」と教えられた。訴訟のニュースを聞き、父や施設でなく国が悪いということを知った。
いま国会で、超党派で法律をつくろうとしている。しかし「謝罪」ではなく「反省とおわび」、また主語が「われわれ」で国が入っていない。96年に名称を変更したようなことでなく、今度こそ過去を検証する法律になってほしいと思う。
今月12月4日にこれまで提訴した13人のうち8人に集まってもらい「被害者・家族の会」を結成した。みんな「体を取り戻してほしい」「ダメなら、なぜそんなことをしたのか説明し、あやまってほしい」と気迫を込めて言い続けた。
いま提訴した13人のため優生保護法被害弁護団が組織されているので、ウェブサイトをみてほしい。
被害を受けた人以外にも障がい者は多い。障害者へのむごい結婚差別もある。そうすると「内なる優生思想」が生まれ、その影響力は大きい。しかし国が過去の優生保護法は間違っていたといわない。また新型出生前診断が無批判に推進されることにも危機感を覚える。

パレスチナにおける超党派市民運動――パレスチナBDS民族評議会
       ヌーラ・エラカートさん(ジョージ・メイソン大学准教授)
BDSとは、イスラエルに対するボイコット(Boycott)、資本引き揚げ(Divestment)、制裁(Sanctions)のことで、パレスチナのNGOや労働組合、農業組合、女性団体など、29団体がメンバーで、日本でも大阪で12月14日に発足した。
わたくしは遅れて参加し、はじめのほうを聞いていないので、解釈の間違いがあるかもしれないことを、はじめにお断りしておく。

イスラエルはパレスチナに対し入植型植民地主義を取っている。武力をもって入植地をパレスチナ領につくり、パレスチナ人を「最小の土地に最大の人数」を押しこめるというやり方だ。
ヨルダン川西岸では軍法による占領、イスラエル国内では国内法、ガザでは武力を使い境界線からパレスチナ人を排除する方法だ。その結果200万人のパレスチナ人が360平方キロの土地に押し込められている。
1948年にイスラエルが建国宣言をし、パレスチナの500の村を破壊し80万人を武力で追放した。そして1956年のスエズ動乱のときにガザを占領しようとし、67年の第三次中東戦争には再占領した。ハマスが1987年に登場する20年も前のことだ。
93年にはガザの封鎖が始まり2006年に完全封鎖し、それ以降ガザの孤立化、困窮化を一貫して取り続けている。自爆テロやロケット弾発射のずっと前からだ。94年4月にハマスが最初の自爆テロを行ったが、それには理由があった。2か月前の94年2月ヘブロンのイブラヒム・モスクで20人が虐殺されたことへの報復だった。キャンプ・デーヴィッドの和平交渉も破綻し、そのころ入植者の数は2倍になっていた。
また2000年に第二次インティファーダが始まるとイスラエルはますます暴力化しハマスの創立者とナンバー2の2人を暗殺した。ハマスの初の小型ロケット弾打ち込みはそれに対する報復だった。イスラエルのガザ攻撃は、2008―09年、2012年、2014年が大規模で印象に強いが、じつは2004年から22回にもわたる大小の攻撃が繰り返されている。今年3月から毎週難民として故郷への帰還を求める抗議活動が続いている。それに対し、イスラエルは射殺を目的にした発砲を繰り返している。
これは国家による暴力に対する自由のための闘争だ。「ピープルズ・パワー」すなわち人民の力、市民の連帯が必要だ。BDSは国際的な市民同士の連帯運動だ。人民の力で国家の暴力に対抗する運動だ。

☆今回は多田賞の記念すべき30回だったので「第30回受賞発表会までのあゆみ」というA4pの小冊子が配布された。受賞者からの「今の気持ち」というパートには49人(団体)からのメッセージが掲載されていた。初期の受賞者のなかには亡くなられた方や運動の主戦場を変えた団体もあった。しかし皆さん、安倍政権下、困難な状況のなかで反権力人権の闘いを続けておられることがわかり、励まされた。まさに「私は、私の敵と闘い続けるわ」の実践である。

☆12月21日 「関生支部」という略称をタイトルも含めて6か所、すこし変更しました。


天皇「代替わり」の年の始まり

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今年は30年ぶりの天皇代替わりの年、昨年後半から代替わりキャンペーンが始まった。きっと今年の連休、いや大嘗祭が終わる秋まで「国家」的大キャンペーンが続きそうだ。
30年前の昭和から平成へのときは、昨年11月の「スタートした即位大嘗祭違憲訴訟の会」の記事にも書いたが、前年秋から異様な状況が引き起こされた。
今回は、討論集会での発言にもあったが、いわゆる「リベラル派」から反対意見が出ないことが「異様」である。逆に30年前は天皇の戦争責任について戦後最大規模の「批判が噴出」し、長崎市長の銃撃事件(90年1月)まであった。
「平成」最後の天皇誕生日に早稲田の日本キリスト教会館で「12.23反天連討論集会『代替わり』状況へ」という集会が開催された。周辺の道路は機動隊で封鎖され、その向こうからウヨクの怒声が聞こえてくるいつもの情勢だった。
パネリストは天野恵一さん、小倉利丸さん、北野誉さん、桜井大子さん、司会は野村智之さんだった。
1人20分ずつ意見を述べ、その後、補足などがもう一巡あり、会場の参加者と質疑応答し、最後に一言ずつ締めくくりの発言を行う形式で進んだ。

☆写真は意図して加工してあります
劣化する近代の価値とグローバルな極右の台頭のなかでの天皇制批判の課題を考える
                  小倉利丸さん
●憲法の問題としての天皇制批判
現代の天皇制をめぐる重要な課題が2つある。ひとつは憲法の問題としての天皇制だ。どの国の憲法も普遍的な価値を体現する国家の規範と銘打っている。普遍性は超越的な観念を引きずるので、世俗的な姿をとった神を否定できない。「普遍的な価値」はそのままでは国民の共通の観念にはなりえないので、なんらかの具体的なものに置き換えてはじめて合意が得られる。自由、平和、人権など空疎で抽象的な理念だけでは伝わらないので他の国の憲法も、具体的なもの(シンボル)、たとえば記念碑や平和式典に置き換えて絶対的な価値となる。
どの国でもそういうシンボリックな側面をもつが、日本の場合は象徴天皇制である。しかし人間を象徴にしてしまうと、死すべき運命をもち限界もあるので、無理を侵すことになる。また天皇の象徴的な機能に着目すると、1945年を切れ目に想定することはできない。近代日本の統治機構ができた明治期から現代までむしろ一貫している。天皇制を批判するには近代の統治機構そのものを見ないといけない。憲法1-9条をなくせば解決するという問題ではない。
●極右台頭の時代の天皇制批判

もうひとつの課題はポストネオリベラリズムの時代のなかで、世界規模で登場する極右が「メインストリーム」化するなかでの天皇制だ。89年の代替わりとの違いは、ポスト冷戦のグローバリズムの時代に世界的に極右がメインストリームになり始めていることだ。極右は「在来種主義」というか、コミュニティや伝統の維持を重視する。そしてレイシズムを正当化する。日本の特殊性だけでなく、こうした共通した価値観に注目すべきである。
日本が排外主義の近代国家となった前提には、法や政治だけでなく江戸期の鎖国時代に形成され排外主義のベースとなった文化や伝統が形成されていたことを考える必要がある。江戸期は封建制であっても、世界史的にみると初期の資本主義の時代で列強は植民地主義に乗り出していた。明治以前の時期も含めて議論する必要がある。
ネオナチにとっての最大の問題はホロコーストだ。これに対し「ホロコーストはなかった」という歴史修正主義や「もっとひどいのは左翼スターリニズムだ」と相対化してかわす手段を取る。日本でも「戦争犯罪はなかった」と否定したり「美しい国、日本」と文化や伝統を強調し多くの人たちを引き付けようとする。社長個人が入れ替わっても企業の責任は残るのと同様に、戦争犯罪も天皇が代わっても組織責任は残り続ける。日本もヨーロッパ、アメリカでも同じように、文化的一体性をもてない人を排除し、棲み分ける発想をする。日本ではたとえば戦前は「大東亜共栄圏」や「五族協和」というスローガンで、いままで寛容な判断しかしてこなかった。
いま一番議論すべきは「伝統と文化」であり、それをいかに根底から否定するかが問われている。

徳仁天皇で天皇制はどう変わるか――徳仁世代と明仁・裕仁世代の違い
                  桜井大子さん
徳仁、明仁、裕仁の3代の違いを5つのポイントに整理し、とくに皇室の自律・自立を当然の権利として主張し始めた徳仁の「人格否定」発言(2004年)について詳しく紹介する。
●5つのポイントからみた3代の違い
1 戦後生まれ
当然ながら戦争の記憶がない。また過去の記録は支配層に都合がよいものになっている。文化・伝統に浸る社会になりつつあるので戦後世代はコントロールされやすい。これから1年の代替わりは「君民一体」の歴史づくりの期間として活用されるかもしれない。
2 教育環境
徳仁もパートナーの雅子も留学世代で、西欧型合理主義や民主主義を体得している。それが天皇制の運営に反映し、皇室の政府からの自律・自立を当然の権利として主張し始めるのではなかろうか。
3 軍事・経済的に上り詰め、経済破綻と政治が破綻していく社会を経験する世代
もちろん彼らは翻弄されることがないから安心感があり「持たざる者」がみえないというズレがある。しかし一方ではハイソへの憧憬が芽生えるかもしれない。
4 「国民」との距離
明治憲法の時代でも、いまも戦傷病者や自然災害被災者の慰問はずっと維持している。裕仁の時代は「雲の上の存在」で国民にも「あ、そう」としか答えなかったが、明仁は、「寄り添い、祈る」ことを言い続け、その姿がメディアに映し出され近しい存在として認識されるようになった。徳仁は視覚障がい者のジョギングの伴走を6月に行い、ジョギング後、肩に腕をつかまらせアテンドしたと報道された。こういうことをやり始めている。
5 マスメディアとの距離
裕仁は、戦争責任について「言葉の綾」、原爆投下について「やむを得なかった」と発言するなどいつも失敗してきた。明仁は、カメラやマイクを向けられることに慣れていて意識しながら行動してきた。徳仁はメディアを恐れないどころか、メディアを使う君主として存在するのではなかろうか。
●「人格否定」発言というより「公務見直し」提言
2004年皇室外交で海外出張に出かける前の定例記者会見で、徳仁は雅子の「人格否定」発言をした。当時は、愛子を生んで間もないが「男子を生め」というプレッシャーがかかっていた時期だった。ふだんは行先の国のことやどんな外交をするかということしか言わない会見なのに、いちばん時間を割いたのがこの問題だった。
「それまでの雅子のキャリアや、そのことに基づいた雅子の人格を否定するような動きがあったことも事実です」と発言した。
ハーバード、東大を経て外務省からオックスフォードに留学する並大抵ではない努力をし、それを皇室で生かしたいと本人が望んでいるしわたしたち夫婦もその仕事をしたいと思っているのに、彼女には子どもを生むことへの期待しかだれもしないのはどういうことか、と読むべきで「公務見直し」提言だ。かなり政治に踏み込んだ発言だった。
社会の注目度が高く、帰国後もう一度記者会見をやらされ「雅子には、本来の自信と、生き生きとした活力を持って、その経歴を十分に生かし、新しい時代を反映した活動を行ってほしい(中略)公務のあり方も含めて宮内庁ともよく話し合っていきたい」と語った。そして明仁は歴代3代の宮内庁長官を呼び「徳仁の希望である新しい公務について力になってあげるように」と依頼した。
その後、2016年の明仁の「生前退位」ビデオ放送、2018年の秋篠宮「大嘗祭は内廷費で」発言が続く。権威が権力(政治)を動かす、イギリス型皇室に近づいている。民衆に「君民一体」で政府に対峙しているという錯覚を持たせ、今後、天皇尊重、「君民一体」思想が強化される可能性が強い。

天皇制をめぐる3つの現代的情況
                  北野誉さん
●秋篠宮発言の2つの問題
11月30日に秋篠宮は「大嘗祭は宗教色が強いので宮廷費(国費)でなく内廷費(天皇家の私費)で行うべき」と発言した。これは大嘗祭に多額の金額(前回は22.5億。今回はその1.3倍ともいわれる)を使うという批判に予め釘を刺すアドバルーンの役割を果たした。
この発言の問題は2つある。ひとつは皇室の人間の政治発言というもので、どちらかというと右寄りの論者からの批判だ。先ほどの、皇室の「発言」が政治を動かすのと同じタイプのものである。また秋篠宮は皇嗣として次の次の当事者自身の発言という問題もある。
次に、内廷費であれ宮廷費であれ、出所は税金であり、その線引きは便宜的なものに過ぎないという問題がある。しかし翌日からの各紙社説も秋篠宮発言に沿い、内廷費(私費)なら政教分離が問題にならないという線でまとめるようになり、(8月の同様の発言の際)島薗進氏も歓迎するコメントを出していた。
●平成天皇や皇族の発言を評価する「リベラル」派
護憲平和の平成天皇や皇族の発言を評価する「リベラル」派が多い。なぜ天皇になびくのか。季刊ピープルズ・プラン81号ピープルズ・プラン研究所 発売 現代企画室 2018年8月)で松井隆志氏が3つの理由を挙げている。
1)「お守り言葉」説 右翼からの攻撃を最小限に防ぐため(例 豊下楢彦「昭和天皇の戦後日本」の後書き 2015)、2)天皇夫妻オルグ説 天皇夫妻と私的に懇談しオルグされた(例 保坂正康「天皇陛下『生前退位』への想い」2016)、3)政治利用説 生なましい政治に対する天皇の発言を持ち上げ、左翼的に「政治利用」する(例 白井聡「国体論」2018)。
この3種に加え、「大衆から遊離したくない説」がある。同じ号で中嶋啓明氏が「日本的状況を見くびった」ことが戦前の共産主義者の転向につながったという吉本隆明の論を踏まえ内田樹は「日本的状況を見くびらない」ことを意識しているというが、かえって「足をすくわれている」と評価している(cf 内田樹「街場の天皇論」の後書き 2017)。また菅孝行「三島由紀夫と天皇」(2018)にも天皇制批判に関し、大衆に届く言葉をというような主張がある。
●象徴天皇制と政教分離
日本国家の宗教的権威としての天皇制批判と同時に、権力として作用する天皇制のあり方批判もしなければいけない。その意味で政教分離の問題は大きい。12月の即位・大嘗祭等違憲差止差止請求訴訟提訴の訴状にも内廷費もやはり公費という問題を取り上げている。
象徴天皇制と政教分離は基本的に矛盾する。天皇教という宗教の役割、国家の宗教性や現在に引き継がれている宗教性とは何か。憲法それ自体がはらむ矛盾をこの裁判を通して問い直していきたい。

国家神道の問題、天皇の戦争責任について  
                  天野恵一さん
この30年「天皇誕生日」にわたしたちが毎年やってきたのは「天皇の戦争責任」追及だった。いちばんよくできていたのは88-89年の「わだつみ会声明」(一次、二次)だった。制度としての天皇の戦争責任だけでなく、昭和天皇讃美も批判しているからだ。
即位式は三種の神器の受け渡し(践祚の儀式)のあと始まる。新嘗祭は毎年宮中の神嘉殿で行われるが、新天皇が初めて行う一代一度の儀式が大嘗祭である。即位式は二十数種の儀式から成るが、すべて神になるための儀式や神になったうえでの儀式であり、大嘗祭のみならず宗教性がない儀式などない。
敗戦後、GHQが神道指令を出し国家神道は解体したが、宮城内の宮中祭祀にはいっさい手をつけずそのまま残した。祭政一致ではないという建前のもとの、祭政一致国家というややこしい構造になっている。
民間の神社本庁という組織(宗教法人)ができたが、全国の神社とつながっているし、靖国神社と厚労省の関係も切れてはいない。天皇崇拝が国家崇拝であるという、宗教教団「天皇教」の祭祀の親玉が国家の中心にいるのだから、民間であっても国家と切れるわけがない。戦後の問題としていえば、天皇教の戦争責任をちゃんと考えなかったことが大きな問題なのだ。国家の中心からだけは、はずさなければいけなかった。
ついでながら宮中三殿や神嘉殿は国家の公有地にある。政教分離はもともと守られていないし、大嘗祭だけが問題なのではない。

このあとの補足、討論、まとめから、わたくしの関心を刺激した発言を少し紹介する。
●宗教や信仰に関して
小倉さんから「政教分離であれ天皇教であれ、宗教とは何かをきちんと考える必要がある。無神論者、無宗教であっても、神が存在しない、あるいは神を否定するとはどういうことなのか、きちんと説明できないといけない」との提起があった。
直接の応答ではないが、北野さんから「つきあいや習俗として葬式に出ることはある。大嘗祭に関し、マスコミが「儀式」の紹介として歴史や伝統に重点を置きながら今後何度も取り上げるだろう。戦前の布教は学校だったが、いまはマスコミが天皇教布教の信徒となる」とのコメントがあった。会場から「天皇制と神の問題の関連」や信仰や宗教の問題への言及が何人かからあった。たしかに手に負えないほど大きな問題だ。
●天皇制の問題を天皇のパーソナリティの問題として考えるか、制度の問題と考えるか
これも小倉さんから「天皇制を、たれがなってもその制度を維持できる制度、再生産される仕組みをどう考えるか、またその時代、時代に天皇になる人間のパーソナリティの仕組みを議論に乗せなければいけない」との提起があった。
パーソナリティに限定した受け答えではなかったが、桜井さんから「女性は結婚して入った家のしきたりに従わねばならない。天皇教を否定できない。そこで自分の「信仰の自由」とは別に、仕事として皇室祭祀をやらされる矛盾がある」という発言、天野さんから「雅子のノイローゼだけでなく、美智子も宮中祭祀の「お浄め」がいやでノイローゼになったことを小山いと子が「美智子さま」という連載小説で書いたことがあった(後に連載中止)。民間出身の若い女性が「神の一族」に入っていくのは結構大変だろう。王権で、人格と制度は不可分一体の関係だということを考える必要がある」との発言があった。会場の女性から「天皇制のなかの女性のはたらき」の問題、雅子・紀子世代がどのように、安倍が目指す家庭教育や家族政策に役割を果たすのかという問題が提起された。
●宮中三殿が公有地に存在することとの関連で、毎年行う新嘗祭も費用は国費、支えるのは公務員だし、三権の長はじめ国のトップクラスが参列している、また皇室のメンバーが外遊するとき必ず三殿にごあいさつに伺う仕組みがあり、あの場所は日常的に使用されているとの指摘があった。

参加者から「天皇制、死刑制度、安保などの世論調査結果をみると80-90%が賛成している。吉本の転向論の話があったが、転向しなくてすむことができるのか。孤立感に耐えて生きていくことを決意表明する」との感想の発言があった。今年も厳しそうな情勢ではあるが、わたくしも続けていきたいと思う。

チキンラーメンの女房・安藤仁子、そして池田市

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現在放映中の朝ドラ「まんぷく」のヒロイン福子のモデルが日清食品の創業者・安藤百福の妻・仁子(まさこ)であることはよく知られている。

仁子の結婚前の足跡は資料もなく不明だったのが、2010年92歳で亡くなったあと「2007年のダイアリー」に少女時代の思い出がつづられていたのが発見され、最近詳細が判明したそうだ。それをもとにドラマ制作や「チキンラーメンの女房」(安藤百福発明記念館・編 2018年9月 中央公論新社 194p)が発刊された。
この本によると、百福が戦時中、憲兵につかまったり敗戦後、泉大津で製塩業を営み奨学金問題でGHQに拘束されたり、池田に転居し信用組合理事長に就任したことなど、大筋実話だったことがわかる。細かいところでは、亡くなった長姉に白馬に乗った歯科医が求愛に来たり、ホテルの男性が缶詰をプレゼントしてくれたこと、女学校時代の仲良し三人組がいたことなども実話だった。
もちろん違う点もある。ドラマでは父は福子が幼少のころ死亡したことになっていたが、実際には72歳(仁子は25歳)まで生きたことや、仁子が結婚したのはドラマでは戦時中の1943年だったが、現実には敗戦直前の1945年3月だったこと、勤務先は大阪のホテルではなく京都のホテルだったことなどだ。ドラマには出てこないが、百福は植民地時代の台湾・台南出身、33年大阪で事業を興した。戦後の池田信用組合の話も、実際は華僑系の大阪華銀という信用組合だった。
仁子は1917年北区冨田町(現在の西天満)生まれ、父は福島県二本松出身で人力車の会社を経営、母は鳥取藩士の娘(本当に「武士の娘」が口癖だった)、3人姉妹の末っ子。姉2人は樟蔭女学校だったが仁子は金蘭会女学校卒業。女学校3年のときに父が事業に失敗し、大阪電話局で夜勤の交換手として働きながら休学したり通学したりして卒業。次姉の嫁ぎ先の画家の家が伏見の醍醐にあり一家で転がりこんだ。そこから東山の都ホテルに通勤した。
百福との結婚は1945年3月28歳のとき、その後の人生の変転は朝ドラのとおりだ。チキンラーメン発売は58年41歳のとき、日清食品に商号変更し取締役に就任したのも同年のことだった(母・須磨が監査役就任)。

その後、1963年日清焼そば、68年出前一丁、71年カップヌードル発売、長男・宏基の担当だが76年カップ焼きそばUFO、どん兵衛きつね発売と社業は順調に発展した。
仁子の趣味は書道や鎌倉彫だった。また観音信仰に熱心で51年34歳のころから日帰りで西国三十三所巡礼や不動尊巡りを始めた。2007年1月百福が96歳で死去、仁子も3年後の2010年92歳で亡くなった。
「クジラのようにすべてを呑みこむ。でないと先に進めない」(本書p8))が武士の娘の娘・仁子のモットーだったそうだ。

このような浮き沈みの激しい仁子の人生をカップヌードルミュージアム 大阪池田(正式名称 安藤百福発明記念館 大阪池田)の「安藤仁子展」でみた。「仁子が語る安藤百福と『チキンラーメンの開発秘話』」という2分30秒ほどのインタビュー・ビデオもあった。秘話というほどのエピソードは出てこないが、チキンラーメン開発当時は仁子も、夜2時ごろまで働き翌朝は5時ごろ起床と猛烈に仕事をした。また商品の包装は仁子だけでなく子どもたちも総動員してこなしていた。まさに家内企業だった。
このミュージアムは、1999年にオープンした体験型の博物館だ。発明家・百福にちなんだのか、小麦粉をこねたり延ばしたりするところから始めるチキンラーメンファクトリー(事前予約制)やカップを自分なりにデザインしスープの味やトッピングの具材を選び包装するマイカップヌードルファクトリーなど実体験するスペースがかなり広くとられている。わたくしは、トッピングにネギ・鳴門・コーン・エビを選んだ。また「安藤百福とインスタントラーメン物語」という展示でも、随所にクイズや仕掛けが取り込んである。「カップヌードルドラマシアター」もキャラクターによる説明と初期のVRでできている。幕間の休憩で子どもは待ちあきるので2分前から卵とひよこのアニメを流していた。実際に子どもたちが目を輝かせてみていた。

ところで、池田というところは初めて訪れた町だった。
池田というと、市立呉服小学校の吹奏楽が有名で、毎年西宮球場でやる「2000人の吹奏楽」というフェスティバルで、小学校が呉服、中学が今津、大学が関西学院、社会人が阪急少年音楽隊と、呉服小は定番の出場団体の一つだった。
帰宅してから地図を検索すると呉服小はカップヌードルミュージアムから西に400mほどのところにあったので、見逃して惜しいことをしたと思った。
少し時間があったので、駅を越え線路の北側を少し散歩してみた。城跡のほうに進み右折し上り道を歩くと、阪急グループの創始者・小林一三の屋敷があり、現在は小林一三記念館雅俗山荘というレストランになっている。その他、逸翁美術館池田文庫、阪急の登記簿上の本社がある。阪急グループの聖地のような場所だ。
逆に左折して猪名川のほうに歩くと、古くて大きな商家があり「呉春」の屋号があった。そうだ、呉春は確かに池田の酒だ。水がよい地ということなのだろう。もう少し進むと旧加島銀行池田支店の赤レンガの建物がある。これも朝ドラ「あさが来た」(2015)の広岡浅子が設立に携わった銀行の支店で、現在はトータルインテリアカワムラというインテリアや給食のユニフォームの販売店として使われている。そういえば小林一三も、朝ドラ「わろてんか」(2017)の伊能栞のモデルらしい。その先にはなぜか落語みゅーじあむや大衆演劇の池田呉服座という劇場があった。落語みゅーじあむは2007年オープンで比較的新しいが、落語の上演だけでなくアマチュア落語入門講座も初級、中級などクラス別で開設している。枝雀の「池田の猪買い」をラジオで聞いたことがあるが、落語と縁のある地なのだろうか。

池田呉服座は能勢街道の街道沿いに江戸時代からあったようだ。ただしいまはビルの中にあり、場所も少し移動しているようだ。三条すすむ、森川竜二など役者の派手なポスターが掲示されていた。

駅までサカエマチ2番街サカエマチ1番街というアーケードの商店街が続いている。商店街なのでもちろん薬局、クリーニング店、ファッション店などもあるが、種苗店や京染・しみぬきの店が現役で存在しているのには驚いた。衣料品店でも「洋装店」という表示があり、とくに2番街はまるで昭和30年代の商店街の様相だった。駅に近いほうの1番街のなかのフジヤでいしだあゆみたち4姉妹が育ったらしい。当時はパン屋・洋菓子店・喫茶店だったが、その後ブティック、朝ドラ「てるてる家族」(2003)の舞台である。そうと知っていたら、見に行ったのだが。

種苗店は愛媛県内子の山間の町でも見かけたが、昔は基幹業種だったのだろう。アーケードの両側には「まんぷくと町のキャラクターであるウォンバット」の幟旗が林立していた。
アーケードの駅の近くで、きつねうどんを食べた。別に有名なうどん店ではなかったが、おいしかった。さすが関西である。

その他、池田にはダイハツの本社があり、かつては池田銀行という地銀もあった(現在は合併し池田泉州銀行、本社も大阪市北区)。考えてみると大阪教育大学付属池田小・中・高校も池田にある。
人口10万人程度の住宅地のイメージが強い都市だが、歴史も産業もあり、それも酒造のような古い産業、自動車のように新しい産業もあるかなり大きな町のようだった。地理関係がよくわからないが、大阪国際空港は伊丹にあるものだったと思ったら、池田にも隣接しているらしい。観光資源が豊富なので、やりようによっては、まだまだ観光産業発展の余地がありそうだった。

カップヌードルミュージアム 大阪池田
住所:大阪府池田市満寿美町8-25
電話:072-752-3484 
休館日:火曜日 (祝日の場合は翌日)、年末年始
開館時間:9:30 ~ 16:30 (入館は15:30まで) 
料金:無料(ただしマイカップヌードルファクトリーなどの利用は有料)
☆なお横浜・馬車道にもカップヌードルミュージアム 横浜がある。ただし入館料:大人500円

☆以前にも書いたが、大阪制作の朝ドラのなかでわたくしが最も好きだったのは「てるてる家族」だ。このドラマに中村梅雀が、千吉博士とい役名で出演しており、三女・秋子(上野樹里)が尊敬していた。安西千吉が安藤百福のもじりであることは一目瞭然である。ミュージアムにあった研究小屋もみたし、ダイハツのミゼットも出てきたような気がする。
その他、秋野暢子、中田喜子らが出ていた「おはようさん」(1975)がなぜか印象に残っている。
NHKに引き寄せると、池田城は大河ドラマ「軍師官兵衛」(2014)で田中哲司の荒木村重役がいた城(その後伊丹に移る)だ。

日銀貨幣博物館で学ぶ貨幣の歴史と文化

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日本橋本石町に日本の金融政策の総元締め日本銀行がある。江戸時代には銀座ならぬ金座があった場所だ。道路を隔てたところに日本銀行金融研究所貨幣博物館があり、無料で見学できる。
貨幣博物館という名から、古銭がたくさん展示してある博物館かと思ったが、行くとそうではなかった。案内板によれば、貨幣の歴史や役割、貨幣と文化・社会をテーマとする博物館だった。

7世紀につくられた富本銭からスタートした日本の銭貨は「和同開珎(ちん)」など13種類の銅銭へ10世紀にかけて発展したが、品質がだんだん粗悪になり布や米がお金として使われる時代に逆戻りし、次に12世紀ごろから渡来銭(宋銭)の流通がはじまり、江戸時代に全国統一貨幣の時代が始まったといった貨幣の大きな歴史の流れを理解できた。

わたしの関心は明治以降が主なので、そのブロックを中心に紹介する。
1872(明治4)年、政府は新貨条例を公布し円・銭・厘の単位を決め、新たな貨幣や紙幣をつくり、士族が始めた士族銀行をはじめ全国に153も国立銀行券を発券できる銀行ができた。国立とはいっても民間銀行であり、アメリカのナショナルバンクを見本にした銀行である。州法に基づくステートバンクでなく国法に基づくナショナルバンクの訳に過ぎない。
日本銀行の誕生には、昨年の大河ドラマ「西郷どん」の西南戦争が大いに関係している。
1877(明治10)年の西南戦争には多額の戦費が必要で、明治政府は多額の不換紙幣を発行しインフレが発生した(なお西郷軍も戦費調達のため西郷札を発行した)。そこで1881(明治14)年大蔵卿に就任した松方正義はデフレ策をとり、国立銀行券など不換紙幣回収を積極的に進め、紙幣価値が回復した。翌82年に中央銀行・日本銀行を設立した。一方、83年国立銀行条例を改正し、国立銀行は営業年限満期(20年)ののち私立銀行に転換できるが発券できないことになり、85年から日本銀行が兌換紙幣を発行する唯一の銀行になった。国立銀行は96-99年に営業年限を迎え、122行が預金・貸出を行う私立銀行に転換した。

当初の日銀は本石町ではなく、箱崎の旧北海道開拓使東京出張所の社屋を利用した。しかしすぐ手狭となり、1896年に本石町に引っ越した。この新社屋の設計は、東京駅や旧国技館を設計した辰野金吾によるものだった。丸い柱と緑のドーム屋根が特徴だが、来年夏完成予定で現在免震化工事が進行中で金属フェンスで隠されている。
日清戦争に勝利した日本は賠償金をポンドで受け取ったこともあり、西欧諸国と同じ金本位制を採用することにし金0.75gを1円と定めた。このポンドが金本位制維持の準備金となった。
金本位制採用(1897年)で貨幣流通が盛んになり製糸業や紡績業が発展し、日露戦争の戦費を外債で調達することになった。しかし第一次大戦が勃発すると欧米各国にならい金本位制を停止した。
その後、物価高騰による米騒動、大戦後の不況、関東大震災と金融恐慌、取り付け騒ぎなどを経て1930年に金本位制に復帰したが翌年には再び離脱し、管理通貨制度に移行し、太平洋戦争への道を歩んだ。通貨管理制度は、自国通貨の価値を金と切り離し、中央銀行の金融政策通じて管理する制度で、主要国は1930年代に通貨管理制度に移行した
戦後は急激なインフレに対する新円切り替え、ドッジラインによるインフレ収束が断行された。というように激動の70年の金融情勢を概観できた。
残念なのは、ここまでしか展示がないことだ。その後の高度経済成長、オイルショック、不況とバブル景気、バブル崩壊と「失われた10年」などその後の70年のことがまるでないのは、片手落ちというかなんと表現すればよいのだろう、あるいはどこかほかの場所に近現代の展示場をつくるつもりなのだろうか。
学芸の人に聞くと、ここは貨幣の博物館なので新円切り替え以降の紙幣と貨幣そのものの変遷は展示してある。日銀の金融政策の歴史は日本銀行百年史を参照してほしいとのことだった。
(ただし100年史なので1982年、いまから27年前のことまでしか書かれていない)
トリビアな知識、クイズ的な知識は山のように得られる。たとえば永楽通宝を軍旗に用いた武将は?(答え 織田信長)、戦時下ニッケルや銅が不足したため考え出された新素材は?(答え 陶器)、お札の表面に印刷されている印鑑は誰のもの?(答え 日銀総裁)など。わたしは日本の貨幣の始まりは708年の和同開珎だと思っていたが今ではそうでなく富本銭で、しかも「わどうかいほう」とは読まず「わどうかいちん」だとか。

また本物の千両箱の大きさや小判を入れたときの重さを体験できる。約20キロで結構重かった。一方1億円の札束は、1000万の束の厚さが10㎝で10束でも10キロとさほど重くない。天正大判の金貨は長さ約17センチとかなり大きいが重さは165グラムであまりありがたみがない。一方、タテの楕円形で両横に小さい半円のくぼみがある小分銅は375グラムでずっしり重い。ニセ紙幣を防止するため、版木を3枚に分けた実験など、体験型の展示も多くあった。
 
免震工事中の日本銀行本館
「この博物館の土地には、昔はなにがあったのか」聞いてみた。博物館の前身は銭幣館コレクションだが、土地は三井家からわけてもらったとのことだった。たしかに日銀の隣は三井本館、貨幣博物館から1軒おいた隣が三越本店だから、日本橋のこのあたりはすべて三井グループの土地だったのかもしれない。

銭幣館は1923年に古銭の研究・収集家で東洋貨幣協会会長だった田中啓文(1884-1956)が自宅に煉瓦づくりの建物を建て開設した博物館だった。
コレクションや資料は10万点に及んだが、戦時中空襲による被災を恐れ1944年末、日本銀行に寄贈した。そのときの総裁は澁澤敬三だった。澁澤は澁澤栄一の孫で第一銀行副頭取だったが日本常民文化研究所という民俗学の博物館をつくるような人物だったので、貨幣のコレクションにも興味をもった。澁澤が退任してからだが1948年標本貨幣室として公開開始、日銀創立100周年記念事業として1985年11月に改組オープンした。

「図録 日本の貨幣」(全11巻)
なかなか充実した博物館だが、残念ながらモノクロ8pの簡略な展示ガイド以外に、解説パンフがなかった。カタログは2000円以上するため手が出ない(ウェブサイトで見ることはできる)。ところで入口付近で「図録 日本の貨幣」(全11巻  土屋喬雄・山口和雄 72.11-86.6 東洋経済新報社)という全集の展示をみつけた。10巻は「外地通貨の発行」で日清戦争やシベリア出兵の軍票(軍用手票)発行にはじまり、横浜正金の大連、天津、北京、ハルピン、済南などの支店が発券した銀行券、満州中央銀行の銀行券、仏印進駐軍票、マレー、フィリピン、ビルマなど外貨表示の軍票などの写真や記述があった。詳しく読むことはできなかったが、こういう貨幣流通の面からも日本の海外侵略の足跡を実証的にたどれそうだった。
じつは40年ほど前に、わたくしはこの博物館に仕事で一度訪問したことがあった。ある国立銀行券の撮影のためで、わたくしはカメラマンのたんなる付き添いだったが、相談役だったか顧問だったかの名札のある大きな机に座っておられた土屋喬雄・東大経済学部名誉教授の姿をみかけたことを思い出した。

☆日本銀行の仕事は、お札の発行のほか、「物価の安定」を図ることと「金融システムの安定」に貢献することだそうだ。
しかし黒田東彦総裁が就任し黒田バズーカを発進させて6年近くになるが、そんなことはしていないように思える。
わたしたち庶民にとっては物価は0%または値下がりがありがたいが、アベノミクスに合わせてずっと+2%を目標にしている。日銀にとっては+2%が物価「安定」の範囲内ということらしい。しかしその目論見は6年もたっても「成功」していないうえ、あと何年かかるかすら予測できない。
さらに日銀による国債の大量買入れ(18年9月末中間決算で462兆円を保有)だけでなく多額のETF(同じく21兆円)およびJ-REITの買い入れ(18年3月末で5100億円)の結果、金融システム崩壊も引き起こしかねない爆弾を抱えている。そして、10年以上続くゼロ金利政策の異常さは地銀をはじめとする中小金融機関を痛めつけている。

日本銀行金融研究所貨幣博物館
住所:東京都中央区日本橋本石町1-3-1
電話:03-3277-3037 
休館日:月曜日(ただし祝休日は開館) (祝日の場合は翌日)、年末年始
開館時間:9:30~16:30 (入館は16:00まで) 
料金:無料

死刑廃止のいま――2018年年末の2人の執行に抗議する

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1月21日(月)夜、四谷の岐部ホールで「山下貴司法相の死刑執行に抗議する緊急集会」が開催された(主催:死刑廃止国際条約の批准を求めるフォーラム90公益社団法人アムネスティ・インターナショナル日本NPO法人監獄人権センター「死刑を止めよう」宗教者ネットワーク)。年末ギリギリ、官庁の御用納めの前日12月27日、大阪拘置所で岡本啓三(旧姓・河村)さん、末森博也さんに執行された死刑に抗議する集会だった。

岡本さんは、第1回大道寺幸子基金表現展(2005年)で優秀賞に選ばれ、その後も奨励賞を取るなど5回も応募された方だった。
この集会では4人の方からお話があった。当日の講演順序とは違うが、弁護士による事件の概要、友人のお話を先に掲載する。二人とも旧姓である「河村」さんと話されたので、旧姓で記述する。

●写経に励んだ心やさしい河村さん
小田幸児弁護士は、控訴審から河村さんの弁護を担当したので20年以上の付き合いとなる大阪の弁護士だ。事件の概要と論点を中心に説明した。

事件は1988年1月29日に北浜の風雲児と称されたKさんと秘書的な役割のWさんの2人を殺害し、遺体をコンクリート詰めにし1億円を奪ったもので、「コスモリサーチ殺人事件」と称された。実行者は河村さん、末森さん、Iさんの3人。
河村さんには両親と姉がいた。小さいころはケンカして負けて泣いて帰ってくる、まじめで気の弱い子どもだった。カネがあることで成功するという発想はあったようで、大学生時代はアルバイトに勤しみ、サラ金や水商売に手を染めてヤクザと知り合い、暴力団組員になった。小心者だが強く見せたいところがあった。結婚し子どもが一人いたが逮捕後、子どもが3歳ごろに離婚した。しかし死刑判決確定後に子どもが接見に来るようになった。
末森さんは株の仕出筋の仕事をしており、Wさんから情報をもらいカネを支払っていた。また債権回収などを通じて河村さんと親しくなった。1987年3-4月にWさんの話でKさんが5-10億円を新幹線で運んでいたことを知った。6月ごろ河村さんと、Kさんを拉致しカネを奪おうという話になったがいったん立ち消えになった。12月ごろふたたび計画を練り、Kさんの住所やマンションの調査・確認をしたり、もう一人空手の先生のIさんを仲間に引き入れた。
1月28日Wさんを呼び出し、Kさんを自宅で拉致し29日に殺害し、1億円を奪った。
事件の争点はいくつかある。いつごろから強盗・殺人をしようとしたか、Wさんへの殺意はいつごろ生じたか、強盗殺人なのか、強盗+殺人なのかなどである。強盗殺人なら無期懲役か殺人だが、殺人は5年以上の懲役から死刑と大きな違いがある。まただれが主導権をとっていたかも争点だったが、河村さんが首謀者という判断は一審からずっと変わらず、末森さんも重要な役割で責任があるとされた。Iさんは最終段階で加わったとされ無期懲役でいまも徳島刑務所で服役している。ただ殺害行為の中心はIさんで、無期と死刑のあいだには大きな違いがある。
また計画的殺人でなく、たまたまだということを、何の拘束もせずWさんといっしょにラーメン屋に行ったことを具体的客観的に立証し、1次から3次の再審で主張し、第4次再審請求を申し立て中だった。
彼は逮捕されてから、反省を深めていった。教戒師の先生が浄土真宗で慕っていて、得度し法名ももっていたし、熱心に写経をしていた。また一審の途中から被害者Kさんの父に毎月手紙を出した。何度も書くうちにお父さんから返事が届いた。「たくさんのお便りありがとう、ゆっくり読ませてもらいました。君の現在の心境もわかるような気がしました。あなたも体に十分気をつけてほしいと思います」という内容だった。河村さんの母といっしょに一度お墓にお参りさせてほしい、という話も進んでいた。残念ながらお母さんが先に亡くなりそれはかなわなかった。
死刑になったあと、遺体を引き取ったのは娘さんだった。彼にとってせめてもの慰めになったことと思う。
末森さんは、再審請求や恩赦請求をすすめられても一切断り、粛々と執行の日を待った。
会場に、河村さんの写経や仏画が展示されている。河村さんの字は手書きなのに活字のような書体で、仏画もていねいにていねいに描かれている。ここにも几帳面で小心な彼の性格が表れている。本来は心やさしい人だった。力及ばず河村さんを死刑執行させてしまった。自分の力のなさを詫びたい。

小田弁護士は、河村さんから正月明けに事務所に届いた賀状の「猪突猛進でがんばってください。今年もよろしくお願いします」という新しい年の希望があふれる文面にも触れ、死刑執行は肉体の消滅だけでなく「もう少しすると正月、もう1年がんばれる」と思う、人の心もないがしろにし、虫けら同然に心自体を打ち砕き、押しつぶした。法務大臣や総理は、河村さんたち死刑確定者だけでなく、刑務官や執行する執行官の心も、踏みにじっている。ふざけるなと言いたい。

●書くことで自身を見つめ直した30年
岡本さんの最高裁上告中から20年近く親交があった深田卓さんは、支援者でもあり友人でもあった。

年報死刑廃止」の創刊号(96年)から死刑囚全員に送っていたが、99年6月に河村さんからはじめて礼状が届いたのが交友のはじまりだった。送っていただいたのに礼状も出さず申し訳ないとのおわびと、執行されるまでに自伝を書きたいという内容だった。その理由は、今後似たような事件を防ぎ人命を救うことに役立つかもしれないからというものだった。
河村さんの原稿にアドバイスをし、大阪拘置所で面会し、最終的に5年かけてB4サイズ400字詰め30-50枚程度の原稿が完成した。それをこちらで入力し、彼が推敲する作業を繰り返し、ちょうど第1回大道寺幸子基金表現展の作品を募集している時期だったので勧めたところ、彼は応募した。優秀賞受賞は2作品だったが、そのうちの1つに選ばれた。選考委員は池田浩士さん、加賀乙彦さん、川村湊さん、坂上香さんらだったが、「犯罪をまさにリアリズムで書いている。こういう文章を書いた人をなぜ殺してしまわないといけないのかというところまで読む人を引きずり込み、考えさせることになるのではないか」と講評された。
その後「こんな僕でも生きてていいの」(インパクト出版会 2006年4月)というタイトルで発刊された。河村さん自身も、校正をみながら「自分はこんなに悪いやつだったのかと改めて思い知らされた」と言っていたが、犯罪を描き切り、苦しさを避けず自分のやったことを見つめ直すことをずっとやってきた。自分と向き合い原稿を書くことが自分の生き方となり、その後も2008年「生きる 大阪拘置所・死刑囚房から」(第3回奨励賞受賞)、2011年「落伍者」(第7回応募)などを書き続けた。
「こんな僕でも生きてていいの」の出版により、離婚したときに3歳くらいだった娘が自分の父が死刑囚であることに気づき面会に来てくれるようになった。獄中の河村さんにとって、毎日のように娘が面会に来てくれた時期がいちばん幸せな時期だったのではないかと思う。
昨年末12月19日にもらった手紙には「いま、まじめな小説を執筆中。あせらずじっくりやりますので応援してください」とあった。
2017年には再審請求中でも死刑執行が始まり、昨年7月には再審請求1度目のオウム事件の死刑確定者たちですら執行された。河村さんは井上嘉浩さんと100日あまり同じフロアで生活し、処刑の日の朝、井上さんが刑務官に連れて行かれるのを鉄扉の視察孔から目撃した。自分の執行も近いのではないかと確信し、「接見にきてほしい」という手紙を何度ももらった。最後の手紙は12月25日13時付けで「年内の執行はないだろうし、そうあってほしい」という内容だったが、2日後に執行された。
河村さんは、2人の人を殺し1億円を奪ったことは事実であり、冤罪ではないので、執行されるのは当然と考えていた。彼は初めの30年の人生で事件を犯し、あとの30年で事件と向き合い反省してきた。恩赦制度が機能するなら、彼ほど恩赦にふさわしい人はいない。
いま確定囚で死刑を飛ばされる可能性があるのは、高齢、病気などしかないところまで僕たちは追い込まれている。この死刑の状況をどう突破していくか、みんなで考えよう。

●再審請求中の執行は殺人罪だ
フォーラム90の安田好弘弁護士から、7月の13人の処刑に続く年末の2人の執行の意味と加速化する死刑社会をどのように止めるか、話があった。

12月27日の執行は、御用納めの前日で過去1回あるのみの異例中の異例である。昨年は1年で15人もの執行が行われた。この人数も2008年(鳩山邦夫法相のころ)の一度しかない。12月29日から1月3日までの間は死刑執行してはならないという規定(刑事収容施設法178条)があるので、27日になるともう少しすれば安心して生活が送れると思っておられる。その期待を裏切る残虐な執行だった。
さまざまな考え方がある。たとえば昨年はオウムの死刑確定者13人の執行があったが、それ以外の人を執行しオウムだけを狙ったものだけではないという「弁明」のためという観測もある。あるいは2019年は天皇代替わりの国家慶事の年なので執行しにくい。駆け込みで執行したという見方もある。いずれにしても死刑を断行するという強い姿勢に基づく。
山下貴司法務大臣は12月27日の記者会見で「国民世論の極めて多数が、極めて悪質・凶暴な犯罪については、死刑制度の存置もやむを得ないと考えて」いる。だから「死刑を廃止することは適当でないと考えて」いる、と述べた。しかしなぜ12月27日に執行したかは説明していない。死刑執行が彼の責務であり権限だった。死刑制度について語っても仕方がないのに、説明責任を果たしていない。
再審請求中の確定囚への執行は2年前の2017年に始まった。山下法相はこの件で「再審事由の有無等について、慎重に検討し、これらの事由がないと認められた場合に執行命令を発する」と答えた。つまり法務大臣が再審請求の事由があるかどうか慎重に判断したというわけだ。しかし入管法改正の国会答弁などをみても慎重に検討したなどとは考えられない。
わたしは再審請求中の執行は法律違反、殺人罪に該当すると考える。くどいようだが刑事訴訟法475条2項には「但し、上訴権回復若しくは再審の請求、非常上告又は恩赦の出願若しくは申出がされその手続が終了するまでの期間及び共同被告人であった者に対する判決が確定するまでの期間は、これをその期間に算入しない」とある。「6か月以内の死刑執行」期間に算入しないということだ。この規定にない場面(例 確定して6か月を過ぎた後の再審請求中の執行)については、死刑を執行するかどうかは、政府の解釈でなく、国民主権なのだからもう一度国会で議論し法律で定めるべきだ。人の命に関わることだから、法治主義に反するようなことをしてはいけない。再審を受ける権利は命を防衛する憲法上の権利であり、権利を奪うようなことは許されない。法相の判断だけで執行するのは司法権の侵害であり、違法行為、殺人行為だ。小田弁護士に司法の場で争ってほしいと希望する。
オウム事件の死刑確定者執行のときに「一度に12人を死刑にした100年前の大逆事件の時代以前に戻った」と述べたが、実際そうなっている。死刑執行の強固さが一段と強化されている。今回の執行は「一度決めたことは最後まで実現する」という強い秩序感、姿勢を示した。
この状況を打ち砕くにはどうすればよいか。死刑廃止はまだまだ困難なので、わたしたちができるのは死刑廃止の準備をすることだ。「死刑がなくてもよい」あるいは「死刑でなくてもよい」と人々が考えるようにすることだ。個人的意見だが、死刑を確実に減らすには終身刑の導入により、もう一度死刑制度について見直す、あるいは第二の選択肢を設けて廃止の準備をすることだと考える。
彼らは天皇即位と関係なく執行してくるかもしれない。廃止に向けて何を準備するか、どこからスタートするか考え、多くの人のコンセンサスをえられるようにすべきである。

最後に「安倍内閣は一次で10名、二次以降で36名、合計46名という過去最多の死刑を執行し、歴史と世界の流れに逆行する内閣となってしまった。私たちは山下法務大臣に、今回の死刑執行に強く抗議するとともに、再び死刑の執行を行わないことを強く強く要請する」という決議を参加者全員で採択した。
☆この日の集会で、死刑廃止議員連盟の初代事務局長だった二見伸昭さんのスピーチがあった。ごく一部を紹介する。

事務局長だったとき印象に残った3人の法務大臣のエピソードを紹介する。
左藤恵法相は「わたしは仏門の僧侶です。だから人を殺すことはできません」と語った。三ヶ月章法相は突然泣き出し「法相を受けるべきかどうか、三日三晩悩み苦しんだ」と言った。同じハンコを押すのでも山下法相とはまったく違う。後藤田正晴法相は、わたしといっしょに元裁判官の江田五月さんがいたこともあるが「死刑判決を出したのは裁判官だ。死刑をやるなら裁判官がやればいい。死刑の下請けをオレたちがやるのはいやだ」と言った。
イギリスも世論は死刑賛成だが、死刑をやめた。世論と異なり政治家は死刑反対だ、死刑廃止は政治家の品格だといわれた。またフランスのバダンテール司法大臣も死刑廃止をしたのは政治家の良心、人権意識だと語った。

1万冊以上の社史がずらりと並ぶ県立川崎図書館

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溝の口駅から徒歩15分のところにKSP(かながわサイエンスパーク)があり、そのなかに神奈川県立川崎図書館がある。ここは一般の公共図書館と異なり、「ものづくり情報ライブラリー」を謳い文句にした図書館だ。一般の図書館は、日本十進分類表の90番 文学が半分くらいを占めるが、ここは40番 自然科学、50番 技術・工学、60番 産業が圧倒的に多い。 
もうひとつ大きい特色は、社史が多く集められていることだ。また「特許」「規格」に関する書籍も多く閲覧できる。
この図書館に来ようと思ったきっかけは「社史の図書館と司書の物語――神奈川県立川崎図書館社史室の5年史」(高田高史 柏書房 266p 2017年1月 1900円)を読んだからだった。というのもわたくしは20代のころ、仕事で社史編纂の補助をやっていたことがあり、なつかしさもあったからだ。読了したのは1年ほど前ですぐ行って現物をみてみたいと思ったのだが、そのころはたまたま移転のため休館中、5月15日にオープンしたことは知っていたが、遠方でもありなかなか訪問する機会がなかった。

KSPという名前からして研究所のようなところかと10階建てビル(なおビルそのものの竣工は1989年)に入ると、ホテルの入口になっていて驚く。エスカレータで2階に上がり、図書館に入ると1300平方メートルの広々した空間に、書棚と閲覧席が広がっている。右手奥が社史のコーナーで、1万4000冊もの社史が5段書棚、15列(キャビネット4-7台で1本に連結)に業種別・会社別に収納されている。これとは別にスペースの関係で書庫に5000冊あるそうだ。かつて編集補助をした本が、何冊もみつかった。数十年ぶりの「再会」だった。なお書架の様子はバーチャル「社史室」(このサイト)で見られるし、書庫の本も含め書名などは「蔵書検索」(このサイト)で確認できる。

館内での撮影は、許可をいただき行った
1月に大阪・池田のカップヌードルミュージアムを見学したばかりなので「日清食品50年史」を取りだした。あのときは妻・仁子の生涯を知ることが目的だったが、百福の人生も興味深そうだったからだ。「日清食品50年史 創造と革新の譜 写真でつづる50年」(2008年)という写真主体の社史本体(231p)のほか、「日清食品創業者安藤百福伝」という創業者伝(91p)、「映像でつづる日清食品の50年」の三分冊から成る。映像編はDVD1枚とそのケースだが、ケースを開くと「インスタントラーメン発明ヒストリー」というポップアップが立ち上がり、ちょっと驚く。さらに3分冊を入れる外函は浮出し(エンボス)加工でラーメンの麺の凹凸が浮き出すようになっている。しかも外函がすっぽり収まる「チキンラーメン」の大きなビニール袋まで付いていて、本当に凝っている。
内容のほうでは、百福の大阪の華僑系信用組合理事長当時のところを読みたかったが、あまり詳しく触れていない。その代わり1948年4月に中華交通技術専門学院という学校を名古屋に開設したというトピックスをみつけた。自動車の構造や修理技術、鉄道建設を修得できる学校で、全寮制で奨学金がもらえる学校だった。これだけ見ると、朝ドラで東京営業所に派遣された社員が奨学金を支給され定時制高校に通っていた話を思い出す。ただGHQの逮捕理由は奨学金の脱税容疑ではなく、泉大津の工場の社員に小遣いを与えていたのがヤミ給与とみなされたとあった。この学校は3年ほどしか続かず、百福の検挙もあって廃校になった。しかし校舎はその後、名城大学商学部の校舎として使われた。
また国民栄養科学研究所という社名で病人食の開発・販売をしていたことは実話だった。ただし商品名は「ダネイホン」ではなく「ビセイクル」だった。

もう1冊、図書館のウェブサイト 「すごい社史」73号や前記書籍7章で「もっともユニーク」(188p)と絶賛されている「コミーは物語をつくる会社です。」(2013年)を少しみてみた。コミーは1967年創業、埼玉県川口市にある特殊ミラーのメーカーである。
巻頭1pに「古今東西『失敗』についての格言は数多い」「『失敗』はチャレンジした者だけの言葉。コミーも失敗を繰り返し、学んできた」「まずは『失敗の物語』」からと始まる。次のページには「展示会では大評判だったが、サッパリ売れない」卓上看板・コミックス(1972年開発・撤退)の商品写真と「失敗したからわかった」という教訓が紹介されている。本文は「日本一の中小企業」との出会いの物語、航空業界参入物語など24の「物語」が「出会い」「創る」「仕組み」など5つのジャンルにまとめられている。巻末に「コミー用語集」という社内用語のリストがあり「物語」は「「問題発見」「可能性の追究」から「結果出し」までの実例集」、その「問題発見・結果出し」とは「現場で「おかしいな」「なぜだろう」と思うことがあったら、問題を明確化し、解決方法を考え、行動を起こして結果を出すこと」、「悪さ加減」とは「品質問題の程度。致命的なものを「悪さ加減が大きい」という」などと意味・定義が解説される。まさに企業精神が凝縮された社史だ。タイトルの「物語」の意味も明確になる。ページ数がきっかり333pと3のゾロ目なのも、何かのこだわりなのかもしれない。

日清食品、コミーともにA4サイズと判型が大きく、新着社史のラックにあった2冊の社史「藤永組70年史」(2018年3月 熊本)、「日信電子サービス50年史」(2018年 墨田区)も同じくA4判だった。かつては一回り小さいB5判やビジュアルであってもA4変形(天地が280ミリ)のものが多かった。より写真を多く入れるためか、本文を2段組にし、文字を多く入れページ数を減らすためなのだろうか。

わたくしは、元・社史編集関係者なので書棚の「社史の関連書籍」の棚も興味深かった。かつて参考にした社史づくりのマニュアル的な書籍、たとえば「『会社史』入門」(日本経営史研究所 にっかん書房)や社史探索のデータブックである「会社史総合目録」(日本経営史研究所)もあり、その後を継いだと思われる追録も「会社史・経済団体史新刊案内2012年」(専門図書館協議会・編 専門図書館協議会関東地区協議会)というかたちで2012年12月まで出ていたことがわかった。珍しいものでは「企業史料協議会20年史」(企業史料協議会・編纂 2004年3月)があった。

もともとこの図書館に来るきっかけとなった「社史の図書館と司書の物語」について触れておく。本書は川崎図書館の司書である著者が2011年7月「社史にみる企業キャラクター」というミニ展示を担当して社史に詳しくなり、地方紙に「社史をひもとく」という連載や、経済出版社のウェブサイトに「社史の図書館から」という連載を続けたこと、大阪府立中之島図書館と共同で「みんなで選ぶ社史グランプリ」という参加者投票によるコンテストと社史展示イベントを行ったこと、「社史ができるまで講演会」というセミナーを20回以上開催したこと、「社楽」という社史にまつわるA4サイズ2-4ページの情報紙を50号以上発刊し続けていること、社史フェアというイベントを年に一度開催していること、など著者および職場のチームが行った社史にかかわる5年間の実践活動を社史の内容とともに記録した書籍である。
社史の内容とは、たとえば不二家のキャラクター、ペコちゃんや興和のカエルの由来(p26-27)、同じ業界、たとえばパン業界の社史を並行して読み、木村屋、中村屋、山崎製パン、進々堂、敷島製パンの不思議なつながりを発見したこと(p114-116 社楽28号)、などである。また、社員の川柳&選評コメントコーナーがある社史(p186 アクセンチュア50年史)、職場の見取り図や業務中の多数の写真、全社員の1行アンケートを掲載し社員とその家族を読者対象にした社史(p206 モトックス百周年記念誌)などユニークな社史が多く紹介されている。社史編纂担当者にももちろん役立つが、それだけでなく一般の読書人の関心を惹きそうなことが多い。
かつて自分が社史をながめるときは、たとえばある会社の社史をつくるときその会社の先行する(古い)社史を参考に読んだり、同業他社の過去の動きをみたり、特定の目的をもって読むことが多かった。社外のたとえば取引先、顧客が自分と関係のある部門の歴史を調べたり、知人が働く会社、地元の企業を地縁で調べるのも、ある意味で特定の目的に沿うものだ。しかしこの本は、そうでない一般の人が、社史を読む場合の読み方について、いくつかの視点をサジェストしてくれているように思った。たとえば「社史でこんなことがわかるんだ」(p17)、「あるテーマを切り口に」横断的に社史を調べる(p34)、などである。本文にまで目を通す余裕のない人でも、装丁がユニークな社史(p126)とか口絵写真を見て何かを学ぶということもありえる。
また、「読む註」が本文260pに102か所も付けられているのも、本が好きな読者にはたまらない。

国会図書館には、作成した出版物を1部送る納本制度があるが、そうではなく寄贈でこれだけ集まる体制にするのは大変なことだと思う。最新の要覧(13p)によれば1年で500冊もの寄贈があるという。
なおこの図書館では、社史とは別に知的財産講座「特許の実務」、企業の足跡を知る「日本のビール産業とキリンの歴史」といったセミナー、講演会も開催している。
住所:川崎市高津区坂戸3-2-1 KSP西棟2F
電話:044-299-7825 
休館日:日曜日(祝日の場合を含む)、毎月第2木曜日、年末年始ほか
開館時間:月~金 9:30~19:30、土・祝・休日 9:30~17:30 
料金:無料


5年前に溝の口駅西口商店街にきたときに「いろは」と「かとりや」に入ったので、今回は駅に近い方にある大衆酒場・玉井西口店に立ち寄った。入口付近は立飲みだが、奥は椅子席になっていた。焼き台に立つ人が男性3-4人。フロアが女性5人くらい。早い時間だったからかもしれないが、女性はみな学生アルバイトのような感じで若かった。わたくしがいく店のなかでは珍しい。客も比較的女性が多かった。
まず燗酒の高清水(330円)とおまかせおでん(大根、こんにゃく、玉子 180円)、次に焼酎(いいちこ)お湯割り(370円)と豚レバカツ(220円)。お勘定は少し割引もあり1155円(税込)、この店も安かった。

なお前回は、店外の塀にクラシックのコンサートのポスターが貼られているのに気付いたが、今回は飲み屋街のなかの古書店「明誠書房」が考えるとちょっと不思議で気にかかった。

青年団の「ヤルタ会談」、そして渋谷「のんべえ横丁」

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こまばアゴラ劇場青年団の「ヤルタ会談」をみた。1か月近くで9演目67ステージもある平田オリザ・演劇展 vol.6のなかのひとつだ。
登場人物は3人、わずか30分の短い芝居だった。3人の人物が、お茶を飲みお菓子を食べながら、ああでもない、こうでもないとよもやま話をする、よくあるオリザ芝居である。

しかし、ただ一つ違うのは、その3人がチャーチルスターリンルーズベルトの3人であることだ。イスにも「ちゃーちる」などと名前が書かれておりすぐわかる。時はドイツの敗戦が近い1945年2月、場所はクリミア半島のヤルタ、そして話題は第二次大戦後の三国による世界の分割支配やアウシュヴィッツ収容所でのユダヤ人虐殺、新型爆弾使用(広島・長崎の原爆のこと)などの話なので、ただごとではない。戦後74年経ついまなお、世界の大問題であるパレスチナとイスラエルの中東問題(たとえば聖地エルサレムの帰属問題)や朝鮮半島問題も出てくる。
役者は松田弘子(スターリン)、島田曜蔵(チャーチル)、緑川史絵(ルーズベルト)の3人。なぜか太め体形の3人をそろえた。2005年のDVDをみたが、ルーズベルトは高橋緑だったが、やはり太め俳優なので、意図的な起用なのだろう。
幕開きで、スターリンが一人イスに掛け「インター召し上がれ、いざ、ふるいつけ」などとインターナショナルの替歌を口ずさんでいる。「起て飢えたる者よ」からの連想だろう。
内容は重いが、セリフは世間話、井戸端会議ふうに進行する。
 (以下、ネタバレ)
たとえば途中でルーズベルトが薬を飲むため中座したとき
スターリン 大変ですな、ルーズベルトさんも、
チャーチル もう、すごいの、薬漬け。
スターリン あぁ、もうだから資本主義はね。
チャーチル いやいや、資本主義とは関係なくてね、病気だから、
スターリン プロレタリア独裁万歳! 労働者は風邪ひかない!
チャーチル はい はい はい。(p4  ページ数は劇場版シナリオのページ数 以下同じ)
実際にルーズベルトはヤルタ会談のあとたった2か月で脳卒中により死去し、副大統領のトルーマンが昇格した。
ルーズベルト いやいや、まぁ、この三人でさ、仲良くやるってことでしょう。
チャーチル そんなことはわかってるよ!
ルーズベルト 仲良くヤルタ会談!(略)
スターリン ま、明日もあるしね。(p6)

チャーチル うん、ガンジー・・・あいつ人気あるからな。
ルーズベルト だよねぇ。
チャーチル 下手すると、あいつの方が歴史に残るよ、名前。
ルーズベルト あり得る、あり得る。
スターリン 冗談じゃないよな。
ルーズベルト 冗談じゃないよ、戦争してんの、俺たちなんだよ。
チャーチル そうなんだよな、まったく、
スターリン そうだ、そうだ、何様のつもりだ!
ルーズベルト お坊様だろう。(p11)
というような会話がたくさん出てくる。この芝居は2002年柳家花緑に書き下ろした新作落語がもとだった。だからだろうか。
しかし、内容が内容だけに、権力者たちの恐ろしい会話も入り混じる。
スターリン カスピ海、どれだけ血に染めたことか、(略)キャビアが血に染まってイクラになっちゃったよ。(p11)

スターリン 反動分子っていうのはね、ゴキブリみたいなもんでね、一匹見つけたら三十匹はいると思わなきゃダメなんだな。
ルーズベルト いや、だからってさ、
スターリン だから、すぐにもとを絶つ。(p13)
長めのコントのようなものだったので、どうこういうことはないのだが、テーマは、3人の世界の権力者の競り合いだろう。1部ではドイツ敗戦後のヨーロッパの領土分割と支配、東欧は原則としてソ連が取り、バルカン半島はチトーに任せる。ただ、ポーランドは取扱い未定。問題はイスラエル独立とパレスチナだが、これは21世紀のいまも尾を引いている。2部はソ連参戦による日本敗戦後のアジアの領土支配、満州、朝鮮、北海道、インド、マレーシア、ビルマ、フィリピンなどの支配が話題に上る。
これらの史実はおそらく大筋ドラマ通りなのだろうが、平田のシナリオは、それ以上に人間臭さを強調する。1人が席をはずしている間、残りの2人はその場にいない人物の悪口をいったり、懸念を示す。また3人のあいだでも個性の違いはあり、スターリンがもっとも野心家で、チャーチルはそれに張り合い、やや気弱なルーズベルトが仲介に入ったりする。スターリンは、天皇と比較し「人民がいてこその独裁者ですからな」(p10)というセリフすら語る。しかし最後は、新型爆弾を開発したルーズベルトに対する2人の猜疑や羨望で幕を閉じる。
日本人としては、ブラックユーモアでは聞き捨てられない会話も差しはさまれる。
ルーズベルト ほら、日本って、全部家が木と紙でできてるじゃない。だから、燃える燃える。(略)火薬庫なんかに命中するとね、花火見たいなんだって、
チャーチル すごいなー、それ、(p9)

チャーチル でも、あんまり成功しないんでしょう、カミカゼって。
ルーズベルト そりゃそうだけどさ、でも怖いらしいよ、やっぱりキチガイが爆弾抱えて向かってくるんだから。
チャーチル まぁな。
ルーズベルト 頭痛いっすよ。もう勝負決まってんのにさ、絶対降伏しないんだもん。(p9)
新型爆弾について
スターリン それは、なに、どのくらいいっぺんに死ぬの?
(略)
チャーチル まぁ、十万人くらいかな。
(略)
チャーチル 使うの?
スターリン 使いたいよね、新兵器だもん。(略)
ルーズベルト 仮定の話ですよ、仮定の(略)あったとしても、使うのは、どーかなー(p16)
なお2019年版では、2005年上演時のDVDではシナリオ通り標準語で話していたルーズベルトが、東北弁で「んだな」(まぁ、そうだな カッコ内がシナリオ 以下同じ)、おっかないもんね(こわいもんね)、イギリスの問題だんべ(でしょう)」と話している。これはルーズベルトを新興国の成りあがりの田舎者という性格付けをしたかったのか、たとえば緑川史絵が東北出身というような理由があるのか、意図がよくわからなかった。
平田は「海よりも長い夜」(1999)、科学シリーズ(1990-2001)で会議の場面を取り上げ、その後、「ヤルタ会談」「忠臣蔵」シリーズを経て、会議に特化した「御前会議」(2005)で「鉱脈を掘り当てたと思った」と2005年のDVDで語っている。DVDは途中までしか見ていないが、議長の決め方、議事進行をめぐるもめごと、結論の先送りなど、会議で「あるある」の現象を言っているのだろう。
平田オリザ氏が、客を出迎えたり見送りがてら、路上で知人の方とあいさつされている姿がみられた。寒いのにご苦労さまなことだった。以前にも書いたが、かつてひらたよーこさんが下足番までなさっていたことを思い出した。

井の頭線駒場という駅は東大教養学部がある場所なので、駅の宣伝看板も特殊だ。ただアゴラは大学がある駅北側ではなく、南側の商店街を200mほど渋谷方向に歩いた場所にある。通りかかったのは夜8時ころだったが、線路の向こうの大学体育館から元気な声が響いていた。

昨秋「ソウル市民1919」をみたあと井の頭線出口付近の「とりすみ」に行ったが、この日は山手線ガード沿いの渋谷のんべえ横丁のおでんやを目指す。 
たしか高知に住んでいた女性がやっていたはずで、高知の酒も置いていたはずだ。高知出身の先輩と行った覚えがある。たぶん「よしのや」だったと思うが見つからない。近所の店の方に聞くと、何年か前に休業状態に入ったとのこと。

仕方なく一番奥のほうにある「なだ一」というおでんやさんに入った。店名が変体がなで書かれていて読めなかったのでマスターにお聞きしてわかった。「なだ」が付くので灘の酒に関係あるのか聞くと、三代目なのでよくわからないそうだ。この場所で初代が店を始めたのが1950年なのですでに69年、その前に屋台を引いて営業していた時代があるそうなので、老舗中の老舗だ。
HPでは17席とあるが、普通に座ると調理場を囲み8席くらいのこじんまりした店だ。自然に店内の話に割り込むことになる。どうも競馬の一口馬主の話をしているようだったので、わたしはかつて社台ファームの社台ダイナースクラブ(現・社台レースホース)の会員誌の仕事をしたことがあると話すと、受けた。
隣は飲料メーカーの人事部の40代の2人連れだったので、退職後の生活の落差など、いろんな話題に及んだ。はっと時計をみると23時を回っていた。そんな若い年代の人と話す機会はないので楽しいひとときだった。この日は、熱燗1合、芋焼酎のお湯割りを2杯飲んだうえ、調子に乗って最後にレモンハイまで注文してしまった。おでんは、こんにゃく、きんちゃく、玉子、そして塩らっきょで4200円だった。

見渡すと、店を継いで5年くらいという三代目マスターが若いだけでなく、客も男女とも30-40代が多いようで、考えるとかつてはこちらもそんな年代の客ばかりの店によく行っていた。本来、盛り場の居酒屋は働くサラリーマンのためにあるものだ。
こちらは、過去の話や、現在の年金生活の話をする身になってしまった。人間はだれも1年に1歳年をとるのだから、仕方ないというか、当然なのだが・・・。
前にも書いたが、東急文化会館も東急プラザも、全線座もヤマハ渋谷店も大盛堂書店(本店)も富士屋本店もなくなった渋谷のまちで、この居酒屋街が渋谷駅近くに残っているのは奇跡のようなものだ。文化財保護のように、残す方法はなにかないものだろうか。


3.1朝鮮独立運動100周年の日の新宿

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3.1朝鮮独立運動が始まって丸100年の3月1日まさにその日、新宿アルタ前広場で「3.1朝鮮独立運動100周年リレートーク&キャンドルアクション」が開催され600人が集まった(主催:2019 3・1独立運動100周年キャンペーン)。金曜の夕刻、場所が場所だけに、「日韓断交」「水爆上等、撃ってこい豚」「北朝鮮は殺人国家」「殺人豚死ね!」などというプラカードを掲げヘイトスピーチを投げつけるウヨクの罵声が、とても五月蠅(うるさ)かった。 

アクションは、キャンドルを振りながらのシュプレヒコールから始まった。
「100年前に思いを馳せよう、加害の歴史を直視しよう! 植民地主義を終わらせよう! 日韓連帯、日朝友好! キャンドル革命 学び続こう!(略)朝鮮学校の無償化に 差別をなくそう 偏見やめよう 徴用工の歴史を考えよう(略)辺野古新基地建設反対 沖縄民意は新基地反対(略)トランプ持ち上げ 世界の恥 安倍内閣はいますぐ退陣!」
このアクションのねらいを凝縮させた優れたコールだった。集会のなかで、同じ文言を何度か繰り返しコールした。

主催者あいさつは、100年前の独立宣言書の一部を引用するアピールだった。
宣言は「自らの尊厳と独立を勝ち取るとともに、日本に対しても東洋平和のために共に変わるべき」と提起したが、今日の式典で文在寅(ムン・ジェイン)さんも、過去の歴史に対してしっかりと反省の立場をとり、朝鮮半島および東北アジアの平和のために共に手を携えていこう、と主張した。わたしたちも、朝鮮半島の人たち、そして世界の人たちに平和のメッセージをいまこの場から届けよう。

ウヨクのヘイトの喧騒のなか、日本軍「慰安婦」問題解決全国行動、「高校無償化」からの朝鮮学校排除に反対する連絡会、アジア太平洋ジャーナル:ジャパン・フォーカス朝鮮人強制労働被害者補償立法をめざす日韓共同行動許すな!憲法改悪・市民連絡会など5人の方のスピーチがあった。
その中から、菱山奈帆子さんの、ウヨクに正面から対抗し、参加者に元気を出させるエネルギッシュなスピーチの一部を紹介する。このサイトの最後の10分ほどのところで聞けるが、あらためて聞くと、ディテールに説得力がわかる。
 (もちろん、街頭宣伝なのでスピーチそのものは「です、ます調」だった)

韓国のキャンドル革命で使われたキャンドルを手にし、熱のこもったスピーチをした菱山さん
わたしたちは、天皇の戦争責任を本当に考えて認めていかなければならないと思う。先ほどから「100年も前のことなどどうでもいい」と言っているウヨクに言いたい。過去を学ばないやつに未来などない。テレビのニュースで元従軍「慰安婦」が、ハルモニなどの支援金のもとになるマリーモンドのグッズが反日ビジネスだという間違った報道がされた。最近のニュースでも、反日とか反日ビジネスとかそういう言葉があふれている。わたしは、こちら側から分断することが絶対に許せない。
 わたしは今日そのマリーモンドの靴下をはき、韓国の活動家たちにもらったバッジを全部つけてここにやってきた。
反日とか反日ビジネスとかいうけれど、百田直樹の本を首相自らがお勧めしているのはどうなのか。何言ってるんだと、わたしは言いたい。
わたしは、日本の市民運動を闘う一人として100年前の今日、1919年3月1日に開始された分断前の朝鮮独立運動を断固支持し、その意義を、目標を継承する立場を表明する。(略)
3.1独立運動の精神は100年の時を経ても燃え続けて、ついにキャンドル革命に勝利した。皆さん、思い出してください。2017年11月3日憲法記念日の憲法集会で国会正門前で、キャンドル革命を闘った韓国市民運動のリーダーが「日本の憲法9条はアジアの宝だ。ともに守り抜こう」と発言された。憲法9条は侵略と植民地化により多大な犠牲を強いられたアジアの人びとの平和への願いであり、希望でもあることを教えられた。
(略)民意を踏みにじり暴走する安倍政権が次に何としてでも実現したいのは改憲だ。わたしたちは、いよいよここから安倍政権との決戦へと踏み込んでいく。いまも在特会がヘイトスピーチを行っている。安倍政権はこういったヘイトスピーチを繰り返す在特会とまったく同じだ。安倍政権はヘイト政権だ。安倍政権は差別排外主義政権だ。
防衛省の幹部が韓国とのつきあいはもうウンザリだ、日本列島をアメリカ側に移動させてアメリカの一部になりたいと発言している。侵略のイデオロギーであった脱亜入欧はいまや脱亜入米にまで極まったのではないか。さらに自民党国防部会長は「泥棒がウソをいっているだけだ。盗んだ仏像を返せ」と発言した。戦争責任について、謝罪要求に対して反論したつもりなのだろうが、あまりにもひどい内容ではないだろうか。
みなさん、わたしたちはこれから、隔てる海を友好と連帯で埋め尽くし、兄弟姉妹のように励まし支え合って立ち上がろう。このキャンドルは韓国のキャンドル革命で使われたものだ。もう一度回収し日本に送ってくれたものだ。日本もがんばれというメッセージだ。このメッセージをしっかりと受け取っていきたい。アジアの宝、憲法9条をともに守り抜き、朝鮮半島そして世界の平和の阻害物・安倍政権打倒に向けて、ともにがんばろう。

この集会に参加する前に、新大久保の高麗博物館に立ち寄った。以前この博物館に来たのは11年も前のことで企画展「文禄・慶長の役と日・朝の陶磁」をやっていた。
今回の企画展は「3・1独立運動100年を考える」だった。前史から3・1運動後の100年までを10のパートで構成するパネルと若干の展示品が並べられていた。ほぼ毎年3.1朝鮮独立運動の集会に出ているのでいろいろ知っているつもりだったが、この展示と購入したパンフで、初めて知ることも多かった。たとえば3.1直前の2月8日に神田のYMCAで留学生が発表した「独立宣言」がもとだと思っていたが、それより1週間前の2月1日満洲独立運動家が「大韓独立宣言」を吉林省で発表していた。また3・1独立宣言に署名した33人は、学生、運動家、労働者などだと思い込んでいたが、じつは宗教団体の人(キリスト教16人、天道教15人、仏教2人)だった。また柳寛順(ユ・グァンスン)は知っていたが、日本に留学し逮捕された金マリア、光州で大極旗をもった左腕を切られ右目を失明した尹亨淑(ユン・ヒョンスク)など多数の女性が関わっていたことなどだ。
また、堤岩里(チェアムニ)虐殺事件のことも初めて知った。3.1から1か月ほど後、京畿道堤岩里(水原の南西)の3月28日と4月3日のデモで2人の日本人巡査が殺害され、これに報復した日本軍が朝鮮人を教会に閉じ込め29人を射殺したあと放火した事件である。この事件に対する英米や日本の新聞報道や植村正久、新渡戸稲造らの感想が紹介されていた。それだけでなく、戦後1965年に日本のキリスト教徒中心に、片山哲、斉藤勇、村岡花子らが発起人となって「謝罪委員会」を立ち上げ、1000万円の寄付金を集め、70年9月に教会堂と遺族開館を建設した。「つぐない」という募金月報まで発刊しており、1968-69年にかけての月報がたくさん展示されていて驚いた。
その他、3.1独立運動について山陽新聞、東京朝日新聞、京城日報などの新聞が何を報じ、何を報道しなかったか、布施辰治、柳宗悦、石橋湛山など朝鮮に心を寄せた少数の知識人はどう見たか、など多面的に広く考察されていて感心した。

スタッフの方と少しお話することができた。主として植民地下の朝鮮の人びとの生活についてお聞きした。朝鮮人も、日本人と同様階層の差があり、小作農、自作農、地主では生活の差があり、当時は義務教育ではなかったので、小学校に行ける家と学費のために行けない家があった。ただし学校のなかでは朝鮮語は使えず日本語のみという「差別」があった。上級学校(中学や女学校)、工業学校・商業学校・師範学校に進学する人もいたが、それは限られた家の子弟だった。
しかし日本語が通じなくては兵隊として勤まらない。朝鮮に徴兵制が敷かれたのは1944年9月からだが、志願兵は日中戦争開始後の38年から受入れが始まり、1941年の国民学校発足のころから朝鮮人も全員小学校に行くようになった。また日本の内地で働かせるにしても、炭坑や土木工事は小作農の子、工場に送るのは高等小学校を卒業した子、というような「選別」システムがあった、とのことだった。植民地の朝鮮人を支配する「統合」システムがしっかり構築され、運用されていたようだ。そういう歴史も学ぶ必要があることに気づいた。

また、在日朝鮮人への差別は100年後のいまなお日本国内で続いている。アルタ前のアクションでも言及されたが、朝鮮学校のみ(政治的理由で)高校無償化が適用されていないという問題もそのひとつだ。全国5か所で訴訟が起こされている。
2月2日夜、高校生たち(当時)が原告となっている東京朝鮮高校生の裁判を支援する会ほか4団体主催の「子どもたちの声にどう応えるか」という集会が、吉祥寺の武蔵野公会堂で開催され、参加した。

「子どもたちの声にどう応えるか」集会で檀上に並ぶ、関東一円から集まったオモニ会の保護者たち
東京の訴訟は昨年10月30日高裁でも残念ながら棄却され敗訴となった。不指定処分の理由は、1「規定ハの削除」か2「13条不適格」のどちらなのかが争点で、1は2013年2月19日、2は朝鮮学校への送達が2月21日だったので1がその理由だったはずなのに、高裁は「行政処分の成立と効力は別」という理屈をつくり敗訴させる不合理な判決だった。現在、最高裁に上告中だ。
国連「子どもの権利条約」でロビー活動をするためジュネーブに行った方の報告、東京、埼玉、千葉、栃木などからのオモニ会のお母さんたちのリレートークもあった。
行動提起で「もちろん最高裁への要請行動などは続けるが、それだけでなく地域にある朝鮮学校の学校公開に参加するなどして世論を底辺から広げることが重要」という呼びかけがあった。
たしかにそうだと思うので、機会があれば見学に参加してみたい。
今年は3.1独立運動100周年なので、今後も多くのイベントや集会があると思う。

韓国YMCAからスタートした天皇制反対のデモを駿河台下で待ち伏せするウヨクたち
☆100年前の2月8日、神田の在日本東京朝鮮YMCAで「独立宣言」を留学生が発表した。
そのときの建物は関東大震災で焼失したが、もう少し水道橋寄りに再建されたのが在日本韓国YMCAだ。
今年の2月11日建国記念の日の夕刻、韓国YMCAから2つの「建国記念日反対」「天皇制反対」のデモがスタートした。わたしは淡路公園がゴールのデモに参加した。偶然だが、2月8日の留学生たちの独立宣言からほぼ100年の日に、まさに歴史的な場所にいたことになる。朝鮮半島の植民地支配と天皇制とが、密接なかかわりがあることはいうまでもない。

校門前に「日の丸」がなかった都立三商卒業式

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まるで春の日のように暖かい朝、江東区の第三商業高校卒業式(全日制)の校門前で、ビラまきをした。
この学校はJR京葉線・越中島駅から徒歩8分、地下鉄東西線門前仲町駅から18分のところにある。
東京海洋大学(旧・東京商船大学)の東側200mの位置で、南側の豊洲橋を渡ると芝浦工業大学豊洲キャンパスがある。近くには深川三中や越中島小学校もあるので文教地帯といえる。一方学校の北側には福山通運の大きな倉庫(東京支店)、東側には清水建設の技術研究所、海洋大学の東隣にはスポーツニッポン本社がある。さらに門前仲町付近には深川仲町商店街があり、2年生がインターン実習をする。
江東区なので、もちろんURの越中島三丁目ハイツや都営アパートはじめプラウドシティ、クレヴィアなど民間マンションも多いし、橋を越えると豊洲のタワーマンションが並ぶ地域で、向かいの福山通運の1階はミニストップ、大戸屋、クリーニング店、福山みどり保育園など住民向けの店舗が入っている。隣の越中島三丁目ハイツの壁面には「福山通運さん、環境破壊をやめて! 危険! 屋上にトラック210台」という垂れ幕が掛かっている。
ゴチャマゼのようだが、だだっ広く、ちょっと未来的な風景が広がっている。

この学校は、校門に「卒業証書授与式」という看板は立っていたが、国旗や校旗はなかった。どこにもないわけではなく、はるか遠くのグラウンドのはずれの校舎に近いところに3本の掲揚ポールがあり、そこに掲揚されていた。たまたま風が弱く、国旗はうなだれていた。今年の市販カレンダーに元号が表示されていないのと同様、校門前はすがすがしい風景だった。

生徒の4割くらいは自転車通学で、歩道が3-4mありかなりのスピードで通過する。入口が2つあり、わたくしは電車通学の生徒にしか渡せなかった。電車が到着するたびに集団で通りかかる。
いまどきの生徒なので、路上のビラは受け取らないことが条件反射のように身についているようで、こちらが「お早うございます」と呼びかけても目を合わそうとはしない。
たまたま目が合い、うまく手のあたりにチラシをもっていけた生徒だけ、もらってくれる感じだった。一人が受け取ると、つられて次の生徒も受け取り、他人の行動に合わせることもいまどきの風潮のようだった。
生徒数は約620人、男子2割、女子8割だが、在校生も卒業生も同じ制服なので見分けがつかない。晴着を着ている生徒は1人もいないが、口紅などの化粧をしている女子は大勢いた。
もらったビラをみてまず目に入るのが「ご卒業おめでとうございます」というキャッチなので、ときどき「ワハハ」という笑声が背中から聞こえてきた。たぶん在校生だったで「卒業生に見られた」と笑ったのだろう。

今年撒いたビラは、表がいつもと同じく「卒業生・在校生、教職員、保護者の皆さん 誰にも立たない、歌わない自由があります」というキャッチで、10.23通達による被処分者はこの15年間でのべ483人に上り、職員会議での討論もなくなり命令と強制が支配する学校になっていること、愛国心教育で2020オリンピックの「ボランティア」動員がおこなわれていることを説明している。
裏面は2月24日の沖縄県民投票をとりあげ「沖縄県民投票では18歳の有権者も自分の意見を表明しました。未来を決めるのは若いみなさんです」と辺野古新基地建設反対の民意表明および、背景として「戦争法」制定(2015年)、安倍改憲の動向、2022年からの「公共」新設などを説明している。

保護者は「ご卒業おめでとうございます」と声をかけると、「ありがとうございます」といって受け取ってくれる人が多いのは他校と同じだが、やはり路上ビラを受け取らない習慣がついていて「ありがとうございます」とだけいって、ビラは受け取らず通り過ぎる人も2割くらいいた。
「こんなもの気分が悪いから、こんな場所で配るな。あっちで撒け!」と怒って向かってきた若いお父さんが1人いた。校門前で配るのが気に入らなかったようだ。
話には聞いたことはあるが、こういう体験はわたくしは10年ほどやっていて初めてだった。
こういう状況で合計181枚撒けたのは、上出来である。

学校の裏門。遠くに福山通運の巨大な倉庫がみえる
この学校は、三商とナンバーがついているだけあり90年以上の歴史をもつ。一商は渋谷の代官山、二商は八王子にある。旧制中学で一が日比谷、二が立川、三は両国なのと同様である。伝統校なので、卒業生もきらびやかだ。
正門前のガラス展示ケースに、学校案内と並び、4年ほど前の週刊誌の記事の拡大版が貼られていた。戦前から江東、中央、台東、江戸川などの子弟が集まったようで、入船堂、山形屋海苔店、アブアブ赤札堂、長谷川香料、人形の久月、鈴屋、うなぎ川勇など地元企業の経営者を輩出している。
驚いたのは、詩人で「荒地」を創刊した田村隆一、北村太郎、その後同人に加わった加島祥造の3人が1940年卒の同級生だということだ。このころ「犬のおまわりさん」「グッドバイ」などを作詞した佐藤義美が国語科教員だった。
その他、映画監督の鈴木清順、俳優の殿山泰司、落語家の11代目金原亭馬生、アナウンサーの糸居五郎(ニッポン放送)、林美雄(TBS)も出身者だ。野中郁次郎(経営学者、一橋大学名誉教授)、岡野加穂留(政治学者、元明治大学学長)も卒業生だ。
吉本隆明が月島育ち(府立化学工業出身)であることは知っていたが、下町の名門校のパワーは偉大だ。

☆第三商業とも、卒業式とも関係はないが、校門前ビラまきの翌日の日曜には反原発集会があり東電前と国会正門前の集会、11日にはデモに参加した。
原発事故から8年になるが、2つの集会とも最盛期と比較すると参加者数はずいぶん少なく感じた。とはいってもふつうの路上集会よりはずっと人が多い。

東電本店合同抗議(呼びかけ:経産省前テントひろば、たんぽぽ舎)は、鎌田慧さん、福島原発被害東京訴訟原告団などのスピーチ、東電への申し入れ行動などがあった。いつも官邸前の金曜行動でみかける多摩川太鼓のパフォーマンスを今回は2人でやっていた。迫力のこもった演奏だった。

0310原発ゼロ☆国会前大集会(主催:首都圏反原発連合)では、古賀茂明さん(元経産官僚)、菅直人元首相などのスピーチがあった。菅氏の「戦争以上の被害をもたらす原発、原発廃止は日本こそ先頭に立ち行うべきだ。政府は「目先の利益」にとらわれ原発再稼働を主張する。しかしこれはウソだ。使用済み燃料の処理費を入れていない。3.11以降原発のコストは3倍になっている」というスピーチは説得力があった。政治家では、阿部知子(原発ゼロの会事務局長)、吉良よし子(日本共産党)、大河原雅子(立憲民主党)などのスピーチがあった。久しぶりに阿部さんの元気な声を聞いた。また吉良さんは演説がずいぶんうまくなっていた。
この集会でも、ふくしまボトムズリクオのライブがあった。「シャーララララ、ララッラー」とみんなで合唱した(このサイトの7分40秒くらいから)。

スタート地点のデモ横断幕
毎年3月11日政府追悼式典の日の地震発生時刻に行われるデモ(主催:3・11行動実行委員会)に参加した。日比谷公園霞門をスタートし、経産省、関西電力東京支社、東京電力本社と回る。「原発反対、東電解体」「皇族出席の追悼式典反対」と声を上げた。
内幸町みずほ銀行の交差点にはウヨクが集結していた。
3月12日は、強制起訴により、勝俣恒久元会長、武藤栄元副社長、武黒一郎元副社長を被告として2017年6月に始まった東電刑事訴訟の結審日である。

即位大嘗祭違憲訴訟 提訴報告会から第1回口頭弁論へ

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3月12日には「退位及びその期日奉告の儀」や伊勢や橿原への「勅使発遣の儀」が行われるなど、代替わりの神事や儀式が着々と進行している。
すでに1か月ほど前のことだが、2月16日(土)午後、文京区民センターで即位大嘗祭違憲訴訟の会の「提訴報告会」が開催された。参加者は60人以上で、全国の原告241人という人数を考えるとかなりの参加率だった。
昨年12月10日東京地裁提訴後、まず12月に国賠訴訟と差止訴訟の2つに分離することを地裁が決定し、年が明け差止訴訟の部分について、一度の口頭弁論も開かないまま、2月5日に訴えの却下が通知された。異例の却下である。
これらの経過報告と裁判所への抗議、2月25日の第1回口頭弁論に向けた集会となった。

呼びかけ人の佐野通夫さん(大学教員・教育学/本会呼びかけ人代表)から、「行政裁判であっても、民事訴訟なのだから本来は当事者が互いに自分の言い分を法廷で述べ、それを主権者の代表である裁判所が判断すべきなのに、当事者の弁論も聞かず分離したり、却下するのは不当だ」という抗議をまず表明した。そして下記のスピーチを行った。
厳しい状況のなかでの闘い

われわれの訴えは異常なかたちで始まっている。2年前の8月、すべてのテレビ局が同じ時刻に、天皇の同じビデオ・メッセージをいっせいに流す、非常に恐ろしい事態が起こった。天皇の公務など存在しえないはずなのにそんなことを理由に「天皇の退位等に関する皇室典範特例法」が国会を全会一致で通ってしまうという恐ろしい状況にある。
日本国憲法で天皇は国民の象徴ということになっている。かつて上野動物園でおサル電車の運転を初めは本物のサルがやっていたようだ、しかし運行上危険なこともあったので、人間が運転しサルは横に座ることになった。
天皇が象徴というのも本来そういうことで、勝手なことをしてよいわけではない。にもかかわらず今回の代替わりは、象徴なのに本来許してはいけないことから始まった。そして天皇は世襲である。ということは、死んだときに次の人が天皇になる。30年前、裕仁が死んだとき自動的に明仁になった。行事を行う必要は何もない。確かに即位礼は皇室典範(24条)に定めがあるが、カネをかけて大嘗祭を挙行するようなことは、前述の象徴としての行為と同様あってはならない。実際、前回の裁判で大阪高裁は違憲の疑いがあると明確に述べた。
しかもいまは大日本帝国憲法時代と同じ「美しい国」を唱えるアベ政権という恐ろしい政権なので、司法も前回と同じようなことをやろうとしている。
皇族は公務員として生きていて、元は税金の内廷費により、多くの国家公務員を使って暮らしている。そんなことを許してはいけない。本来それを裁くのが三権分立の裁判所なのにもかかわらず、こんなことを裁判所が預かるのはまずいと、すぐ却下してしまう。
そんな厳しい状況下でわれわれは闘いを組んでいかなければならない。原告のみなさんといっしょに闘っていきたい。

この訴訟の現況と見通し   酒田芳人弁護士
●提訴後の経緯
昨年12月10日東京地裁民事部に提訴した。提訴内容は、即位の礼・大嘗祭等の差止と、即位の礼・大嘗祭等に国費を支出することに関する国賠訴訟を併せたもので、民事10部に係属した。10部の担当は一般事件を取り扱う一般部である。通常はその後、事務的な連絡があるのだが、10日ほど後かかってきた電話は「差止訴訟に関しては分離されたのでお知らせする」というものだった。10部には裁判官が3人いるがその判断で、差止部分は行政裁判として行政裁判を扱う38部に係属することになった。こちらは一体として裁判を進める方針をもっていた。行政部で一般事件を扱うことはできるので、38部で併合審議してもらいたいと1月15日に申立書を提出した。
併合についての返事は通常1週間くらいでくるのになかなかこず、2月5日に民事38部から「本日、却下の判決を下した」という連絡が届いた。
一方、国賠訴訟は予定通り第1回口頭弁論が2月25日行われる。
●差止訴訟に対する却下判決
却下の根拠条文は民事訴訟法140条(口頭弁論を経ない訴えの却下)である。
却下と棄却とはそもそも違う。却下は、原告になる資格がないのに提訴するなど、中身の話をする前に形式的なところで門前払いにするものだ。棄却は、中身の話を聞いたうえ、言い分は認められないというものだ。集団訴訟の多くは言い分を聞き、1-2年口頭弁論を続けたうえで当事者としてふさわしくないので却下するというのが普通だ。30年前の代替わり裁判も数年の審議を経て却下となった。今回はまれな取扱いをされた。東京地裁は、差止訴訟に対し、意識的に国賠訴訟から分離し差止訴訟を却下し裁判を終結させようと判断したと考えられる。
●2月25日からの国賠訴訟について
争点は二つある。ひとつは政教分離違反で、憲法20条3項の「国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない」と国が主体となる宗教的活動の禁止で、89条は「公金その他の公の財産は、宗教上の組織若しくは団体の使用、便益若しくは維持のため(略)これを支出し、又はその利用に供してはならない」とカネの面で特定の宗教に支出することを禁止している。これに基づき、即位の礼、大嘗祭の宗教的な側面に着目し憲法違反を主張している。
もうひとつは国民主権原理違反である。そもそもだれがこの国の中心であるべきかと憲法が規定する基本的枠組みに、天皇のための即位の礼・大嘗祭の開催が反するのではないかという主張だ。根拠は憲法前文の初めのほうにある「ここに主権が国民に存する」「これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基く」で明確だし、11条「国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない」は、国民がなにより大事だということだ。それが天皇を中心に戴き、即位の礼・大嘗祭を国が全面的にバックアップして行うことがはたして国民主権原理の関係でふさわしいやり方か、というものだ。この点は大阪高裁判決でも言及された。
国がこの主張を認めるかどうかという点で、ハードルは二つある。大きいのは権利侵害の有無だ。仮に違反していたとしても、皆さんに具体的な損害はない。だから賠償請求は認められないというものだ。裁判所が原告敗訴にするスタンダードな言い方だ。もっとひどいのは憲法判断回避原則だ。憲法違反かどうかにはまったく触れず(つまり裁判所はなにもいわず)、とりあえず皆さまに慰謝料は発生する状況はなにもないのだから、請求は棄却するという判決だ。
重要なのは、即位の礼・大嘗祭の実施が憲法違反であることを、法律面、憲法の議論として裁判所に認めてもらいたいということだ。そのためにどうすればよいか、弁護団だけでなく皆さまの意見も伺いたい。また裁判所でこういうことをぜひ訴えたいということも伺いたい。
●今後の見通し
差止訴訟については、東京高裁に2月20日に控訴する予定にしている。訴えは不適法ではないから一審に差し戻し審議を求めるという内容だ。今回、30年前の訴訟同様、納税者訴訟の枠組みをとっている。それが行政事件の類型に定めがないという点で法律にないことは確かなので、そこをきちんと説明する。
国賠訴訟は、2月25日の第1回口頭弁論のあと、第2回はおそらく2-3か月後に行われることになるだろう。
(2月25日の口頭弁論で5月8日(水)に決定)
また弁護団の木村庸五弁護士から、裁判所の姿勢、体質について下記の補足説明があった。
政教分離に関し、裁判所はさすがに合憲とはいえない。そこで門前払いするのが基本的姿勢である。裁判所は、敗戦後のパージもなく戦前から同じ体制が続き、民主的基盤がない。とくにトップのほうはその流れを汲む。元・最高裁長官が日本会議会長になったりした。良心的裁判官も政府見解を覆すような一歩を踏み出すことができない。思い切った判決を出すと遠隔地に左遷される雰囲気がある。
東京地裁の行政部に来る裁判官は最高裁の意向を汲んだ裁判官が多い。しかし第1回口頭弁論もなしに却下するとまでは思わなかった。とくに悪質な動きだと考える。
もうひとつ最近気になることとして、一部のマスコミの報道がこの訴訟を「一部宗教者の訴訟」と報道していることがある。これはまったくの誤解だ。政教分離や信教の自由の問題の本質は国家と国民の関係の中心になるものである。国家が国民の内面に入り込んでくるのは、思想良心の自由の問題に関わる。だからここで譲ると思想良心の自由は侵され、集会結社の自由にも侵入してくる。そしてさまざまな面で国家が国民をかなり強く支配してくる。宗教をもつ人もそうでない人も国民全体にかかわる。こういう問題につながることをマスコミにもよく理解してもらい、自分たちに関係ない、一部の宗教者の問題ということを国民に刷り込まないよう働きかけていく必要がある。

天皇制の機能としての3つの装置 
呼びかけ人の一人、鵜飼哲さん(フランス文学、思想研究)の、天皇制が機能として果たしている3つの装置という説明が興味深かったので、少し詳しく紹介する。
 
天皇制は一つのメカニズムで、3つの装置から成り立つ。ひとつは思考停止装置だ。この国には天皇がいて問答無用で多くのことが行われてしまう。この国ではそれが小さいころにいろんな回路で刷り込まれ、「この国では問題にしてはいけないことがある」ことが心の根底に持ち込まれてしまう。教育以前に行われ、教育というよりむしろ調教に近い装置として働いている。天皇一家になぜ膨大な税金が支払われているのか、国に問おうとすると門前払いを食らう。このように思考停止装置として天皇制がある。
二番目に、天皇制は忘却装置である。一言でいえば、災害も多く、歴史のなかで大変なできごとが継起してきたこの国に住みながら、天皇がいるというだけで、あらゆる苦しいことが相対化されてしまうようにこの国はできている。一例として、立川の昭和記念公園がある。あの公園があるのは、米軍立川基地に反対して砂川町の農民が闘ったからだ。本当は砂川住民公園という名でいいはずだ。ところが「昭和」という名が課されてしまい、民間施設だが昭和天皇記念館があり、いまこの公園を訪れる人は、あたかも戦前と同じように井の頭公園や上野公園が恩賜公園といわれたのとよく似た印象を現在も持ち続けている。このようにして日本の民衆が何を勝ち取ってきたかということが、次の世代に伝わらないようにされている。このようなことが至るところにあるのではないか。
三番目に排除の装置として働いている。いまの憲法で国民を規定すると、憲法1条「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く」と10条「日本国民たる要件は、法律でこれを定める」がある。昨年102歳で亡くなった日高六郎さんの最後の著書「わたしの憲法体験」のなかで、憲法の成立過程で憲法10条がいかに旧憲法18条の引き写しであったか、これを防衛するため官僚がどれだけ必死になったかがていねいに想起されている。逆にいうと象徴が天皇でありえないような人びとはあらかじめ日本国民の枠組みから排除されていく、その点で憲法前文と憲法本体のなかにもズレがあるのではないかと考える。天皇制は植民地をもっていた戦前もそうだったし、現在もまた非常に深いところで排除の装置として機能している。
この三重の装置によって形成されてきているこの国の、けして自然ではないメンタリティのようなものを、かつて竹内好氏は「この国では一木一草まで天皇制が宿る」という言い方をした。しかし「一木一草的な考え方」はちょっとまずいと思う。今回の即位の礼・大嘗祭というと、批判派もなぜか、いまの天皇夫妻をイメージして議論してしまいがちだ。あちら側も、代替わり、あるいは時代が変わるたびに、新しい条件のなかに適合した新たな天皇制のシステムを構築しようと、それなりに必死だ。次の代に変わり、あちら側は新たな体制をどう構築していくかというところに議論を持ち込まないといけない。できる限り広く議論される必要があるし、わたしたちはそのためにいま闘おうとしている。
だからこそその入口のところで議論させないようにしている。今回の取扱いは非常に例外的なものだ。まず分離をし、是が非でも口頭弁論を経ない却下というかたちを目的意識的に追求したのではないだろうか。それは逆にいえば、これから天皇制についてわれわれのような一般の人民・民衆が自由に意見を交わし、公の場で議論する時代が来ることをたいへん恐れているからだと感じられる。だからわれわれの訴訟は一見地味で細やかに思われているが、非常に大事な試みだと思っている。共にがんばろう。

「万世一系の天皇」という思想の教化
桜井大子さん(女性と天皇制研究会)は「万世一系の天皇」という思想と、天皇制に組み込まれた産む性・女性の役割に着目した。

代替わりの目的のひとつは「万世一系」という思想をわたしたちに伝えることだ。いまも宮内庁のHPには天皇系図が出ていて、それも神武、綏靖から始まっている。いま125代だが、代替わりとはもう一代天皇系図が増えることだ。天皇の価値は、古代から連綿と続いていることだとされる。この代替わり期間は、天皇が神の末裔であり、古代から王族であったことが「ありがたい」、日本の文化や伝統だと思う人びとを増やしていく時間帯として、つくられ、消費されていると思う。
天皇は「神」だが、女性が産む。憲法2条で天皇は世襲制と定められ、皇室典範1条で男系男子と定められているので、女性が男子を生まない限り代替わりはできない。女性の体は男子を生む性ということが憲法1-8条に組み込まれていることの問題性を、この裁判でも表出させていきたい。

石川逸子さん(詩人)は「『天皇陛下万歳』、二度と聞きたくなかった言葉。1990年11月12日その言葉を聞きあっけにとられた。現天皇の即位式で海部首相が、はるか高御座に座る天皇を仰ぎ見『天皇陛下万歳』と三唱した」で始まる詩を読み上げた。
その他、この日参加した呼びかけ人で、小倉利丸さん(元大学教員・現代社会論)、星出卓也さん(日本キリスト教協議会靖国神社問題委員会委員長)、辻子実さん(靖国参拝違憲訴訟の会・東京)、関千枝子さん(ジャーナリスト)の4人のスピーチ、北海道、関西、沖縄など遠隔地から参加された方のスピーチがあった。
関西の方は、前回の国賠訴訟を担った方で、「前回は、昭和天皇の下血騒ぎで、歌舞音曲は自粛、テキやは自殺する、お祭りも中止と異様な雰囲気が生まれ、日常生活であれにはウンザリと原告になった人も多かった。署名感覚で委任状が集まり、原告が1700人に達した。今回は全然違う。「アベより天皇のほうがまし」という人や、労組へ行っても「反天皇制を打ち出すと人が寄りつかない」といわれることがある。前回は、天皇制の被害の話で「これは天皇教の強制的な布教ではないか。地下鉄のなかで逃げ場がないまま、無理に広告を見せられているようなものだ」という議論もあった」というエピソードの紹介があった。
会場からのフリートークでは、日本人と天皇制の問題、現行憲法の天皇条項の問題、原告は原告の立場で自由に意見陳述をしようとの提案、代替わりにこんなに税金をつかってよいのかと一般の人にアピールする、など活発に意見・提案が出され、最後に呼びかけ人の佐野さんから「裁判のなかで、いろんな観点から天皇制の問題を明らかにできるとよい」とのまとめで会を閉じた。

国賠訴訟の第1回口頭弁論は2月25日(月)に行われ、呼びかけ人の佐野さん、キリスト教徒のHさんの意見陳述と、弁護団の2人から陳述があった。弁護団から裁判所に対し、きちんと憲法判断をするようにとの強い要請だった。第2回口頭弁論は5月8日(水)14時半から東京地裁103号法廷で行われる(20分ほど前に抽選がある予定)。
今後も代替わりの儀式は目白押しに並び、166億円もの予算が計上されている。宮廷費であれ、内廷費であれ、出所が国民の税金であることに変わりはない。

田中美津のトークイベント

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第二次安倍政権の8年、2006年の第一次も入れれば9年超に及ぶ。この間、この国の教育、軍事、法制の枠組みが根本から変えられてきた。一言でいえば右傾化、ヘイト化、戦後憲法否定・大日本帝国憲法返りである。そしてモリカケ問題による安倍疑獄をはじめ、防衛省、財務省、文科省、厚労省、内閣府の隠ぺい、改竄、ねつ造、そして偽証などいわゆる中央省庁の不祥事は数知れず、大臣のクビが何人飛んでも、また首相辞任が何度起こってもおかしくない、いや起こるべき状況が長い間続いている。
「右傾化、不祥事の数々・・・それでも安倍政権の支持率が落ちないのはナゼ?」というトークイベントが開催された。対談したのはジャーナリスト・田原総一朗氏と田中美津さん、会場は朝日新聞本社読者ホール。田中さんのドキュメンタリー映画「この星は、私の星じゃない」(吉峯美和監督、今秋上映予定)が現在製作中で、クラウドファンディング応援イベントとして開催された。
登場した田原総一朗氏は84歳、足取りは年相応の老人スタイルだったが、お話や追及の仕方は気迫が漲(みなぎ)っていた。一方の田中美津さんは75歳、1970年代のウーマン・リブ運動の旗手だった。わたくしは田中さんの著書を読んでいないし、主張も知らないのだが、「時代の子」であったことは間違いない。その後、鍼灸師をなさっていることは知っていた。この日舞台でみた印象は当時と比べ、肩の力が抜けずいぶん軽やかで穏やかな様子だった。

お話は、1972年3月の連合赤軍のリンチ殺人事件発覚後から、全共闘をはじめ社会に異議を唱える人がシーンとなってしまった、という話から始まった。そしてお二人が共通して接触があった永田洋子の話へと続く。田中さんは1971年の秋に京浜安保共闘から会いたいというリクエストがあり、行ってみると永田洋子が目の前におり、1日だけ山岳ベースの見学に行き、その後獄中の永田と文通をした体験があった。田原さんは小菅に接見に行ったことがあり、その縁で「連合赤軍」のTVドキュメントを撮り、田中さんに出演依頼をしたのが2人の出会いだった。
しかし「右傾化、不祥事の数々・・・それでも安倍政権の支持率が落ちないのはナゼ?」というこの日のテーマに関しては、なかなか話がかみ合わなかった。
田中さんの「1970-80年代の原発に対する田原さんの立ち位置はどうだったか」という質問に、田原氏は「反対」と明快に答え、原子力船むつの放射能漏れ事故を取材した「原子力戦争」(筑摩書房 1976)を書いたことや、当時、原発推進市民運動のバックにいる大手広告代理店電通の問題を語ったが、それ以上議論は進まなかった。田中さんは「憲法9条すら変えられようとしている。いろんなことがどう位置付けてよいのかわからない」という話から「昔は悪人は悪人の顔をしていた。しかしいまは悪人が普通の顔をしている。いろんなことがあまりにも変わっていくので、何に反対してよいかわからなくなっている。私を殺そうとして迫ってくる人が優しげな顔をしていて、何なのかわからない」と展開してしまった。わたくしは普通の人の顔をした悪人とは、てっきりアベシンゾーのことだと思ったのだが・・・。そのあと「田原さん、この先、どう変化していくかと思われますか」と続いたので「だから田中さんが頑張らないと」という受け答えになった。

もちろん、断片的にはテーマに沿った発言もあった。
●一番の問題は、1980年代には衆議院選挙の投票率が70%台だったのに、いまでは50%台に低下したことだ。多くの国民が政治に関心を失っていること、野党が弱すぎること、マスコミがだらしないことがある(田原)
●なぜ、わたしたちがこんなに怒らなくなったのか。(内閣府の「国民生活に関する世論調査」で)「現在の生活に対する満足度」が70%を超えている。(田中)
 あきらめが早すぎる(田原)
●「ダメ、ダメ、ダメ」と押しつぶされているとまたワーッと湧き上がってくる力が出るのかと思うが、沈み込んでいる期間が長すぎる。もう立ち上がることを忘れてしまっているんじゃないか(田中)
●野党も「反対」というだけ。「政権をとったら何をするのか」と聞いても誰一人答えられない。これでは政権は回ってこない。(田原)

しかし、残念ながらそれ以上の議論には深まらなかった。もっと田原さんの答えを掘り下げて聞いていただきたかったのだが。
安倍デタラメ政権反対、戦争反対、自由を守れ、といった基本的スタンスは一致しているのだが、アプローチが異なるのか、なぜか議論はすれ違ってしまいかみ合わない。田中さんは「聞き手」の位置づけだったはずだが、それより自分の主張を語ることが得意だからか、あるいは田原さんの聞き手としてのスタンスが優れているからか。田中さんはノートに多くのメモを書込み展開もいろいろ準備されていたようだったので、残念だった。

トークのなかで、田中美津「語録」の片鱗がかいま見られたので、少し紹介する。
●わたしたちの運動は独特だった。いやなやつにはお尻を触られたくない。しかし好きな男が触りたいと思うお尻がほしい。その両方を大事にする。触られたくないという女性運動の大義と好きな男に触られたいという個人の欲望の両方が大事、というところにウーマン・リブは立った。だれかがつくった遠くにある「大義」ではなく、自分のところから発し語れる大義だった。自分からどう変えたいかを語れる大義、その回路が重要だった。その回路をわたしたちは見失った感じがする。
●「好きな男がいるから結婚」という制度には結びつかない。結婚は面白くなさそうな制度だった。すごい努力が必要だが、それだけの努力をするなら別のことに努力を向けたいと思った。この狭い日本の家屋のなかで、別の人間と「わたしはわたし」という思いを大事にしながら暮すことはほとんど難しいと思った。
  (なお田中さんは、1975年から4年半メキシコで生活し、そのときに子どもを1人つくったが結婚はしていない、子どもはいま40代前半とのこと。田原さんもそのファクトを知らなかったが、わたくしも知らなかった)
●小さいとき「この星は私の星ではない」と思った。そう思うことで、この星に生まれたことをあきらめて、精一杯とにかく生きていこうと思い生きてきた。しかしいまは、この国がイヤで、イヤで、イヤで仕方がない。「この国は私の国ではない」と本当に思いたい。
●なぜ日本では女性が遠慮がちに生きているのか。
●サヨクでも会社の社長でも、モノ書きでも、結局のところ、わたしにとって好きな人と嫌いな人の2種類に分かれる。好きな人というのは、わたしのいうことを聞いてくれる人というのではなく、面白いと感じられる人のことだ。大統領であろうと好きな人と嫌いな人がいるというところが、わたしがたどり着いた、軽やかな自由のひとつだと思う。

何も読まないのでは申し訳ないので、近くの図書館で検索すると残念ながら「いのちの女たちへ――とり乱しウーマン・リブ論」(田畑書店 1972)は見つからなかったが、代わりに「便所からの解放」(1970 栗原康編「狂い咲け、フリーダム」ちくま文庫所収)という20ページほどの短い論文を斜め読みし、今回のトークに類似したところを拾い出した。1970年というと田中さんが27歳のころの文章だが、人間の考え方、感じ方はあまり変わらないことがわかる。
・〈お嫁に行けなくなる〉という古ぼけたすり切れたシッポを引きずりつつ、〈バージンらしさ〉に叛旗をひるがえすという、矛盾に満ちた存在が〈ここにいる女〉であり(略)こんな私にした敵に迫っていく闘いは、まさしくとりみだしつつ、とりみだしつつ迫る以外のものではないだろう。(p296)
・自分が何かしたところでどうせどうしようもないのだ、と最初からあきらめている、そんな自民党好みの人間が、あの四畳半の貧しい男と女の関わり合いの中で作られていく。(p302)
今回のトークには出てこなかったが、田原さんは下記のような田中さんの考えに魅かれ、もっと話し合い、エールを送りたかったのではないかと思った。
・女の闘いは、情念の集団として、とり乱しつつ、とり乱しつつ、男と権力に迫り、叩きつけていく(p315)
・女から女へ、〈便所〉から〈便所〉へ! 団結が女を強くする! やるズラ、ン?(p316)

☆連合赤軍事件の発覚は、ちょうどわたくしの大学受験の時期に当たる。72年2月3日から2月13日まで札幌冬季オリンピックが開催され、スキージャンプ70m級の笠谷幸生、金野昭次、青地清二が金銀銅を独占、「銀盤の妖精」ジャネット・リンが人気となった。
その直後の2月19日から2月28日あさま山荘事件が起こり、銃撃戦や巨大鉄球による山荘の破壊がテレビで実況中継された。3月に入り妙義山、榛名山麓などで次々にリンチ殺人の遺体が発掘された。たしかに悲惨だった。4月に大学に入学すると授業料値上げのストライキ中でもちろん入学式などなかった。ようやく授業が始まり1年たつと内ゲバ殺人事件が相次いだ。重苦しい時代だった。
当時のイメージだが、田中美津さんというと、わたくしには新宿駅西口地下広場の歌姫・大木晴子さん、「極私的エロス 恋歌1974」(原一男監督)の武田美由紀さん、年齢は少し上だが吉武輝子さんらと近いジャンルの方という印象がある。ただ田原(旧姓・村上)節子さん(元・日本テレビ)という方のことは知らなかった。
田原総一朗さんについては、何冊か著書を読んでいるはずだ。それ以上に70年代当時のわたくしには「あらかじめ失われた恋人たちよ」(清水邦夫・田原総一郎の共同監督、日本ATG、1971)の記憶が強かった。

西洋音楽と青春のまち、築地居留地

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2か月に一度開催される築地居留地研究会の研究報告会、3月のテーマは「築地居留地と近代音楽――讃美歌と青年たちの出会い」だった。講師は築地居留地研究会理事で明治学院大学元客員教授の中島耕二さん、昨年11月の「築地居留地ツアー」と同じ先生だった。
築地居留地は日本に7つある居留地のひとつで一番遅く1869年に開市した。横浜や神戸のように貿易がメインにならなかったが、キリスト教各派の教会やミッションスクールが多く存在した。西洋文化の入口となり、讃美歌をはじめ西洋音楽が神戸・横浜と並び、ここから広がった。  
この日は講演だけでなく、合唱や独唱、エクスカーションもある充実した楽しめるプログラムだった。なお下記のなかで、山田耕筰についてはこの日の講演以外に自伝も参考にした。

●日本の洋楽はペリーとともに
日本の近代音楽(西洋音楽)は1853年7月のペリーの浦賀来航の時点から始まった。この軍艦には軍楽隊も乗り込んでおり、ペリーは熱心なプロテスタント信者だったので、一行は讃美歌539番「あめつちこぞりて」を合唱した。
日本が開国し横浜に居留地ができると、本国から聖職者も呼び寄せられた。宣教師兼医師のヘボンは1863年に横浜でヘボン塾を開いた。ヘボン塾と関係の深い教会が住吉町教会(現在の横浜指路教会)で、西村庄太郎(1864―1931)少年が通っていた。女性宣教師からオルガンを習いあっという間に演奏技術を身につけ、住吉町教会のオルガニストを務めるまでになった。

●築地大学校の4人の青年たち
やがてヘボン塾の後継のバラ学校が1880年に築地に移転し、築地大学校となった(居留地7番)。

隅田川沿いの築地大学校跡地にはいまはマンションが建つ
西村もそれに同行し築地にやってきた。築地大学校の授業はすべて英語だった。このころ官軍ではない士族の子弟は官僚では出世できそうにないので、別の道、すなわち英学(英語)を身につけ最先端の知識で勝負しようと進取の気性に富む青年たちが、日本全国からこの学校に集まった。
そのなかに音楽のセンスに優れた3人の青年がいた。3人とも西村と同年代だった。
築地大学校の生徒は新栄教会に行くことになっていた。1873(明治6)年設立の日本で二番目に古い教会だ。西村は、大学校や新栄教会で3人の青年に楽譜の読み方やオルガンの基礎などの手ほどきをした。
築地大学校を卒業後、3人が3人とも音楽取調掛(現在の東京芸大音楽学部)に進学し、日本の音楽教育のキーマンとなった。
一人は納所弁次郎(1865―1936)である。納所は岐阜の士族だが、築地で生まれた。2人いた姉がクリスチャンで幼いころから讃美歌を聞いて育った。築地大学校や新栄教会でも讃美歌漬けとなり、音楽取調掛卒業後、母校や学習院の教員になり、言文一致唱歌を広めた。有名な曲では「うさぎとかめ」や「桃太郎」(ただし岡野貞一作曲ではない曲。田辺友三郎作詞のほう)がある。、また官立学校の教員だったので「旅順陥落軍歌」「仁川の海戦」などの軍歌も作曲した。「うさぎとかめ」は讃美歌461番有名な「主、われを愛す」のリズムやメロディと似たところがある。
2人目は小山作之助(1864―1927)である。小山は新潟生まれで築地大学校で英学を学ぶため16歳で上京し、納所とともに新栄教会の礼拝にも出席した。音楽取調掛卒業後、長く母校の教授を務め、滝廉太郎を育てた。唱歌では「夏は来ぬ」、軍歌では「敵は幾万」の作曲で有名だ。
3人目は前橋出身の内田粂太郎(1861-1941)だ。17歳でヘボン塾の後継バラ学校に入り、築地移転に伴い築地大学校や新栄教会に通った。音楽取調掛卒業後、いったん郷里の群馬師範学校に勤めたあと音楽取調掛に戻り、三浦環や山田耕筰を教えた。唱歌では「秋景」(あきげしき)、その他「孔明」「紫式部」などを作曲した。
さて3人の音楽の先輩、西村庄太郎は札幌農学校に進学したが、父の急死で中退し横浜の外国商社で働いた。お茶の貿易で成功し、アメリカ出張中に高峰譲吉と出会い、タカジアスターゼの日本での販売権を許され、友人2人と作った会社が三共(現・第一三共)だった。音楽の道ではないが、西村もこうして立身出世を遂げた。
また3人が進学した音楽取調掛は1879年に設置され、伊沢修二(1851―1917)が掛長(のち1887年に東京音楽学校に改編され初代校長)だった。伊沢は長野県高遠出身で16歳で上京しジョン万次郎に英語を学んだが、万次郎が欧米に出張したあいだ、カロザース宣教師夫妻の英語塾で学んだ。カロザースの塾は、まだ築地居留地がなく築地の雑居地にあった。つまり伊沢は、西村らより10歳以上年長だったが、やはり築地に通っていたわけで、この地は日本の西洋音楽や音楽教育と縁があるということだ。

●銀座育ちの北村季晴 
明治も中期になると、井上馨の欧化主義推進などで、上流階級の家庭では洋服・ベッドの洋風の生活が進み、音楽の世界でも管弦合奏の演奏など西洋音楽が根付くようになった。そんななか北村季晴(1872―1931)は静岡生まれだが、家族の転居で5歳から銀座で育った。居留地にあった東京一致神学校のフルベッキ宣教師からオルガンを習った。北村は東京一致英和学校(築地大学校の後継)に入学したが、この学校が白金に移転し明治学院になったとき、ヘボンに「音楽を目指すならこの学校より東京音楽学校のほうがよい」と勧められ転校した。卒業後、青森や長野の師範学校で教えた。作曲では日本初のオペラ「露営の夢」「ドンブラコ」や長野県民にいまも愛唱される「信濃の国」で有名である。師範学校退職後は東京音楽学校の嘱託や三越少年音楽隊の指導をした。

●大塚淳と山田耕筰
大塚淳(すなお 1885-1945)という音楽家がいる。両親とも熱心なクリスチャンで一人息子の淳を連れて新栄教会に通い、淳は明治学院卒業後、東京音楽学校に進学した。卒業後、慶応義塾のワグネル・ソサィエティの常任指揮者、日本放送交響楽団(現在のN響)、満州国新京交響楽団の常任指揮者などを務めた。慶応新応援歌の作曲や慶應義塾塾歌の編曲も手がけた。
大塚の母は山田耕筰の母の妹なので、大塚と山田は従兄弟に当たる。しかも山田の1歳年長と年も近かった。さらに山田の姉(のちのガントレット夫人恒)は一時大塚家の養女であった縁もあった。
山田耕筰(1886―1965)は東京・本郷生まれだが2歳のころ横須賀に転居した。一家そろって熱心なクリスチャンだった。7歳まで横須賀で暮らしたが、芝の次姉夫婦の家に移りヤングマン宣教師の第二啓蒙小学校に通った。しばらくして病気がちの父も上京しヤングマンの聖書学館の仕事を手伝い始め、入舟町の第一啓蒙小学校構内に家族で移り住んだ。やがて一家は居留地6番Bのヤングマンの自宅に住みこんだ。山田耕筰の自伝「はるかなり青春の調べ」(かのう書房 1985年)によれば「広い芝生の真中に、とても大きな樫の木のある家だった」とある。

ヤングマンの屋敷があった居留地6番Bも跡地もやはりマンションになっていた
また当時は日清戦争の時期で軍歌の「福島中佐シベリア遠征の歌」「従軍看護婦の歌」を好んだ。自宅では毎日両親や姉が英語で讃美歌を歌い、連れられて行った新栄教会で讃美歌を聞き、洋館から流れるピアノの音楽に心を動かされ、帆前船の船頭が自分の親船を呼ぶ声も聞こえた。父の転地療養で1896年に千葉の幕張に転居するので、耕筰が築地にいたのは10歳までのわずか2-3年のことのようだ。しかし、これら居留地の「音」が耕筰の旋律の原点となった。
父の死後、耕筰は巣鴨の自営館に入り活版印刷の仕事などをした。自営館は働きながら学ぶ苦学を主義とする田村直臣牧師が経営していた。なお耕筰は1900年に数寄屋橋教会で田村牧師から洗礼を受けている。1901年には長姉・ガントレット恒夫妻に引き取られ関西に移り、関西学院に入学、大塚淳のアドヴァイスを受け、1904年に東京音楽学校に入学した。
その後の活躍はいうまでもないが、「この道」「からたちの花」「赤とんぼ」「待ちぼうけ」「あわて床屋」など有名な歌曲・童謡を多く作曲し、オペラ、交響曲、管弦楽曲、室内楽曲、明治大学など校歌の作曲も数多い。また日本交響楽協会や東京フィルハーモニーを設立し指揮したことでも知られる。

講演は「築地居留地は近代日本の西洋音楽の発展を担った青年たちを育んでいった重要な場所だった」という言葉で締めくくられた。

この講演のなかで、聖路加国際大学聖歌隊の学生たちにより、讃美歌539番「あめつちこぞりて」、354番「かいぬしわが主よ」、小山作之助作曲「夏は来ぬ」、461番「主われを愛す」、納所弁次郎作曲「うさぎとかめ」、山田耕筰作曲「この道」、そして「聖路加国際大学校歌」の7曲が披露された。讃美歌の影響をメロディを通して実感できた。とくにわたくしには「白楊の緑すがしく 学び舎は 光みちたり いざ友よ つどいはげまん 人の世に 愛をもたらす・・・」の校歌が、詩も讃美歌風であることもあるのだろうが、讃美歌そのものに聞こえた。
講演で紹介された日本の作曲家が全員男性であったのと比較して、合唱したのは全員若い女性たった。偶然のことだが、これも明治と21世紀の築地の対比を目で見るようだった。
また長野県出身の方がいて、突然の指名で北村季晴作曲「信濃の国」を独唱された。「信濃の国は十州に 境連ぬる国にして」で始まり、信州の山、川、湖、原など自然と観光が織り込まれ、県歌にふさわしい詩でできていた。そして参加者全員で山田耕筰作曲「赤とんぼ」の2番、4番を歌った(1番は聖歌隊による合唱)。変化に富む講演となった。
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その後、旧・聖路加病院正面で恒例の記念写真を撮り、エクスカーションとして居留地跡地に向かった。
新栄教会の跡地、山田耕筰一家が一時住んでいたヤングマンの家があった6番B、築地大学校があった7番、ユニオンチャーチのあった17番、古いレンガ塀やガス灯を見て回った。
桜の開花宣言から2日目で、チラホラ咲く花をながめることができた。

日本人作曲家が幼年時代や青年時代に歌ったり耳に入った讃美歌のメロディは、その後自分がつくる曲のベースとなり、実を結んだ。その背景として、築地居留地のキリスト教会やミッションスクールの存在があったことに留意すべきことがよくわかった土曜の午後だった。

●アンダーラインを引いた語句はリンクを貼っている。なかには音楽が出てくるものもあるのでお楽しみに。

☆講演のなかで、讃美歌と小学唱歌の関係をミステリー仕立てで描いた「唱歌と十字架 ――明治音楽事始め」(安田寛 音楽之友社1993)という本が紹介された。日本で初めて唱歌教科書「小学唱歌集」初編が発刊されたのは1882年で、アメリカ人のお雇い外国人ルーサー・ホワイティング・メーソンが編纂し伊沢修二が助手を務めた。全部で33曲あり、はじめの12曲はメイソンのチャートが出典で音階練習のようなもの、5曲はメーソンがアメリカで作った教科書に収録されたもの、4曲は日本人が作曲したもので、西洋歌曲は残る12曲になる。そのうちじつに5曲が日本で古くから歌われた讃美歌のメロディと一致した。
しかし歌詞は純日本風、天皇讃美の歌詞もある。その背景には、文部省内の洋学派と儒教派の熾烈な闘いがあったからだそうだ。
その他、「たんたんたぬきの」は讃美歌687番「まもなくかなたの」、「むすんでひらいて」は一般にルソー作曲といわれそれは事実だが、当時アメリカで「グリーンヴィル」という曲名で親しまれた讃美歌でもあった。
讃美歌がどのように日本の唱歌に取り込まれたのか、著者は、横浜山手のフェリス女学院、西宮の神戸女学院、伊那市上伊那郷土図書室、ボストン公共図書館、メーン州リューイストンなど世界の都市を巡り、その謎をひとつずつ解き明かす。
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