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浜矩子の「輝かしく朽ち果てることがない知恵を求めて」

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2月7日(土)早稲田奉仕園スコットホールで「武藤徹さん『きらめく知性・精神の自由』出版記念シンポジウム」が開催された。
武藤徹さんは1925年生まれ、1947年東京帝大数学科を卒業し旧制・都立第四中学(現・戸山高校)に赴任した。東条英機が幼年学校入学前に2年間戸山に在籍したので、武藤さんが赴任したころは「二度と東条を出してはならない」が教員の合言葉になっていた。そして86年まで39年間戸山で数学を教えた。そのかたわら「父母と教師の教育懇談会」、35年も続く戸山の教育について話し合う会「戸山の教育を語る会」、近隣の労働組合30とともに結成した大久保共闘会議にも熱心に参画された。

この日のあいさつで「7年前著作集を合同出版から出版したときは「しのびよるファシズムに抗して」が目的だった。ところが8年後のいまや大手を振って闊歩している。かつて日本は平和のためといって2000万人の人を虐殺した。戦後日本人は地球上から戦争をなくそうという誓いを立てた。それが日本国憲法だ。戦争を終わらせることが日本の責務ではないか」と述べた。

「きらめく知性・精神の自由」(桐書房2013年9月25日発行 64p本体価格600円)
この日のゲストスピーカーは、市川須美子さん(獨協大学)と浜矩子さん(同志社大学)の2人だった。わたしは浜さんのお話が印象深いので、そちらを中心に紹介したい。
漫談のような話し方だったが、あとで振り返るといろいろ示唆に富むお話だった。なお、テープを録ったわけではないので、ディテールは違っているかもしれない。

輝かしく朽ち果てることがない知恵を求めて  浜矩子さん

武藤先生の著書のタイトル「きらめく知性」から、クリスチャンのわたしには旧約聖書の知恵の書の「知恵は輝かしく、朽ちることがない」という言葉が思い浮かんだ。
恐ろしい現実が進行している現在、まさにいま必要なものだ。
「アベノミクス」を振りかざす男がいる。わたしは「アホノミクス」と命名した。はじめは品のないいい方だと思ったが、いまでは「ドアホノミクス」と呼んでいる。また安倍首相は「取り戻す」という言葉を好む。
●「日本を取り戻す」
第二次安倍政権は2012年12月に始まったが、そのスローガンは「日本を取り戻す」だった。いったい「どんな日本」を「だれから」取り戻そうとしているのだろうか。わたしは「どんな」は「大日本帝国」であり「だれから」は「国民」から取り戻そうとしていることを確信するようになった。
1年前の2014年内閣総理大臣の年頭所感はわずか1700字程度のものだが、3回「取り戻す」が出てきた。まず「強い日本を取り戻す」、次に「強い経済を取り戻す」、最後に「誇りある日本を取り戻す」だった。安倍総理が「強さ」と「力」に固執していることがよくわかる。
その半年後の6月、チーム安倍は「日本再興戦略改定版」を閣議決定した。そのキーワードは「日本の「稼ぐ力」を取り戻す」だった。なんと品の悪い、えげつない言葉だろう。
また安倍内閣は、国民国家、民主主義国家の国民と国家の関係を逆転させようとしている。国家は国民のために奉仕するために存在する。国家は顧客満足度を最高にすべく活動し、それを前提に国民は税を払う。
ところが「稼ぐ力」は、競争力、技術革新、生産性などとセットになるが、国民一人ひとりが「稼ぐ力」を自分の課題として受け止めなければ明日はないという書き方になっている。そうは書いていないものの「総員一層奮励努力せよ」という言葉が透けて見えてくる。国民が国家のためにサービスを提供する。何とも恐ろしいことだと思った。
地方創生にせよ女性活躍推進にせよ、「国民が国家のために」という文脈で読む必要がある。たとえば女性活躍推進は、日本の成長力のため、未利用の人的資源の有効活用という文脈で語られており、女性の人権や性差別については一言も触れられていない。
安部は「すべての女性が輝く社会」とか「輝く女性」をキャッチフレーズにしている。輝くを英語でいえば「shine」だが、これを日本語読みにすれば「死ね!」だ。お国のために死ぬまで働けというのだろうか。

●おとなになる
教育の最大の課題は「子どもをおとなに育てること」だ。戸山高校では高1で教室に入った瞬間からおとなとして扱われた。
おとなと子どもの違いは「人の痛みがわかる」ことだ。おとなは、人の痛みを自分の痛みとして受け止められる。子どもに「もらい泣き」はできない。
これがチームアホノミクスをやっつける最大の武器になる。彼らは幼児性丸出しで幼児的凶暴性を身にまとっている。チームアホノミクスのリーダーは、あえていう必要はないが、安倍ともうひとり大阪のあの人だ。
●陰謀チーム
国民と国家を逆転させ、大日本帝国や富国強兵を再興しようというアホノミクスをいかに打ち倒せばよいのか。もちろんおとなの知性を武器にするのだが、具体的にどうすればよいのか。その鍵は平和のための「陰謀」、希望のための陰謀チームだ。
旧約聖書の言葉をもうひとつ紹介する。
「慈しみとまことはめぐり合い、正義と平和は抱きあう」
詩篇に出てくる言葉だ。何気なく読み飛ばしてしまいそうだが、心して読むと「慈しみとまこと」はめぐりあわず、すれ違うことに気づく。たとえばパレスチナ問題で、パレスチナの正義とイスラエルの正義はめぐり合わずすれ違う。正義と平和は「抱きあう」のでなく「いがみあう」のが現実の姿だ。それにもかかわらず「慈しみとまことはめぐり合い、正義と平和は抱きあう」ようにするのが、輝かしい知恵である。
すぐにでも、陰謀チームを身近の人とつくって、アホノミクスを阻止することを追及しよう。その際わたしたちを待ち構えてくれるのが日本国憲法である。

もう一人のゲストスピーカーの市川須美子さんは教育法の学者で、「日の丸・君が代裁判と戸山「教育」」という講演をした。

東京都教育委員会は、2003年10月に、卒入学式の国旗掲揚・国歌斉唱のやり方を細かく決め、職務命令に従わないものは処分する通達「10.23通達」を発出した。戸山で同期だったKさんなど3人の先生がわたしを訪れ相談を受けた。そのときひらめいたのが「いわゆる勤評長野方式における自己評定義務の不存在確認の訴訟だった」。10.23通達からわずか3か月後、予防訴訟が始まった。3人がまたたく間に200人の訴訟団になった。ただ当初弁護士も二の足を踏み、教育法学者からも「もし敗訴したらかえってマイナスになる」といわれた。ところが2006年9月の一審判決は完全勝訴だった。しかし控訴審以降、さまざまな日の丸君が代裁判で敗訴が続いた。その後2011年6月の最高裁判決で、外部行為の強制が「間接的には被強制者の思想良心を制約する」ものであることは認められ、等比級数的に処分が加算されることは違法とされた。
戸山で、「いろんな解答があってよい。大事なのは論理」ということを学んだ。いろんなかたちで戸山の教育は自分の底流となっている。

予防訴訟を考えたのも戸山の卒業生、原告にも戸山の関係者がおり、10.23通達後、支援する元保護者の運動をいち早く始めたのも戸山の関係者、卒業式委員長の生徒が「これ以上、先生をいじめないで下さい」と答辞でスピーチしたのも戸山、最高裁判決で少数意見を付けた判事も戸山の卒業生だったそうだ。たいした学校である。

☆10年前の2005年9月、同じスコットホールで「もうひとつの戸山祭」という集会が行われた。わたしは戸山の卒業生でも元保護者でもなかったが、誘われて参加した。
「戸山が『戸山』でなくなる?!」というタイトルの当時の資料が手元にある。
武藤先生は「戸山らしさはどのように形成されてきたか?」で戸山の歴史を話されたようだ。内容は「きらめく知性・精神の自由」のダイジェストだった。10.23通達や1947年の教育基本法、当時の「卒業式委員会だより」まで出ている。「黄色いリボン運動」という日の丸・君が代に反対の意思表示運動があったようだ。

小雨のなかの卒業式校門前ビラまき

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3月7日(土)朝、都立光ヶ丘高校の校門前でビラまきをした。小雨が降り、ときおり止む天候だった。雨でももちろん卒業式は開催されるが、わたくしは雨のビラまきは初めてだった。カッパ着用の人、傘を差しながらなど、人それぞれのスタイルだった。
ビラは都教委包囲・首都圏ネットワークのピンクのビラと練馬・教育問題交流会の黄色のビラの2枚だった。どちらのビラも「立たない自由、歌わない自由」があること。昨年7月政府が「集団的自衛権の行使容認」の閣議決定を強行したこと。国民主権、平和主義、基本的人権が原則の憲法の重要性、などが記されている。裏面は、ピンクのほうは田無工業や大島高校の自衛隊駐屯地での防災訓練や高校生へのリクルート活動、黄色のほうは昨年3月の卒業式の朝校門前で大阪府立高校の卒業生自身が配布したビラ「卒業生の声も聞いてください」(グループZAZA)だった。

生徒には卒業生、在校生問わず素直に受け取ってもらえた。例年より受け取りはむしろよかった。雨で危険なので、自転車の生徒には原則として手渡さなかったせいもあるかもしれない。
保護者もまずまずだった。自転車からわざわざ降りてビラを受け取ってくれる人もいた。土曜なので夫婦で出席する人もかなりいた。雨のせいもありタクシーで来校する人が例年より多かったように思う。ただビラの内容をみて「返します」と宣言して戻しにきた人が数人いた。こういうパターンは初めてだ。受け取るのも受け取らないのも自由なので、それはそれでよいのだが・・・。
天気が悪かったせいもあるのだろうが、華やいだ雰囲気はあまりなかった。もともと卒業生が制服で登校する校風のせいもある。親も思ったほどうれしそうにはみえなかった。ただときおり和服の女性や華やいだ洋服の人もいるので少しは卒業式らしい雰囲気があった。

学校側の反応は、わたくしが到着する前の時間だが、副校長あるいは主幹らしい管理職風の人が出てきて「ここでビラをまかないでください! ここでビラをまかないでください! 通告しました」と言い捨てて、立ち去ったそうだ。問答無用で、まるでそう言えというマニュアルがあるかのようだったそうだ。
外で1時間半立っていると、冷えてかなり体にはきつかった。

翌日の日曜午後「反原発統一行動」が開催され、わたくしは国会前集会に参加した(主催者発表2万3000人)。雨はなんとか上がったがどんより曇っていた。昨年までのコーナーは長期工事をやっているとかで、少し南方向に移動していた。わたくしは昨年と同じく前庭のなかからみたので、かえって好都合だった。また前庭の梅の花がきれいだった。
スピーチした政治家は昨年までとほぼ同じだった。社民党が吉田党首福島副党首、共産党は志位委員長のほか、吉良池内藤野の3議員、生活の党(生活の党と山本太郎となかまたち)の三宅雪子前議員、民主党の菅元首相。吉良さんはよく金曜の国会前で見かけるせいもあり、コールは「筋金入り」だった。菅さんの話には知らない話もあったので、紹介する。

スピーチする菅・元首相。左下の小さい顔は小熊英二さん

汚染水は告示濃度より明らかに高い濃度のものが海に流れ出ている。「なぜブロックされているか」と聞くと「海に流れ出て濃度が下がったから」と答えた。海水に拡散して薄まったからそれでいいなどというインチキはない。わたしも総理のときこれほどインチキな答弁はしなかった。
グリーンクロスという環境団体に呼ばれ、イギリスのウェールズを訪れた。アングルシー島でホライズンという会社が新たな原子力発電所を建設しようとしているがこれを買収したのが日立GEだ。比較的貧しい地域だが、日本でやったのと同じように広い農場を金にまかせてどんどん買い占めていた。建設しようとしている原発は日本でも運転していないタイプだしあの規制委員会も許可していない。日本でもOKしていないのに向こうでは「安全、安全」といって売ろうとしている。こんなことが国際的道義に合うはずがない。
川内原発に関して、新規制基準の下位規則に「原子力規制委員会規則」があり51条に、福島のように核燃料がメルトスルーしたとき、それを冷却する設備がなければ新設も再稼働も認めないという規定が入っている。それで九州電力から提出された工事計画認可の申請書をみせろと要求している。こうした細かい規定をつくと霞ヶ関が一番いやがる。こういう点も国会審議で追及したい。 
その他、鎌仲ひとみさん、松本春野さん、雨宮処凛さん、小熊英二さんなどのスピーチもよかった。とくに絵本作家・松本さんのナイーブな話は胸に響いた。映像と音声はこちらから。

半田滋の「日本は戦争をするのか」

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毎年恒例の3・1朝鮮独立運動の集会が2月28日(土)夜、文京区民センターで開催された(参加170人)。96周年の今年のテーマは「戦後70年「戦争する国」を許さない!2・28日韓連帯集会」だった。安倍政権が大暴走し、昨年夏の集団的自衛権の行使容認を決めた閣議決定、その方針に基づく法案が5月の連休明けに提出されようとしている。一方、河野談話や村山談話を事実上反故にする安倍談話を8月に出すといわれる。
日本は戦争をするのか」(岩波新書2014年5月)の著者・半田滋さんの講演を中心に報告する。

日本は戦争をするのか――集団的自衛権と自衛隊
              半田滋さん(東京新聞論説委員兼編集委員)

安倍首相は昨年7月集団的自衛権行使容認の閣議決定を行った。この閣議決定は海外で自衛隊が武力行使できる限定容認として受け止められていることが多い。しかしわたしは、海外での武力行使のハードルを下げる役割があることに注目したい。
かけつけ警備、後方地域支援、グレーゾーン、いずれも憲法上日本はできないとされていた。政府は、自衛隊法、防衛省設置法など14本もの法令の改正案を連休明けに提出し、一気に変えようとしている。
安倍首相は猪突猛進で進めようとしているが、国民の希望に沿った活動をしているのだろうか。たとえばISILの日本人殺害事件を思い出してみよう。安倍首相は国会答弁で「8月の湯川さん不明、11月の後藤さん不明で、官邸に情報連絡室、外務省に対策室を設置した」と述べた。また後藤さんの奥さんに身代金要求メールが12月初めに届いたことも知っていた。それなのに1月16日に中東に出かけ、17日にエジプトで2億ドル提供を約束し19日にはイスラエルで、イスラエルの旗の前でネタニヤフと並んで軍事同盟を強化すると演説した。ネタニヤフは中東のいくつかの国ではテロリストと目されている。その翌日の20日、二人の画像がインターネットに掲載された。安倍ははじめからISILを刺激することをわかっていて、中東を訪問した。二人の身柄がどうなろうが、ISILへの「強い姿勢」を示すため行ったのだ。
●独裁に等しい閣議決定
安倍がこの2年で何をしたか振り返ってみよう。日本版NSCを設置し、特定秘密保護法を制定した。ただ、これらは国会で決議したことだ。そのあとはすべて閣議決定だ。閣議決定は首相も含め19人の閣僚が賛成すればすむ。もし署名を拒否すればクビにできる。だから首相の意思にほかならない。
2013年12月17日に閣議決定した国家安全保障戦略は、30pの資料の中に「積極的平和主義の「積極的」という言葉は49回も登場する。「武力行使も視野に入れる」ことを決定した。13年12月閣議決定で防衛計画大綱も変え中国をけん制するため、尖閣を念頭に陸上自衛隊に水陸機動団という米軍の海兵隊のような組織を編成することにした。さらにオスプレイを5年で17機、水陸両用車を52両購入することにした。
14年4月には武器輸出3原則を廃止し、15年2月にはODAで他国の軍隊に対する援助をしてもよいことにした。安倍首相のやり方はすべて閣議決定によるもので、これでは独裁と変わらない。9条をもっていても、もっていないのと同じということになってしまう。
来年夏の参議院選で2/3の議席を取り9条改正の発議をねらっている。スケジュールを逆算して昨年年末選挙を行ったのではないか。
●安倍首相のウソ
昨年5月からの与党協議で集団的自衛権の事例として15のケースを挙げている。この与党協議の特徴は一度も結論を出さないことだ。しかもありえないことをでっちあげて議論している。たとえば「邦人輸送中の米輸送艦の防護」で、安倍は米軍艦に助けてもらった母子の絵をよく取り上げる。しかし辻元清美議員が昨年9月国会質問で「過去に一度でも助けられたことがあるのか」と質問したら首相は「一度もない」と答弁した。さらに中谷・現防衛相は99年3月の衆院予算委員会で「米軍に断られた」と説明した。だいたい日本の自衛艦が近くにいるのなら、はじめからその船に母子を乗せて戻ればすむことだ。
次に「武力攻撃を受けている米艦艇の防護」で、石破茂元・防衛相は「友達がなぐられそうになったときに見捨てて逃げ出すのか」という例を出す。しかし国際関係では、なぜなぐられそうになっているのか理由を探るだろう。また自分が勝てる相手がどうか判断すべきである。だいたい防衛予算が日米では10倍以上違うのに、そんな米軍を守れると考えているのだろうか。
おかしな話ついでに「有事の弾道ミサイル発射警戒時の米艦艇防護」について考えてみる。想定しているのは北朝鮮のミサイルがアメリカ本土に発射されたときのことだ。地球儀をみればわかるが、西海岸のたとえばロスに飛ばすには、北海道の西からサハリン上空を通る軌道になるし、ワシントンの場合はシベリアを通る。そんなところに自衛艦は行けない。
だいたい「世界最強のアメリカに戦争をしかけ、弾道ミサイルを撃ち込もうという国などあるのだろうか」。あるところでそう言ったら、「かつて、日本がしかけた」といわれたことがある。日本くらいしかそんな国はない。
●昨年夏の閣議決定を超える与党協議
今回与党協議は3回行われた。いままでにないびっくりするような内容が話し合われている。集団的自衛権に日米だけでなくオーストラリアまで入れようというのだ。日米には安全保障条約があるが、日豪に取決めはない。
後方支援で「武器弾薬の補給」はしないことになっていたのに、提供しようとしている。昨年7月の閣議決定に書いていないことをやすやすと乗り越え、憲法違反の法律ができようとしている。しかし日本には憲法裁判所がないので、具体的損害が伴わなければ裁判もおこせない。つまり1人以上の死者やけが人が出ないと違憲すら問えない。
イラク攻撃のときはイラク特措法という特別な法律をつくったが、給水、道路・建物の復旧など人道支援のみだったが、これからはISIL空爆の手伝い、たとえば燃料補給や、地上軍への武器弾薬、燃料、食料補給もできるようになる。その場合自衛隊が攻撃されればどうなるのか。閣議決定では「活動を休止する」ことになっている。しかし戦場でそんなことはできない。いよいよ現地で「普通の国」のように武力行使をすることになる。
●第二次朝鮮戦争の引き金に
恐ろしいのは第二次朝鮮戦争の引き金になることだ。1993年に北朝鮮が核開発を進めようとしてNPT(核拡散防止条約)からの脱退を表明したとき、米軍はヨンピョン空爆を検討し、日本に掃海艇の出動や民間港湾の借用を申し出た。しかし日本が断ったので、結局空爆を中止することになった。
その後北朝鮮は核実験に成功し、アメリカに着弾できるテポドン2を開発した。核の小型化を進め大陸間弾道弾を保有するとなるとアメリカはどうするだろう。かつて核開発をするというだけで空爆しようとしたのだから、やはり先制攻撃するのではないか。日本が法律を改正しアメリカの戦争を手助けすれば、アメリカの背中を押すことになりはしないか心配になる。もし北朝鮮が戦争にまきこまれたとき、日本には原発が54基ある。使用済み核燃料は屋根に近いプールに置かれ、かつ福井県や九州に原発が集中している。「どうぞ撃ってください」といわんばかりである。そこに日本が攻撃される可能性のある法律をつくってどうなるのか。
今国会は6月24日に閉会予定だが、8月には戦争できる法律が成立する可能性がある。さらに来年7月の参院選で与党が2/3取り憲法改正を発議する可能性もある。「国民は相当バカだ」と安倍に思われている。
自衛隊は、精密誘導できるジェイダムを搭載するF2戦闘機や空中給油機、空中警戒管制機AWACSももっているので組み合わせれば長距離爆撃機と同じことができる。また全長200mを超え、オスプレイや垂直離着陸戦闘機F35Bも搭載できる護衛艦を建造している。後方支援にとどまらず、外国を攻撃する能力をすでにもっている。
●市民活動で安倍の暴走を阻止
安倍の暴走を阻止する最善の方法は国政選挙だ。しかしそれは来年夏までないので身近にあるのは4月の統一地方選だ。また市民活動で「安倍に対し、おかしいことはおかしい」と行動することが重要だ。いま戦後70年の中でいちばんきなくさくなっている。ここで見逃しては、子や孫に申し訳ない。ともにがんばりましょう。

半田さんの講演を聞いたイ・チャンボクさん((6・15南北共同宣言実践南側委員会常任代表・元国会議員)は「日本が朝鮮半島を攻撃する実力をすでに持っていると聞き、ゾッとした」と感想を漏らし「軍国主義を復活させようとする安倍政権は阻止しないといけない。その力は目覚めた市民から出てくると思う」と述べ「総がかり行動実行委員会」を称賛し、「東アジア市民平和連帯」を呼びかけた。
その後、沖縄・一坪反戦地主会関東ブロック許すな!憲法改悪・市民連絡会VAWW RAC日韓つながり直しキャンペーン2015、「高校無償化」からの朝鮮学校排除に反対する連絡会」からショートスピーチがあった。

この集会の1週間前の2月21日十条の東京朝鮮中高級学校講堂で、朝鮮高校生裁判支援全国統一行動実行委員会主催の「朝鮮学校で学ぶ権利を!! 2・21全国集会」が開催された。

高校無償化から朝鮮学校だけが排除されてすでに丸5年になる。中井洽拉致問題担当相(当時)が無償化に横やりを入れたのが2010年2月、4月にスタートした無償化から朝鮮学校だけがはずされた。安倍政権に代わった2年前の2013年2月には文科省の省令を変更し、施行規則1-1-2の(ハ)を削除して無償化の根拠をなくしてしまった。卑怯で姑息なやり方だ。これに対し、大阪、愛知、広島、福岡、東京の朝鮮高校生や朝鮮学園が原告となり次々に裁判を起こした。一番早かったのは2013年1月の大阪、最後に提訴したのが2014年2月の東京で、いまから1年前のことだ。
広島では、国の代理人の弁護士は産経新聞の記事しか出してこないそうだ。裁判官もあきれて「産経に出たことが重要なのか、それとも記事内容が正しいから出しているのか」と聞くと「厳密な意味での真実性までをも保証するわけではない」と答えた。「要するにいい加減な記事というわけだが、それを反論の材料にしているのか」と重ねて問うと「そうです」と答えたそうだ。東京では、朝鮮学校と朝鮮総連の関係を問題にして、「教育への不当な支配」が論点になっているそうだ。大阪は提訴が早かったせいもありすでに立証段階にさしかかり、97%もの高率回収に成功したアンケートを提出する段階に来ている。福岡では4回の口頭弁論が終わったが国の主張は論拠に乏しい。愛知では憲法、朝鮮半島の歴史などで裁判官を説得しようとしている。
ソウルから訪日した「ウリハッキョと子どもたちを守る市民の会」のソン・ミヒさんは「まさか日朝関係を理由に子供を差別し迫害するとは本当に『野蛮中の野蛮』だ」と非難した。
今年高校を卒業する原告の高校生は「1年のときは先輩の背中のあとを必死についていった。2年のとき、無償化の問題は国による朝鮮学校生徒への差別、人権侵害であることを認識した。3年になると法廷闘争へステージが移った。原告は生徒自身で、だれも長期化が予想される裁判で国と闘うことに不安を抱いた。しかし後輩たちのことを思い、何度も文科省前行動に参加した。卒業後は大学で法律を学びたい。団結という何よりも強い力でこれからも闘っていこう」とアピールした。

林香里の「『慰安婦』問題は安倍問題」

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4月5日(日)午後、府中の東京外国語大学プロメテウスホールで「朝日新聞問題を通して考える「慰安婦」問題と日本社会・メディア」というシンポジウムが開催された。500席のホールが文字通り満席になった。
2014年8月5-6日朝日新聞社は「慰安婦問題を考える」という検証記事を掲載し、いわゆる吉田証言関連の記事13本を取り消した。さらに10月慰安婦報道について検証する第三者委員会を設置した。
ところが、委員は中込秀樹氏(元名古屋高裁長官)ら7人で、慰安婦問題を研究する歴史学者は入らず、人権問題なのに国際人権法の分野の専門家も含まれず、女性も1人だけという人選に危機感を抱いた呼びかけ人8人(ほか弁護士、研究者ら合計204人)は、10月9日、朝日新聞社に要望書を提出した。12月22日委員会報告書が発表されたが、8月まで保持していた「慰安婦」問題の本質は女性の人権問題という視座すら否定するような内容だった。そこで呼びかけ人らは1月22日再度申入れ書を提出した。
この問題は、朝日一社の問題にとどまらず、日本のマスメディア全体、あるいは日本社会全体の問題でもあると呼びかけ人は考え、この日のシンポジウムを開催することになった。

発言者は、林博史さん(関東学院大学教授)、松原宏之さん(立教大学教授)、伊藤和子さん(弁護士、ヒューマンライツ・ナウ事務局長)、青木理さん(ジャーナリスト)、林香里さん(東京大学大学院教授、朝日新聞第三者委員会委員)、植村隆さん(元朝日新聞記者)の6人で、司会は中野敏男さんと金富子さん(いずれも東京外国語大学教授)だった。
わたくしは林香里(かおり)さんのスピーチにとくに関心があったので、林さんの発言を紹介する。ただし、テープは取れなかったので正確とはいえない。細部は朝日のサイトの、林さん執筆による別冊資料2「データから見る「慰安婦」問題の国際報道状況」も参照した。
司会による林さんの紹介は「第三者委員会唯一の女性委員でかつメディア学者。他の委員は根拠やデータを示さないなか、林委員一人が計量的な検証をした」というものだった。
林さんは1963年生まれ、南山大学を卒業しロイター通信記者、エアランゲン・ニュールンベルク大学などで学び、2004年東京大学社会情報研究所助教授、09年東京大学大学院情報学環教授に就任した。19枚のパワーポイントのグラフや新聞記事を映写する発表だった

「慰安婦」報道検証と第三者委員会 問題点と課題

日経テレコンで検索し1984年以後の「慰安婦」報道の量的推移を見てみた。すると2009年以降は産経新聞がトップだった。読売新聞は一貫して消極的だった。これは読売のメッセージともいえる。読売は8月の朝日の記事取消し以降、「慰安婦報道検証 読売新聞はどう伝えたか」というチラシを各戸配布し、A紙作戦という販売大攻勢をかけた。
朝日の慰安婦報道については、記者へヒアリングし、1日に2,3回行うこともあった。
さて第三者委員会とはなんだろう。日弁連のガイドラインによれば「企業や組織において、犯罪行為、法令違反、社会的非難を招くような不正・不適切な行為等が発生した場合及び発生が疑われる場合において、企業等から独立した委員のみをもって構成され、徹底した調査を実施した上で、専門家としての知見と経験に基づいて原因を分析し、必要に応じて具体的な再発防止策等を提言する」とある。主としてコンプライアンスの問題であり、朝日新聞社は「不祥事」と認識したのだろう。ではいったいなにが不祥事だったのか。吉田清治証言、「慰安婦」と「挺身隊」の混同、池上彰氏コラム掲載見送りなどいくつか挙げられる。しかしこのどれが違法行為あるいは名誉棄損など人権問題なのか。明らかな「不祥事」とはいえない。そうすると第三者委員会の設置はどこまで適切だったのかという気にもなる。

●国際世論への影響
木村社長から、国際世論への影響を調べてほしいという課題が提起されたのでコンテンツアナリシスという手法を使って分析した。調査したのは欧米4か国(米国、英国、フランス、ドイツ)10紙600本の記事、韓国5紙14000本の記事である。すると欧米も韓国も日本も、第一次安倍政権と第二次安倍政権の時期に「慰安婦」報道が急増していることが明らかだった(林香里委員別冊資料2 4pおよび22pのグラフ参照)。じつは、この問題は吉田問題ではなく安倍問題だったわけである。
性奴隷(sex slave)という言葉は「慰安婦」(comfort women)の婉曲表現と説明されていることも多く、欧米メディアでは定着していることがわかった。にもかかわらず2004年11月28日読売新聞は「デイリー・ヨミウリ(現ジャパン・ニューズ)」がsexslaveを使っていたことで「おわび」を出した。
欧米の「慰安婦」報道で、発言が引用された人物でダントツの1位は安倍晋三首相96回、2位は「慰安婦制度というものが必要なのは誰だってわかる」発言の橋下徹市長21回、3位は村山富一20回、4位は小泉純一郎17回だった。「どこの国にもあったことですよね」発言の籾井勝人NHK会長10回、小林よしのり5回などもあった。また発言の引用に限らずトピックとして言及されたのも安倍首相が圧倒的な注目を集めていた(合計1141回、2位は小泉純一郎で200回)。時期別にみると1990年代には村山(19回)や橋本龍太郎(16回)が多く2013年には橋下が多かった。韓国/朝鮮の元慰安婦、フィリピン、オランダの元慰安婦の証言も一定の割合で引用されていた。
12月22日報告書が発表され、翌23日に読売は大きく報道した。「国際社会への影響」の要旨説明でわたしの報告はたった5行で「人生は不条理だ」と思った。産経は「国際的影響強める」と書いたが、そんなことは報告書に書かれていない。

●課題
最後に課題を指摘する。  
 1 「報道検証」はなんのためにあるのか。どの間違いを、なんのために検証するのかという問題について、あまり議論されなかった。
 2 どのような委員会のあり方が適切かは、ひとつの課題である。
 3 朝日新聞慰安婦報道は「不祥事」だったのか、もう一度振り返るべきである。
 4 国内議論と国際議論とで大きな食い違いがある。なぜなのか考えるべきである。

課題については、もう少し詳しくお聞きしたいところだった。「国内議論と国際議論との大きな食い違い」については、報告書の個別意見の林さんの項(96-98p)にあるので、引用する。
「国際社会では、慰安婦問題を人道主義的な「女性の人権問題」の視点から位置づけようとしていることが見てとれた」「他方で、近年の日本国内の議論では、ほとんどの場合、日韓や日米などの「外交問題」、および「日本のイメージの損失」など、外交関係と「国益」の問題として扱われている」
たしかに大きなギャップである。安倍首相が「旧日本軍の強制性を裏付ける証言は存在していない」と発言したり、米下院の対日決議案は「客観的事実に基づいていない」と述べたりするたびに、欧米で「慰安婦」報道が激増したが、その理由はこの「ギャップ」にあることがわかる。
また林さんが、思いのたけを「激白した」という世界5月号「「報道検証」はジャーナリズムをよくするか」では、背景にある政治的意図、第三者委員会の権力性、「ものいう経営陣」の誤った決断、など現代のマスコミや第三者委員会の問題点に幅広く言及している。

若手を育てるラ・フォルジュルネ2015

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今年も5月2日から4日まで丸の内でラ・フォルジュルネ・オ・ジャポンが開催された。わたしは最終日に行ってみた。今年のテーマは「パシオン」、サブタイトルには「恋と祈りといのちの音楽」とある。昨年までは、作曲家、時代、都市などをテーマとしていたのだが、どうやらネタが尽きたらしい。普遍的なテーマにしたとあるが、やはりわかりにくい。たとえばサックスのコンサートでMCが「サックスの曲はどれもパッションといえばパッションだ」と言っていたが、たしかにそのとおりである。来年以降は「自然」「ダンス」などへと展開するそうだ。

●芝学園ギター部

まず芝学園ギター部のミニコンサートを聞いた。曲目はバッハのヴァイオリン協奏曲第2番 ホ長調 BWV1042より第1楽章とヒメネスのサルスエラ「ルイス・アロンソの結婚式」より間奏曲の2曲だった。バッハは子どものころ弾いたことがあるのでなじみの曲だった。学生指揮者がしっかりした指揮をしていた。

●4Kシアター「炎の第九」

次に時間調整のような形で小林研一郎指揮、日本フィルハーモニー、合唱・東京音大のベートーベンの「第9」の4K版の演奏を聞いた(2014年12月25日 サントリーホール ソプラノ・木下美穂子、アルト・手嶋眞佐子、テノール・錦織健、バリトン・青戸知)。
4Kなので小林のみならず、チェロ、コントラバス、フルート、オーボエなどの楽団員、4人のソリストの表情もよくみえた。生演奏を見に行っても、こうはいかない。バリトンの青戸氏の七面相は楽しめた。
音のほうでは、合唱の重厚さや深みがもうひとつ再現されていないように感じた。小林研一郎の演奏はたしかに熱かった。

●アンヌ・ケフェレックのマスタークラス
ケフェレックさんは1948年パリ生まれ、1968年ミュンヘン国際音楽コンクールで優勝、ラ・フォルジュルネには何度も来日している。

写真はサイン会のときのもの
この日取り上げたのはショパンのバラード第4番、生徒役は上野学園の女子学生TMさんだった。まず1曲全体を通しで弾いたあと、先生が楽譜を取り上げ「暗譜で大丈夫でしょう」という。そのほうが「音をよく聞くから」との説明だった。生徒は驚いたのではないか。いくら弾きこんでいるといっても10分あまりの長さの曲だ。
レッスンのポイントは、1 低音をしっかり聞く、すると奥行が出てくるし右手までうまくなる、2 ショパンのポイントは音が混じらないようにすること、そのためペダルを踏みっぱなしにせず、踏み替えることが重要(「息を吸う」という表現をしていた)。
印象に残った表現としては「森の中を歩いていると、葉がこすれる音までよく聞こえる」「親指に色をのせる」「ささやくような、ふるえるようなパッション」「音が蒸発していくように、水鳥が飛び立っていくように、水が流れるようにスルスルッと」「マジカルに、幽霊のように戻ってくる」などなど。
大変熱心な授業で「走らない」「3拍子で」「デリケートに」「もっと向かっていく感じ」「ゆっくりしてはダメ、まだまだ終わりではない」「不安が迫ってくる」など指示が絶え間なく入る。とくにペダルについて「カクカク踏まない。足はバイブレーションのように」「音程を聞く。息を吸う。完全にペダルを上げる」など細かい指導があった。そのため1時間のレッスンが20分もオーバーした。主催者は冷や汗ものだっただろう。
わたしは開演5分前くらいに着いたので席は半分より後ろで、あまりピアノが見えなかった。この先生は指揮者のように腕を振ったり歌ったりされるのだが、まったくみえない。また生徒と大変自然に入れ替わって演奏されるのだがその様子もみえない。チケットは90分前配布なので110分前に行ったが、「開場は15分前」とのことなので20分前には並んだほうがよいようだ。

●東京音大ピアノクインテット

曲はシューマンの「ピアノ五重奏曲」の1・4楽章。開演までしばらく練習していたが、ピアノ五重奏の場合、ピアノがリードするようだ。チェロの人はソリストタイプ、ビオラはひたすら伴奏に徹するタイプと、それぞれの個性がよくわかった。
同じ曲を5月半ばにアルゲリッチが川久保賜紀、遠藤真理らと演奏するそうだ。きっと迫力ある演奏になるだろう。

●上野学園サクソフォン五重奏
 
昨年は楽器の発明者アドルフ・サックスの生誕200年だったそうだ。サックス・カルテット+ピアノの編成で、トルヴェール・クヮルテットのために長生淳が作曲した「惑星」より「地球」と佐橋俊彦作曲「With You」。司会はトルヴェールでアルト担当の彦坂眞一郎氏だった。「地球」には、ホルストの火星や木製はもちろん「吹奏楽のための第一組曲」まででてきて楽しかった。屋外だからかマイクを使った演奏だった。マイクのせいもあるかもしれないが、テナーとピアノがうまいように聞こえた。

●プーランクのオペラ「人間の声」演奏会形式 ソプラノ中村まゆ美、ピアノ大島義影
じつはこれだけがわたくしが聞いた有料コンサートだった。名前も知らない曲だったが、タワーレコードでチケットを買おうとしたら、「このプログラムしかもう残っていない」といわれ焦って買ったものだった。
舞台にはテーブルとイスと電話だけ、出演者は部屋着を着てひたすら電話をかけている。相手の声が聞こえるわけでもない。ときどき混線することもある。
失恋し、不眠で睡眠薬を大量に飲み、繰り言をいう。実際にこんな女がいたら、電話された相手はずいぶん迷惑だろう。最後は「ジュテーム」と言いながら電話のコードを首にまき、床に崩れ落ちる。死んだかどうかはわからない。もしかするとこの芝居すべてが女の妄想かもしれない。
ただ「パシオン」の表現であることは間違いない。台本はジャン・コクトーによる。演劇としてシナリオをみれば完成度が高い。
ネット検索をして、ジェシー・ノーマンの「人間の声」をみつけた。

ラ・フォルジュルネをみるのも3年目。だいぶ様子がわかってきた。マスタークラス、東京音大、上野学園の演奏にみるように、このイベントは若手音楽家の育成がメインで、その人たちに発表の場を与えることがひとつの使命のように思う。
また無料コンサートをみるときには、たとえばマスター・クラスで書いたように、待ち時間に留意することがポイントである。

トークインを見た第89回国展

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国展をみるのは、たしか8回目である。今年は早々と「トークイン」の招待券を送っていただいていた。何年か前に偶然トークインのグループに出くわし、「後ろの方からそっと見るだけならOK」といわれてお話をお聞きしたことはあったが、参加するのは初めてである。受付は12時半から13時。ツアーのスタートは13時半。様子がよくわからないので12時30分前に受付にいった。しかし前もってグループが決まっており、別にあわてる必要はなかった。8グループ、それぞれ20人ほどの参加者がいて、リーダーのほかタイムキーパーなど4人のスタッフが同行するので至れり尽くせりである。
ただ5つの部門(絵画のみ2人)を巡り歩くため、先生1人当たり13分という制限時間が厳しく決まっている。たとえば質問に先生が答えている最中でも、遠慮なく移動するので「先生に失礼だ」と思うほどだった。
工芸の祝嶺恭子先生のお話は次のようなものだった。

沖縄の14世紀後半から16世紀は大交易時代と呼ばれ、大和、中国・朝鮮、東南アジアの諸地域との交易でいろんな地域からいろんな技法が入ってくるクロスカルチャーの時代だった。そのため伝統的工芸品に指定されているのものが沖縄には11品目もあり、この数は京都に次ぎ2位だ。
沖縄の織物は、紋織りと絣(かすり)の2つに分かれる。紋織りには、経(たて)浮花織、緯(よこ)浮花織、両面浮花織がある。絣は600―800種類ある。かつて柳宗悦先生が沖縄の絣は世界一だとおっしゃった。それは絣の際(きわ)がそろっていて、乱れていないからだ。絣のくくりが20回転で40本の糸がきれいにそろっている。糸が太いとそうはいかない。
植物染料をつかっているのにしっかり色が定着している。それは沖縄の強い太陽と硬質の水を使っているからだ。本土の軟質の水で洗濯すると色がすっかり落ちることがある。沖縄の水と光で定着させているのだ。
染色は、はじめに片方をくくり染め、ほどいてもう一度染め、合計2回染める。染め上ると全部記録をとっている。織り色は経糸と緯糸の染め色の組合せで決まるが、どんな色になるのかは経験と勘が教えてくれる。
作品は分業せずデザインから織り上げまですべての工程を一人で全部やる。この作品をつくるには2か月ほどかかった。天然染料はすごく時間がかかる。乾かしてもう一度染めるので、天気にも左右される。天気の変化も頭に入れてスケジュールを組まないと、仕上げが間に合わなくなりかねない。

「絣入両面浮花織」と祝嶺恭子先生
その他は、写真が前田尚史先生、版画が政森暁美先生、絵画が安原容子先生と布袋孝雄先生、彫刻が矢野道彦先生だった。
彫刻や絵画は意外に数学(幾何)と関係が深いことがわかった。布袋先生は抽象画の先生だが、画面に黄金矩形を描き対角線や水平線などを引いて構図を探すそうだ。
矢野先生は、素材が奇妙な形をしていることがスタートで「驚き」を感じ、「その素材が特徴を主張しながら独創的な形をしている。これはまさしく彫刻だ!」と、彫刻が始まるそうだ。今回の作品はケヤキの木を立体的な楕円にしたものだったが、楕円を切り出すときに、2つの焦点に糸を留め、糸を張って鉛筆で楕円を描いたそうだ。まさに数学で習ったそのままの方法だ。
絵画の安原容子先生のテーマは「現代のアダムとイヴ」。たしかに絵画部のウェブサイトで作品をみるとここ5-6年このテーマである。今年は、リンゴを食べて「堕ちていく」イヴと「待て!」と叫ぶアダムの絵だ。ただ現代なので、バックにバスタブがあり、現代を象徴するような建物が浮かんでいる。
版画の政森先生の作品のテーマは「出現する自然の美」で、ドビュッシーの曲を聞きながら制作したとのことだった。ただ数メートルの近さで、別のグループのトークインがありよく聞こえなかった。主催者側で少し調整すればと思った。
写真の前田先生は10年前にデジタルカメラに切り替えたという方だ。今年は古くどっしりした鉄道の橋脚を下から見上げた「礎」というモノクロ作品だ。
大変有意義な130分だった。個人的な希望をいうと、5部門全部回らなくてもよいので、一人30分くらいゆっくり時間をかけてお話を伺えるコースも選べるとよいと思った。

「楕円形の封」と前田尚史先生
その後、いつも時間をかけて楽しませていただいている工芸部の展示をゆっくりみた。
まずルバース・ミヤヒラ 吟子さんの「若草首里花織着物『ひな祭り?』」。ますます実母の宮平初子さんの作品に完成度が近づいてきた。


ルバース・ミヤヒラ 吟子さん「若草首里花織着物『ひな祭り?』」、下は模様の拡大
ベテランの小島秀子さん「WAVE・spring」、根津美和子さん「春淡し」、池田リサさん「板締絣着物」、杉浦晶子さん「春うらら」など5月の季節に合う爽やかな作品は毎年好きだ。柚木沙弥郎さん「鳥かごは鳥を探して旅に出たー―カフカのことばより」は作品だけでなく、タイトルも詩のようですてきだ。
しかしそれだけではない。 新しい方、たとえば小川ゆみさん「雪華」は白地に雪の結晶がかわいらしく並ぶ。田中麻季さん「山桜花」も桃色の花のかわいい作品だ。一方、土居もものさん「火」は燃え上がる紅蓮の炎のようで鮮烈な作品だった。
その他、染の作品だが、長沢碧さん「うららかな春 早春」も好きな作品だ。

土居もものさん「火」

☆同じ美術館でマグリット展が開催中だった。マグリットは1898年ベルギー生まれ1967年逝去なので、村山知義(1901―1977年)とほぼ同年代の画家だ。本格的な回顧展は2002年以来とのことだが、たしかに130点もの絵画は壮観だった。生涯を「1 初期作品」(1926-30)、「2シュルレアリスム」(1926-30)、「5 回帰」(1948-67)など5つの時期に分けて紹介していた。
一番の見どころは回帰である。光の帝国2、ゴルゴンダ、模範例、大家族、白紙委任状など、有名な絵が目白押しだった。所蔵館をみると、宇都宮美術館、横浜美術館、姫路市立美術館、宮崎県立美術館、大阪新美術館建設準備室など日本の美術館もかなり多い。わたしも好きな作家だが、日本人に受けがよいようだ。
帰りに売店を通ると、スタッフの女性がマグリットの絵に出てくる帽子をかぶっていた。なかなか芸が細かい。

日韓条約 50年 過去清算でつながろう!

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今年は日韓基本条約が締結され50年目の年に当たる。締結日は6月22日だがその2日前の6月20日(土)水道橋の在日本韓国YMCAスペースYで「日韓条約 50年 過去清算でつながろう!」が開催された(主催 日韓つながり直しキャンペーン2015 参加500人)。
日韓条約、なかでも「請求権協定」の「完全かつ最終的に解決された」という文言は、日本政府に対し植民地支配責任(戦時補償)を求め訴訟をおこした元軍人・軍属や元徴用工の韓国人に煮え湯を飲ませてきた。「条約という『暴力』」そのものだった。
シンポジウム「検証!日韓条約・請求権協定「1965年体制」はもう終わりだ」(進行 庵逧由香さん(立命館大学教授))から、太田修さんと金昌禄さんの部分を紹介する。

それでも「解決済み」論を批判する
      太田修さん(同志社大学グローバル・スタディーズ研究科教授)
日韓条約締結で国交が正常化され、往来する人は飛躍的に増えた。たとえば1965年に韓国から日本に入国した人は1万7000人に過ぎなかったが、いまや(2013年)272万人にも上る。では問題は何か。過去の植民地支配や戦争責任が覆い隠されたことだ。
日韓条約は基本条約と4つの協定から成るが、今日は財産請求権交渉と協定に的を絞る。
日本政府は「解決済み」と主張するが、そこには3つの問題点がある。
1 「財産」「請求権」という枠組
「財産」「請求権」はサンフランシスコ条約4条a項に規定される。4条a項とは「日本国及びその国民の財産で第二条に掲げる地域にあるもの並びに日本国及びその国民の請求権(債権を含む。)で現にこれらの地域の施政を行つている当局及びそこの住民(法人を含む。)に対するものの処理並びに日本国におけるこれらの当局及び住民の財産並びに日本国及びその国民に対するこれらの当局及び住民の請求権(債権を含む。)の処理は、日本国とこれらの当局との間の特別取極の主題とする」というものだ。日本は当初、相互放棄を主張し、4条a項にすら不満を持っていた。
「財産」「請求権」は、植民地支配の責任を問わない。連合国と日本がつくったものだからだ。日本政府の植民地支配正当論は3つの考え方から成ることが、新たに公開された日韓会談資料で鮮明になった。まず適法に植民地支配していたという「植民地支配正当・適法論」だ。次に植民地であったあいだ、日本は韓国によいことをしたという「施恵」論、「近代化」論だ。三番目は、朝鮮の独立は、解放されて独立したわけではなく、国際法上の「分離」にあたるというものだ。だからたんに領土分離の場合の財産の継承関係にならえばよいという主張になる。連合国(とくに旧植民地帝国)もこの考えを共有していた。この点では日本政府と共通・共犯関係にあった。
2 経済協力方式
過去の償いではなく、経済協力で処理するという考え方のこと。60年7月外務省北東アジア課の柳谷謙介が「対韓経済技術協力に関する予算措置について」というタイトルで書き、伊関佑二郎アジア局長が主導したのが始まりである。日韓会談文書のなかで最重要資料のひとつである。ただし筆写本やタイプ本はあるが、原資料はまだみつかっていない。5次会談(10月14日)直前の省庁打ち合わせ会議で、伊関局長は「最終的には政治的解決をすることになるにしても、初めから請求権の議論を全然しないわけにはいかないから、とにかく一応委員会を開いて議論し。「数字で話を決めるのは不可能だ」ということを先方に納得させる必要があろう」と発言し、大蔵省の吉田理財局次長は「一番無難なところで戦死者の数でも話し合えば多少時間はつなげる」と答えた。つまり事務レベル交渉では「芝居」をしていたことになる。労務者、軍人、軍属の未払い賃金や補償金を求める韓国に、日本は「法的根拠や事実関係を立証せよ」と、いまから考えると理不尽な要求をした。
こうして事務レベル交渉は62年3月に終結し政治折衝に移った。62年11月に経済協力方式による大平・金合意が交わされた。
この背景には、日韓ともに経済開発主義を推進する政権になったこと、アメリカの冷戦戦略としての経済開発、日本の1950年代の東南アジア諸国への「賠償」「経済協力の経験、フランスのアルジェへの「独立+経済協力」方式(エビアン合意)などがある。
3 条約――法による暴力
62年ごろから在韓被爆者や強制動員された被害者から日本政府に陳情や請願の声が上がっていたが、政府は無視し、訪日しても門前払いをくわせた。「慰安婦」の人たちに至っては声さえあげられなかった。しかし国家は、条約により「完全かつ最終的に解決した」といい、門前払いし排除する。サンフランシスコ条約や日韓財産請求権協定という条約―法そのものの「暴力性」が問われなければならない。

韓国と日本の条約・協定をめぐる争い
                金昌禄さん(韓国・慶北大学法学専門大学院教授)
基本条約が結ばれて50年の今年、韓日関係は史上最悪のきわめて非正常な状況におかれている。1965年に何が「解決」されたのか、その結果いまどんな課題が残っているのか考える。
1 基本条約:合意の不存在
争いの核心は基本条約第2条「1910年8月22日以前に大日本帝国と大韓帝国とのあいだで締結されたすべての条約及び協定は、already null and void(もはや無効)であることが確認される」の解釈の違いにある。
「無効の対象」について、韓国は「1910年8月22日以前に大日本帝国と大韓帝国とのあいだで締結されたすべての条約及び協定」といい、日本は「1910年条約」だけだという。無効の時期は、韓国は「当初から」、日本は「当初は有効だったが、1948年8月15日の対韓民国政府樹立により失効」したという。「already」を、韓国は「nulland void」の強調だといい、日本は「現時点ではもはや無効」という。解釈の根拠について、韓国は「日本の侵略主義の所産」、日本は「正当な手続き、対等な立場」だといい、「35年の支配の性格」について韓国は「不法強占」といい、日本は「合法支配」だという。    
韓国政府はこういう解釈も可能だということを知っていて、別々に解釈しようと「談合」して合意した。その後95年の村山談話で「植民地支配と侵略により多大な損害と苦痛を与え」「痛切な反省の意を表し、心からのお詫びの気持ちを表明」し葛藤を乗り越え歩み寄るきっかけとなった。しかし「合法不当論」の主張を続けた。1910―1945年の支配の取るべき責任は課題として残されている。
  
2 請求権協定:合意の不十分さ
協定1条で無償3億ドル、有償2億ドルの援助を約束し、2条でサンフランシスコ条約4条a項に規定されたものを含めて、完全かつ最終的に解決されたことを確認し、3条で、署名日以前に生じた事由に基づくものに関していかなる主張もすることはできない、としている。非常に強い表現を使っているが、しかし協定文のどこをみても、解決された原因について言及がなく、何が解決されたのか明らかでない。そうなったのは1で述べたように両国の解釈が異なり合意を得られなかったからだ。
にもかかわらず「領土の分離・分割に伴う財政上および民事上の請求権」であることに合意し、韓国政府もそういう主張をした。要するに請求権協定は、日本による支配の「不法性」を前提にしていない。これは韓国の「併合はもともと違法」という主張と矛盾するが、65年当時の韓国政府の能力の限界を示す。
日本が植民地支配責任を解決していないということは、いまも韓国政府は同じ主張を続けており、2005年の韓日会談文書公開後の委員会発表や2012年の大法院判決が確認している。
一方、日本政府は「すべて解決済み」と主張しているが、論理的にムリがある。たとえば日本軍「慰安婦」問題は65年当時は認識しておらず、はじめて認めたのは1992年の加藤談話のときだし、植民地支配責任の存在を認めたのは1995年の村山談話のときである。65年に認識していなかった問題をその時点で解決することはありえない。
日本政府の主張はそもそも「植民地支配責任が問題ではない」という前提に立脚しないと論理的整合性を維持できない。安倍政権はそもそも植民地支配に問題はないという前提に立脚している。
65年締結の基本条約と請求権協定には不完全さと不十分さがある。明確な「植民地支配責任の清算」を通じて韓日関係の新たな「法的な枠組み」をつくるべきである。

その他、阿部浩己さん(神奈川大学教授)は「国際法は政策決定者のための学問だったので、外務官僚の価値観と一致しており、韓国併合条約に問題はない、請求権問題に「紛争」はないとしてきた。ところが1990年以降、人権の理念が重視され始め、女性の声、マイノリティの声、過去の声を積極的に組み入れ、劇的に変化してきた。この新しい潮流を組み入れ、65年協定をどう解釈するか、法―暴力をどのように脱暴力化していくかが問われている」と述べた。
日韓会談に関する全国紙・地方紙の記事を投書欄まで含めて分析した五味洋治さん(東京新聞編集委員)は「残念ながら当時の報道は低調で、政府に追随するような記事が多かった。しかし50年たったいま、お互いに相手のことを思いやり、過去の後遺症を治すため最小限のメスを入れる外科手術が必要なのではないか」と述べた。
金丞垠さん(民族問題研究所研究員)は、「韓国政府は対日民間請求権補償に消極的だったが、請求権協定締結の6年後の71年に法律を制定し、75年から2年間補償を施行した。財産被害に対しては、徴用者の未払い金、年金などは確認が難しいとして除外した。94000人が支給決定になったが、あまりに補償額が低く2万人が放棄した。人命被害は強制徴用、徴兵による死亡者に対するものだ。遺族は1人1000万ウォンを要求したが、30万ウォンのみ支給した。合計92億ウォンだがこれは請求権協定の無償3億ドルの8.7%に過ぎない。それも協定締結から12年もかかっての結果だった」と調査結果を述べた。

庵逧さんの見解や分析もお聞きしたかったが時間不足で聞けなかったのは残念だった。最後の討論で五味さんが「韓国の人は「歴史はひとつ、真実はひとつ」というが、あまりこだわり日本人に押し付けると、残念ながらとまどいを生む。それが日本の現実だ。現状を理解したうえで主張していただけるとありがたい」と述べた。韓国に何年も特派員として駐在した人の発言だけにリアルティを感じる発言だった。

会場の在日本韓国YMCA(水道橋)
シンポジウムの前に2本の記録映画が上映された。「私を記憶せよ!」は韓国人被害者のドキュメンタリーで、元「慰安婦」の方のほか、徴用され炭鉱労働した人、海南島で掩体壕づくりをした人、富山の不二越で働いた女性などのインタビューだった。とりわけ捕虜の虐待を強いられた捕虜監視人の方の証言は悲惨だった。
「慰安婦」に限らず、どうやら日本人があまりやりたがらない「仕事」を植民地・朝鮮の人に押し付けていたようで、日本人の人種差別観がよくわかった。「慰安婦」問題だけが特殊なわけでもなさそうだ。こうした植民地支配の被害者救済を阻んでいるのが日韓条約と請求権協定である。
もう1本は「1965年――あの時代、あの闘い…」という日韓条約阻止闘争の証言映像だった。証言したのは、当時の大学生、国鉄労働者、和田春樹氏(当時東大助手)ら学者、朝鮮総連国際局の方だった。
国労では、当時、新橋や品川が強く座り込みなどの動員があったそうだ。いまでは考えられない。ただ国民的にはそれほど盛り上がらなかった。理由のひとつは15年にもわたる長い闘争で「肝心のときに疲れてしまった」という事情もあったようだ。なおこのころはベトナム戦争、原潜寄港といった国際情勢も運動に影響していた。
また朝鮮学校「高校無償化」排除問題と群馬県の追悼碑撤去問題のアピールがあった。群馬県の「朝鮮人・韓国人強制連行犠牲者追悼碑(碑名は「記憶 反省 そして友好」)の撤去問題は少しは聞いていたが詳しいことは、わたくしははじめて聞いた。群馬では太田や伊勢崎に中島飛行機があり、吾妻の鉄鉱石採鉱や吾妻線建設のトンネル工事のため多くの朝鮮人が強制労働されられた。
そこで98年から市民団体が県立公園に追悼碑を建てる運動をスタートし2004年に、1万人の浄財を得て竣工した。ところが2012年ごろから女性右翼団体「そよかぜ」が攻撃を開始した。ネトウヨも加わり、とうとう2014年6月県議会が「追悼碑設置許可取り消しを求める請願」を採択する。守る会は抗議声明を発表、県との話し合いを重ねたが、11月に前橋地裁に提訴した。2015年1月に第1回口頭弁論、8月17日に第3回口頭弁論が予定されている。
2015日韓市民共同宣言」を採択し第1部を終え、神保町や小川町へデモに繰り出した。

「アベは辞めろ!」の猛暑の夏

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今年の夏は気象台の観測始まって以来の猛暑だという。
その暑さをいっそう暑くしてくれているのが、安倍政権の「戦争法案」だ。おかげで週に1-2度国会周辺に行くことになった。
この問題ではじめて衆議院第二議員会館前に行ったのは、6月4日(木)、3回目の木曜行動だった。ちょうど衆院憲法審査会で、自民党推薦の学者も含めて3人の参考人がそろって安倍政権提出の「戦争法案」は違憲だと表明した日だった。
6月24日(水)の国会包囲行動は、95日という前代未聞の会期延長を22日に決めた直後だったので、会期延長反対の声が渦巻いた。翌25日にも木曜行動が実行され参加した。

7月14日(火)と28日(火)には日比谷野音から国会へのデモに参加した。勤務後に急いでかけつけても18時半ギリギリで、そんな時間に行ってもとっくに満席で野音の扉は閉ざされている。しかも人がいっぱいで公園入口からほとんど奥に入れない。その代わり、デモの第一梯団に運よく潜りこむことができた。
  戦争法案絶対反対!
  安倍政権の暴走止めよう!
  安倍政権は今すぐ退陣!
  安倍は辞めろ!
公園から国会を経て永田町駅周辺まで延々と人の列が続き、シュプレヒコールの声がこだました。

したがって衆議院も参議院も議員面会は一番だった。右から共産、民主、社民の順に並んでいるのだが、民主がやけに大きくみえた(実際に人数も多いのだろうが)。
。衆議院では、民主の菅直人氏や辻元清美さんが目立った。その他、共産では穀田恵二国会対策委員長、社民では照屋寛徳参議院議員の顔がわかった。参議院の民主では、江田五月議員や小川敏夫議員、共産では井上哲士議員や仁比聡平議員の顔がわかった。社民・福島瑞穂副党首も、遅刻したため走って現れた。
14日のデモのとき解散地点、永田町駅付近で顔見知りの人に出あった。国会前オールナイト車座寄合で「お泊まり」とのことだった。同い年の人だが、「元気だねぇ」と思わず声が出た。
こういう集会でひとつよいのは、最新情勢を聞けることだ。先に書いた6月の3委員のそろって違憲表明は辻元議員から聞いた。また7月30日(木)の11回木曜行動で、井上哲士参議院議員(共産)から「8月3日(月)に磯崎陽輔首相補佐官の特別委員会での参考人招致が決まったところ」との報告を受けた。陸上自衛隊が昨年、鳥取砂丘の90倍もあるアメリカの砂漠で中東を仮想敵とする共同訓練を実施したという話も聞いた。
7月24日(金)夜の包囲行動の日は暑かった。たぶんシールズの主催場所だと思うが国会正門前北庭エリアは「アベは辞めろー、辞めろー、辞めろー」に力が入った。夏休みに入っていたので家族連れの人も来ていた。暑かったので、熱中症対策で給水所が設置され冷水の紙コップを配っていた。
26日(日)午後の包囲行動も暑い日だった。国会前集会で、社民党・吉田忠智党首は「第一次安倍政権が退陣したときの内閣支持率は29%、60年安保で安倍の祖父・岸が退陣したのは28%、いまや安倍の支持率は30%台に落ちている。いよいよ黄信号から赤信号が灯っている。」と述べた。山口二郎・立憲デモクラシーの会共同代表は「安倍首相を返り討ちにしてやろう! 8月の炎天のもと、あぶり殺してやろう! これからが正念場だ」とアジった。
スピーチのあと、社民・吉田党首が真っ赤な顔をして通り過ぎるのをみかけた。

写真は7月28日のデモ出発前
写真を撮ってはいけないゾーンというものができていた。以前から反原連の官邸前行動では、チラシ配りや署名ができないことになっていた。理由を聞くとなるほどそうかと思う。しかし、そのうち「ここでは大きな声を出してはいけない」とか「ここで見聞きしたことは他言無用」といったゾーンもできるかもしれない。
お盆の夏休み期間の8月13日にも第13回木曜行動が開催された。国会も夏休み中だったが、田村智子参議院議員(共産)は「8月11日、参院特別委で小池晃議員が防衛省統合幕僚監部が5月に作成した資料に、8月に「戦争立法」が成立し、2016年2月に施行されると書いている。国会も国民も無視した行動だ、と追及した。中谷大臣は回答できず、ふたたび国会審議が止まり、休み明けの再開のメドもたっていない」と情況を説明した。
「戦争法案反対」の活動の場は国会周辺以外の場所にも広がっている。毎週火曜には各地域で一斉街頭宣伝行動が行われている。8月4日(火)夕方、新宿駅西口・小田急前で、チラシ配りを手伝った。この場所は都知事選、参議院選などで何度もビラまきを手伝ったが、非常に受け取りが悪い場所だ。その体験と比較すると、少し受取がよく手元のチラシを全部配り終えることができた。また署名が1時間ほどで109筆も集まった。コールがないのが少しさびしかった。
7月12日(日)には地元で「戦争法案さよならパレード」が実施され参加した。共産党系の人が多かったが、生活者ネットからも多くの区議や元区議が参加した。緑の党のTシャツを着た人も参加していた。

7月23日の都庁前早朝ビラまき
戦争法案以外にも課題は多い。今年は4年に一度の教科書採択の年である。今回は日本教育再生機構が日本会議や自民党とタッグを組んで採択率10%を目指している。
7月23日(木)朝8時、都庁前で早朝ビラまきを行った。しかし都教委はまたも都立中高10校全校と特別支援学校22校の歴史・公民とも育鵬社教科書を採択した。その後横浜市や大阪市でも採択が決定した。
しかし前回、23区内で唯一育鵬社を採択した大田区で「普通の教科書」に奪還できた。また練馬は江戸川に次ぐ採択部数と思われるが、歴史は教出、公民は東書が採択された。わたしは教科書展示会に3回行き、そのつど異なる育鵬社批判のアンケートを書いて投函してきた。

8月7日の官邸前行動
川内原発再稼働も大きな問題だ。これだけの猛暑でも電気は足りている。にもかかわらず、まるで2011年の福島の事故がなかったかのように再稼働を開始した。わたくしもパブコメで、南九州には火山が多くいつ噴火するか予知できないこと、万一事故が起こった場合避難路が確保されず、地区によっては原発のある方向に逃げざるをえないことを書いたが、問題は解決されないまま原発が再稼働した。
毎週金曜の官邸前行動にも月に一度は参加するようにしており、8月7日(金)の集会では「九州電力、原発やめろ、川内原発再稼働反対!
 原発やめろ! やめられないならお前がやめろ、原発もろともお前もやめろ!」といつものコールが上がった。

辺野古の問題も大きい。少し前だが、5月24日(日)午後の国会包囲で1万5000人のヒューマンチェーンが成功した。このときは間近で稲嶺進名護市長のスピーチを聞いた。

その間をぬって、毎年恒例になっているいくつかのイベントにも参加した。フォト日記風に紹介する。

7月1日(水)東京ビッグサイトでブックフェア2015をみた。
大型ディスプレイや音響装置が並び、コーナーの名もコンテンツマーケティング支援、マーケティング解析、制作・配信ソリューションなど、わけがわからない。まるで不思議の国に紛れ込んだようだった。
 
2階に上がると違和感はさらに激しく、初音ミクのようなコスプレ・キャラクターがディスプレイで躍動し、着ぐるみのバナナやヒヨコや黒クマなどが会場を歩いている。
ブックのスペースは、2階も合わせると約1/6、タイトルだけは「東京国際ブックフェア」だがそれは集客用のタイトルのようだった。
そんななか、わたくしの関心は書物復権10社の会、河出書房新社など伝統的な出版社だった。今年は出版梓会のブースが元気だった、脇のイベントスペースで、トランスビューの工藤さん、共和国の下平尾さん、ころからの木瀬さんが注文出荷制についてトークイベントをしていた。返品率が、1社は15%、もう1社は1ケタだと驚くような話だった。
意気に感じてあけび書房の本を1冊購入してしまった。
もういいかと思っていたが、せっかく来たのだからと装幀コンクールをみた。展示方法が改良されてみやすくなっていた。文部科学大臣賞の「博物図譜とデジタルアーカイブ特装本」(出版社=武蔵野美術大学美術館・図書館/武蔵野美術大学造形研究センター)は糸かがり上製本だがノリを使っていない。変わった製本だと思った。すると製作した山田写真製版所がブースを出していた。シークレット・ベルギー製本という手法だそうだが、説明を聞いても詳しいことは理解できなかった。じつは富山市の会社で、製本というより製版で名高く、有名なデザイナーが順番待ちで門前市をなす、レベルの高い会社なのだそうだ。

7月15日(水)戦争法案が衆議院特別委員会を通過した日、わたくしは非戦を選ぶ演劇人の会のピースリーディング「明日、戦場に行く」を全労済ホール スペース・ゼロで鑑賞した。昨年より改善された気がしたが、わかりにくいのはシナリオに問題があるのではないかと思った。なお役者では、祖母役の三田和代、マンションの3人のオバさんの松金よね子らベテランがうまかった。
第2部 トークは三上智恵さん(映画監督)と宮城康博さん(元名護市議会議員)の対談だった。宮古・八重山に配備される自衛隊のミサイル部隊や三上さんの最新作「戦場ぬ止み」(いくさばぬ とぅどぅみ)について話された。
2人の「結論」はこの基地はダメと非暴力・不服従で「けして、あきらめない」こと、「人を信じる」ことだった。
なお対談のあいだかなり長い時間、わたくしの席のすぐ近くで坂手洋二氏が立って話を聞いていた。また終演後、根岸季衣さんが物販の売り子をやっていたが、こういう距離の近さもこのイベントのよさだ。

7月19日(日)文京シビックホールで高田馬場管弦楽団第86回定期演奏会を聴いた。
演奏曲は、1 フランク/交響詩「呪われた狩人」、2 グノー/歌劇「ファウスト」からバレエ音楽7曲、3 フランク/交響曲ニ短調だった。
 森山さんの指揮を聞くのは約1年半ぶりである。1では指揮台上の「ジャンプ」、2では指揮台上の「ダンス」も少し楽しめたので、得した気分だった。
ただ、今年はケチャ祭りには行けなかった。今回は第40回記念だったのに残念だ。来年に期待したい。

さて、次は8月30日(日)14時からの国会10万人、全国100万人大集会である。8月13日の木曜行動で聞いた話だが、婦人団体が信濃町駅前で署名を集めたところ、学会員と名乗る女性たちが次々に署名に応じてくれたそうだ。安倍の「戦争立法」は女性にとくに不人気だ。国会は9月末まで続くが、ぜひ安倍政権の息の根を止めたい。アベは辞めろ!

戦争立法の成立と独裁制のはじまり

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9月19日(土)未明 安倍政権の「戦争立法」が成立した。参議院特別委員会の審議はメチャクチャだった。
「ホルムズ海峡の機雷」「米艦に救出された日本人母子」など安倍が立法事実として公言していた根拠が野党の追求で次々に崩れ、統合幕僚長の訪米協議録が暴露されて軍事国家化が明らかになり、そのたびに中谷防衛大臣は答弁できず立ち往生し、委員長は審議をストップせざるをえなかった。そのあげく16日(水)午後の地方公聴会終了後、すぐに委員会を開催しようとしたり、17日(木)午後には、約束していた締め括り質疑はいっさい行わず、前日の地方公聴会の報告もなしで「強行採決もどき」を行った。当然採決は無効のはずなのに、19日(金)早朝2時18分に参議院本会議で強引に成立させた。
そんな状況だったので、いままでは週1-2回だったのが、9月14日(月)から18日(金)は毎夕国会正門前に行くことになった。行かざるをえない心境だったのだ(転居して千代田線で通勤することになり、国会議事堂前も霞が関も通勤途上になったこともあるのだが)。
この間ずっと天気は悪く、小雨か曇りだった。悪天候にもかかわらず人は多かった。思い出すと、9月に入り長雨が続き、台風は来るわ、東京でも地震は起こるわ、阿蘇が噴火するわと、立憲主義崩壊に天が怒ったような天変地異が続いた。
まず14日は、正門前下の横断歩道で警官隊により長時間足止めを食わされた。「開けろ!開けろ!」「通せ!通せ!」の大合唱。そのあいだ大江健三郎氏らがスピーチをしていたらしいがまったく聞こえなかった。警官隊とパイプ柵に阻まれあやうく圧死するのではないかという人の波だった。議員監視団の有田芳生氏が歩き回り、調整している姿が見えた。
その後、歩道は決壊し8月30日と同様に国会前に自由広場が出現した。

15日(火)中央公聴会が開催されSEALDsの奥田愛基さんの意見が共感を生んだ。
落語家の古今亭菊千代さんはスピーチで「奥田さんの最初の言葉は寝ている国会議員起きてください、だった。大事な公聴会、馬鹿にするなといいたい!」、「古今亭の名前で『あまり過激なことは言わないで』といわれているので、本名野口やすよで「安倍政権ただちに退陣」と主張し、かつ「お巡りさんも『もうすぐ信号が青信号に変わります』ではなく、個人で『もうすぐ政権が変わります』といいましょう」と訴え、喝采を浴びた。
また往年のフォーク歌手、中川五郎氏が「時代は変わる」という曲を披露した。
いつもの集会と比べるとサラリーマンや、明らかにOBとわかるグループが多かった。
16日(水)新横浜プリンスホテルで地方公聴会が開催された。
国会前では、スピーチをやっているかたわら、「ケ・セラ・セラ」など歌を歌っているグループ、太鼓に合わせて「ア!ベ!は!ヤ!メ!ロ!」と六拍子のシュプレヒコールを叫び続けるグループなどでアナーキーな雰囲気の空間になってきた。
この日13人もの市民が国会前の横断歩道で逮捕された。前日の15日には3人が逮捕された。北から南に渡る国会前の横断歩道を警官が通させないので、「通せ!通せ!」ともめて逮捕されたという話だった。

国会前のこの横断歩道で16人が逮捕された(写真は20日)
17日、特別委員会で強行採決もどきが行われ、雨のなか「怒りの大集会」が開催された。福島瑞穂議員は「今日は与党は締めくくり質疑をすると言っていたのにだれも一言も発言できなかった。怒号のなか5回採決を行ったというが、附帯決議を読み上げている途中でも採決していた。鴻池委員長も何をしているかわかっていなかったのではないか。委員会決議は決議もどきにすぎない。無効だ!」。辻元清美議員は「安倍総理は国民の声を切り捨て、クーデターを起こしているのに等しい」と怒りをぶつけた。
両親が学会員だったので生まれた時から学会員という公明党支持、愛知のNさんから「本来、平和の党で、人間の命を守る、戦争は絶対反対だって、そういう仏法の根幹の命をもって、公明党が誕生した。しかし、今の公明党はなんなんだ! 私たち学会員は、騙されたんだ! 私は公明党を、来年の参院選では、応援しません!」とスピーチし拍手を浴びた。
歩道に公明党の現職議員の顔写真を並べている人がいた。

東京選出・竹谷議員は来年夏が改選期だ
大学有志ののぼり旗がますます増えてきた。武蔵野美術大学や明治大学のほか、東京工業大学、沖縄大学、専修大学教職員組合、京都大学同学会などの旗をみかけた。また制服姿の男子高校生グループや、セーラー服の女子高生の姿をみつけ、少し驚いた。

帰宅してテレビのニュースで採決の状況をみてみたが、佐藤正久議員(自民)が「みんな立て、立て」と身振りで指示しているだけで、とうてい採決といえるようなものではなかった。NHKの放送ですら「何らかの採決が行われたものとみられます」などと実況していたそうだ。
18日、この日も小雨。佐高信氏は「自民に天罰を! 公明党には仏罰を!」、金子勝・慶応義塾大学教員は「1931年9月18日は関東軍が柳条湖で満州事変を起こした日だが、21世紀の今日はクーデターの日と記憶にとどめるべきだ。自民党はもはや保守政党ではなく、ファシストだ」、室井佑月さんは「これは勝たないといけない闘いだ。憲法はわたしたちのものだ。主権を取り戻さないといけない」とアピールした
集会では、核マル派や中核派もビラまきをしていた。70歳前後の男性が「宣伝ばっかりしてないで、行動しろよ」と本気で怒声を浴びせかけていた。その後ろを歩く60代半ばの人も「そうだ、そのとおり」と苦笑いしつつ、小さい声でつぶやいていた。
帰ってからというより、寝てしまってからのことだが、翌朝2時18分に参議院本会議で自公+次世代など3派は戦争法を強行採決して成立させた。
まさにクーデターが成功し、立憲主義が崩壊し安倍の独裁が始まったようにみえる。

しかし今回はこれでは終わらない、というか終われない。
9月20日(日)午後国会前に行ってみた。もうだれもいないかもと思ったら、200人くらい人が集まっていた。
沖縄の久米島の人は、17世紀の薩摩による琉球征伐と20世紀の米軍による銃とブルドーザーでの基地建設の歴史の話をした。もし辺野古新基地ができれば今後20-100年の闘争が始まる。なぜなら基地の耐用年数は100年といわれるからだそうだ。
また静岡のジャーナリストの方は「料理を注文してもしおかしなものが出てきたら「作り直してください」とか「お金を返してほしい」というだろう。これと同じで法律が成立したからといって、おかしなものは12月の施行までに廃止にしなくてはいけない。60年安保と違い、いまは市民一人ひとりが自分の足で立っている。おかしいことには声を上げよう」と訴えた。
主催者の方は「憲政記念館は、これだけ国民が集まっているのだから敷地を開放してほしい。路上の集会はいろいろ制約が大きい。たとえば電源がない。電源がないとコピーもとれない。すぐに情報を発信したいのにそれもできない」と言っておられた。なるほどたしかに、と思った。

9月20日(日)午後の国会前
9月22日、国会前で大きな集会があるというので行ってみた。てっきり反「戦争法」集会だと思ったら勘違いで反原連の「0922反原発国会前大抗議」だった。10人の政治家がスピーチしたが、菅直人・元首相は「福島のメルトダウン事故は思ったより早い時間に発生していた。14時46分に震災が発生し、17時ごろには制御棒が水面から出ていた。22時には融解した核燃料が圧力容器をメルトスルーしていた。もし格納容器から外に出ていれば、東京はいまも立ち入り禁止になっていたはずだ。なぜわからなかったかというと、水位計がときどき振れたのでまだ水があると東電の社員もわたしたち官邸も信じていたからだ」と述べた。
山田正彦・元農相は「沖縄も原発も安保も、そしてTPPも根っこは同じだ。根っこはウォール街、そして世界の多国籍企業にある」と訴えた。
安倍や政府は「国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険」としばしばいうが、まさに原発事故やTPPはこれに当てはまる本物の危険だ。これこそ優先して国民の「安全」を考えてほしいものだ。
この集会では、何人かの人から来年夏の参議院選で戦争立法に賛成した議員を落選させよう、そしてその後の衆議院選で自公を倒そうと、落選運動や政権交代を訴えた。
翌23日、地元で憲法カフェが開催された。主催は若手弁護士3人、参加したのは20人程度だった。会場は本物のカフェ、月島の南端近くのブルーバードカフェという広い店だった。憲法の基本性格や安保法案の解説のあと質疑応答があった。地方自治法ではリコールや住民監査請求があるのに、なぜ国政では制度がないのかなど、市民ができる有効な反撃策が何かないのかという真剣な討議が交わされた。

議員への落選運動以外に、司法界では弁護士や元裁判官を中心に違憲訴訟を12月末に準備中という動きもあるし、ちょうどいま来年使用される教科書の訂正申請の終盤のはずなので、この戦争法制がどのように記述されるか注視し、教科書会社に要望を出そうという運動もあるそうだ。
毎週木曜夜の総がかり行動も継続されるようだ。
闘いは、まさにこれからだ。

春画と横尾忠則

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「芸術の秋」ということで、美術展を2つみにいった。タイトルは「春画と横尾忠則」となっているが、特に両者に関係はない。しいて共通点をあげると横尾は1960年代後半「腰巻お仙/忘却編」「大山デブコの犯罪」など芝居のポスターで、浮世絵風の作品をつくっていたことくらいだろうか。

まず、江戸川橋の永青文庫で「春画展」をみた。9時半オープンなので、10分前に到着したがすでに長蛇の列だった。係員に聞いてみると、早い人は8時過ぎから並んだらしい。
春画はもちろん古代からあったのだろうが、会場には、江戸だけでなく13世紀の鎌倉時代や室町時代、安土桃山時代のものもならんでいた。
全体は3部から構成されている。1肉筆の名品、2版画の傑作、3豆版の世界、それにプロローグとエピローグが付いている。
そして狩野派、土佐派、岩佐派、菱川派など名だたる画派が描き競っている。
鳥居清長、鈴木春信、喜多川歌麿、渓斎英泉など、有名な浮世絵師の作品ももちろん展示されていた。鳥居清信の作品をみると、すべすべした肌ややわらかな体の量感が、ヨーロッパのルネッサンス期の肉体画の日本版のように見えた。
春画だから、男女の性器のアップや交接部分は「お約束」として目立つところに配置される。そのためアクロバティックな体勢の絵が多い。お約束なのだから仕方がないということか。
美術展の客はだいたい女性客が多いが、この展覧会もやはり女性のグループ客や高齢カップルが多かった。
表情までじろじろ見ると疑われそうなのでわからないが、まわりから聞こえてくる話し声は、普通の美術品をみているのと変わらない様子だった。
2部には、有名な北斎の蛸と海女(「喜能会之故真通(きのまのこまつ)」)もあった。映画「北斎漫画」(新藤兼人)では娘のお栄(田中裕子)が北斎のモデルとなり、大蛸に絡みつかれたが大きな吸盤が印象に残っている(樋口可南子だったのかもしれない)。改めてこの絵をみて蛸はじつは2匹いて、大蛸が女の下の口、小蛸は上の口に吸いついていることに気づいた。
不思議なことにいわゆる「エロっぽさ」はあまり感じない。
エロに関しては、書き入れというらしいが「グスグス」「ヌルリー」など擬音が書かれているとそれっぽくなることに気づいた(北斎の「富久寿楚宇」(ふくじゅそう)より)。文字+イマジネーションのもたらす力である。
なぜか最後のエピローグでほっとした。このゾーンは細川家に伝わる春画を展示するスペースだ。比較的すいていたからか、絵が大きかったからか、あるいはたんにソファが置いてあったからなのか、理由はわからない。歌川国貞の「艶紫娯拾餘帖」は金摺、銀摺、雲母摺に、空摺(からずり)まであるぜいたくな作だった。

永世文庫を初めて訪れたのは5年前だった。絵画、茶道具、書跡を展示するには落ち着いてよいスペースだと思ったが、こんなに人が多いと、キャパシティの点で問題があった。春画は「笑い絵」ともいうそうだ(たとえば「勝絵絵巻」の陽物比べや放屁合戦のように)。しかしこれだけ混んでいると落ち着いて見て「笑う」ゆとりはなかった。残念である。
しかしどの報道記事を読んでもそうだが、大英博物館の春画展を日本に里帰り展示するのは、大きな苦労があり、細川家の好意でやっと昨年夏開催実現が決まったそうだ。展示が決まっても東京国立博物館ではチラシを置くことすら拒否し、展覧会のグッズですら発売できるか管轄の警察署の判断待ちになっているそうだ。
ほんの一部しか見られないが、永世文庫の緑の庭園は趣があった。

東京Y字路(さまざまなY字路の写真 部分)
次に、神戸の横尾忠則現代美術館で開館3周年記念展「続・Y字路」をみた。この美術館に行くのは、横尾忠則展「反反復復反復」(2012)、「記憶の遠近術――篠山紀信、横尾忠則を撮る」(2014)に続きこれで3回目だ。
Y字路は何点か見ているが、今回の展示は最近10年以内の作品なので、作家蔵が多い。
一番迫力があるのは、チラシの絵柄にもなっている「文明と文化の衝突」だ。160センチ×130センチとサイズが大きい(もっとも180×240ともっと大きい作品もあったのだが)。Y字路の左側の道には戦闘機があり人が倒れている。右の道には奥で火山が噴火し、墓場があるが、墓の半分くらいが倒壊している。地震の直後なのだろうか。空には灰色のオーロラが広がる。真ん中のY字の部分には乳牛に座るデビ夫人がいる。その奥には6人の女性が温泉につかり、5人のギリシアの賢人がその光景を眺めている。
左右どちらの道にいっても行き詰まるので、「この温泉」で安楽に暮らそうよ、いやそれ自体が思案のしどころだとでもいう意味なのだろうか。
ちょっと似た「想い出劇場」(2007年)は、左に三島由紀夫文学館の立札、真ん中にはDOCTOR'S CARと書かれた救急車にみえる車が停車し、右には5人の美女と1匹の猿が温泉に浸かっている。その奥には「石和温泉劇場」というストリップ劇場がある。建物の側面には、なぜかミレーの「種蒔く人」が、あの帽子のまま影が映っていて、バルコニーでは三島が右手を振り上げてあの演説をしている。

横尾は週刊「読書人」に「日常の向こう側、ぼくの内側」というコラムを連載していて10月16日号ですでに212回にもなる。1年50週とすると4年以上だ。ほぼ完全な毎日日記で、しかも1週に1枚写真まで入っている。何年も読み続けているとずいぶん古い知り合いのような感じになる。不眠症やネコ(タマやおでん)は「常連」だが、絵のなかにも出てきた(たとえばスリープレスネス(2011-2012)という作品)。

東京(世田谷)、兵庫(神戸)、石川(金沢)の3美術館で行った公開制作パフォーマンスのビデオが3つのディスプレイで映し出されていた。これがなかなか面白い。金沢と世田谷では、横尾はペンキ職人の格好をして描いている。手ぬぐいを頭に巻き、チョッキとニッカポッカ姿だった。助手はヘルメットをかぶり交通整理員のスタイルで、ときどきカメラマン(これも助手だったのかもしれない)が現れたり、扇風機で画面を乾燥させたりしている。横尾はときどきディレクターズ・チェアのような椅子に腰かけで全体を眺めたりしている。サービス精神豊かというか、凝っているというか・・・。
世田谷で5点、神戸で3点、金沢で3点制作したが、その絵の実物がディスプレイの近くに展示されていて、制作途上と完成の絵の両方を見比べられて興味深い。世田谷が多いのは、おそらく成城学園の自宅から近く通いやすかったからだと思われる。

Ne pleure pas, j'ai besoin de tout mon courage pour mourir a vingt ans!という長いフランス語のタイトルの絵があった。意味がわからずスタッフの方にお聞きすると「泣かないでくれ 20歳で死ぬにはありったけの真剣な勇気が必要なのだ」という20歳のガロアが弟に残した言葉とのことだった。同じ2009年に「ガロアの家」という作品も描いているので、このころ横尾はよほど数学者・ガロアに関心があったのだろうか。
なおタイトルについては、考えてみると英訳も下に付いていて「Dont'cry! I need all my courage to die at twenty」と書いてあった。これなら理解できる。
3階には「黒いY字路」と「夜」、暗い照明のなかに黒っぽい絵が何点も続く。「見えないものを見えるように引き出す顕在能力が絵画の力だと考えてきたけれど、逆に見えるものを見えないようにすることはできないだろうかと考え始めた」という説明があり、なるほどと納得した。
横尾は神戸新聞社に勤務し新婚だったころ、神戸の青谷というところに住んでいたとカタログの年譜か何かでみた記憶があった。そこで受付で「青谷はどのあたりにあるのか」聞くと、美術館から500mほど坂を上がったあたり一面だと聞いた。美術館自体が駅から六甲山の山道なのでけっこう急なのだが、王子スポーツセンター脇の坂を上がると、小学校、市立葺合高校、神戸海星女子学院、さらにその上に松陰高校と並び文教地区のようだ。テニスコートもいくつかみかけた。もうアパートそのものは取り壊しずみでどこかわからないとのことだったが、写真に川か滝が写っていたように思うので青谷のなかでも東側ではないかと思う。帰りは坂を下りて阪急・王子公園をとおりすぎJR灘駅に出た。
冒頭に共通点がないと書いたが、両館とも坂の上の緑が多いロケーションにあった。

☆美術展ではないが、浜離宮で「東京大茶会」というイベントをみた。茶道だけでなく、書道、江戸木遣り、着物、華道、江戸木版画などのパフォーマンスもやっていた。
なかでもわたくしが注目したのは江戸手妻だった。奇術のことだが「手を稲妻の様に素早く動かす」というところからこの名がついたそうだ。演じたのは藤山大樹さん。まだ20代だが落ち着いていて、名人の風格があった。法政大学の学生時代から何度もマジックのコンテストで優勝した人だという。
演目は、面をつかったおかめ、ひょっとこ、老人などの「七変化」、衣装の早変わりも加えカラス天狗、鬼、狐などに早変わりする。きつく指をこよりで結び、柱を通す「柱抜き」、半紙を2枚、4枚、8枚、16枚と切り刻み、伸ばすとつながっている「連理の曲」の3つだった。最後は見事なクモの糸や紙吹雪で幕になる。
手妻をやるには、日舞の素養や口上、さらに当意即妙の受け答えの才能も必要なことがよくわかった。
なお大茶会には外人客がたいへん多かった。生け花は外人専用だったし着物ファッションショーも外人客が多かった。
大茶会は年に一度だけだが、ふだんから浜離宮は外人客が多い。築地市場とセットで見学するのかとも思ったが、係の人に聞くと、東京オリンピックが決まってからとくに増えたそうだ。浜離宮の庭園が日本庭園で一番だとガイドブックにでているのかもしれない。たしかに25ヘクタールの大庭園は手入れが行き届いていて、かつ見飽きることがない。

世取山洋介の「道徳科」の学習指導要領「解説」批判

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10月24日(土)午後、池袋の豊島区立生活産業プラザで第37回教科書を考えるシンポジウム「特別な教科『道徳科』の学習指導要領『解説』を読み解く」が開催された。
安倍政権が積極的に推進した道徳科が「特別の教科」として教科化され、今年3月には学習指導要領が改訂され、7月に「解説」も公表された。
来年には小学校の「道徳科教科書」の検定が行われる。しかしまだ具体的な内容や授業、評価がさっぱりわからない状況なので注目度が高い。この日は小学校から高校までの教員、道徳推進教師に任命されている方、大学で道徳教育研究を担当されている方など多数が参加した。60人ほどの比較的小さい部屋だったせいもあるが、満席で座れない人もいるくらいの盛況だった。
講師は世取山洋介さん(新潟大学)と吉田典裕さん(出版労連)の2人だった。
世取山さんの講演は、「子ども観」や「発達観」にまで立ち戻り、この指導要領「解説」のように「教育」すると子どもの自律的な良心形成は根絶やしにされるという恐ろしい結論だったので紹介する。
学習指導要領『解説』は、吉田さんの説明によると、指導要領に比べ分量が多く道徳科の場合ページ数で22倍、字数で41倍もある。しかし読んでもよくわからない。法的拘束力はないはずなのに、「正しい解釈」(有権解釈)なのでこれに従えと文科省はいうし、教科書作りでも事実上のガイドラインになっているもの、とのことだ。

「道徳科」の学習指導要領「解説」を検討する
              世取山 洋介さん(新潟大学)

1 道徳の教科化をめぐる法制論
「特別の教科」として道徳が設定された。これは、2006年に第一次安倍政権が成立させた新教育基本法2条に掲げる約20の徳目が基本になっている。この徳目を内面化することが国民としてもつべき必要な資質であるとする。
20の徳目は4つに分類できる。1 主として自分自身に関すること、2 主として人とのかかわりに関すること、3 主として、生命や自然、崇高なものとのかかわりに関すること、4 主として国や集団とのかかわりにかんすること、である。ここで気づくのは、自分の周囲の同心円ということなら3と4は逆である。人間の力を超えたものとして崇高なものがあるはずなのに、それを包括するものとして人間がつくった国家が置かれる。神のうえに国家が立つ。これはグロテスクだ。
1989年以来この構造の学習指導要領だったが、2006年に教育基本法が改訂されたときに道徳だけ条文として格上げされた。戦前、筆頭科目だった道徳と同様に、道徳がすべての教科の上に立つという含意がみられた。そこで教育基本法の国会審議の際、文科省に問いただしたところ「筆頭科目にするつもりはない」と答弁した。ところが2012年の第2次安倍政権で懸念が現実のものとなった。
安倍政権は2つのことを行った。ひとつは学校教育法施行規則を改正して、道徳を「特別の教科」にしたことだ。もうひとつは新教科書検定基準として、すべての科目で2条の道徳の徳目を教えさせることだ。俗ないい方をすると、地学を学んでどうやって郷土への愛を育てるか、あるいは物理を通してどうやって伝統と歴史を尊重する姿勢をつくるかということである。つまりあらゆる教科を通じて、特定の徳目を教育するということになる。
特設道徳の時期とは大違いだ。道徳には対応する学問分野がない。これまで教科書検定の違法性を批判する場合、使われたのは通説準拠主義だった。裁判所も通説から離れていなければ合法としてきた。しかし道徳には通説が存在しないので、国家はどこまででも踏み込むことができる。グロテスクな事態が展開しようとしている。
また評価の問題もやっかいである。これまでは科学的真理を子どもたちがどの程度理解しているかで客観的に評価できた。ところが真理かどうかもわからないものを主観的に評価し、恣意的に子どもの内面を評価しなくてはいけなくなる。教師はそんな訓練は受けていないし、教師の地位と両立するのかどうか。
教師が科学的真理を伝達する専門職から、国家の道徳をたんに配達して教え込む郵便配達人に変っていく可能性が高い。教師の「教育の自由」や教師の地位には決定的なことだ。いっぽう子どもの思想良心の自由にとっても、教師は内面にずけずけ入る危険な存在となる。子どもの自律的な良心形成の自由が侵されることになる。

2 道徳の教科化を支える諸勢力
道徳を教科化した政治的な勢力とはどんなものなのだろうか。わたしは2つあると考える。ひとつは旧文部省以来の「宗教的情操教育派」だ。特定の宗派に偏らないかたちで子どものなかに宗教的な情操心を引き起こすことが教育だとする。日本には政教分離原則があるので、特定の宗教に偏るわけにはいかない。宗教的情操とは、世の中には人間を超えるものがあり人間は絶対的に服従しなくてはならないという意味合いだ。絶対的力への帰依を利用して国家統合を図ることがねらいで、文部省は1959年以来50年以上にわたり、一貫してそれをやり続け、89年の学習指導要領は彼らなりの回答だった。
2番目は経済界の「グローバル人材」育成派である。海外への企業進出を支えるエリートづくりのため道徳が必要だと考え、国際的でありながら日本の利益を最優先し、しかも外国人と仲よくなりながらも彼らを搾取することをいとわないような人間をグローバル人材だとする。たとえば戦前の南満州鉄道のエリート人材がそれに当たる。インターナショナルでありながらナショナルで、二面性をもつエリート。一方日本国籍の多国籍企業の海外進出に熱狂する国民づくりも目指す。これが学校教育ではたしてできるのか。教育政策以上に文化政策が重要になる。近い将来出てくるだろう。現在はまだ体系的議論はできていないので、指導要領では宗教的情操教育派が圧倒している。
最後に戦争法案ができたので、志願兵制度を支える「兵士づくり」派が必ず出てくるはずだ。いまはまだ姿がみえない。

3 「解説」を読むための下地 
人格や良心について、わたくしはヴィゴツキーの心理学的定義を採用する。人格とは、外界の認識に関する固有の統合の形であり、そのうえで良心とは外界の認識に関する固有の統合の形に基づき個々人が自らつくった自らの行動を律する真善美に関する基準である。人間の力を超えたものの命令に従うのでなく、自ら独自の良心を形成し、それに従って行動することができることを前提として教育する。良心は自分の行動を律する点にポイントがある。宗教的情操のような絶対的権威を離れ自分の良心をつくれることが画期的である。社会と自然に関する科学的認識を自分のなかに内面化し、さまざまな実践をとおして基準はますます複雑化するという構造をもつ。特設道徳はそういう道を開くものだった。
たとえば陶芸家は自分の美の基準に合わなければ作品をぶっこわし、次にどうするか考え最終的に自分の基準に合うものをつくり出す。これが非宗教的、世俗的な良心形成のモデルである。
伝統的な見方として、子どもはもともと非合理的に生まれついているので、非合理的なものを子どもから追い出す、追い出す方法が教育で、そのときに大人(教師)の権威により追い出す、非合理的なものを合理的なものから追い出すという見方が根強くあった。これをどう克服するか。
対抗する見方として、子どもは生まれつき主体性をもつ。外界に働きかけて応答を引き出し、内面化することで外界を変容させる力がある。子どもの主体性を軸にして、人格を保存しながら人格への新しい要素をその上に統合することによって新しい人格をつくりあげていく、このプロセスを発達とみる見方である。
この対抗的な見方の含意として「あなたのやったことはダメなことだけど、あなたは悪くないよ」と、人格と行為を区別する。こういう叱り方はわれわれがすでに多くやっている。しかし伝統的な見方では、悪いことをやったのだから人格も悪い。だから人格をまるごと変えなさいということになる。

4「解説」(小学校)を読む
では今回の解説はどうなっているのだろう。第1章総則で「人格の完成及び国民の育成の基盤となるものが道徳性」(1p)とし「道徳教育においては,人間尊重の精神と生命に対する畏敬の念を前提に」(1p)と、はじめから畏敬の念、すなわち人間の存在を超えたものを上位におき道徳教育の基礎に宗教的情操があることを示している。しかも今回初めに述べた徳目のなかの宗教と国家の順を入れ替え、宗教を最後にした(4p)。宗教的情操を軸に道徳教育全体を構成している。
「第2章道徳教育の目標」では、「価値理解」「人間理解」「他者理解」という枠組みを設定し、人間理解では「道徳的価値は大切であってもなかなか実現することができない人間の弱さなども理解すること」(16p)、他者理解では「道徳的価値を実現したり,実現できなかったりする場合の感じ方,考え方は一つではない,多様であるということを理解すること」(17p)と書いている。彼らがいう多様性は、道徳的価値を実現するうえで、強い精神をもつか、弱い精神をもつかということだ。
「第3章道徳科の内容」で要となる「主として生命や自然,崇高なもの」について、「生命の尊さ」「感動、畏敬の念」「よりよく生きる喜び」から構成されるが、「よりよく生きる喜び」について、「人間は決して内在する弱さをそのままにはしておく存在ではなく,弱さを羞恥として受け止め,それを乗り越え誇りを感じることを通して,生きることへの喜びを感じる」(68p)と書く。この部分だけものすごく力が入っていておどろおどろしい。キーワードは「羞恥」だ。恥は、人格を隠したいときや捨てたいときに使う言葉だ。
子どもが道徳的価値を達成できなかったとき、教師は子どもに「あなたは弱い。恥じろよ!」と指導しろということだ。つまり人格を入れ替えろというメッセージである。いちばんわかりやすいイメージは特攻隊だ。死への恐怖をのりこえ、強い人間になる。死をいとわない忠義の強さ、弱さを克服し強くなるのが特攻だ。
今回の学習指導要領解説は、教科の要として道徳があり、道徳の要として宗教的情操心があり、これをもとに子どもの良心形成すべてをコントロールする。できなかったときには恥を感じさせ人格を入れ替えることを子どもにわからせるという構造になっている。したがってこの道徳教育では、非科学的になり、非歴史的になり、かつ反発達的にならざるをえない。子どもの自律的な良心形成は根絶やしにされる。
われわれには真理性や科学性を軸に教育政策に対抗してきた重要な舞台がある。これに「発達」を加えてさらに大きくする必要がある。いま、子どもの発達の見方の深部が問われている。

この後、吉田典裕さんの「学習指導要領『解説』は必要なのか」という講演があった。「解説」の説明、調査官が「解説」を活用するので教科書づくりの事実上のガイドラインになっていること、道徳科には根拠となる学問分野や科学分野がないので他の教科のような検定ができないのに「指導方法や教材については研究があるからできる」などと、はじめから「強弁とこじつけ」をしていること、検定基準・同実施細則を一部変更しいったん不合格になると次年度にならないと申請できなくなったこと、などが述べられた。
この日のシンポジウムは、質疑応答・討議が3回に分け合計1時間も時間がとれたので、道徳性や子ども観、発達観、徳目に人権や思想・良心の自由も入れるべきこと、「私たちの道徳」や道徳教科書の検定、使用義務、成績評価の問題などさまざまな角度から質問や意見が出た。
わたくしには現場の先生方の意見が興味深かった。高校教員の方から「ふだん頭髪や服装などの規律を正す指導をしている。結果として生徒が落ち着いて授業を受けられるようになった。それを道徳の授業のときだけ『多様な価値観がある』と教えるのは矛盾を感じ悩む。若い教員は『規律正しく授業を受けろ』というほうがすっきり通るという。ここに教科書が入ってくると『このとおりにやれ』というマニュアル教育になってしまう」と語った。それに対し小学校の先生から「だからこわいのだ。マニュアルどおりなら楽だが、自分で判断できない子どもが増える危険性がある。ものいわぬ国民づくりになることは明らかだ。楽に流れてはいけない。のたうち回りながら子どもたちとなにが正しいのか考えることを選ぶべきだ」との発言があった。またこれに関連して、大学教員から道徳律をみんなでどうつくるか、それをどうやったらつくれるか議論できる能力をつくる、これが道徳教育でやるべきことではないかという意見があった。
たいへんまじめなシンポジウムだった。
最後に、司会から道徳教育については批判だけでは勝負にならない、対案を出すべきである。また子どもをどう見るのかという子ども観が基礎になる、とのしめくくりの言葉があった。

安倍政権下のメディア

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11月21日(土)午後、水道橋の「スペースたんぽぽ」で第30回人権と報道を考えるシンポジウムが開催された(主催 人権と報道・連絡会)。パネリストは飯島滋明さん(名古屋学院大学准教授、「戦争をさせない1000人委員会」事務局次長)、島洋子さん(琉球新報東京支社報道部長)、永田浩三さん(武蔵大学教授、元・NHKプロデューサー)、松元千枝さん(ジャーナリスト、レイバーネットTVキャスター)の4人、司会は浅野健一さん(人権と報道・連絡会世話人)だった。

シンポジウムは、1巡目は1人15分くらい、2巡目は10分くらいで、休憩をはさんだ後、会場からの質問も含めたディスカッションという手順で進行した。
今年のテーマは「戦争法案と報道」だったが、配布資料には、9月18・19日の朝日、毎日、読売、東京新聞の記事や社説が出ていたが、この日の討論ではあまりそういうテーマの話にはならなかった。安倍政権下の新聞・テレビ、もっと広くいうと「権力とメディア」というようなテーマで進行した。
わたくしには島さんと永田さんのお話のインパクトが強かったので、それらを中心に紹介する。

島洋子さん
辺野古のボーリング調査が始まって半年ほどたったころ若手記者の勉強会があった。終了後の懇親会で「なぜ東京では、海上保安庁のカヌーの人たちへの暴力を映像で流さないのか」と30代のテレビニュースのディレクターに聞くと「ぼくらの局では、海保を悪者にする報道なんかできませんよ」と答えた。カルチャーショックにも似た驚きをおぼえた。
今年6月、沖縄の2紙(琉球新報、沖縄タイムス)は自民党の勉強会で攻撃を受けた。沖縄の世論はなぜ歪んでいるか」という議員の問いに、国民的作家といわれる人物が「つぶさなあかん!」と答えた。それ以外にもいくつか間違ったことを述べた。たとえば「もともと普天間基地は田んぼのなかにあった」「普天間の軍用地主は六本木ヒルズに住んでいる」「米兵より沖縄人のレイプのほうが多い」などだ。
わたしはまたか、と思った。基地問題で地元の反対が大きくなると政府与党は沖縄のメディアを攻撃する。1997年に米軍基地の借用期間を延長する手続き変更で沖縄の世論が高揚したとき、国会で「沖縄の2紙は普通の新聞ではない」「沖縄の心は新聞にマインドコントロールされている」という発言があり、産経新聞には「報道姿勢問われる地元紙」というトップ記事が掲載されたことがあった。それに対し、当時の編集局長名で「偏向報道批判にこたえる」という記事を出した。「批判は自由だが、基地問題の背後にあるものを見ず、耳を傾けないまま地元紙を批判する報道姿勢を問いたい」というものだった。
その後も新聞批判はたびたび起こった。
とくに安倍政権になってから、昨年12月の選挙報道への「公平中立な報道要望」にみられるように、自民党議員の間に「メディアを支配下に置ける」という自信が広がっていることを感じる。そのくらいメディアはなめきられている。
沖縄の2紙は、たしかに住民に比重をおいている。そうしなければ大きな権力に対し、力の弱い沖縄の人の声を届かなくなる。地元紙としては、地元の利益になる報道をしてこそ沖縄の人の支持が得られると思う。
今年5月17日に3万5000人集まった「辺野古新基地建設反対」の県民大会を報じる沖縄の新聞紙面は2頁見開きの大きな記事だが、お見せする。東京の記者には異様にみえるかもしれない。
しかし今後も沖縄の人に寄りそう報道を続けていきたい。

永田浩三さん
島さんの感動的な紙面とは逆のひどい紙面を紹介する。読売新聞11月15日の「私達は、違法な報道を見逃しません。 放送法第四条をご存知ですか?」という意見広告だ。これはニュース23が放送法違反だという意見広告だ。パリで大事件が起きていたさなかのことだ。
NHKのどこがひどいのか。政治ニュースである。たとえばTPP交渉妥結直前のニュースで政治部岩田明子記者は「日本政府がいかに頑張ったか」を延々と述べた。
さらに8月14日の戦後70年安倍談話の日、NHKはまず18時に記者会見を中継し、談話を垂れ流した。次に7時のニュースは「安倍談話を評価する」というものだったが、岩田記者が「これまでの談話を踏まえた、いかにすばらしい談話だったか」ということを語った。岩田記者は安倍の「番記者」としていつもでてくる。さらに9時のニュースでは、なんと安倍自身をスタジオに招いた。安倍は「対話」ができない人物なので、一方的に「自説」を開陳し拝聴するだけの番組となり、時間は40分にも及んだ。つまりNHKはジャックされたということだ。世間では「アベチャンネル」という言葉もある。
先日籾井会長が記者会見で「アベチャンネルと呼ばないでほしい」と述べた。そんな番組をつくるからだといいたい。
今年3月クローズアップ現代の「出家サギ」報道でNHKの第三者委員会の中間報告が出た後、自民党の川崎二郎・情報通信戦略調査会座長がNHKとテレビ朝日を呼びつけ、その後高市総務大臣はNHKに「厳重注意」を発した。まだ中間報告の段階の時期であったにもかかわらずだ。これに対し11月6日BPO(放送倫理・番組向上機構)が意見書を出した。BPOはNHKと民放が設立した自らを律する機関である。番組に対しては放送倫理違反と断じたが、一方自民党や政府のふるまいを厳しく批判した。放送法1条には「放送が健全な民主主義の発達に資するようにする」とあり、3条には「放送の自律」をうたっている。戦時中、大本営発表の記事を垂れ流し報道した反省を踏まえ、公権力と放送が結託しては断じていけないというのが放送法の精神だ。
「放送の不偏不党、真実及び自律を保障することによつて、放送による表現の自由を確保する」(1条)、ややわかりにくい表現だが不偏不党と自律を保障するには公権力が介入してはいけない、つまり公権力を縛るものなのだ。これを非常に狭く解釈し「放送局は不偏不党でなければいけない」と誤読しているのが自民党なのである。深刻な事態である。

2巡目の発言のなかで、2人はこう述べた。
島さん 沖縄の基地問題について官僚や政治家に必ずいわれることがある。ひとつは「沖縄は基地で食っているんでしょう」である。これは「少々、我慢すればよい」ということを含んでいる。しかしじつは県民総所得のうち基地収入は5%弱に過ぎない。しかもそのうち7割は、日本政府の思いやり予算による軍用地の賃借料や基地従業員の給料なのだ。逆に、基地の負担や騒音や危険を背負っている。「基地で食っている」という論は都市伝説にすぎない。
もうひとつ「尖閣が沖縄にあるのだから地政学的に仕方がない」「中国に攻められてもよいのか」というものだ。そういう人に「普天間が返還されると、沖縄の基地負担がどのくらい減ると思うか」と聞くと、報道関係者も含め3割とか5割と答える。正解は73.8%が73.4%に減るに過ぎない。あの少女暴行事件が起こって今年で20年たつが、いまだに0.4%ですら負担を解消させていない。メディアはその事実を報道しない。防衛省に「在日米軍の抑止力」をいわれると、何もいわずなにも考えない。それなら「在沖米軍の抑止力とはそもそもいったい何か。0.4%減ると中国に攻められるというなら抑止力などそもそもないということではないか」。疑問をもって検証しようとしない。メディアの怠慢である。
永田さん
MBSテレビのドキュメンタリーシリーズ「映像 '15」「なぜペンをとるのか~沖縄の新聞記者たち」のなかで琉球新報の松永勝利政治部長は「沖縄の新聞記者は先輩から学ぶのではなく、沖縄戦体験者から記者のありようを教えてもらう」と語った。感極まって涙を流した。ハートのある政治部長で、NHKとはまったく異なる。今年6月の自民党の攻撃に対し、沖縄の2紙の報道局長が連名の共同抗議声明を出した。沖縄タイムスの局長は「「形式的な公平はまったく意味がない。米軍の圧倒的な力の前で、新聞は声をあげられない人のため、弱い人の立場に立ち記事をつくる」とインタビューのなかで述べた。テレビも同じであり、弱い人の立場に立つことは番組づくりの基本のキである。

飯島さんは、ジャーナリズムが「社会の木鐸」「権力の監視」を果たしていない現状を批判し、女性誌編集者が「新聞記者がおとなしいから、女性誌がやらざるをえない」と述べたエピソードを披露した。さらに表現の自由が民主主義にとってかけがえのない価値をもち、それが憲法学の基本的考え方であることを述べた。また戦争法廃止に向けた2000万人統一署名やいま進んでいる4つの裁判準備について説明した。

松元さんは「戦争法の国会審議で重要局面が何度か中継されず、たとえばテニスの試合が放映されていた。意図的に国民に報道しないようにしているとしか思えなかった。さらにインターネット国会中継はあるがパンクしていたことがあった。そのとき傍聴者の市民がツイキャスで中継してくれてとてもありがたかった。市民がこの新聞のこの記事、この記者を支援することも政府への圧力になる。「本当はメディアは市民のもの」という自覚に立ち、読者が圧力をかけることも必要だ」と述べた。

最後に、戦争法廃止に向けてどう闘うかという質問に対し4人のコメントがあった。
飯島さん まず来年の参議院選により戦争法廃止に追い込んでいく。一方裁判を支えていく。
島さん 沖縄にこれ以上新しい基地がつくらせないことを考えながら報道していくこと、もうひとつは、政権に対し「違う」といい続けるメディアがあることをもっと広く知らせる努力をすること。現場で地道に日々報道していくことだけだと、現場のものとして思う。
永田さん この夏の大きな宿題は、立憲主義、平和主義、民主主義の破壊を座してみていてよいのか、ということだ。メディアは、異を唱えるどころか下手をすると推進役になってしまう。では来年夏の参議院選でどういう旗を掲げるか、「立憲主義を取り戻すこと」「民主主義を健全なものにすること」だ。その背景に新自由主義の横行があるが、ただ新自由主義に反対すれば民主党も維新も脱落することは明らかだ。しかしそういう人も含めて束にならないと安倍政権は倒せない。くやしいが、今回はハードルにはしないことが大事だと思う。いやだが、そう思おうとしている。そのときメディアが仲間になってくれないとダメだと思う。手がかりはシールズを中心とする若者たちだ。ここに希望をみつけ、ゆるやかな連帯をしていきたい。
松元さん 脱原発裁判で、脱原発のTシャツを着た人が傍聴を規制された、それだけでなく国会議員会館への入場も止められた。この種の問題を取り上げられるのは、インディのメディアや海外のメディアだろうと思う。小さな闘いをみんなに知ってもらうことが重要だ。ただ大手メディアには力があることは否定しがたい事実だ。市民が寝返らず、大手メディアを利用しながら運動を展開すること、理想かもしれないが、役割分担して共闘して勝利できるとよいと思う。インディは力は小さいが、声をかけてもらえば大きい運動にできるかもしれない。ともにがんばりましょう。

その他、人報連・世話役の山口正紀さんから司法や司法記者クラブの問題についてアピールがあった。
「フリーのジャーナリスト42人が原告となり、秘密保護法違憲無効訴訟を起こした。毎回大きな103号法廷が満席になった。判決は「違憲かどうかは判断しない」という門前払いだったが、これだけ集まったせいだろうが、予想に反し7回も口頭弁論がひらかれ何人もの原告が陳述した。しかし何度も要請したのに大手メディアは一度も報道せず、判決のみベタ記事で出した。しかも判決のときひどいことが起きた。開廷前撮影を裁判所が認めなかった。ところが記者クラブには認めた。あまりにひどい差別なので原告の一人が抗議し説明を求めたが、裁判長は「説明する必要はない」と言い放った。そして「写りたくないから退席する」と抗議の意志をこめて何人かが退席したが、そのことにも大手メディアはいっさい触れなかった。癒着も著しい。
秘密保護法国会靴投げ裁判でも同じだった。傍聴者全員を鉄柵の前で身体検査する「暴力法廷」で、なんども司法記者クラブに取材を要請した。やっと一人だけ来てくれたが「書けない」「記者クラブとして裁判所批判はいっさいできない」と言った。判決批判どころでなく、入場問題ですら書けないのが実態なのだ。
この裁判の控訴審はたった1回、1時間程度で結審となった。福島瑞穂、海渡雄一らの証人調べも却下、学者の意見書も却下され、理由を問うと「理由の説明の必要なし」と述べた。思わず、税金泥棒と叫んだ。
こんなことになっているのに裁判所批判の世論が盛り上がらず、国民が裁判所を信頼しているのはメディアが報道しないからだ。「こんなひどい判決」「こんなひどい訴訟指揮はない」とは絶対に書かない。

また司会の浅野さんから、ご自身の地位確認訴訟についてアピールがあった。

☆12月9日深夜、「少女たちの再出発 ヘイトスピーチを乗り越えて」(制作統括:東條充敏、ディレクター:宣英理)が放映された。2009年12月に京都の朝鮮初級学校に押しかけた在特会らのヘイトスピーチで傷ついた2人の少女の6年後を描いたドキュメンタリーである。あのNHKですら、こういう立派なディレクターがいてすばらしい番組がつくれるのだ。
シンポジウムで永田さんは「NHKには、いいネタ、いい番組をつくると尊敬される企業文化はまだに残っている」と述べたが、たしかにそういう側面はあるようだ。

復活した多田謡子反権力人権賞

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12月19日(土)午後、連合会館で第27回多田謡子反権力人権賞の受賞発表会が開催された。
昨年の多田謡子反権力人権賞の報告記事のタイトルは「多田謡子反権力人権賞の活動休止」だったが、7月ごろ「活動継続」のうれしい知らせが届いた。ある故人の方から多額の寄付の申し出があり、それをもとに継続が決まったとのことである。また正賞の「私の敵が見えてきた」も出版社(編集工房ノア)の好意で増刷できたそうだ。世の中捨てたものではない。たまにはこういう想定外のことも起こるのだから。運営委員の方たちのなかで、安倍政権が続いているのにこの賞が中断するのはくやしいという話があったそうだが、継続できて本当によかった。
さて復活第1回の受賞は3人、斉間淳子さん(八幡浜・原発から子どもを守る女の会)、方清子(ぱんちょんじゃ)さん(日本軍「慰安婦」問題・関西ネットワーク(関西ネット))、山城博治さん(沖縄における平和運動)だった。今回は田畑和子さん、土肥信雄さん、希望の牧場、市民の意見30など、権力と粘り強く闘う草の根市民運動の14団体・個人から選ばれたとのことだ。

この日の発表会で、斉間さんは残念ながら体調不良と中心メンバーを偲ぶ会開催準備のため欠席だったが、代わりにビデオレターが会場に流された。

伊方原発反対の闘い
              斉間淳子さん

                (写真はビデオレターより)
伊方原発は活断層である中央構造線からわずか8キロの地点に立地する危険な原発である。斉間さんが住む八幡浜から10キロの位置なので地元の反対者として毎月ゲート前で座り込みを行い続けている。
斉間さんは夫(故人)が原発反対運動をしていたことから、女性の会もと1988年2月に「八幡浜・原発から子どもを守る女の会」を結成した。3.11のときには、「伊方も事故が起これば福島と同じようになる。帰るふるさとがなくなる」と激しいショックを受けた。そして毎月11日に伊方原発ゲート前で座り込みを続けている。はじめは2人だったが、いまでは大阪、神戸からも参加者が集まり25人、50人と輪が広がっている。原発の現地、あるいは周辺の住民が「原発反対の人が現地にいる」と言い続け、知らせることが重要だと考えているからだ。そこで八幡浜市長や県知事が伊方原発再稼働に同意したあと今年11月から1か月、住民投票実施運動も行った。1か月の長丁場は疲れたが、市民が自分の声を届けたいという気持ちが伝わってきたからやってよかった、と語った。

日本軍「慰安婦」問題解決のための闘い
                方清子(ぱんちょんじゃ)さん

昨日(12月18日)やっと橋下徹市長が退任した。橋下市長は2013年5月「戦場に慰安婦は必要だった」と取材で答えた。
さすがに大阪市民も黙っておらず、1か月で1万件もの抗議が届いた。橋下さんはこの1年前から「河野談話は最悪」「強制連行の証拠はない。もしあるなら韓国側が出せばよい」など「慰安婦」否定発言を繰り返していた。それで元「慰安婦」が「私が証拠だ」と市長に会おうとすると、登庁すらせず門前払いを食わせようとした。
その後面談を申し入れた矢先にこの発言が報じられた。メディアが注目したので「被害者に会う」と言った。しかし橋下自身の名誉回復のためのパフォーマンスであることがみえみえだったので、直前だったが被害者の意志として面談は拒否することにした。するとネトウヨからの攻撃がすさまじく、1年半後のいまでも続いている。
安倍政権が成立してから状況はさらに難しくなった。国会のなかで被害者へのヘイトスピーチが吹き荒れ、河野談話は間違い、河野氏を召喚しろという要求や検証作業を行ったりしたが、結局何も出てこなかった。
2015年は戦後70年で、安倍は70年談話を発表したが「慰安婦」問題には一言も触れなかった。「女性の心によりそう」などと、加害者意識が皆無の、他人事の言葉がみられた。また談話のなかに「あの戦争には何ら関わりのない、私たちの子や孫、そしてその先の世代の子どもたちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません」という言葉があった。相手が謝罪を受け入れていないのに加害者が一方的にこれ以上謝罪を繰り返さない、これで終わりにすると一方的に宣言する。こんなバカげた話がどこにあるのか。あきれた。

朴 裕河(パク・ユハ)さんの「帝国の慰安婦」問題について一言触れたい。日本でも言論弾圧、研究の自由との抗議声明が出された。しかしわたしの見方は違う。私見を述べる。この問題を訴えたのは被害者たちだ。間違った事実、たとえば「日本軍と同志的関係」「疑似家族の役割」「恋愛関係」「強制性はなかった」「日本国家の責任というより業者の責任」という記述によって被害者が尊厳を傷つけられたと受け止め、訴えているのだ。知識人の声明には「被害者を傷つけるものではない」とあるが、わたしは「そんなことをあなたたちが判断していいのですか」と問いたい。「日本社会の劣化」がいわれるが、反安保などでいっしょに行動してきた人や信頼してきた人から「慰安婦」問題に対し違う見方が出るのはとても危険な動きだと思う。被害者の声や事実を正面から見据えるのでなく、問題をずらしずらしていくのは、権力の意図が別の方向にもじわじわと広がりつつあるのだと思う。
「慰安婦」だったと名乗り出た人は289人、いま生存者は46人だけだ。冬の間に亡くなる方は多いので、一刻も早い解決を望む。ただ妥協はありえない。そこでわたしたちは「提言」を出した。まず責任を認め、必要な措置をとることだ。具体的には、日本政府および軍が軍の施設として「慰安所」を立案・設置し管理・統制したこと、女性たちが本人たちの意に反して、「慰安婦・性奴隷」にされ、強制的な状況の下におかれたことなどを認め、公式に謝罪し、賠償し、調査やヒアリングをしたうえでさまざまな再発防止措置を実施することだ。日本政府はじつは河野談話以来、20年間一度も調査をしていない。
政府を動かせるのは市民一人ひとりの力である。一人ひとりが置きざりにされた被害者のことをしっかり胸に刻み、すべての被害者が亡くなる前に解決することがわたしたちの課題である。

沖縄における平和運動
                山城博治さん
山城さんが登壇すると、まず拍手と「お帰りなさーい」の声、「東京からたくさん心配する声が聞こえてくる。このとおり元気になったことを、まずお伝えしたくて」と第一声を発すると「ワーイ!」という歓声と拍手が会場いっぱいに広がった。

4月20日、「悪性リンパだ、それも末期」との診断が宣告された。即入院することになった。困ったと思ったが、8月20日に退院するまでにリーダーがたくさん生まれ、運動は強くなる結果となった。大衆運動はすごいものだ。10月4日には辺野古の現場に復帰し、11月には東京から機動隊が来たので早朝行動にも参加するようになった。
方(ぱん)さんの講演を聞いて、「慰安婦」問題も沖縄の問題も政府の対応は根本的に同じだと思った。過去の問題に責任をとらない。言いくるめて逃げようとする。これがすべてだ。20万が死んだ沖縄戦、14万の県民が死んだ沖縄戦について一言の謝罪もない。慶良間で起きた強制死、捕虜にされた住民の斬殺などさまざまな事件が隠ぺいされている。
2013年1月翁長現知事(当時那覇市長)を先頭にしたオスプレイ配備反対のデモ隊が数寄屋橋にさしかかったとき、在特会を中心とするグループが「非国民」「帰れ」と激しいバッシングの言葉を投げつけてきた。日本政府が責任を隠し、それを明らかにしようとするとヘイトスピーチにあう、そうした沖縄の歴史や現在の立ち位置を考えあわせ、このとき知事は、沖縄の自民党が東京の自民党の支部である限り、沖縄は救われないと認識し、決意したのだと思う。
政治家は、語る言葉に熱をもたないといけない。知事が庶民の立場に下りて言葉を紡いでいる。だから納得でき共感できる。「県民の魂の飢餓感」とか、政府が普天間の固定化といったとき「政治の堕落」といった。すごい表現だ。翁長さんの言葉を聞くと全身の毛が総立ちする。知事ががんばっている。だから辺野古の現場もがんばる。
翁長さんと対極の位置にいるのが島尻あい子大臣だ。島売りあい子ともいう。沖縄・北方担当大臣でありながら「沖縄振興予算は辺野古とリンクしている」という。唖然とした。昨年は「海の行動は刑特法、ゲート前は公務執行妨害で全員逮捕しろ。事前弾圧ができないかと警察に検討を要請した女性だ。権力に媚を売って大臣になる。政治は絶望だ。島を売り島を買って大臣になる。悪徳政治家の見本のようなものだ。
わたしは高校生のとき学生運動をしすぎて退学処分にあった。人生を変えた本は五味川純平の「人間の條件」「戦争と人間」だった。その前に新川(あらかわ)明、川満信一の「反復帰論」に強い影響を受けた。沖縄は差別されているが委縮する必要はない。沖縄の独自性を大事にし、自信を持とうというものだ。
五味川の本を読み、沖縄戦だけでなく戦争の醜さ、悲惨、悲劇を感じ、日本の戦争を総体としてみることができた。
いま戦争が向こうからやってくる。政府がなだれを打って戦争へ走ろうとしている。「やはり戦争はダメだ」という思いや情念がないと立ち向かえない。
宜野湾の高台に立つと、読谷に上陸した米軍が上がってきた道がみえる。かつて17、18歳の少年兵がアメリカ軍のT戦車に自爆攻撃をし、一晩で34台もの戦車を破壊した。しかし200人の少年が死に、高台から東シナ海にそそぐ川は死の川となった。地獄のような戦争だ。だから「二度とやってはならない」と思い、辺野古に新基地ができるとまた同じことが繰り返される、させてはならないとみな歯をくいしばってがんばっている。

いま沖縄では3本柱で闘っている。翁長知事の政府との裁判闘争を支えること、2016年1月の宜野湾市長選に勝つこと。宜野湾で勝ってはじめてオール沖縄が成立する。そして辺野古の現場は現場で、団塊世代を中心にがんばることだ。12月14日に「辺野古新基地を造らせないオール沖縄会議」も立ち上がった。
ゲート前には団塊世代がひしめいている。戦後生まれの団塊世代は戦後憲法を学び、武力でなく外交で処理しないといけないという教育を学び、平和憲法を実践した世代だ。肉体は衰えたといえども心は変わらない。「翼をください」を歌いながら嬉々としてラインダンスを踊っている。われわれの世代こそ最大の平和の砦であり、わたしたちが崩れたら後はない。われわれが越えられたら後はない。だからがんばらないといけない、こういう決意でやっている。
また全国から支援に来てくれている人に感謝したい。いまは九州の自治労からも人が来てくれている。労働者が動き出した。初期のころ、沖縄を痛めつけている本土の人間として沖縄に来るのは勇気がいると話す人もいた。しかし「みなさんのように理性、知性、愛情をもって沖縄と接してくれる人に遠慮はいらない。堂々と来ていただきたい、そして語り合いましょう」と言っている。
明るく闘おう。座れば勝てるのだから。東京の皆さま、力を貸してください。

なお、このサイトにライブの動画がアップされている。

母と暮せば

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丸の内ピカデリーで「母と暮せば」(山田洋次 松竹 2015)をみた。
この映画館にははじめて来た。ここだけが1月下旬までフィルムで上映していると聞いたからだ。「この作品はフィルムで撮られたので、色彩と音がきれいだ」というようなテロップが流れた。スクリーンの大きい映画館だった。
この建物には松竹と東宝と朝日新聞社のマークが付いている。かつて朝日の本社があったことは知っていたが、いまも11階に朝日ホールがある。おそらくいまでも土地のオーナーなのだろう。

これまでの山田映画になかったこととしてCGの利用があった。冒頭のインク壺が原爆でグニャリと歪んだり、死者の世界の描写なのでレコードが宙を舞ったり、ハタキがポタリと畳に落ちたりだったが、それほど不自然ではなかった。
ただ死の瞬間や葬儀の際に、雲の階段を母と息子(吉永小百合と二宮和也)の2人が上って行くのはどんなものだろうか。たしかにだれも体験したことのない世界だからひょっとしたらこうなのかもしれないが、ちょっとウソっぽかった。「おとうと」(2010)で鶴瓶が亡くなる際、たしか石田ゆり子が「鉄ちゃん、もう楽にしていいのよ」」と声をかけるシーンのほうがリアルだった。
CGではないが、幽霊は母と子どもにだけは見えるというのは妙にリアリティがあった。

役者では「上海のおじさん」役・加藤健一がよかった。たとえばこまつ座の芝居でいうと、いまは亡きすまけいのようなコミカルな役だった。こういう役もできるということがわかった。また復員局長崎出張所の職員役・小林稔侍も、静かな演技、しかし左手先がない傷痍軍人として好演していた。

ディテールへのこだわりがすごい。でてくる料理でいうと、たとえばイワシの塩焼き、とろろこんぶの三角おにぎりなど、昭和23年の食事というといかにもこんな感じだったのだろうと思った。「プログラム」で知ったことだが、建具やふすまの柄がいまとは違うので一から作ったとか、布団の柄も違うので当時の布を探して布団屋さんに作ってもらったり、助産婦かばんは京都の博物館から借用したとか、並大抵ではない。中に入っているハサミなどの医療器具も専門書をみてつくったそうだ。
音楽に触れないわけにはいかない。
坂本龍一作曲の静謐な弦楽合奏の曲、ラストの合唱曲「鎮魂歌」はもちろん印象深いがそれだけではない。町子(黒木華)が生徒たちに囲まれてオルガンで弾く「背くらべ」。情景は「母べえ」(2008)で、吉永が国民学校で弾いていたのと同じだ。しかし曲が戦前の天皇奉祝日の式の歌だった。戦前と戦後の違いが表れている。また「背くらべ」は男はつらいよ12作「私の寅さん」で前田武彦と寅さんが「柱のきずはキリギリス、5月5日のキリギリス」と替え歌で歌っていた曲だ。
旧制山口高校の寮歌や「わたしのラバさん」も流れた。メンデルスゾーンのバイオリン協奏曲1楽章(独奏はメニューイン)は、町子が浩二の部屋で二人で聞き、町子が黒木と結婚するきっかけになった曲でもある。
山田監督には珍しい純愛のラブロマンス作品であり、また原爆や戦争で死んだ人々への鎮魂の映画である。「原爆は運命じゃない、悲劇よ」という母のセリフが印象的だった。戦後70年の年、戦争法成立の年に完成したことは意義深い。
なお松竹創業120周年記念の映画でもある。

この映画館で「山田洋次×井上ひさし展」のチラシをもらったので、市川市文学ミュージアムまで行ってみた。
本八幡の駅から徒歩15分ほど、産業科学館、ゴルフセンター、テニス場、商業施設などの一角にあり、映画館では「母と暮せば」も上映中だった。中央図書館の2階にあるのだが、かなり広い平面式の図書館だった。
井上は20年ほど市川の江戸川に近い下矢切に住んでいたので、このミュージアムではもともと井上の書籍や資料をずいぶん集めていた。

展示では「母と暮せば」の小道具や衣装、藪野健さんのイメージスケッチが並んでいた。母の診察かばんやハサミなどの道具は映画にも出てきたが、昭和23年7月からの妊婦診察録やそのなかの妊婦名簿もあった。山口高等学校の旗もあったが東京鴻南会と書かれていた。調べてみると同窓会の名前(ただし2015年5月に解散)だったので、本物をOBの方からお借りしたのだろう。
原爆の記録で「教授遺族の手紙」というページがみえた。文章までは読めなかったが、川上教授死亡のエピソードはこういうものから取られているのかもしれない。

山田監督関係では、わたくしは初期の「二階の他人」(1961)、「運が良けりゃ」(1966)のポスターをはじめてみた。「運が良けりゃ」で、早くも渥見清と倍賞千恵子が共演していた。

1階の図書館で、久しぶりに「父と暮せば」のシナリオ(新潮文庫)を読んでみた。「うち生きとるんが申しわけのうてならん」「なひてあんたが生きとるん。うちの子じゃのうて、あんたが生きとるんはなんでですか」というセリフは「母と暮せば」と共通だ。ただ映画と戯曲の違いもあるのだろうが、突っ込み方やこだわり方のレベルがずいぶん違うように感じた。たとえば「父と暮せば」では「うしろめとうて申し訳ない病」と父が娘に名づける。また恋人・木下は原爆瓦や原爆資料をたくさん美津枝(みったん)の家に預けるという設定になっている。亡くなった親友は「モンペのうしろがすっぽり焼け抜けとったそうじゃ。お尻が丸う現れとったそうじゃ。少しの便が干からびてついとったそうじゃ・・・」。「母と暮せば」にも町子の親友で亡くなった女学生がいたが、ここまで迫力のあるシナリオにはなっていなかった。
わたくしは1994年の初演、梅沢昌代とすまけいのときに見たが、終演後天井のライトがつくと泣いている人が多数だったのをよく覚えている。
黒木華は「小さいおうち」などで、いい役者であることは知っているが、こんなに大きなショックを受けた女性の役をやるには、梅沢と比べるとまだまだキャリア不足であると感じた。

3月12日公開の「家族はつらいよ」の資料がいくつか展示されていた。妻が離婚を切り出すシーン、シナリオの10-11p目が開かれていた。また離婚届(小道具)があったが、それによると住所は青葉区美しが丘2丁目、年齢は夫が現在74歳、妻が71歳、結婚48年目という設定だった。山田監督の21年ぶりの喜劇ということだが、期待できそうだ。  

馬場管のカルミナ・ブラーナ

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1月16日(土)午後、ミューザ川崎シンフォニーホールまで高田馬場管弦楽団の定期演奏会を聞きに行った。他県まで出かけるのは2013年7月に川口のリリアに行って以来だ。それも今回は有料で3000円もするというのにぜひ見に行きたかったは、カルミナ・ブラーナを生で聞けるからだった。
この曲はもう30年近く前になるが、名古屋の名曲喫茶でたまたま聞き、スピーカーが超大型だったせいもあったのだろうが、曲の「迫力」に驚き、それ以来テープに録音して毎日のように聞いていた時期がある。

ステージをみて驚いた。バイオリンの後方にグランドピアノが2台もあり、その左にチェレスタまであった。また打楽器群も銅鑼やチューブラーベルは曲によりあるが、木琴、鉄琴、さらに資料をみると鐘、鈴、ラチェットまで出てくる。ティンパニーはなんと6台もある。演奏中にみると1人でやるわけではなく2人でたたいていた。どのように演奏するのかと思ったら、1人は1台だけたたいていた。

有名な1曲O Fortuna(おお、運命の女神よ)、2曲Fortune plango vulnera(運命に傷つけられ)だけでなく、5曲Ecce gratum(そら、ご覧!)、7曲Floret silva(光り輝く森)、10曲Were diu werlt alle min(世界中が全て俺の物だったとしても)、11曲Estuans interius(激しい怒りを)、22曲Tempus es iocundum(今こそ愉悦の季節)など好きな曲が次々に出てきた。
生で全曲通しで聞いてみて、楽器編成が大規模というだけでなく、かなり複雑・多様な構成になっていることがよくわかった。オケとピアノ、オケと合唱、合唱も男声、女声、混声がある。テノール、バリトン、ソプラノなどの独唱、さらに児童合唱まで組み合わされている。オケも、ファゴット、フルート、クラリネットなどさまざまな楽器のソロも出てきた。打楽器もティンパニー、サスペンド・シンバル、トライアングル、鈴、ラチェット、タンバリン、カスタネット、大太鼓、小太鼓、シンバル、鐘(チャイム)、銅鑼、木琴、鉄琴と多彩である。

いわゆる西洋音楽のメロディだけでなく、たとえばブルガリアやグルジアなど東欧の民族音楽風のメロディや、ケチャのような掛け合いもあった(たとえば19曲Sipuer cum puellula(もしも若者と若い娘が))。本来はバレーをともなう楽曲だというのだから、まさに綜合芸術である。実際に2014年4月新国立劇場で上演された(振付:デヴィッド・ビントレー)。
なおオルフは幼児音楽教育もやっていて、オルフ楽器というものも作ったとか。

わたくしは森山崇さんの大ファンだが、この日の指揮は横島勝人さん。ところが1曲目の有名な「運命の女神よ」の冒頭、大太鼓の「ドカン」が鳴ったところで気がついた。なんと森山さんが大太鼓をたたいていたのだ。その後も8曲「小間物屋さん、色紅を下さい」の鈴、13曲のスタンドシンバル、20曲のタンブリンなど、要所を締めておられた。この点だけでもわたしにとっては満足できるコンサートになった。

カルミナ・ブラーナ以外に演奏されたのはショスタコーヴィチの交響曲第9番とヴェルディのオペラから合唱曲3曲(「ナブッコ」の「行け、我が思いよ、黄金の翼に乗って」、「椿姫」の「乾杯の歌」、「アイーダ」の凱旋行進曲)とどれもポピュラーな曲で、楽しかった。とくに凱旋行進曲では、会場3階の両端に、馬場管の売り物・トランペット部隊のバンダが各4人そろってみごとだった。女性も2人いたが、ノースリーブの衣装がカッコよかった。オペラの曲はあまり馬場管らしくないのだが、大変楽しい演奏だった。また横島さんが日ごろ指導している合唱団(フロイデ・コーア・ヨコハマ)なので、メリハリがよくきいた合唱指揮だった。
なおプレコンサートとして、「笑顔の向こうに」「しあわせ運べるように(福島バージョン)」の2曲が児童合唱で披露された。

馬場管のコンサートには20年以上通っているが、有料なのははじめて、しかも席が3000円とアマチュアとしては高額なのに3階席のはずれで、「これはないだろう」という席だった。舞台を上から見下ろす感じだった。こんな角度から見たことはなかったが、ただひとつよかったのは、指揮者の指揮台上での動きがよくみえることだった。森山さんの指揮をこの角度から見られればきっと楽しいと思う。

ミューザ川崎シンフォニーホールは2004年7月オープン、約2000席のホールだ。
神奈川県にあるのになぜか東京交響楽団がフランチャイズホールとし、年に5回ほど川崎定期演奏会として利用している。

神話の国・宮崎への旅

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早春の宮崎・鹿児島方面に旅に出た。
宮崎の商店街では「宮崎 神話のたび」という古事記編纂1300年記念キャンペーン(宮崎市観光協会)のステッカーがたくさん吊り下げられていた。

ニニギノミコトがアマテラスの命で天下った(天孫降臨)高千穂はたしかに宮崎県にある。ただ高千穂は県北西部と南西の霧島と2つある。わたくしはこのことを「初国知所之天皇」(はつくにしらすめらみこと 1973原將人)で知った。どちらが本物かといっても、なにしろ神話の時代の話だから正解はないのだが・・・。
古事記編纂1300年記念というと2012年からもう4年も続けているようだ。もっとも古事記や太安万侶、稗田阿礼のキャンペーンというわけではなく、神話の舞台としての宮崎各地、たとえば高千穂町、みそぎ池、木花、青島などのキャンペーンである。
日本神話のなかで日本の誕生はイザナギ、イザナミから始まる。その子がアマテラスやスサノオ、さらにその2代あとがニニギで、その次が海幸彦、山幸彦、山幸彦の2代あとが神武天皇という系図である。神武は宮崎県日向市の美々津から船で東征に出発したことになっている。
海幸彦、山幸彦は青島のあたりにいて、青島神社は山幸彦とその妻・豊玉姫を祀る神社である。境内には日向神話館があり、天孫降臨から神武天皇の大和平定まで12景を30体の蝋人形で展示している。

金色の鵄(トビ)が神武天皇を助け、大和を平定した
宮崎市にある宮崎神宮は神武天皇を主祭神としている。神武の孫・健磐龍命(タケイワタツノミコト)が九州の長官として就任したときにつくったとの言い伝えになっている。歴史的にはっきりしているのは鎌倉時代初めからだ。ただ古い神社であることは確かだ。境内には船塚古墳という76×36mの古墳時代後期の前方後円墳もある。木々の手入れは明治神宮より手をかけているように感じた。

神宮の扉には、靖国とおなじく大きな菊の紋章がある。神宮の西隣に護国神社がある。「平和の礎」というようなポスターがあった。また東側のJR宮崎神宮駅からの参道入り口には自衛隊宮崎地方協力本部宮崎募集案内所があった。
日本神話が天皇家と王権の正統性をアピールするものであることは明らかだ。そして、いまも昔も、神話と神社、神社と軍隊と戦死者とは密接につながっている。
なぜ宮崎に神話が多いのかはよくわからない。旧石器時代の遺跡で西日本でもっとも古いものが宮崎にあるとのことだ(後牟田遺跡)。そういう古い土地だからだろうか。記紀にたくさん登場するからとしか説明できないのだろうか。
 
ところで、宮崎市内で珍しい政党ポスターをみかけた。極右政党「次世代の党」(現・日本のこころを大切にする党)のものだ。なぜか考えると、党代表・中山恭子の夫・中山成彬が宮崎(小林市)出身でずっと宮崎の選挙区から出ていたかららしい。
県庁のすぐ近くで「北方領土返還運動全国強調月間」という大きな垂れ幕を下すビルをみつけた。てっきり自民党の県本部かと思ったが、そうではなく県庁の別館だった。これは宮崎県庁に限らず、全国どこでもやっているのかもしれない。

こう書くと、宮崎は非常にウヨク的な街にみえるがそんなことはない。宮崎神宮の南側200mにある県立宮崎大宮高校は、福島瑞穂さん(社民党副党首)や上原公子さん(元・国立市長)の出身高校である。

☆ところで旅行そのものは観光旅行だったので、普通のところもいろいろ見た。たとえば飫肥(おび)の石垣の武家屋敷通りや商人通りの町並みは保存状態がよく見事だった。
男はつらいよ第45作「寅次郎の青春」で寅が飫肥城跡の石段で転んでケガをして(じつは仮病)、あわてて上から理髪店の蝶子(風吹ジュン)、下からは満男の恋人・泉(後藤久美子)が駆け寄るシーンがあった。

都井岬では、野生馬(正しくは戦前は軍馬で、戦後再野生化した馬)をみた。野生馬は1日18時間食べ続け、その合間に1時間ほど立ったまままどろむそうだ。

鹿児島は、観光面ではいまも西郷隆盛と島津のまちだった。西郷誕生の地、城山本営跡、洞窟、終焉の地、墓地そして島津の鶴丸城跡、仙巌園と尚古集成館、篤姫生家跡などである。西郷のひ孫がプロデュースしたカフェというものも見かけた。
ところで宮崎市内では公明や社民のポスターもみたが、鹿児島では安倍・自民党の「経済で、結果を出す」といういまではほぼ賞味期限切れのポスターしかみなかった。いまも薩長同盟が生きているのだろうか。

戦争法の廃止と朝鮮半島の平和を求める日韓連帯集会

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今年も3.1独立運動記念日に合わせた日韓連帯集会が開催された。今年は日本国内で選挙の結果如何では憲法が「改正」されるかもしれないという危機の年なので集会名は「3・1朝鮮独立運動97周年 戦争法の廃止と朝鮮半島の平和を求める2・27日韓連帯集会」(主催2016 3・1集会実行委員会 参加130人)である。わたくしがはじめて参加したのは2008年だったので、8回目になる。会場はずっと文京区民センターの大きな集会室だったが、今年は3月末まで耐震工事中とのことで、まだ新しい上野区民館だった。
この1年、米韓連合司令部によるピョンヤン制圧まで含めた5015作戦計画の策定、水爆実験やロケット発射に対する制裁論議、ケソン工業団地閉鎖など、東アジアの緊張が高まった。日本でも戦争法成立、辺野古新基地建設など軍事強化が新たな段階に進み、韓国とのあいだでは被害当事者を無視した「慰安婦」合意を発表した。
メインの講演は毎月議員会館前で総がかり行動に取り組む高田健さんだった。高田さんの講演を中心に紹介する。

■講演 2016年・安倍政権の動向
戦争法・憲法改悪の動きとどう闘うか
         高田 健さん(許すな!憲法改悪・市民連絡会事務局長)


昨年9月19日深夜2時半、戦争法が強行成立した。そのときわたしは国会前で「憲法違反!」と叫び続けていた。翌朝9時大勢の市民が集まった。このような事態を迎えるとふつう運動は萎んでしまう。しかし反対運動は半年後のいまも全国でずっと続いている。多くの憲法学者と日弁連が違憲だという戦争法と、憲法そのものは変わったわけではないので憲法とが並存する奇妙な状態がいまの状況だ。この矛盾を解消するには、憲法を変えるか戦争法を廃止するか、どちらかしかない。
3月29日に閣議決定すれば戦争法が施行される。すると日本は海外で戦争ができ、集団的自衛権を一部使えるようになる。安倍は昨年「国際情勢が求めているから急いで成立させる必要がある」と説明した。それは南スーダンのPKOのことで、今年5月にも発動されるといわれた。しかしいまでは5月でなく11月といわれている。半年も余裕があるのならあのときもっと国会で議論を続けるべきだった。先送りしたのは7月の参議院選挙のせいだといわれる。自衛隊がかけつけ警護し10-12歳の少年兵と戦ったらどうなるか。また自衛隊員が戦闘で死亡したらどうなるか。世論がこわくて先延ばししたのだが、行き当たりばったりと批判されても仕方がない。
イラクのときにはアメリカからどんなに派兵を迫られても「憲法9条があるからできない」といって断り、非戦闘地域のサマワに派兵した。しかし戦争法が成立したいまは断れない。朝鮮半島で緊張が高まり、アメリカから出動を要請されたときに、断れるのか。今年3月29日以降はこれまでの延長ではない。どこでも戦争ができる国になり、大変なところでわたしたちは生きている。いま戦争法を廃止しないといけない。
南スーダンの難民キャンプを政府軍が襲うという事態が発生した。自衛隊がかけつけ警護をすると、政府軍と戦うことになる。しかしいまは政府や準政府とは戦えないことになっている。いまはまださまざまな制約がある。だから安倍は憲法を変えると言い出した。
●緊急事態条項附加の改憲
国会開会の冒頭から首相が憲法改正を言い続けるのは異例のことだ。ただ、いきなり9条改正ではなく、憲法に緊急事態条項を附加するといっている。
自民党が挙げる理由は3つか4つだ。
まず福島出身の佐藤正久議員は「原発事故のとき被災地でガソリン不足が深刻だった。郡山まで行ったタンクローリーの運転手が、南相馬市に行こうとしなかった。憲法に緊急事態条項があれば「行け」と命令できた」と発言した。しかし憲法18条で「何人も、いかなる奴隷的拘束も受けない。又、犯罪に因る処罰の場合を除いては、その意に反する苦役に服させられない」と、そんなことはできないことになっている。この条文は徴兵制を敷けない根拠にもなっている。石破茂は「国を守るのが苦役という考えは、考え方そのものが間違っている」というが・・・。
次に衆議院解散中に天災や侵略があったときにはどうするのか、という論法がある。しかし憲法54条2項、3項の規定があり、参議院の緊急集会を開催できることになっている。衆参同日選挙の場合という声があるが、参議院は半数ずつの改選である。
次に、大震災が起きたときや大きなテロを受けたときという議論がある。これに対しては災害対策基本法があり、もしそれが不十分なのなら基本法を修正、充実させれば法的には解決する。
最後に、日本に対する急迫不正の侵害が起きたときという議論をする人がいる。この問題に対しては自衛隊法で専守防衛すると、自民党自身がずっと主張してきた。だから二重基準なのである。
この問題に関しては、敗戦直後の1946年7月の日本国憲法制定時の帝国議会で金森徳次郎国務大臣が「言葉を非常ということにかりて、その大いなる途を残しておきますなら、(略)破壊されるおそれが絶無とは断言しがたい(略)したがってこの憲法は左様な非常なる特例をもって――いわば行政権の自由判断の余地をできるだけ少なくするように考えたわけであります」と答弁している。15年戦争の反省がすでに憲法に含まれているわけだ。この闘いは、戦争法を廃止すると同時に、憲法の全面破壊を防ぐ闘いでもある。
●2015年の運動の特徴
ひとつは総がかりの行動が成立したことだ。60年代以降運動はいくつかに分かれてきた。たとえば原発反対でも3つのセンターがある。それが安倍を本当に止めるための団結・連携のため2014年12月に総がかり行動実行委員会が成立した。あらたに生まれたシールズ、ママの会、学者の会なども連携している。また日弁連は、自民・高村、公明・山口なども所属する職能団体で政治的行動がむずかしいが、それを越えて連帯してくれている。その結果、本当に安倍政権を倒せるのではないかと思っている。
もうひとつの特徴は非暴力市民行動に徹したことだ。大きな怪我人を出さず、逮捕者は出たものの長期拘留はなかった。参加した人の自覚によるところもあるが、既成の労働組合、民主団体の力が大きかった。そうしたなか非組織の自立した市民が大量に現れた。昨年、意見広告を7回打った。新聞に出た翌日大量の電話がかかってくる。その大半は「わたしも国会前に行きたいが最寄駅はどこか、行き方はどうすればよいか」というものだ。また「デモに参加するのに何か資格はいるのか」と聞くひともいた。これを生かせばもっともっと運動を大きくできる。
●今後の課題
また集会・デモを行うだけでなく、議会の政党との連携も必要だ。2月19日野党5党の党首会談が開かれ、戦争法廃止法案を共同提出した。また7月の参議院選挙をめざし選挙協力することになったが、戦後史上まれにみるできごとだ。ただし統一候補を定めても、そのあと当選させなければ意味がない。そのためには他人事にしないことだ。
戦争法廃止の運動はようやくここまで来た。あと5か月である。
ところでこの運動は弱点もいろいろもつ。たとえば憲法の運動なので、日本国憲法に縛られがちという問題がある。日本国民の一国的な運動になりがちだ。しかし東アジア、とりわけ朝鮮半島の人々にも共通の課題だという視点を入れて運動を続けていきたい。

■韓国ゲストから
韓日民衆の連帯強化で東アジアの平和を実現しよう!
        イ・チャンボクさん(6・15南北共同宣言実践南側本部常任代表議長・元国会議員)

わたくしがはじめてこの民衆連帯集会に参加したのは1996年なのでちょうど20年前のことだ。「東アジアの平和」、とりわけ朝鮮半島の危機を回避する問題は一貫して最重要のテーマだった。
しかしいま韓国への米軍のサード(THAAD)配備計画やケソン工業団地閉鎖で、緊張と危機は最高レベルに達している。また韓日のあいだでは、被害当事者の意思を反映しない昨年末の「慰安婦問題の合意」、教科書問題、独島問題などが解決されていない。
わたしたちは本質的な問題に目を向けるべきだ。それは朝鮮半島の平和と安定だ。根本的な対策は、朝鮮戦争を一時中断させている停戦協定を破棄し、新たに平和協定を締結することだ。そうすれば北の核問題も自ずと解決する日が開かれていく。
2月の米中外相会談で王毅外相は「朝鮮半島の非核化と、朝鮮戦争の休戦協定から平和協定への転換を同時に進める」ことを提案した。平和協定の可能性に公式に言及したことは重要だ。
わたしたちは3―4月の米韓軍事演習に反対し、停戦協定記念日の7月27日から8月15日まで朝鮮半島の平和と統一のための大衆運動を進める予定だ。韓日民衆の固い連帯で、朝鮮半島の安定、東アジアの平和を作っていこう。

以下、特別報告とアピールのスピーチがあった。印象に残った部分を紹介する。
■特別報告
沖縄・辺野古新基地建設反対  青木初子さん(沖縄・一坪反戦地主会関東ブロック
沖縄には戦時中、朝鮮人軍夫が1万5000人から2万人連行された。普天間には青丘之塔、久米島には痛恨の碑、渡嘉敷島には従軍「慰安婦」・�樮奉奇(ペ・ポンギ)さんの慰霊モニュメントがある。
かつて「琉球人、朝鮮人お断り」という差別掲示があったが、沖縄と朝鮮は似たところがある。沖縄では「改姓改革」、朝鮮では「創氏改名」があり、沖縄は琉球処分、朝鮮は韓国併合を蒙った。日本の沖縄への差別的対応はいまも続く。オスプレイ配備もそうだし「建白書」を政府が無視したこともそうだ。
辺野古阻止の運動は沖縄の尊厳を賭けた闘いだ。ゲート前座り込みは600日を超えた。

日本軍「慰安婦」問題の真の解決を  中原道子さん(VAWW RAC共同代表)
戦争の歴史に女性は出てこなかったが、最近になってやっと少し出てきた。ノルマンディ上陸作戦はフランス解放の輝かしい戦いといわれた。じつはアメリカ兵による強姦の場だった。またベルリンはソ連軍に解放されたといわれるが、ソ連兵による強姦が多発した。
こういう問題のひとつが日本軍「慰安婦」問題だった。
昨年12月28日、日韓の外相が会見し「合意」を発表した。しかしこれでは解決しないことを、この問題を知っている人ならすぐわかった。
アメリカのケリー国務長官やアーネスト報道官は歓迎の意を表明したが、米国主導の「合意」だったことがわかる。
わたしたちの会では1月に声明を発表した。まず加害の事実認定も行わない。岸田外相は「慰安婦の強制連行はなかった」というが、オランダ人女性への裁判で認定されている。政府としての謝罪も行わないし、再発防止のための教育も行わない。日本の教科書からこの問題は削除されている。
さらに、被害女性にどうやって「合意」を伝えようとするのか。勝手に「読め」とでもいうのだろうか。女性たちの名誉と尊厳の回復以外に解決はありえない。

■アピール
朝鮮学校に「高校無償化」の適用を!  森本孝子さん(「高校無償化」からの朝鮮学校排除に反対する連絡会)
2013年2月20日、政府は文科省令そのものを変更し、朝鮮学校への無償化基準そのものをなくすという暴挙に出た。こうした事態に全国で訴訟を起こし、毎週文科省前で金曜行動を行い抗議している。今年は2月13日大阪で全国一斉行動・全国集会、19日に文科省行動、20日に東京集会を行った。
海外ではロケット発射と報道されるのに、日本では「事実上の弾道ミサイル」と呼び危機を煽っている。自治体の補助金についても削減される現実があるが、2月22日には夕刊フジの1面に「朝鮮学校の補助金中止通達へ 日本政府、北への新たな制裁措置」という大見出しが躍って驚いた。
バッシングの相手は共和国だが、犠牲になっているのは高校生たちだ。3月2日には東京の「無償化」裁判で第9回口頭弁論が行われる。多くの方の傍聴をお願いしたい。

夕刊フジを手にアピール

☆わたくしも2月20日に田町交通ビルで開催された「朝鮮学校で学ぶ権利を!東京集会」に参加し、30代弁護士3人の体験を踏まえたスピーチを聞いた。高校の途中からアメリカに留学した人は、朝鮮学校が世界標準を先取りする多文化共生の民族教育を実践していると述べた。在日で朝鮮学校出身の弁護士はダブルスクールで学ばざるをえなかったこと、司法試験の一次試験が免除されなかった「差別」を訴えた。中学生のときに丹波マンガン記念館の李貞鎬さんから聞き書きをした弁護士は、「朝鮮学校を訪問すると非常にオープンなのに、むしろ自分のほうが壁をつくっていたことに気づいた」と語った。それぞれ新鮮な視点だった。

☆毎月19日の総がかり行動の議員会館前集会にはほぼ参加している。2月19日には5党から野党共闘や戦争法廃止法案共同提出の話もあったが、憲法学者の清水雅彦さん(日本体育大学)から自民党改憲案の緊急事態条項はナチスの全権委任法と同じなので、絶対阻止しないといけないというアピールがあった。

戸山高校で卒業式校門前ビラまき

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3月9日(水)朝8時から9時半まで、今年は新宿区の戸山高校校門前でビラまきをした。昨年までは練馬区内でビラまきをしていたが転居したためだ。
天気はずっと曇りでいまにも降りだしそうだったが、幸い最後まで降らずまたそれほど寒くもなかった。そんなわけで、この日は部分日食の日だったがまったくみえなかった。

チラシの裏面
今年配ったのは都教委包囲・首都圏ネットワークのピンクのチラシ。表面のタイトルは「ご卒業おめでとうございます。誰にも立たない、歌わない自由があります」で、ビジュアルも例年とほぼ同じ。ただ本文では「格差はますます拡大し社会のひずみが広がり、とげとげしさが増して」いることや「戦争法の強行採決で、日本社会が戦争に向かっていること。証拠のひとつとして自衛隊駐屯地で隊内訓練をする都立高校まで出てきたこと」(要旨)など時代の特色を挙げている。一方裏面は「240万人の18歳、19歳が選挙権を持ちます。未来を決めるのはわたしたちです」というタイトルで、夏の参議院選を目前に、選挙権行使を促進する内容になっている。それで、呼びかけの声も「ご卒業おめでとうございます」に加え「18歳選挙権も、おめでとう」といってみた。卒業生だけでなく3年生の3割程度も夏には選挙権があるはずなので、自分で考えたうえでぜひ安倍Noの投票をしてほしいものだ。
10.23通達発令から今年で13年になる。この高校は、10.23通達から2回目の2005年卒業式で、卒業生が「東京都教育委員会のみなさんにお願いがあります。これ以上、先生たちをいじめないでほしい」とスピーチして話題になり、また翌06年の卒業式では校長が、保護者が式典を撮影したビデオフィルムを取り上げた学校だ。

受取は、卒業生は3割程度、保護者が5割、在校生はほぼゼロだった。いままでずっと配っていた光が丘高校では、保護者はほぼ100%、卒業生も半分以上受け取ってくれていたのでずいぶん違う。自転車で来校する保護者や生徒が皆無だったので、むしろ渡しやすいはずだったのだが。世の中全体、町でチラシを受け取らない風潮が定着してきているので仕方がないのかもしれない。手渡した枚数は2人で191枚。手持ちのビラはすべてなくなった 
卒業生の服装は、女性は圧倒的にオレンジやピンクの和服が多く、男性も3割くらいが緑やグレーの羽織袴だった。男性のその他はスーツ姿(比率は勘にすぎない)。この点もずっと清楚な服装だった光が丘とは異なる。いっしょに撒いた人は、これも経済格差の表れのひとつではないかといっていた。
在校生は制服だが、隣が学習院女子、その向こうが西早稲田中学(旧・戸塚第一中学・戸山中学、校地は戸塚第一の跡地)で、はじめはだれに渡せばよいのか見分けがつかなかった。そのうち女子は制服が違うのでわかるようになった。
保護者が先に学校に来て待ち受け、子どもが登校する風景を写真やビデオを撮っている人がいた。保護者がグループになっていたり、おそらく部活動の応援などで顔見知りなのか、生徒に「いつもユニフォーム姿しかみていないので見ちがえったよ」と話しかけている人がいた。高校までくると、PTAは有名無実な学校が多いが、きっと熱心なPTA活動の伝統がいまも続いているのだろう。この学校では、かつて10.23通達が出た当初の卒業式2004年から07年ごろまでPTA有志が校門前でビラ配りをしていた。

校門前で卒業生が列をつくって記念撮影をしていた
管理職と思われる人が、わたくしといっしょに撒いていた人に一度だけ声をかけてきた。「敷地には入らないように」、さらに「できればビラは撒かないでほしい」といったそうだ。もちろんビラ配りが目的なのだから、敷地外で撒いたのだが。
敷地ではあるものの校門の外に、教員が5人も立っていたのには驚いた。この学校は、卒業生が列をつくって校門前で記念撮影をしていたので、整理や受付のような意味もあったのかもしれない。

☆わたくしは2月13日の総決起集会にも参加した(主催:都教委の暴走を止めよう!都教委包囲・首都圏ネットワーク)。大内裕和さん(中京大学)が、新自由主義のグローバル化で日本でも格差・貧困が深まり、若者世代にもブラック企業、ブラックバイト問題、利子付奨学金による借金まみれ化が広がっていることを講演した。結論は、いま反戦平和と反貧困を結びつけることがヒントになるというものだったが、この日配ったチラシにも講演の趣旨が反映していた。
☆40年近く前の話だが、隣の駅の早稲田に何年か住んでいたことがある。高田馬場までの早稲田通りは何度も歩いているので、迷わないだろうと思っていた。ところが地下鉄高田馬場駅から地上に出ると、道路は変わらなくてもビルや店は変っているし浦島太郎状態だった。明治通りはほとんど歩いたことがないので、わずか150mなのにずいぶん遠く感じた。地下鉄・西早稲田よりもっと先とは思わなかったので途中のコンビニや交通整理の警官に2度も道を尋ねた。初めていく場所は、こんなものかもしれない。
ただ、駅の手前で早稲田松竹がそのまま残っているのをみつけたときはうれしかった。料金は2本立て1300円(シニア800円)とのことだ。かつて高田馬場周辺には西口にパール座があり、神楽坂にはピンク映画の牛込文化、もう少し足を伸ばすと飯田橋に佳作座があった。

野田秀樹の戦争鎮魂歌「逆鱗」

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NODA・MAP第20回公演 『逆鱗』を池袋の東京芸術劇場で観た。
野田の芝居は、MIWAもエッグも予約抽選ではずれたので、2010年の「ザ・キャラクター」以来6年ぶりになる。平日昼間の東京芸術劇場に入ると8割方女性客で、まるで東京宝塚劇場の様相だった。かつての遊眠社の芝居のファンだと思しき中高年女性、母娘などが多く、たまに若い男性がいるとまるで若い日の自分を見るようでうれしかった。
下記の感想は、いわゆるネタバレを前提にしているので、そのおつもりでご覧いただきたい。  (いちおう東京公演の楽日過ぎまでアップを控えました)

舞台はとある水族館、大きな水槽に人魚をつかまえて入れようというところから始まる。人魚は人と魚の合いの子、最後は人魚は人間と魚雷の合いの子「回天」で、特攻するが不発で敗戦後も海底に沈むという話で終わる。野田秀樹の戦争レクイエムである。特攻レクイエムというと、たとえば石原慎太郎の「俺は、君のためにこそ死ににいく」(新城卓 2007)が思い浮かぶが、さすがに野田のシナリオはそれほど単純ではない。またシンプルな反戦演劇でもなかった。
オープニングは、NINGYO(松たか子)の「その姿を、潜水艦の窓の外から私は見ていた。私は、あなた方の体の咽頭と呼ぶ部分から喉頭と呼ぶ部分へと続く筋肉の半ば手前で音を出したくなった。それがたぶん、あなた方にとって「泣く」ということだ」(p16 セリフは新潮2016年3月号より ページ数も同様 以下同じ)というモノローグから始まる。
井上ひさし原作「木の上の軍隊」(2013年4月こまつ座)での沖縄の女(片平なぎさ)の叫びを思い出した。この芝居は戦後2年間ガジュマルの木の上で暮らした伊江島の2人の兵士を描いたものだが、戦後暗い海の底で眠る兵士という点で似ている。
鰯の群れからばらまかれた大量の鱗、きらきらした目くらましが野田の世界に引きこんでいく。
野田の芝居なので、もちろん言葉遊びはたくさん出てくる。
たとえば「人魚はいるか?ショウ」という人魚とイルカのあいまいなショウ(ウは鳥の鵜)、
 潜水鵜の鵜長 有頂天(p27)、遠く古代の人魚 コダイ妄想(p36)
 腐乱死体、フランケンシュタイン、フラダンス、フランシーヌの場合は(p34)
 腐乱死体 フランス人としたい、フランダースの犬としたい(p47) 
などだ。
時の人の名もいくつか出てきた。たとえば、号泣県議や小保方晴子さん、エグザイル、神田うのなどだ。
「死体から流れ出した時間は海の水に溶けて塩になる。人魚は死者の『時間』を食べて生きる」「海で死んだ人間の首のあたりに塩が固まり青白く光ると、それが鱗になるの」「死んだ人間たちの時間は、元に戻りたくて鱗も逆さになる、人魚はその逆鱗を食う」(p48一部要約)
その鱗には鱗ひとつずつに文字が彫られている 文字を並べると“NINGYO EAT A GEKIRINN”(p52)「人魚は逆鱗を食べる」・・・海の底から上の人間に送られてきた暗号(p58)
野田ワールド全開である。
 人間との違いは死生観で「『人魚は早く死ぬことが美しく、親よりも先に死ぬことが潔し』と考えています」(p55)
届かなかった電報の文面「オキユクインディアンノバシャニ チビモデブモノッテハオラズ バシャハカエリミチ」(p56)
「いつも人魚はカッサンドラー。人に不気味な予言をもたらすために現れる」(p61)
しかし「注文の多い料理店」のように不気味さがだんだん増幅していく。
「47人というところがミソだ、悲壮感が漂う。47人は、みな海の底で死体となるでしょう」(p63) 
「イルカだって武器に使えるからね」(p65)
“NINGYO EAT A GEKIRINN”の鱗がばらばらになり「“NINGEN GYORAI KAITEN”人間魚雷回天と言う文字に変わる」(p67)
「人と魚をくっつけて人魚。でもこれは人間と魚雷をくっつけて、人間魚雷。略して人魚です」(p67)
ついに謎が解き明かされる。
「リトルボーイ(広島原爆)とファットマン(長崎原爆)をのせた重巡洋艦インディアナポリス号が沖をゆく ただちに人間魚雷をハッシャセヨ」(p72-73要約)
「お前たちは、これから、その勇敢なる生け贄、聖なる鳥、潜水鵜として、魚雷と同化し、任務を全うしてもらいたい」(p74)
「爆音したか?」「見事、撃沈です」(p77)
「お前は、怖くないのか?」「出で立つや 心もすがし るりの風」(p79)
   この句は実際の回天特攻隊員 玄角泰彦中尉(22歳)の作だ。

そしてエンディングに向かう。
「あの、息子の最期の様子を。」「私の息子が誰だったか私が忘れてしまうことよりも、私の息子があたた達に忘れ去られること、それが愛(かな)しい」(p80)
「俺はまだ、この水底に引っかかったままだ。もうじき俺もいなくなって、ここは誰もいない海になる」(p82)
最後のセリフは、「私の咽頭部から喉頭部へとつづく・・・」というNINGYOの冒頭のセリフが繰り返される。

ベトナムのソンミ村事件を題材に、宮沢りえがリングサイドで実況放送をした「ロープ」(2006)をちょっと思い出した。あの芝居は戦争の犠牲者・住民がテーマだったが、今回は加害者・兵士がテーマで、しかし若い兵士は被害者でもあることを描いた。
そういえば映画「肉弾」(岡本喜八 1968)の寺田農がまさにこの特攻隊員の役をやっていた。回天にのったまま骸骨になり、唐笠を差して、海底ではなく終戦後の海面を漂っていた。昨年が戦後70年、今年は71年だが、1年遅れで上演するところが野田のシナリオのよさだ。
演出では、ばらまかれた大量の鱗、きらきらした目くらましだけでなく、海面から落ちてくる泡(あぶく)が美しかった。人間の声が入っていて鉛の泡なので沈むのだ。
またアンサンブルというようだが、男性13人、女性10人の踊りはきれいだった。
役者では、銀粉蝶(鰯ババア、逆八百比丘尼)が、落合恵子のような髪型で現れた。声は若く、テレビでは「花燃ゆ」の奥御殿総取締役・園山のイメージだが、この人は本来新劇の人なのだと実感した。
井上真央(鵜飼ザコ)は、丸顔・おかっぱの女の子「ザコ」役。みたところアンドロイドのような表情のない役だった。パンフに「前作MIWAで『言葉を届けてお客さまに聞いてもらう』ことが大切なのだと教わった」とあるが、その教えはこの芝居でも十分生かされており、言葉が届いていた。
瑛太(モガリ・サマヨウ)の発声も明瞭で、演技にも好感がもてた。ゲネプロをこのサイトで3分だけ見ることができる。
かつて、夢の遊眠社の時代、セリフが聞き取れないことがときどきあった。いまはそんなことはないが、言葉の内実を伝えきれないことはある。ひとつの原因として、テレビや映画と舞台空間とは違うということもありそうだ。舞台では表情はあまり伝わらず、そのかわり演技が重要になる。その点こまつ座は、同じようなテレビ・映画俳優が出ていても栗山民也、鵜山仁などがしっかり演出しているように思う。

わたしはシナリオで芝居を選ぶことが多いが、野田の脚本はいろいろ調べて書かれていることがよくわかる。2つだけ例を挙げる。
「『鵜』は古代より神の鳥でした。出雲神話の国譲りにおいても、女神が「鵜」に姿を変え、海に潜り海底の土を持ち帰り」(p25)というセリフがあった。調べると、たしかに国譲りに「櫛八玉神は、鵜に姿を変え、海の底に潜り、底の赤土(はに)を加えてきて、たくさんの平らな皿を作り」とあった。
また「私、逆八百比丘尼です。と申しますのも、本来、人間の八百比丘尼は、人魚の肉を食べて不死になりました。その恩返しです」というセリフがあった(p33)。ウィキペディアでみると、たしかに八百比丘尼(やおびくに)は、人魚など特別なものを食べたことで八百年生きる少女の話(不知火や仙崎のお静伝説)を取り込んだ全国に分布する伝説の人物のことだそうだ。また軍用イルカも実戦で利用されたそうだ。

☆池袋西口に三兵酒店という有名な立飲み屋があり、帰りに立ち寄った。なぜかフィギュアスケートの安藤美姫の写真が何枚も壁に貼られている店だ。
たぶん半年ぶりである。かつて池袋経由で埼玉方面に行く用事が月に1度あったのだが、用事そのものがなくなってしまったからである。
前橋育英高校の卒業生がいて、ちょうど2013年の高校野球の夏の時期だった。初出場の前橋育英高校があれよあれよという間に優勝してしまった。地区予選から一度も負けたことがないのだから大したものだという話をした覚えがある。こんなふうに酔うと仲良くなれるような狭いスペースの居酒屋である。
西口にはもう1軒、桝本屋酒店という有名な角打がある。こちらは三兵酒店と異なり20-30人は入れる大型店だ。この店には25年くらい前に週1,2回通っていた。あるとき隣で飲んでいた人に誘われて東口の居酒屋までいったことがあった。立飲み店でもそんなこともあったのだ。

三兵酒店の店内

熟年夫婦の純愛映画「家族はつらいよ」

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丸の内ピカデリーで「家族はつらいよ」をみた。この映画も「母と暮らせば」と同じく松竹120周年映画のひとつだ。
平日午後の映画館は高齢者が大半で、「レディースデイ」のせいもあり女性が多い。もしかすると平日午後の映画館はいつもそうなのかもしれない。
前作同様この日もフィルムで上映、「フィルムならではの雰囲気や色彩の深みをお楽しみいただけます」という説明があったが、わたくしには違いがよくわからない。

家族のキャストは「東京家族」とまったく同じ4組の夫婦、孫の長男だけ柴田龍一郎から中村鷹之資に代わっている。この人は歌舞伎の中村富十郎の息子だそうだ。
ただ庄太(妻夫木聡)の職業は大道具係からピアノの調律師になっていた(撮影が始まってから職業が変更になったというのだから本人は大変だっただろう)。ほかにも長男が医師から商社のサラリーマン、長女が美容師から税理士、憲子が書店員から看護師に変っていた。1月にみた「山田洋次×井上ひさし展」(市川市文学ミュージアム)に「離婚届」の小道具が展示されていた。それによると住所は青葉区美しが丘2丁目53-4、たまプラーザの駅から北に1キロくらいの住宅のようだ。
平田周造(橋爪功)は1940年生まれという設定で実年齢より1歳上だからまあよいが、富子(吉行和子)は1944年生まれで10歳近く年下の役なので無理があるのではと思ったが、本当に若々しく見えた。結婚したのは1968年6月ということになっていた。
この離婚届によれば富子の実家(「婚姻前の氏にもどる者の本籍」だったかもしれない)は田園調布3-31になっていた。離婚後、田園調布の広い芝生の庭がある赤い屋根のお屋敷に住む予定になっていたが、生まれ育った実家の近くだったようだ。

蒼井優は、看護婦という役柄のせいもあるのだろうが、凛々しくしっかりした女性の役を演じていた。たとえば夜勤の憲子が朝の引き継ぎをテキパキやっていたり、周造が家族会議の末「い、いつからスパイになったんだ!ええっ、このスパイめ!」(セリフは小路幸也「家族はつらいよ」講談社文庫2015.12より 以下同じ)と泰蔵に叫んだまま興奮しすぎて倒れたとき、キビキビと対処した姿。医師(笑福亭鶴瓶)に「いやー、よかったですな。現場に看護師がおられてね。処置が早(はよ)うて何よりでしたわ」と誉められるくらいだった。公園で周造に「生意気なことを言うようですけど、もう家族の一員だと思って許してくださいね。(略)いえ、言葉なんです。お義父さんの気持ちを言葉にしなきゃいけないんです」と厳しく説教までしていた。
間宮のり子という役名は変わらないが漢字の紀子が憲子に変っていた。安倍政権下のこの時代、憲法や立憲主義が大事という山田監督の思いが反映されているのかもしれない。
セリフは一言もないが、愛犬トトもじつは家族の重要な一員であることがわかるようになっていた。

寅さん映画もそうだったが、ちょい役で芸達者な人がでてくる。今回は日野市民ホールの警備員役・笹野高史と創作教室の講師役・木場勝己である。2人とも舞台でみたことがある。それからうなぎ屋「うな茂」の出前持ち役・徳永ゆうきは2012年ののど自慢グランドチャンピオンという異色の役者だが、俳優としても期待できそうだった。
徳永は出前の三輪バイクを走らせながら「男はつらいよ」のテーマソングを歌っていたが、そのほかにも寅さん映画のポスターが沼田探偵事務所の近くにあったり、周造の部屋に寅さんシリーズのDVDが何枚か重ねてあったり、ちょっとやりすぎの感があった。 
また特別出演の当直医師役・笑福亭鶴瓶がいい味を出していた。「おとうと」では患者でそれも死にゆく人だったが、逆の立場だ。

役者では、中嶋朋子(税理士の成子役)と笹野高史(日野市民ホールの警備員役)がうまかった。
かよは、前回は架空の店の感じがしたが、今回は私鉄沿線の駅に本当にありそうに感じた。メニューは揚げシューマイ、ほっきの開き、秋刀魚など、価格も手ごろな価格だった。壁の短冊には見えなかったが、業務用おでん鍋でおでんを煮ているのが見えた。こんな店があれば一度入って、思ったとおり印象がよければ常連になりたいような店だった。おまけにおかみがかよ(風吹ジュン)のような人であれば。

この映画は「寅さん」以来20年ぶりの喜劇というが、喜劇とはちょっと違うジャンル、純愛映画のように感じた。
「お前と一緒になってよかった。良い人生を送ってこられた。サンキューだ」「(離婚は)もういいの。今のことばを聞けたら十分」という結末になるのだから、たしかに悲劇ではなく喜劇ではある。
「俺だ。俺だよ!」と周造がいきなり電話で話したため、嫁がオレオレ詐欺と間違えたり、家族会議で富子が「以上です。お父さんの口癖を借りれば」としめくくったり、おかしいシーンやセリフが散りばめられ、幸之助(西村雅彦)がバランスボールから滑り落ちるシーンなど行動、仕草がおかしい場面もたくさんあったのだが、どうも寅さん映画のようにはいかなかった。
だいたい喜劇向きの役者は、しいていえば林家正蔵とせいぜい橋爪功くらいしかいない。正蔵が三平のマネをして「どうもすみません」という仕草は面白かった。泰蔵(林家)は、「どっかの落語家みたいな顔したろくでもない男」と周造に評価されていた。
「十五才 学校IV」(2000年)以降、平松恵美子さんが脚本に加わると、コメディというよりはシリアスな作品に仕上がるのかもしれない。
2015年年末に山田監督がテレビでこの映画について「無縁社会、下流老人など切ない時代になったけれど、仲のよい家族がじたばた大騒ぎをする。そんななかで家族というものを笑いながら考えてみるそんな映画なので楽しみにしてほしい」といっていた。「人間はもともと滑稽だ」とも語っておられた。たしかにじたばた生きる家族、とりわけ夫婦について考えさせる映画になっていたと思う。一言でこの映画を表せば、結婚47年の熟年夫婦の純愛ストーリーである。これと対照して40代の中年夫婦、これから家庭を築く若葉マークの夫婦と三世代夫妻がくっきり描かれている。
もう2回くらい細部にこだわって見たいと思った。
   
周造が自分の部屋でみていたDVDの「東京物語」の「終」のマークとほぼ同時にこちらの映画も終わってしまい驚いた。久しぶりにこのサイトで最後の部分だけみてみた。原節子も最後に帰京し、笠智衆がうちわで煽ぎながら和室でたたずんでいると、隣家の主婦・高橋豊子が「お寂しいこってすなあ」と声をかけ、尾道の港から小船が出港しているところで映画が終わった。「東京家族」といい山田監督は小津がよほど好きらしい。あるいは松竹120周年という事情もあるのかもしれないが。

横尾忠則の「日常の向こう側、ぼくの内側」で、この映画の制作進行状況は知っていた。東宝スタジオに数か月アトリエを構えていたとかだった。エンドロールで横尾氏はタイトルデザインということになっていた。横尾氏は「東京家族」ではスペシャルアドバイザーだったが、今回はポスターも作成した。

☆1月末から、ちょっと必要があり寅さんシリーズを1作からみることになった。
わたくしが好きな作品は歌があり、そして効果的に使用されていることに気付いた。たとえば第1作の「殺したいほどほれてはいたが 指も触れずに 別れたぜ」の「喧嘩辰」(北島三郎)、12作「私の寅さん」の「背くらべ」、 14作「寅次郎子守唄」の江戸川合唱団の「ファニタ」ほか合唱曲、20作「寅次郎頑張れ!」の「菩提樹」、34作「寅次郎真実一路」の「里の秋」など。もちろん歌が出てこなくても26作「かもめ歌」、40作「サラダ記念日」など好きな作品はある。また歌が出てくるということでは、都はるみ、沢田研二、浅丘ルリ子が登場する作品にはもちろん歌が出てくる。
またバイ・プレーヤーというのか、喜劇もできる男優が何作も引き続いて登場していることもわかった。たとえば関敬六は別格としても、米倉斉加年、すまけい、笹野高史、神戸浩などだ。みんな個性豊かで芸達者な役者ばかりだ。
別の話になるが神戸浩は北村想の芝居によく出ていた。1980年代に名古屋にいたころ観たがそのころから印象が強い

●年ごとの総目次が、エクセルのバージョンアップでやり方がわからなくなったが2015年に合わせて作成し、今回2012年から2014年までアップした。また2008、2009年もリンクの調子が悪かったのでこの機会に入れ替えた。
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