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東京街歩き 北千住

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昨年の夏、蒲田の街歩き+銭湯・居酒屋に行ってたいへん幸福な時間を過ごせたたので、第二弾として今年は北千住に行ってみた。
江戸周辺には宿場が4つあった。 日光街道の千住宿、東海道の品川宿、中仙道の板橋宿、甲州街道の内藤新宿だ。このなかで千住が最大で人口1万人を超えていた。1689年松尾芭蕉は深川の庵を船で出発し千住で上陸した。つまり千住は奥の細道のスタート地点なのである。まず駅前の丸井の10階で千住宿の大きなジオラマをみる。宿場は東西300m、南北2800mあったが、そのうち300mを再現したものだ。

屋外に出て、荒川の近くの清亮寺名倉医院に行き、荒川の河原のグランドを見下ろした。
清亮寺は水戸黄門が槍を立て掛け有名になった「槍かけの松」がかつてあった。いまは寺が経営する幼稚園の園庭になっている。名倉医院は江戸時代から続く整形外科の病院だ。グランドでは、子どもたちが野球の試合をやっていた。
河原の土手を下りて宿場町通りを歩く。一見伝統的な商店街なのだが、かどやの槍かけだんご、横山家住宅などがありさすが江戸の趣がある街だ。たまたま本氷川神社の秋の祭礼の日だった。居酒屋では、有名な大はし藤やが臨時休業だった。駅に近いあたりにコンサートホールという建物があった。てっきり市民文化会館のような施設かと思ったら、2階建て690台の機械を擁する大型パチンコ店だった。それで近隣のランドマークになっているらしく、神輿の通過ポイントのひとつになっていた。

そしていよいよ千住寿町の大黒湯に入った。とにかく屋根が立派だ。破風屋根が立派な銭湯はたくさんあるが、ここはその上の大屋根も大きく立派だ。ふつうは屋根の下の正面が玄関なのだが、ここはどういうわけか右手が入口になっている。玄関で男性と女性に分かれるのかと思ったら、入口はひとつしかない。カーテンの向こうに女性の姿が見えるので女風呂かもと、しばらく出たり入ったりためらったがやはりここしかないと入ってみた。かなり広いサロンで飲み物を飲めるようになっていて右手にフロントがあった。突き当りには広い縁側があり、その先には庭があり、池に鯉まで泳いでいた。
脱衣場はロッカーが64人分、それと別に常連の石鹸などを収納できる小さいロッカーが36個あった。片隅の壁にはかなり大きな額がかかっていた。よくみると木に白い鳥が止まっている。店の方に伺うと、花鳥風月の絵だそうだ。ただし商売が銭湯なのでどんどん絵の具がはげてしまったとのこと。80年を越す建物なのでまさに文化財ものだ。
浴室には、90センチほどのかなり深いジェット座り風呂、ジェット寝風呂、水風呂の3槽がある。カランは30個なのでふつうの規模だ。立ちシャワーも2台あった。そしてうれしいのが露天風呂だ。露天なら西新宿の羽衣湯にもある。しかし羽衣湯は天井だけ露天で回りは壁に囲まれている。湯船は3人ほどしか入れない狭さだ。それに対しここはかなり広く、かつ石灯籠まである庭に面している。
あとで銭湯に詳しい人に聞くと大黒湯は東京でも有数の、歴史がある立派な銭湯なのだそうだ。一見(ひと浴び)の価値がある。

続いて居酒屋めぐりだ。超有名な立ち飲み居酒屋・割烹くずし「徳多和良」に向かった。17時オープンと聞いていたのだが、じつは16時オープンだった。16時20分に行くとすでに10人並んでいた。しかも入口に「1回3人まで、時間制限もある」と注意書きがある。あとで聞くと制限時間は1時間だそうだ。出てくる人でほろ酔い顔の人はいない。
おかげで30分くらいしたところで入場できた。その時点で、後ろに15人ほど並んでいた。店内はカウンターばかりの立ち飲みで20人弱入れそうだ。店のスタッフは男性1人、女性4人、家族のように見えた。料理は、ウワサのとおり315円が基本だ。石鯛の刺身と白魚の酒蒸しが400円、さんまの塩焼き、きんきの煮つけが525円とじつに良心的だ。わたしは里芋の白煮、ほっき貝の刺身、かき揚げを注文した。どれもていねいに料理されている。注文した酒は本菊泉の常温とキリンフリー(小びん)で合計1680円。隣のアベックは「そろそろお時間です」とせかされていた。わたくしは30分あまりで退出した。落ち着かない店だった。

最後に駅近くの千住の永見に行った。永見には、10年も前になるが大はしに行った帰りに一度寄ったことがあり、ぜひもう一度行きたいと思っていた店だ。1階はカウンターを入れて40席ほど、2回はみていないがかなり広そうだ。げそ揚げ(420円)、山芋の千切り(370円)、厚揚げ焼きを食べた。ごく普通の店だが、メニューが豊富でどれもうまい。ほっとする店である。みんなニコニコ顔だった。

☆北千住の東口近くには、いまから15年くらい前の1997年から99年に増田都子さんが勤務していた足立第十六中学校があった。場所は区民事務所の職員の方に教えてもらった。足立学園の北側で、いまは東京電機大学千住アネックスになっている。

母親の手料理 代々木・志乃ぶ

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志乃ぶは、代々木駅から山手線に沿って渋谷方向に坂を下り路地を右に入ったところにある。入口付近に4人掛けのテーブル2つ、奥の右手が6席のカウンター、左手が2人掛けテーブル席2つだけの小さな店である。「志乃ぶ」という店名やのれんのかかった入口の様子から、いかにも高級小料理屋という感じがする。しかし道路に置かれた立て看板には、さんま塩焼(900円)、銀ダラ西京焼(900円)などと、定食のメニューが書かれている。
はじめて訪れたのは2―3年前の正月明けだった。ネットで「代々木で一番の店」というような書き込みを見つけたのがきっかけだった。カウンターにはずらりと常連さんが陣取って盛り上がっていたが、なぜか自然に迎え入れてもらえた。店を出るときには縁起物の春の七草をおみやげにいただいた。一見客にまで渡すのかと感激し、以来誕生日などことあるごとに通っている。

スタッフは「熟年」女性2人。ママさんは鹿児島出身、ただし鹿児島市内ではなく空港の近くということなので、霧島や加治木の近くだろうか。東京オリンピックより前、中学生のときに上京した。独身のときは大田区池上にいて電機会社で働いていた。結婚して代々木に越した。そして二十数年前、駅からすぐの代々木会館2階に店を出した。「定食屋をやりたかった」のだそうだ。梅なか、海燕、やきとり七福、紀州 津軽などの同業者がいた。

代々木会館にいまも残るかんばん
ところがビルの建て替えで立退き命令を受け、いまから10年前の12月に現在のビル1階に転居した(ただし代々木会館は2013年10月現在1階で営業している店があるせいか、いまも建っている。)。なおママはいまは渋谷からバスで通勤している。
もう一人はママより3歳上で5月生まれの夏ちゃん。かつてママが住んでいた代々木の同じマンションのフロア違いに住んでいた。高田馬場早稲田口の居酒屋で長年働いていたとのこと。ママさんに声をかけられこの店で働くことになった。
ママさんは築地の場内市場に通って魚を仕入れている。魚がうまいのは当然だが、キンピラのごぼうやほうれんそうなど野菜もうまい。野菜は市場に出入りしている方から直接仕入れている。

この日わたしが注文したのはカジキまぐろの煮つけと焼きナスだった。夜の8時ごろでも定食があるらしくびっくりしたが、隣の女性はサバの味噌煮定食と冷やしトマトを注文していた。たいへんおいしそうにみえた。この店はさすが定食屋をやりたくてはじめた店だけある。そしてごはんがおいしい。夜の8時近くになっても定食を食べられるし、大きくて温かいおにぎりがメニューにある。さすが定食屋を志しただけある。そういえばビルの袖かんばんは「家庭料理 志乃ぶ」になっていた。
その他、冷や奴400円、厚揚げ焼き500円、ニラ玉とじ600円、茄子のしぎ焼600円など。焼酎は、イモが伊佐大泉、麦がいいちこ。伊佐大泉(大山酒造)は鹿児島北部の伊佐、いいちこ(三和酒類)は大分県宇佐の酒、どちらも九州の酒である。

毎年9月に鳩森八幡の祭礼が催され、代々木の駅前にはちょうちんが並ぶ。だいたい駅周辺の古い店が出すことが多いのだと思う。その左上に志乃ぶのちょうちん3つ並んでいた。2段目に日本共産党のちょうちんが5つ出ていたには少し驚いた。地元に愛され、地元に溶け込むことを目指しているのだろう。 

今後の抱負を聞くと、細身のママさんは、とりあえず70までガンバろうとのこと、それで大丈夫なら80あるいは、もっと先もやろうと元気に語った。

電話: 03-3379-5848
住所:東京都渋谷区代々木1-21-12 ガイヤビル 1F
営業: 11:30〜15:00 17:00〜22:30 土日祝休

もう風も吹かない

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青年団の「もう風も吹かない」を吉祥寺シアターで観た。
時は2025年。場所は青年海外協力隊の国内訓練所、隊員は2か月余りの合宿訓練の後、赴任国に2年間派遣される。平田オリザはかつて協力隊の制度改革の諮問委員を務めていた。そして当時の勤務先・桜美林大学演劇コース1期生の卒業公演のためにこの芝居を書き下ろした。

舞台は訓練所のロビー、右に図書館のテーブルのような大きい勉強机、左はソファーセット。2,3か所で同時多発的にセリフが交わされるが、こういう設定は青年団の芝居では普通である。右手には宿泊棟、正面奥には事務所や玄関、左には訓練棟につづく廊下が広がる。なぜかロビーは2,3段低い位置にある。斜面に建物が建っているという想定なのだろうか
登場人物は男女各6人の訓練生、副所長をはじめ5人の職員、そのほかこの日リタイアして実家に戻る元訓練生、賄いの女性職員、視察に来たJICAの職員2人、うち一人は元隊員、もう一人は外務省から出向中の女性。さらに訓練生の妹で海外協力の費用対効果の研究をしている大学生など、立場の違う人物が登場する。

この日は合宿最後の連休で多くの隊員は町に遊びに行っている。このロビーで、視力4.0、余興の歌の練習、最初希望した赴任国、ちくわ丼、などとりとめのない会話が続く。これもいつものとおりだ。訓練生は20-39歳と若いので、恋愛、規則違反の所内飲酒事件が持ち上がる。また日本の国力は衰え円は400円台に下落し、派遣もこの訓練生が最終で募集停止という暗い状況に置かれている。訓練生は「自分が本当に赴任国の役に立つのか」と不安を抱え、「僕には人は助けられない」と思い詰めて、退所する訓練生まで現れる。

だいたいはとりとめのない話だが、シビアなトピックスをいくつか含んでいる。
「1ドルが400円を超えたら、海外支援は完全に凍結するっていうのが、政府の方針だったからね。もう、先週末で430円くらいでしょう。こんなことしてたら、IMFからも支援してもらえなくなるからね。」(p22 以下セリフはすべて会場で販売していたシナリオより)
「君たちは、赴任先でも、厳しい視線にさらされることになると思います。正直言って、日本はずっと「継続した支援」とか言ってきたわけだからさ」
「減反を推進する一方で、日本政府の方は、他の国の米作り手伝ってさ、いまじゃ、ほとんど外米の輸入に頼ってんだからさ・・・こんなお人好しの国ないよ。」(p42)
「私、協力隊の費用対効果について研究してるんですね。ここ、はっきり言って、すごい豪華じゃないですか、施設とか。だから協力隊の成果とか言っても、それだけのお金をかけた価値があるかってことですよね、みなさんに。」(p55)
「どうして、そういう独裁の国に人行かせるんですか? そんなの、日本の税金で、どうして、そんな国助けるんですか?」
「完全な民主主義国じゃなきゃ援助しないなんて厳密に言ったら、途上国なんて、どこも援助できなくなっちゃうよ」(p74)
「(日本は)ポルトガルみたいに、東アジアの最貧国に転がり落ちていくってことでしょう。じゃあ、何、今回の派遣停止って、植民地からの撤退ってこと。」(p97)
ただ全体としてはもちろんユーモアたっぷりだ。こんな替え歌が振付入りで歌われた。
  「協力隊小唄」(軍隊小唄の替歌)
いやじゃありませんか協力隊、ヤヤヤ、
援助ばっかりしていても かねの切れ目が何とやら、どこに行っても鼻つまみ
ホントにホントにホントにホントに、ご苦労さん(p44)

  「ズンドコ節」(海軍小唄の替歌)
万歳三唱で 手をにぎり 送ってくれた人よりも
成田のロビーで泣いていた 可愛いあの娘が忘られぬ
    ズンドコ ズンドコ(p102)

  「可愛いスーチャン
お国のためとは言いながら、人のいやがるバングラに 志願で出てくるバカもいる
可愛いスーチャンと泣き別れ 可愛いスーチャンと泣き別れ(p29)

これらはいずれも軍歌や戦時歌謡のジャンルの曲である。
それもそのはず、賄の若い女性は「特攻隊を送り出す街の食堂の店員さんみたいな感じ。なんだか、そんな映画見たことありますよ。」(p72)と感慨を述べる。この映画は、おそらく石原慎太郎が知覧の鳥濱トメさんのことをを書いた「俺は、君のためにこそ死ににいく」のことである。

チラシの裏に「人間が人間を助けることの可能性と本質を探る青春群像劇」とあった。イスタンブールの安宿の日本人青年たちの喜怒哀楽の物語「冒険王」を思い出した。あのさわやかさは、しばらく青年団では見ていなかったような気がする。
エンディングは、ルワンダに赴任する俳句隊員の、アフリカの季語の羅列
「砂漠、井戸掘り、水汲み、洪水
タロイモ シマウマ フラミンゴ
 ・・・
希望 子どもたち、スコール、虹、夕焼け」で終わる。
さわやかなエンディングだった。2時間もかかる長い芝居だったが、ちっとも長いと感じなかった。

さて、この芝居の副所長役で志賀廣太郎が出演していた。
志賀は、たとえば2012年度下期の朝ドラ「純と愛」でオオサキプラザホテルの総支配人役を演じた役者だ。わたくしは「上野動物園再々々襲撃」(2001年)以来のファンである。
この芝居では沖縄出身という経歴になっていて、
「まだ沖縄が日本に返還される前ね、初めて協力隊の派遣があったんだな。日本じゃなかったんだもん、琉球は。パスポートも違うし、それが、日本を代表して、他の国助けに行くんだからね。」(p87)
「一族でお祝いするわけだな、名誉なことだって、ねぇ、まだ沖縄は日本じゃないけど、日本のために、お国のために働けるって・・・」
「それが学校行ったらさ、先生が怒ってるわけ、何でウチナンチューが、大和のために働かなきゃいかんのかって、他の国助けてる暇あったら、沖縄を助けろってさ」、「協力隊員は沖縄の恥辱とまで行ったからね、先生が」(p88)
かなり厳しいセリフである。

終演後、たまたま観客と歓談されていたので、シナリオにサインしていただいた。わたくしがわざわざサインを求めるのは94年の「麗しのキメラ・嘆きのキメラ」以来のことだ。上の劇場の写真で、路上に立っている男性が志賀さんである。拡大すれば見えるかも・・・。

☆吉祥寺駅前ハモニカ横丁の「おふくろ屋台一丁目一番地」という店に立ち寄った。マイク・モラスキーの「呑めば、都」(筑摩書房 2012)で紹介されていた店だ。80歳近い女性がやっている「渋い」店だった。基本的には常連さん中心の店のようだった。

安倍の大暴走に反対する最近の街宣活動

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今年は、安倍の大暴走が続く年だった。12月だけ考えても、強行採決につぐ強行採決だった特定秘密保護法の成立、カネにものをいわせた辺野古埋立承認の「強要」、靖国神社参拝によるアジアのみならず欧米との摩擦増大など、ファシズム国家への道をひた走りに走っている。こうした安倍政権の暴走を止めようとする市民活動も徐々に盛り上がった。とくに街頭デモや集会はここ数年になく規模も回数も拡大した。

12月22日(日)、首都圏反原発連合の国会前抗議集会があった。
「原発いーらない!」「再稼働反対」「廃炉、廃炉、ハイロ、ハイロ!」。毎週金曜の官邸前行動と同じだが、規模がアップしたシュプレヒコールが轟いた。
国会大包囲は大成功で、主催者によればこんなことは60年安保以来なのだそうだ。
11月から12月にかけて全国を回ったたんぽぽ舎の柳田さんによれば「毎週金曜夕方の官邸前行動は全国に波及している。東京は全国の灯台となっている。また現在原発はすべて止まっているが、地元の人にとって安全安心で、『自然が戻ってきた』と喜ばれている」とのことだった。
ところが安倍政権は新年早々「原発をベースエネルギーとし、民主党政権のときに決めた2030年代に原発をゼロにする方針を覆す」ことを閣議決定しようと目論んでいるとのことだった。参加者全員怒り心頭に発し、国会への抗議の声は一段と大きくなった。
わたしはさすがに毎週というわけにはいかないが、少なくとも月に1回は官邸前に足を運び抗議行動に加わった。
抗議集会やデモのドラム隊やトランペット、サックスなどの演奏はすっかり定着した。年末の国会前集会では、いつものジンタらムータに加え、エッグブレインというロックバンドのパフォーマンスまであった。

12月6日(金)特定秘密保護法に反対する大きな国会前行動が参議院議員会館前で開催された。道路には巨大な機動隊員運搬バスが何台も並び、空にはヘリコプターが爆音を上げていた。戒厳令下の国会前はこんな雰囲気だったのかと思った。「採決は無効だ。差し戻せ!」「これが民意だ、よく聞け」「アベシンゾーは恥を知れ!」「イシバシゲルは恥を知れ!」とシュプレヒコールを上げた。石破幹事長はデモもテロだと言ったが、これは特定秘密法が「政治上その他の主義主張に基づき、国家若しくは他人にこれを強要する活動」をテロと定義しているからだろう。「わたしたちはテロじゃない」というシュプレヒコールまで上がった。一方「福島みずほ、ありがとう」「山本太郎、ありがとう」というコールもあったが、これはちょっとやりすぎだと感じた。
しかしこの夜深夜、参議院本会議で可決してしまった。それにもめげずその後も、たとえば12月13日参議院前で秘密保護法を廃止しようという一団の姿があった。

官邸前から全国への波及のひとつとして、今年は10月30日に新橋スーツデモが実行された。新橋は東京電力の本社所在地だ。平日の夜にもかかわらず、600人もの人が集まった。わたくしも含め「フツー」のスーツ姿のサラリーマンの集団だった。

また9月には、ついに差別・排外主義に反対するデモが実行された。数年前から在特会、主権回復を目指す会、日侵会などヘイトスピーチ団体が勢力を伸ばしてきた。今年10月には京都地裁で有罪判決が出た。当然である。しかし差別撤廃東京大行進では、レイシストをしばき隊・男組とヘイトスピーチに反対する会のあいだでトラブルがあったようだ。
11月には安倍政権の教育政策に反対するビラまきが阿佐ヶ谷駅前で行われた。総勢10人くらいで約1時間300枚のビラをまき切った。

☆一方、増田都子さんの都教委に対する抗議活動はいまも月末早朝に都庁第二庁舎前で続いている。都教委に対する解雇撤回訴訟は5月に最高裁で却下されて終わった。しかし東京都学校ユニオンはいまも存続するのでビラまきは続いている。
写真は年末の12月26日早朝都庁第二庁舎前で行われたビラまきにて。

人道支援で日本と朝鮮の平和な関係の構築を

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1月18日(土)、飯田橋の東京ボランティア・市民活動センターハンクネットの「人道支援で日本と朝鮮の平和な関係の構築を」という集会が開催された。
ハンクネットとは、1998年8月のテポドン騒ぎで日本政府からDPRK(北朝鮮)への支援がいっさい中止されたため、人道的な観点から子どもたちに粉ミルクを送る団体である。99年6月大阪で結成され、2012年までの支援の総額は2372万円、粉ミルクの総量は2万674kgに上る。
この日は、2012年に訪朝した竹本昇代表と朝鮮大学校の李英哲(リ・ヨンチョル)准教授の講演をお聞きした。

1 ビデオによる訪朝報告  ハンクネット代表世話人竹本昇さん

1998年8月末テポドン打ち上げの際、他国は人工衛星と報じたのに日本だけはミサイル発射実験と断定して報道し、それまで日本政府も市民団体も北朝鮮に人道支援をしてきたのに、ごく少数の市民団体を除いて中止し敵対関係が醸成された。
秋に2人の友人が「いっしょに支援活動に取り組もう」と訪ねてきた。じつはそのときわたくしは9月7日に息子を難病で亡くした直後で、なにもする気になれなかった。しかし、関東大震災のときに日本の民衆が官憲のデマに乗せられ、朝鮮人を虐殺したのと、ミサイルというデマで共和国の赤ん坊を見捨てるのは同じ罪を繰り返すことになるのではないか、いったいどう違うのか、という思いが強くなり、ハンクネットに加わる決意をした。
その後、わたしは7回訪朝したが、日本では、ミサイル発射実験、核実験、拉致をネタに、どんどん排外主義が強くなっていった。日本では、人道主義より朝鮮への排外主義が上回っている。わたしたちは粉ミルクで、人道支援を行っている。
最近の張成沢(チャン・ソンテク)処刑で、多くの人は「こわい国」だと思っている。しかしルーマニアのチャウシェスク夫妻処刑や東京裁判での7人のA級戦犯処刑ならそれほどには思わない。「ほかの国ならよいが『北朝鮮』の場合は悪い」というダブル・スタンダード、これが日本の排外主義、排外意識である。わたしたちは、敵対でなく友好関係をつくっていきたい。
そして2012年11月訪朝のビデオによる報告に移った。朝鮮赤十字、ピョンヤンの育児院、ウォンサンの映像が映し出された。赤十字の説明では、北朝鮮は1995年から連続して自然災害を受け、2012年には大雨、台風、洪水に見舞われトウモロコシなど農作物の被害は60年ぶりの大きさだった。
育児院には50人の赤ちゃんがいた。粉ミルクはピョンヤンで調達したドイツ製の製品だ。日本の粉ミルクはセシウム汚染の疑いがあるので、日本製並みの品質のドイツ製にしたのだ。
子どもたちが、ビデオに映った自分の姿を発見し、大騒ぎしていた。子どもは世界のどこの子もかわいい。その他、ハナ音楽情報センターやリンゴ園の情景、ピョンヤン市内の幼稚園が紹介された。
ハンクネットの活動には2つの課題がある。ひとつは粉ミルクを送り栄養不良の子どもの健康を回復することだ。そしてもうひとつは、日本の市民に、共和国の実態を知らせることだ。そういう活動により日朝の友好な関係を早く築けるように今後も頑張りたい。

現在日本における「分断」状況・植民地主義を考える
            李英哲・朝鮮大学校准教授

わたしは1974年生まれで、激動と混乱に満ちた90年代に高校・大学生活を送りながら思想・人格を形成した。1992年には、高校の修学旅行で、同年初就航した「万景峰(マンギョンボン)1992号に乗りはじめて故国の地を踏んだ。
2000年代に朝鮮学校の日本語教員となった。現在の専門は日本語文学だ。
今日わたしが言うところの「分断」という言葉にはさまざまな含意がある。朝鮮半島の分断はもちろん、在日朝鮮人の朝鮮からの分断、日本人と朝鮮人との分断、在日朝鮮人同士の分断、日本人同士の分断などである。
わたしは在日で、朝鮮人で、三世で朝鮮人だが母語は日本語、かつ朝鮮学校で日本語を教えるというユニークなポジションにいる。わたしだけでなく、在日朝鮮人はみな自己の内に、相互に葛藤・対立する分断・分裂を抱えている「複雑怪奇」な存在だ。

●さまざまな分断
朝鮮人にとって「分断」と言えば、さしあたり朝鮮半島の分断を指すだろう。しかし「分断」とは単に国土や民族が二つに分断されているということだけではない。植民地主義とは分断統治を基本とする。他国や他民族を支配するとき、敵・味方、支配・被支配だけでなく親日・反日といった内部分裂を必ず持ち込む。支配の常套手段である。
植民地としての実効支配、実際の統治が終わっても、当時の観念、たとえば差別や優越意識などを信念として、他者を植民地時代と同じように取り扱い続けることに対し、植民地主義と呼び批判する必要がある。歴史的に継続する植民地主義により、さまざまな「分断・分裂」が今日なおも朝鮮人に持ち込まれている。
在日は朝鮮半島から分断している。また在日のなかでも、総連か民団かというだけでなく、総連コミュニティ内部で、あるいは民団コミュニティ内部での分断もある。民族よりも個人の権利や自由が大事というのは一見普遍的に聞こえる言説だ。しかし、「お前が嫌いだから差別する」のではなく「お前が朝鮮人だから差別する」という集団的なアイデンティティや集団的な権利を否定し暴力をふるってくるにもかかわらず、それに対抗する論理が個人の権利や自由、人権一般に限られてしまえば克服は難しい。朝鮮人差別の問題を個人の人権の問題一般に切り縮めるのは「普遍化のワナ」である。
分断統治による植民地支配期から連続する朝鮮分断に対し、日本は歴史的責任をもっている。日本は敗戦直後から、米軍政に「共産主義者たちが暴れまわっている」と申し入れ、南朝鮮には日帝時代の警察機構がそのまま残されて共産主義者を弾圧した。日本は主体的に植民地支配責任を否定し、今日まで継続中である朝鮮半島の分断と戦争に加担してきた。朝鮮戦争は決して「対岸の火事」ではなかった。国連軍(実質はアメリカ軍)とDPRKは戦争が続いている。だから沖縄に米軍基地の75%が集中しているのだ。さらにアジアからみると沖縄は「悪魔の島」だ。かつて米軍機が沖縄から朝鮮半島を爆撃し、その後、ベトナム、イラク、アフガンに飛んだ。そういう他者からの視線をまったく無視してきたツケが回ってきているのがこんにちの日本の状況だ。しかしながら歴史的責任からさらに自らを分断する動きが強いといえる。また朝鮮問題に限れば、「北朝鮮」を悪魔化し、あるいは嘲笑、蔑視し、上から目線で「貧乏な国」「朝鮮学校にカネをやるかどうかは、こちらのサジ加減次第」という乱暴な論理がまかり通っている。

●「制裁政治」と「制裁文化」
たんに朝鮮人が嫌いとか、差別するというのでなく、政治的意図をもって弾圧する。90年代後半からの公権力の制裁政治に呼応するかたちで、今日民衆の草の根排外主義が噴出しているのが現在の状況だ。「日本に都合の悪い教育をするな」と内容・内面に至るまで侵略する。かつて小沢有作がそう呼んだように、これは「教育侵略」そのものである。一方、朝鮮学校当事者は、「北朝鮮とは距離を置いている」「小中学校では指導者の肖像を下している」など、どんどん制裁する側に「弁明」を強いられる構図になっている。「踏み絵」と同じだ。アメリカンスクールでヒロシマ・ナガサキへの原爆をどう教えているかということを文科省はチェックしているのだろうか。「北朝鮮」制裁の一環として、就学支援金からの除外が公然と行われているのである。
在特会は「よい韓国人も、悪い韓国人もみな殺せ」というプラカードを掲げている。いみじくもこのスローガンは本質を正直にいっている。朝鮮人を総体として否定しているのだ。
植民地主義的言説は、まず「北朝鮮」に「負」「悪」のアイデンティティを刻印する。ステレオタイプ化するわけだ。一方「真正」なアイデンティティをねつ造し強要する。たとえば片山さつき議員は通名に関し、なぜ通名を使わざるをえなかったのかという歴史をまったく無視して「帰化すればよい」と強要する。言葉が暴力、脅迫となって押し付けてくる。さらに支配するものを序列化、選別し共犯関係を創出する。そして「無知」「無関心」を構造化し再生産する。やり方は簡単だ。教えず、知らせなければよい。つまり教育とマスコミだ。
そのような中で、自己を表現し自己決定することがすなわち脱植民地化の過程である在日朝鮮人にとって、あらかじめ自己を表現する力が奪われている。
DPRKの人々は、過剰なくらいに自分たちの正しさを誇示する。それはアイデンティティを徹底的に否定されてきた存在は、それを力づくではね返し、自尊感情を回復するには徹底的に自己肯定する必要があるからだ。分裂・分断の対極にあるのが統一や団結だ。分断を克服し、統一や団結をさまざまな犠牲をともなってでも至上課題とし実践し続けてきた、その脱植民地化過程をこそ認識することが肝要だ。
朝鮮人弾圧の次には必ず日本人弾圧が来る。歴史をみてもそうだ。1910年は朝鮮強制占領(日韓併合)の年だが、同じ年に大逆事件が起こり近代天皇制絶対主義が確立した。1923年関東大震災時には朝鮮人虐殺が発生したが、同時に大杉栄・伊藤野枝を虐殺した甘粕事件や亀戸事件が起こった。朝鮮戦争前夜には1948年の阪神教育闘争が起こり朝鮮学校、在日朝鮮人団体が暴力的につぶされたが、その後日本は逆コースを歩み、再軍備の道を進んだ。これらの歴史は過去のものではない。朝鮮問題、在日朝鮮人弾圧を奇貨として国内をしめつけ、軍国化を着々と進める今日の日本の状況そのものである。
関東大震災時に秋田雨雀が述べたように、朝鮮人は日本人の敵ではない。日本人を苦しめるのは日本人自身なのである。「北朝鮮」問題、朝鮮学校問題とは日本問題にほかならないということをあらためて訴えたい。
状況は一層厳しく、もはや遅きに失している感はあっても、だからこそ朝鮮人と日本人とが粘り強く対話を続け、互いに分断しない場をつくること、増やしていくこと。出会って話し、課題を共有し、連帯を積み重ねていくこと。それが急務である。

☆前回わたくしがこの会の集会に参加したのは、2008年12月14日アカデミー千石での「ほんものの和解を――人道支援と戦後補償、そして日朝国交樹立」という集会だった。当時でもけして北朝鮮と日本の関係はよくなかったが、あれから5年、ヘイトスピーチが公然と街のなかで叫ばれ、一般の人、とくに女性の「北朝鮮」嫌いも当然のようになり、政治家が「朝鮮学校への補助金は、市民の理解を得られない」と堂々と発言する社会になった。
なんの展望もないが、細々とでも粉ミルクを送る運動を日本のなかで続けることは、後世からみればきっと意義ある活動となるだろう。

◎2014年2月3日李英哲さんの部分を書き換えた。

いまだかつてない悲惨な選挙

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都知事選が終わった。この選挙は、わたくしにとって「いまだかつてない悲惨」な選挙だった。
悲惨だったのは、ひとつは年末の12月21日から「澤藤統一郎の憲法日記」で「宇都宮健児君、立候補はおやめなさい」の連載が始まったことだ。わたくしは大分のHさんのメールで22日(日)に知った。それまでは「自民が年内に候補を決める」と言っていたので、反自民側も27日くらいまでに決まればいいな、と思っていた。志葉玲さんのウェブ上の発表(12月22日)があり、その直後に立候補表明があった。「安倍政権の暴走にストップをかけ、東京から国政を変える」というキャッチフレーズには、まったくそのとおりと共感した。

しかし日をおってブログを読むごとに、あの事務所に非民主的な体質はたしかにあったのではないかと思えるようになっていった。1月4日以降の「醍醐聰のブログ」も、「たしかに」と思わせる内容だった。1月11日事務所開きがあったので、ボランティアも兼ねてのぞきにいった。するとK事務局長をはじめHさん、Mさん、Iさんなど2年前と変わらない顔ぶれだった。司会は驚くべきことにHさん本人、Uさんもあとから顔を出した。まったく何も反省していないようだった。
前回は、事務所を訪問するごとに、少額だが1000円ずつカンパをした。しかし、結局幹部の方の選挙報酬や宴会代になると思うとイヤな気になるので、今回は一切寄付しなかった。
一方、年末年始にかけて細川護煕氏が立候補するかもというウワサが広がった。そして1月15日には、細川・小泉会談後の写真が新聞を飾った。脱原発に焦点を絞れば細川候補のほうが現実の社会へのインパクトが強く、影響力がある。しかし候補者として政策などの魅力は宇都宮候補が高い。細川候補が都教委についてどう考えているかまったくわからない。
ところが待てど暮らせど脱原発以外の細川氏の政策が発表されない。発表は告示前日の夕方だった。しかし東京都の教育については「規制緩和」というだけで、具体的にはどんなことかまるでわからない。それで告示翌日の24日夕方直接平河町の事務所に行ってみた。教育政策についてスタッフの方に聞いてみたが、「まだ何もわからない」という。確認団体チラシもつくるかどうかまだ決まっていないとのことだった。
選挙が始まってから四谷三丁目の細川勝手連の事務所を訪ねた。宇都宮事務所から徒歩5分くらいの場所だった。ところが行ってみると、驚くことにそこは「海江田万里を支える会」の事務所だった。  

そしてもうひとつ悲惨だったのは、市民選挙でなく政党選挙だったことだ。宇都宮選挙は共産党が中心のようだった。1月に近所で街宣があったので行ってみた。中心になっていたのは共産党の都議と区議、その他新日本婦人の会の方がビラ配りをやっていた。また投票2日前の7日の夜、都内各駅一斉街宣というイベントがあり、新宿駅西口に行ってみた。20人くらいの人がいたが、「東京都知事は宇都宮、宇都宮」とまるで「地方区は吉良よし子、吉良よし子 」と同じ調子のコールをしていた。通行人としてならともかく、普通の市民がビラまきに参加できる雰囲気ではなかった。
最終日は雪の中でのフィナーレだった。新宿駅西口は風があって吹雪いていた。いつものロータリーでは鈴木たつお候補が街宣しており、宇都宮候補はハルク前だった。意外に若い人、それも女性が多かった。知り合いの共産党の女性が交通整理をしていた。やはり共産党の大量動員があったのではないかと思った。
事務所でも、選挙でよく出会う市民派ボランティアの人にはまったく出会わなかった。正確にいうと杉並区議の1人にのみ出会った。みんな細川候補の支援をしていたのだろうか。
近所の街宣では宇都宮候補の1時間前に同じ場所で舛添候補が街宣をしていた。そこでは自民党の地元選出衆議院議員と都議会議員が中心になっていた。公明党の議員は一人も見かけなかった。まさに自共直接対決である。

選挙終盤にはchange.orgで「何とかしてよ都知事選!」署名が始まり、わたくしも署名を送信した。さらに「市民の希望は、一刻も早い宇都宮候補の立候補辞退」と願うまでになっていた。宇都宮さんは、教育担当の副知事なり教育長でもよいのではないかと思ったのだが・・・。本当に悲惨な選挙だった。

選挙の結果は、9日(日)21時からのテレビ番組でわずか5秒で「舛添当選確実」と発表された。宇都宮98万2594票+細川95万6063票でも193万8657票で、舛添の211万2979票に及ばない(差は17万4322票)という完敗ぶりだった。宇都宮候補が細川候補を上回ったのは、やはり天候が悪く投票率が史上2番目に低かったことと、共産党の組織票だったと思う。
なお振り返ると、わたしは、集会への参加、事務所開きへの参加、会場設営の手伝い、カンパの領収証発送の住所書き、近所の家へのポスティング、電話入れ、雪の中のフィナーレへの参加など、やることはやっている。

☆国会では安倍首相が、9条の解釈改憲を最高責任者の首相の独断でできるようなことを言っているし、戦後教育をマインドコントロールだと断罪し根底から「改悪」しようとしている。安倍の「暴走」にほかならない。都知事選では、田母神俊雄候補は61万票も得票した。とくに20代の若者の支持が高かったという。日本の図書館から「はだしのゲン」や「アンネの日記」が廃棄される日も遠くないかもしれない。そして1年後には核武装をして、中国との戦争が始まりそうな社会の雰囲気である。未来の子どもたちのことを考えれば、やはり、あきらめずやるべきことをやり続けたほうがよいかもしれない。

小さいおうち

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小さいおうち」のはじめのシーンが火葬場というのには驚いた。火葬場の煙突から煙が立ち上る光景は、たとえば小津の「小早川家の秋」でもあった。しかしいきなりヒロイン・タキ(倍賞千恵子)の火葬から始まる映画はなかなかないと思う。しかも釜の前に置かれた遺影の写真がヒロインの登場シーンなのだ。山田洋次監督は「おとうと」で臨終の場面を延々と撮っていたが、老境にさしかかりとうとう火葬や葬儀に思いを馳せたのだろうか。

倍賞千恵子が80代の老婆の役をやっていた。腰が曲がっていた。プログラムの本人の弁で「現場では『腰を曲げて曲げて』と監督に言われ、そこを注意しながらやった」と述べている。実年齢は72歳なので、たしかに少しつらいだろう。
また米倉斉加年の顔のシミと「目も足も3年前にダメになって」というセリフ。年をとると、だんだん体の自由がきかなくなる。極めつけは、大泣きしながらタキが語る「私、長生きしすぎたのよね」というセリフである。
80代の山田監督のホンネなのかもしれない。

次の論点は、山田監督には珍しい女性映画だということだ。男もつらいかもしれないが、「女もつらいよ」という映画だった。
時子(松たか子)は、この映画のなかでは一番寅さんに似て、自由奔放な性格だ。年始に来訪した客をみて「男ってイヤね。こんなときにも戦争と仕事の話しかしない」と吐き捨てる。そして恋愛では挫折を味わう。タキは、主人に従い、主人を立てる女、しかしいうべきときは毅然とした態度をとる。そういう「日本の女」的な面が、黒木華のベルリン映画祭最優秀女優賞(銀熊賞)受賞につながったのだろうか。時子の姉、貞子(室井滋)は猛烈な教育ママで、原作では手塩にかけた息子を名門・府立高校(七年制、その後の都立大学)に進学させ東京帝大理科に入学させた。時子の女学校時代の親友・睦子(中嶋朋子)は雑誌編集者として時流に先駆け、かつ時流に流される生き方をしている。

また山田映画なので、やはり反戦映画でもある。
ショージ(吉岡秀隆)が出征するとき、「僕が死ぬときは、奥様とタキちゃんのためだ」との言葉に、タキは思わず「だめです。死んではいけません!」ときっぱりいう。このセリフは原作にはない。山田監督の強い思いなのだろう。
母べえ」(山田洋次 2008年)と同じ時代(1940年代)を背景にしている。ただし玩具会社の常務と左翼学者では、家庭の映画でも違うストーリーになる。もちろん「母べえ」のほうが悲惨な日々のはずだが、こちらは5月の大空襲で夫婦共に自宅の防空壕で焼死してしまうのだから最悪の結果である。
   
役者としては、松たか子の和服姿がなかなかよい。前にみた「ヴィヨンの妻 桜桃とタンポポ」(根岸吉太郎 2009)を思い出した。
松の姉役・室井滋が麻布の奥様を演じられるとは思わなかった。「のど自慢」(井筒和幸 1999)の赤城麗子や「風の歌を聴け」(大森一樹 1981)の自殺する女の子をみた観客としては、時の流れを痛感した。4月からは朝ドラ「花子とアン」で主人公の母・安東ふじ役を演じるそうだ。
吉行和子はもう78歳なのにずいぶん若々しく、元気いっぱいにみえた。朝ドラ「ごちそうさん」では「ぬか床」という「難しい」役を演じているが、大したものである。
その他、脇役も豪華だ。チョイ役で、笹野高史(荘内の中学教員)と松金よね子(その叔母)、そしてあき竹城(タキの伯母)、林屋正蔵(マッサージ師)が登場する。また平成のタキの周囲には小林稔侍、夏川結衣、米倉斉加年が出てくる。木村文乃はこんなにきれいな人だとは知らなかった。山田映画なので、いつものように蒼井優でよいではないかもと思ったが、やはりもっときれいな人のほうがこの映画には合う。

この映画のひとつの主役は赤い瓦の三角屋根の家である。この家の姿からは、音羽の鳩山邸や大田区久が原の「昭和のくらし博物館」を思い出した。鳩山邸はステンドグラスや応接間、「昭和のくらし博物館」は台所や縁側、庭などである。そういえば玄関の脇にご主人の書斎があった。2階には3姉妹がつかう子ども部屋があり、以前は下宿人が住んでいた。
オレンジと黄色のステンドグラス、電灯の傘、玄関の床のタイル、応接間の壁紙、応接間の陶器の西洋人形がそれぞれ美しい。駒場の前田邸なら洋間の各部屋に暖炉があるが、サラリーマンの家なのでさすがにそこまではなかった。わたしにはわからないが、格子縞、棒縞、井桁絣など和服の模様や色、材質にもきっとこだわりがあるのだと思う。ブリキや木のおもちゃ、模型飛行機、タンク・タンクローのマンガなどもリアルでしっかりしていた。夜空には大きな星がたくさんまたたいていた。そして月が大きかった。田舎や避暑地までいかなくても東京でもたしかにこんなだった。
山田監督は映画監督なので、新藤監督のように100歳近くまで映画をつくり続けるかもしれないが、小津の晩年のように、もう円熟期の作品にみえる。2時間16分の長い映画だったが、長いとは感じなかった。

赤い屋根の家というので、場所は、たとえば東上線のときわ台あたりかと思った。宮前小学校という地名が出てきたので杉並かとも思ったが、じつは大田区雪谷が舞台だった。近くの石川台は「おとうと」で吉永小百合が薬局を開業していた場所だ。息子が通学する小学校は2駅隣の長原、住所は上池台になっていた。じつは山田監督は高校生のころそのあたりに住んでいたらしい。満州と山口県に住んでいたことは有名だが、卒業したのは小山台高校だった。

さてこの作品の脚本も平松恵美子との共作である。わたしは内心、この映画こそ平松監督の映画になるのではと期待していた。もしかすると今後も小津映画の野田高梧のような役割で共作を続けるのだろうか。この映画には、洗濯、掃除、雑巾がけ、アイロンかけ、調理、子どもの世話、病人の看病、など数々の家事仕事が出てくる。きっと平松さんがきめ細かく振付けたのではないかと思った。

☆教育ママの貞子が「本郷の誠之、青山の青南、麹町、番町、それと白金。この5つくらいに入れなければ、まともな中学へは行かれないわ」と時子に説教する。平塚らいてうや中村光夫が出た誠之、安岡章太郎、北杜夫が卒業した青南は知っていたが、戦前から番町、麹町は有名だったようだ。そして白金小学校からは小林秀雄、古井由吉を輩出した。原作の中島京子という人は、50歳前の若い人なのに府立高校といい、どうしてこんな古いことを知っているのか少し驚いた。

卒業式校門前ビラまきと原発ゼロ大統一行動

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卒業式の日の校門前ビラまきには2008年から参加し、1度病気で行けなかった年があるので今年で6回目のはずである。
思い出に残っているのは震災の年だ。地震の翌朝が卒業式で、職場に泊まる人も多いなかがんばって歩いて帰宅した。翌朝光が丘高校に行くと、残念ながら延期だった。こちら側も問題があり、一人は職場に泊まり込みで欠席、もう一人も千葉に出かけて歩いて帰ったら着いたのは3時半ということだった。しかし日曜に、1日延期で卒業式をした石神井高校に行ったのと、翌週水曜に放射線の影響で自宅待機になり、延期の光が丘高校でビラまきをした。たしかこの時期、コメが売り切れでスーパーから姿を消した。

3月8日(土曜)朝、都立光ヶ丘高校の校門前でビラまきをした。わたくしは8時40分ごろに到着したが、早く着いた人の話では、副校長が名前を名乗って「保護者はよいが、生徒には配布しないでください」と申し入れてきたそうだ。「いえ、生徒にも配ります」と堂々と「宣言」して配布した。
この日配ったのは都教委包囲・首都圏ネットのピンクのビラと練馬・教育問題交流会の黄色のビラの2種類だった。

ピンクのビラは表面が「『君が代』誰にも立たない、歌わない自由があります」というタイトルで、非正規雇用の蔓延、格差社会、都教委の10.23通達、秘密保護法の制定などに言及し「自由のない、秘密の多い国に良い国はありません。先生たちが心配したように、日本の社会は戦争に向かっています。その証拠に、ついに昨年、自衛隊駐屯地で隊内訓練をする都立学校まで出てきました。戦前の学校では「軍事教練」が正課の授業でしたがそれにつながります」と述べる。
裏は「〈2014年の今は1944年の戦争の時と似てきた〉政治でも原発事故でもウソと秘密がまかり通ってる。ウソと秘密で戦争は始まる」というタイトルで安倍がIOC総会で「コントロールされています」とスピーチするイラストが付いている。
黄色のビラは、猪瀬前都知事の辞任と選挙、大雪の被害、ソチ五輪での「日の丸」「君が代」、原発事故による30万人の帰りたくても帰れない人びとなどにふれ、「日の丸」「君が代」に関する職務命令に従わずのべ457人もの教職員が処分されたこと、憲法の主権在民、表現の自由などについて述べている。

まいた枚数は3人で181枚だった。生徒の受け取りは悪かった。なかには受け取ってから友人に「あっ、受け取っちゃいけなかったんだっけ」という女子もいた。ただこれは卒業式のビラを指すわけではなく、一般的に町で配っているビラをもらわないように言われているという意味のようだった。奇抜なスタイルの生徒はおらず、ほぼ全員制服だった。また保護者は、車に乗り合わせてきたり、タクシーで乗り付ける人が増えてきたようだった。天気は快晴だったが、気温が低く終わりのころには手がかじかんできた。

翌日の3月9日、日比谷で原発ゼロ大統一行動の大きな集会とデモがあった(主催者発表3万2000人)。わたくしは国会前集会に参加した。そして国会前庭が特等席であることを発見した。いつもは国会に向かって舞台の左のほうに立っているのだが、もみあい状態でほとんどスピーチしている人の顔が見えなかった。ところがここなら地上より1mくらい高いのでしっかり見える。

志位委員長ら3人
ジンタらムータwithリクルマイ の「不屈の民」と「平和に生きる権利」の歌のあと、政治家や団体の方のスピーチが始まった。
共産党の志位和夫委員長、笠井亮衆議院議員、吉良よし子参議院議員は、政府のエネルギー基本計画案について3つの問題を指摘した。まず、原発を「重要なベースロード電源」と位置付けているがこれは原発を永久化する宣言だ。つぎに原発はコストが安く供給が安定しているというが、事故処理費や核のゴミ処理コストを含めると究極の高コスト電源だ。そして世界でもっとも厳しい規制基準というが、安全な原発などありえない。福島原発事故はまだ収束していない、原因究明もできていない、それなのに再稼働など論外だ。
経産省前テントひろばの渕上太郎さんは原子力規制委員会の新規制基準の問題点を語った。新基準に基づいて政府は再稼働を決断するが、原発事故の際の避難は地元の自治体が決める。3つがバラバラで結びついていない。基準は規制委員会が決めるので政府は責任を取れない。避難できるかどうかと無関係に再稼働が決断される。
再稼働阻止全国ネットの柳田真さんは「1か月前に規制委員会と交渉した。新基準に従えば事故は起きないかと尋ねると「事故が起きないとはいえない」という回答だった。つまり起きるということだ。さらに規制基準は世界最高かと尋ねると「いえ最低の基準だ。安全をアップするのは事業者の責任」とのことだった。こんなことで再稼働させるわけにはいかない」と述べた。

菅直人元首相は、前日札幌の集会に参加した。「原子力規制委員会は原子力災害対策指針で、原発から30キロ以内の自治体に地域防災計画を策定することを指示している。泊原発から60キロの札幌市は事故がおきれば大きな被害をこうむる。だから市長は原発をやめてほしいと願っている。
しかし規制委員会の再稼働の新基準では、事故が起きたときに「どうすれば逃げられるか」とか「何年すれば戻って来れるか」ということは判断しない。電源が高いところにあるとか堤防の高さという技術的なことだけクリアすれば再稼働させる。住んでいる人の安全には関係なく再稼働の方針を出すというのだ。これが自民党のインチキなやり方だ。茂木経産大臣はわたしの質問に「やはり地元自治体の理解と協力が必要だ」と答弁した。しかし地元の理解がなければ再稼働させないとは言わない。それなら原発周辺の自治体が「このまま再稼働したら、安全に逃げられない。また短期間で家に戻ることもできない。だから自治体として反対だ」と意思表明すればよい。そういう働きかけをいま行っている。ぜひそういう声を上げていただきたい」と述べた。

13日(木)規制委員会は鹿児島の川内原発の優先的審査を発表した。つまり再稼働1号にするということだ。そんなことはけして許せない。
翌14日の金曜・官邸前行動に参加した。「川内原発、再稼働反対」のコールが圧倒的に多かった。

☆安倍内閣は「安全・安心」をモットーに少年犯罪の厳罰化や死刑執行の推進、外国人管理の強化を進めている。しかし原発再稼働は、「安全・安心」とはまったく逆の施策である。

突然の練馬区長選

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練馬区は人口71万2000人、世田谷区に次ぎ23区で2番目に大きい区だ。71万というと政令指定都市の静岡や県庁所在地の鹿児島、松山、宇都宮などより大きい。島根県や鳥取県の人口を上回る。前区長が急死したため突然区長選挙が始まった。
練馬区長志村豊志郎氏が2月23日の夜、自宅で急死した。3期目だったがすでに81歳とはわたしは気づかなかった。突然、4月13日告示、20日投票のスケジュールで区長選が始まった。
立候補を表明したのは4人。元東京都知事本局長の前川あきお氏、退職後は東京瓦斯の執行役員を務めた(自・公推薦)。区議3期目の池尻成二氏(完全無所属)、弁護士で、自由法曹団の幹事長や団長を歴任した菊池ひろし氏(共産・新社会推薦)。最後に立候補を発表し、初の女性区長をめざす白石けい子氏(区議2期。民主・生活の党・維新推薦)。
4月9日夜、東京青年会議所主催で練馬区長選挙公開討論会が開催された。ところが討論が始まってわずか15分ほどで前川候補は予定があるからと退席した。
他候補から認証保育所や外環の2という道路建設やコミュニティについて質問を受けて、「わたくしとはまったく見解が違う」と反論し「議論は大好きだ。必要ならいつでも受けてたつ」と言い残して帰ってしまった。じつはこの前日にも市民が公開討論会を開こうとしていたが、前川氏は「公明党との打ち合わせを優先する」という理由で辞退したため中止になってしまった。

前川候補は道路建設を積極的に進めると発言した。退席後、これに対し池尻候補からコメントがあった。
「前川候補は都市計画道路を計画どおりつくることが正しく、作らないのは欠陥ととらえている。しかし、道路づくりがまちづくりというような練馬区政のあり方は転機に来ている。まちづくりの原点は人づくりだ。人のつながりや暮らしや合意をもとに、人の顔を思い浮かべながら町をつくる、こういう考え方がこれからは大事だ」。
まさにその通りだと思った。前川氏が区長になったら大変なことになる。こう考えて少し選挙運動を支援することにした。
といっても1週間しかない短い選挙戦、告示前に一度池尻氏の小集会に出たこと、チラシのポスティングをしたこと、告示後に街頭演説を2回聞き、最終日に練り歩きに参加したことくらいである。公開討論会のときに、「この選挙の投票率は20%台といわれ、それを前提に票の積算をしている陣営もいる」という話すらあった。20%はひどすぎるので、少しでも投票率アップの力になりたいというのが大きな理由だった。
最終日の19日夕方、石神井公園南口の商店街で練り歩きをした。わたくしはかつて板橋の区議選で歩いたのと、保坂氏の選挙で阿佐ヶ谷駅周辺を歩いたことがある。その当時に比べると、どうも熱気が乏しい。世の中が変わってしまったのか。
フィナーレは北口ロータリー。「対話と公開」「学校に人を」「みどりの危機宣言」「ストップ 大型道路計画」など、池尻候補のキャッチフレーズを書いた短い横断幕がはためく。最後は「We shall overcome」の合唱で締めた。この曲は増田都子さんのテーマソングでもある。

投票日の夜10時ごろ、開票所に行ってみた。別に熱烈な支援者というわけではなくたまたま時間があり、場所が近かったからだ。広い体育館の片隅にムサシ投票用紙読取分類機が設置されていた。毎分660票読み取り分類するすごい性能で、10台以上あった。それなら30-40分で終了することになるがそうはいかない。人間の手と目で、名前も票数も複数回再チェックするからだ。「疑問票等一時集積場所」(氏名、白紙、リジェクト)、計数係、確認係と書かれた机が40くらい並び、それぞれ7-10人の係員が付いていた。一段高いひな壇のような席には、各候補の開票立会人が座っていた。
3階の傍聴席にはたぶん30人くらいの人がいた。わたくしが到着したときには開票率90%だった。すでに前川候補は2位の候補の2倍近くで圧勝だった。
開票結果は下記のとおり。
  前川 あきお  無所属 77,651票
  白石 けい子  無所属 41,047票
  池尻 成二   無所属 28,372票
  菊池 ひろし  無所属 27,452票
投票率は31.68%でかろうじて20%台は免れたが、過去最低だった。
自公候補に対する対立候補が3人もいては勝てるはずがない。都知事選の二の舞だった。統一候補をという動きもあったが、共産は、池尻候補とは政策が違う、都知事選で細川候補を支援したという2点で共闘できないとのことだった。
前川区長は、都政時代に石原都知事の腹心の部下として、築地市場の豊洲移転を推進した。また都立病院の統廃合を担当した人で、練馬の福祉はきっと悪くなるといわれる。
眉間のシワがトレードマークという前川区長は「区民とともに築くオープンな区政」を公約にしている。どんな区政になるのか見守りたい。

「織」の講評会をみれた国展2014

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第88回国展を六本木の国立新美術館で見た。
今年はたまたま初日に行けたので、工芸の講評会を途中からだが見れた。それも「織」のグループについて行けたのでラッキーだった。
表彰式が14時からなので、時間が従来より少し繰り上がって12時ごろにスタートするそうだ。およそ30-40人くらいのツアーだがほぼ全員女性だった。向こうの方を歩いている木工のグループはほぼ全員男性なので対照的である。
まず作家本人が作品について短いスピーチを行い、講評者が少しコメントするかたちで進行する。作家は、たとえば素材が麻か木綿かウールか絹かといったことや、モチーフの説明(たとえば秋の落ち葉、桜、孔雀の動きなど)、苦心した点、工夫した点、従来の作風との違いなどを2-3分語る。
なかには、計算違いがありこうなったと裏話をする人もいる。
だれが参加しているかその場にならないとわからない。「○○さん、いらしてますか?」と声がとぶ。審査をしているので名前や作風はわかっていても、顔はわからない人が多いようだった。

講評は主として寺村祐子さんと祝嶺恭子さんがなさった。とくに沖縄の祝嶺さんのコメントの印象が強いので少し紹介する。
「帯を活かす」「着る人を生かす」ということを考えたほうがよい。
「着物には用途というものがある。『どこに行くとき着る服か』『お母さんのプレゼントにする服』などと意識してつくるとよい」
講評の総まとめの言葉だったが「『先生がいうことが昨年と今年で違う。私はいったいどうすればよいのか』という人がいる。しかしまずは自分だ。自信や誇りをもてば作品そのものに力が出てくる。作品がものをいう」。たしかにもっともな話だ。
その他、「この作品をみて、こういうピンクを使う人はきっと若い人だと思った。わたしのように年をとるととても使えない」「こういうふうに横の線を一直線にそろえることはとても自分にはできない。もしかするとA型ですか? やっぱり。わたしはO型だから」など、率直な人柄がにじみ出て、ときにはギャラリーの笑いを誘った。
話のなかには、平織と綾織の組合せ、染料の原料がインド茜か西洋茜か、糸の染め方、絣(かすり)など技法に関する専門的なトピックスも混ざり、その部分はほとんどわからなかった。しかしいろんな苦心があるということは、自分にもなんとなく伝わった。

自作を前に解説する祝嶺恭子さん
作家も、あまり人前でしゃべることに慣れていないのでドキドキしながら話していることがよくわかる。一方先生のほうも、そんなに慣れているわけではないので、だんだん調子が上がっていく様子がよくわかった。
ちょっと意外な話としては、小幅のほうが広幅より入賞率が低く厳しいと聞いた。
またアーティストやクリエイターの方々の集団なので、和服の人はもちろん洋服の人も色のアンサンブル、服のスタイル、靴やバッグ、ショールなどとのコーディネイトなどながめていて楽しい。
私は途中から参加したが、それでも2時間弱かかり結構疲れてしまった。

そのあとも3-4人のグループになり、講評しあっている人もいた。若い人に親切にアドバイスしている人もいた。

小島秀子さんの「Morning mist」
作品としては、今年もルバース・ミヤヒラ吟子さんや小島秀子さん、村江菊絵さんの作品がわたしは好きだった。
なお今年も残念ながら、人間国宝・宮平初子さんの作品は出品されていなかった。

写真、彫刻、絵画、彫刻も駆け足でながめた。工芸だけで2時間半かかったので本当に駆け足だった。
絵画では、女性の顔を30ほど並べた稲垣考二「ひな壇」のインパクトが強かった。顔はほどんど同じ、つまり同一人物。髪型もロングでほぼ同じ、服も3種類だけ。こういう作品もなかなか力強かった。

国展とは関係ないが、兵庫県立美術館でコレクション展「ノアの方舟」をみた。澤田知子「ポートレイト」は街なかのスピード写真で撮った写真(4点で1組)を材料に、10列10行つまり400点並べた作品だった。これはすべて自分の顔なのだが、迫力があった。
絵画は結構その年の時代の特色が出るのだが、昨年や一昨年のような原発関連のものや社会的な作品は少ないようだった。よくいえば平和な時代の作品である。   

☆「ノアの方舟」で、森村泰昌「なにものかへのレクイエム(独裁者はどこにいる2)」をみた。もちろん森村氏がヒトラーのポーズをとっている作品だが、窓の外には高層ビルがそびえているので、まるで安倍晋三が自民党総裁室で「最高責任者は私だ」と気勢を上げているようにみえた。2007年の作品ということだが、この年の9月安倍は「お腹が痛い」といって辞任した。今回はいつごろ「独裁者」の椅子を下りてくれるのだろうか。

☆本筋とは離れるが6月15日(木)夕方官邸前に行った。ちょうど安倍首相が「解釈改憲」の記者会見をやっている時間である。空は、まるで憲法9条のお通夜であるかのようにどんよりしていた。数百人並んだ人々は「解釈改憲反対!」「戦争反対!」「安倍首相は憲法を守れ!」「安倍首相は死の商人をやめろ!」とシュプレヒコールの声を上げた。

10年目のラ・フォル・ジュルネ

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ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポンは今年で10回になる。毎年、ベートーヴェン、モーツァルト、シューベルト、バッハ、ショパンなどの大作曲家をテーマに掲げてきた。今年はヴィヴァルディからラヴェルまでこれまでの9人に今年ナントで取り上げたガーシュウィンを加え、かつそのメンバーが友人や先生を連れてくるという設定になっていた。たとえばモーツァルトはハイドンを、ショパンはリストを連れてくるという具合だ。ついに観客を呼べる作曲家が底をついたということかもしれない。

わたしがこのコンサートに来たのは3回目だが、昨年のブログに「この音楽祭は無料のプログラムが充実している」と書いた。わたくしが考えるようなことはどうやらみんな考えるようで、無料プログラムは60分前に行ったのでは遅いようだった。たとえば映画「母・アルゲリッチの世界」やマスタークラスは1時間前でも満席で入場できなかった。
今年見たり聴いたりしたのは下記の5つである。

The Pink BAcCHus!
第1バイオリンもチェロも4プルトしかない小さいオケ。若い人もいれば年輩の人もいる。女性は赤や紫、白など派手なドレス姿の人が多い。どういう団体なのかと思ったら、2009年のラ・フォル・ジュルネでバッハの「マタイ受難曲」を演奏しそれをきっかけに結成した楽団だそうだ。それで名前にもバッハが隠されている。ただこの日の演奏はベートーヴェンの交響曲5番終楽章だった。
この演奏は途中から聞いたので、もちろん立ち見だった。

●エロイカ木管五重奏
丸の内ブリックスクエア1号館広場というところで木管五重奏のコンサートがあった。赤煉瓦の三菱一号館美術館の中庭だった。開演10分前に着いたがもちろんイス席はなし。
五月のさわやかな風、新緑の木陰で、ヨハン・シュトラウスの音楽、「春の声」「クラプフェンの森にて」「ラデツキー行進曲」を聞いた。さわやかな気候と情景にぴったりだった。ただ少し風が強く、楽譜が飛ばされそうで演奏者にはちょっと気の毒だった。楽器紹介がかなり詳しく、たとえばオーボエのリードはせっかく削ってつくっても寿命はわずか3日など、知らない話も多く有意義だった。
この団体は10年連続でラ・フォル・ジュルネに出演しているが、今年はじめて「エロイカ」という名前がついたそうだ。
最後の「ラデツキー行進曲」では観客の手拍子が響いた。3-4歳の女の子が体でリズムを取りながら手拍子を打っている姿がとても可愛らしかった。

一番右が民族楽器のガルドン
ムジカーシュ
この日の「当日発表プログラム」はハンガリー民族音楽のクループ「ムジカーシュ」だった。バイオリン2、ビオラ1、ベース1の4人組。そのほか持ち替えで、ガルドンというチェロのような楽器や、ロングフルートという1mくらいあるたて笛、太鼓も登場した。ガルドンは250年前の民族楽器だそうで、ギターのように斜めにかかえ、胴を手でたたく打楽器として使用していた。
音楽は、リズムが強烈で、ジプシー音楽はこんなようなものかと思わせるものだった。聞いたことがあるものではフィドルに似ていた。舞踊にぴったりで、ハンガリーの舞踊なのかどうかはわからないが、飛び入りで男女6人が舞台下で踊っていた。いかにも楽しそうな「民衆」の音楽だった。

エマニュエル・シュトロッセのマスタークラス
今年、唯一聞けたマスタークラスは、ピアノのエマニュエル・シュトロッセによるラベルの「鏡」第4曲「道化師の朝の歌」だった。開演後30分ほどして行くと、キャンセル待ち(途中で退席した人の穴埋め)で入場できた。
生徒は学生ではなく、国立音大出身の女性だった。
「けして走らない」「走らず、たっぷり目に」とつねにリズムを注意していた。また「きれいになりすぎない」という指摘もたびたびあった。
「ピアノの部分であってもパワーは変わらず、遠くのお祭りが聞こえてくるように」「オーケストラのように響きを聞かせる」など表現が興味深かった。

●広瀬悦子のピアノ
昨年は5000人の巨大なホールA(プーシキン)のコンサートを聞いたので、今年は最小のホールをと考えG409(サンド)153席のホールを選んだ。7時半開演なので10分前に行くとまだ開場もしていない。開演時間になりやっと開場した。しかしまだ調律の続きをやっていた。
終演予定の20時15分すぎになり出ていく人数人、演奏が終わった20分過ぎになるとアンコールは聞かず走って会場をあとにする人が十人くらいいた。たぶん新幹線の時間に間に合わなくなるといった事情だろう。梶本がやっているにしてはお粗末な運営だと思った。
さて肝心の演奏だが、曲目は「ディアベッリのワルツによる変奏曲」、ウィーンの出版商ディアベッリが自作のワルツをもとに1819年に多数の作曲家に変奏曲を作曲してもらったというものだ。作曲家はツェルニー、ホフマン、フンメル、リストなどの名が入っている。ただし「有名な」作曲家と同一人物かどうかはわからない。合計26人だが、これで全部ではなく、1時間ほどおいてさらに同じくらいの変奏曲24曲が続いた。このほかベートーヴェンが1人で33曲も作曲したが、それは今回は演奏されない。

アンコールはリスト「ラ・カンパネラ」。迫力のある演奏だった。広瀬さんの略歴をみると、「1999年、マルタ・アルゲリッチ国際コンクール優勝」とあった。「道理で迫力がある」と思った。
見かけがだれかに似ていると思ったら、壇蜜さんだった。

お祭りなので、そんなに感動する演奏には出会わなかったが、いわゆる「今日は一日クラシック音楽三昧」で、楽しい一日を過ごせた。
この音楽祭は、ひょっとするとエリアコンサートなどアマチュアやそれほど有名でないプロの演奏のほうが楽しめるのかもしれない。声楽、ピアノ、金管合奏、弦楽四重奏などいろんなプログラムが取り揃えられている。  
ただ半券をもっていないと入れないものもたくさんあるので、最低ひとつは有料コンサートを取らないといけない。そのコツがまだよくわからない。今年はフォーレのレクイエムを聞きたかったがチケットが取れなかった。
また、待ち時間や移動時間も結構あるが、それも含め、屋台のワインを飲む時間も含めてお祭りの一場面として雰囲気を楽しむのがコツなのかもしれない。

初めてのタカラヅカ

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今年は宝塚歌劇団の創立100周年ということで、初めて「タカラヅカ」を東京宝塚劇場で観た。観客は9割がた女性で、10代から80代まであらゆる年代がそろっていたが、中心は50代、60代のようだった。100周年記念看板やポスターの前で記念写真を撮っている人が多数いた。女性たちのウキウキした気分が伝わってくる。
館内に入ると、座席数は1階が1229、2階が840、合計2069席の広さだ。
わたくしは2階Aの最後尾だった。宝塚は即日完売と聞いていたので、一般売り出し初日にチャレンジしたが、パソコンがずっとつながらず、午後になってつながったときにはこの席と隣の2-3席しか空いていなかった。

場内に入ると、楽器の音がする。オーケストラボックスがあるのはオペラなどと同じだ。ただ少しスペースが狭い。トランペット、オーボエ、クラリネットなどはオペラと同じだが、ここではサックスやドラムセットの音もするので雰囲気はずいぶん違う。

この日のプログラムは豪華3本立だった。
まず「宝塚をどり」。
宝塚はラインダンスが名物で、とくに新人公演が見ものだと聞いていた。てっきりタイトルからこの「宝塚をどり」のことだと思った。それが、この日の公演のチケットを買った理由だったが、それは違った。「よーいやさ」の掛け声で始まり、着物姿の和物の作品だった。100期生39人の口上というものがあった。(日替わりで、この日は糸月雪羽と蘭尚樹)
天女降臨、三番叟など6場からなる。ただストーリーがさっぱりわからずその点ではいまひとつ楽しめなかった。しかし薄赤やうす青の着物で扇をひらひらさせる姿は、龍宮城のタイやヒラメの舞や天女の舞とはこんなものだったのだろうかと思えてきれいだった。振り返ると、宝塚の第1回舞台は「どんぶらこ」という桃太郎をテーマにした演目だったので、宝塚は昔話に縁があるのかもしれない。
なお静かな曲、いかにも日舞らしい曲より、よさこいソーランのような激しい踊りのほうが似合っているように思えた。ただ、白頭の獅子と赤頭の獅子が毛を振り乱して舞う連獅子もあったが、男性に比べると力が弱いので、迫力はもうひとつだった。

次は「明日への指針」。タイタニック号沈没から22年後のお話。沈没時に子どもだった男女が偶然ニューヨーク行きの貨客船センチュリー号で出会って・・・という話。だいたいのストーリーはわかったが場面の転換が早くてちょっとついていけないところがあった。宝塚の場合、主役はどの演目でもスターと決まっている。月組のスターは、男役・龍真咲、娘役・愛希(まなき)れいか、2人とも就任は2012年4月23日なので約2年である。愛希は元・男役で2011年に転向した。2人はほとんど出ずっぱりで歌い踊るのだから相当な体力がいりそうだ。

TAKARAZUKA 花詩集100!!
宝塚歌劇は今年で100周年だが、東京宝塚はオープンしてから今年で80年だそうだ。1934(昭和9)年1月オープンのときの出し物がやはり「花詩集」、演じたのも月組だった。この出し物は、マーガレット、赤いケシ、青い蘭、スミレ、100本のバラ、黒バラ、銀の花など24場からなる。
ラインダンス、背中の巨大な羽根、ひらひらした羽根扇、キラキラ光るラメ入りの衣装、頭と尻に大きな赤いバラを付けた娘役の衣装やまるでセーラームーンのタキシード仮面のような男役のファッション、ハデな電飾、オーケストラボックスと観客席の間の銀橋での歌唱、大階段をライトを浴びながら一歩一歩下りるスターの姿、「春すみれ咲き春を告げる」で始まる「すみれの花咲く頃」の大合唱、桜吹雪など、いわゆる宝塚的要素のすべてがみられた。これらはじつは1930年ごろすべて演出家・白井鐵三が欧米から持ち帰ったものだそうだ(川崎賢子「宝塚というユートピア」岩波新書)。

歌舞伎や文楽、日舞と同じようにいろいろと「型」があるようだ。もちろん1回みただけでは見当がつかない。少しわかると面白くなるのだろう。
ところどころ観客の手拍子が入るが、わたくしはそこまで入り込んで感動することはできず一人浮いてしまった。
わたしでもわかることとしては、合唱の声が太くしっかりしていてなかなかのものだったことだ。
わたくしは2階席後方からずっと下を見下ろしていたので迫力はもうひとつだった。たとえばラインダンスを上から見下ろすと、意外にも足が太くみえた。次回みるなら、金額は1.6倍になるが、1階席の中ほどより前で役者の表情や衣装をよくみたいものだ。
観客の9割は女性と書いたが、逆にいうと1割は男性だ。だからそれほど恥ずかしくはなかった。

東京宝塚劇場の支配人・小川甲子さん(芸名 甲にしき、故・萬屋錦之介の妻)が出口でていねいに見送りのあいさつをされていた。支配人に就任したのは東京宝塚が新築された2001年1月なのでもう13年を超える。たいしたものである。

☆帰りに日比谷図書文化館で、特別展「日比谷に咲いたタカラヅカの華」をみた。東京宝塚劇場開場80周年の記念展示である。
主として1934年の東京宝塚劇場開場以降の歴史だが、それより前の1918年から帝国劇場、市村座、歌舞伎座年などで2-3回東京公演は実施されていた。戦後の1945年12月から進駐軍にアーニーパイルとして9年間接収され、55年に再開した。そのあいだは日本劇場などで公演した。
戦後の歴史をみると、乙羽信子、淡島千景、越路吹雪、有馬稲子、新珠三千代、寿美花代、淀かほる、最近では黒木瞳、檀れいどを続々と輩出し、戦後のテレビ、映画界にずいぶん宝塚が貢献していることがよくわかった。
97年12月の「ザッツ・レビュー」と2001年1月の「愛のソナタ」の衣装が展示されていた。これだけが撮影可能だった。

ブックフェア2014

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7月2日から5日まで第21回東京国際ブックフェアが東京ビッグサイト西館で開催された。今年も見学したので簡略な感想を書いておく。

まず電子出版の展示から。
昨年の目玉は3Dだったが、今年はそういうものはなかった。しいてあげると4Kだ。パナソニックなどメーカーのほか徳島県のブースでも、「阿波踊り」の映像を流していた。3840×2160とハイビジョンの4倍の画素数で、たしかに高精細でリアルな画像だった。価格がどんどん下がれば普及するかもしれない。ハードメーカーにとっては、ディスプレイだけでなくカメラも編集機器もすべて4K用でないと使えないので、増収効果が大きい。
楽天Koboの今年の目玉は、アクアファダスという自分で電子書籍を無料で作成し、売ることができる(売上が上がってはじめて課金される)というシステムである。しかしいったいどのくらいそんな需要があるのだろうか。また無料とはいってもいろんなライセンス料を取られるというウワサを聞いた。

阿波踊りの4K画像
大日本印刷のブースで目玉を聞くと、ドットDNPという建物が地下鉄市ヶ谷駅近くに完成しhontoカフェという電子書籍体験コーナーがあるという話だった。一方、昨年3Dプリンターを出展していた凸版印刷は、「専門書の制作支援システム」が目玉ということで、よくわからなかった。バーチャルフィッティングという電子版着せ替えごっこのような展示があり、面白いことは面白いが、まあオモチャのようなものだった。
そんなことで、今年は電子出版はいまひとつだった。強いて言うなら、ボイジャーのブースで開催された福井健策弁護士のスピーチは聞かせる内容だった。たまたま通りかかり部分的に聞いただけだが、TPPの著作権への影響、たとえば「著作権法の非親告罪化」や「法定損害賠償」は日本の出版業界へのインパクトが大きそうだった。

出版梓会の展示
それにひきかえ紙の本のほうは、ちょっと復権してきた印象があった。
たとえば国書刊行会は昨年と同じく充実したタイトルが並んでいた。たとえば「映画の奈落」(伊藤彰彦 2592円)、「マーラー全歌詞対訳集」(須永恆雄 1944円)。
たまたまその隣が創元社だったが、こちらもなかなか充実していた。たとえば「米朝落語全集」(全8巻 各巻4860円+税)、「武器の歴史大図鑑」(リチャード・ホームズ編 12960円)、「死の帝国」(ポール・クドゥナリス 4536円)、「ことばと知に基づいた臨床実践――ラカン派精神分析の展望」(河野一紀 3456円)、「大正期怪異妖怪記事資料集成」(湯本豪一 48,600円)、「フィルムは生きている」(手?治虫 3456円)など。
ミネルヴァ書房も相変わらず良書が多い。たとえば「本屋さんのすべてがわかる」4冊シリーズ、「シリーズ・松居直の世界」、「池上彰の現代史授業」(8月から刊行予定 8巻)など意欲的である。
出版梓会は、有斐閣、幻戯書房からNTT出版、日外アソシエーツまで28社の出版社の共同出展でタイトルは「生きる力、本の力2014」だった。
毎年、楽しみにしている書物復権10社の会(みすず書房、岩波書店、東京大学出版会など)も充実していた。

トンデモタイトル本の幸福の科学出版は、この1年嫌韓・嫌中本が流行しているせいだろうが「中国と習近平に未来はあるか」「天に誓って『南京大虐殺』はあったのか――『ザ・レイプ・オブ・南京』著者 アイリス・チャンの霊言』」「朴槿惠韓国大統領 なぜ、私は「反日」なのか」などを並べていた。『南京大虐殺』は国際展示場の駅前でキャンペーンまで行っていた。
バンプレストという会社が、かなり大きなスペースをとっていた。展示していたのは、はずれクジなしの「一番くじ」という商品だった。てっきり書籍にクジをつけるのかと思ったらそうではなく、キャラクターグッズにクジをつけるという話だった。グッズの価格は500円から800円くらいである。客寄せが目的かと思う。そういえば講談社のブースでは恐竜の動く模型が人気を集めていた。頭をたたくと怒り、のどの下をなでると喜び鼻をなぜるとクシャミするという単純なものだったが、怒ったときの反応は迫力があった。客を驚かせるにはよいが、それだけである。

講談社の動く恐竜
最後に第48回装幀コンクールに触れておく。
「ギャートルズ1,2,3」(園山俊二 パルコ)と「ファッションフードあります」(畑中三応子 紀伊國屋書店)はどちらも祖父江慎、佐藤亜沙美の装幀。ギャートルズはザラ紙と白いアート紙の束(つか)が交互に出てくる。白のページには、蛍光インキのピンクとグリーンが使われていて効果的だった。「やがて秋茄子へと到る」(堂園昌彦 港の人 装丁:関宙明)と「京の和菓子帖」(日菓 青幻舎 装幀:須山悠里)はやさしい感じの装幀だった。最も感動したのは「高岡重蔵 活版習作集」(烏有書林 装幀:上田宙)だった。内容は著者が欧文組版をした作品集である。著者は1921(大正10)年生まれなので、昨年の刊行時点で82歳、それなのに「習作集」と名付ける奥ゆかしさ。
「ギャートルズ1,2,3」が東京都知事賞、「京の和菓子帖」が日本書籍出版協会理事長賞、その他は日本印刷産業連合会会長賞である。

応援演説する山内和彦氏。右は、切れてしまって申し訳ないが川野候補
☆ブックフェアとはなんの関係もないが、たまたま時期が同じころだったということで、選挙の話をひとつ。杉並区で区長選と区議補選が6月29日に実施された。わたくしはすぐろ奈緒さんの後任の川野たかあき氏をほんの少しだけ応援した。
区議選なので期間は1週間しかないが、フィナーレは荻窪駅南口だった。驚いたことに山内和彦氏が応援演説を行った。山内氏は「自民党で選挙と議員をやりました 」(角川SSC新書)の著者で、想田和弘監督のドキュメンタリー「選挙」「選挙2」の主人公である。この日も長男・悠くんといっしょだった。話を聞くと、川野候補とは宇都宮都知事選で知り合ったとのこと。いまは川崎ではなく江戸川区民なのだそうだ。

結果は残念ながら落選だった。投票率は28.7%という低さだった。
 1 当選 はなし 俊郎  29,048
 2 当選 つかはら 彩子 20,834
 3 当選 上保 まさたけ 17,791
 4    松尾 ゆり   13,050
 5   太田 哲二   12,430
 6   川野 たかあき 8,052
 7   田代 さとし  6,232
以下4人

「非戦を選ぶ演劇人の会」のピースリーディング

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7月15日新宿のスペース・ゼロで、非戦を選ぶ演劇人の会のピースリーディング第17回「あなたは戦争が始まるのを待っているのですか?」を観た。

非戦を選ぶ演劇人の会は、アメリカのイラク攻撃に反対し、有事法制に反対して2003年に結成された。2月14日に「よびかけ文」をつくったところ、300人以上の演劇人が賛同した。
 ・対話によって成立する演劇は、武力攻撃による外交手段に反対します。
 ・人間を中心に据えた演劇は、人権を軽視する法案に反対します。
 ・演劇は、戦争に反対します。
3月19日には当時の小泉純一郎首相への手紙を官邸に提出した(署名数1428)。また2月28日紀伊国屋ホールと4月5日に紀伊国屋サザンシアターで「あきらめない」を上演した。
それから11年が過ぎ、世界と日本はもっとひどいことになりつつある。

この12年間に、イラク、沖縄、パレスチナ、日本(東京)で起こったことが編年体の朗読で語られた。
イラクでは、米軍のバグダッド空爆(03.3)、サマワに自衛隊の先遣隊派遣(03.12)、ファルージャ空爆と730人の死者(04.4)、11月の戦闘では2000人が殺害される 高遠菜穂子さんらの拘束(04.4)と自己責任論、自衛隊サマワから撤退開始(2006.6)、フセイン死刑執行(06.12)など。
沖縄では、辺野古のボーリング調査とカヌーによる海上スト(03夏)、沖縄国際大学に米軍ヘリ墜落(04.8)、辺野古調査に海自の掃海艇派遣(07.5)、高江の住民がヘリパット阻止のため座り込み開始(07.7)、沖縄防衛局が住民に対しスラップ訴訟提訴(09.12)、オスプレイの普天間配備(12.10)、仲井真知事が辺野古埋立を承認(13.12)、八重山教科書問題(13-14)など。
パレスチナでは、イスラエルがガザ空爆(08.12)1300人死亡、
日本(東京)では、イラク特措法成立(03.7)、都教委が日の丸・君が代を強制する10.23通達発令(03.10)、裁判員法成立(04.5)、島根県議会が「竹島の日」制定(05.3)、第一次安倍政権成立(06.9)「美しい国づくり」がスローガン、教育基本法改正(06.12)、自衛隊のイラク派兵差止等請求裁判で名古屋高裁が違憲判決(08.4)、ソマリアに海自派遣(09.4)、海賊対処法成立(09.6)、総選挙で民主党圧勝、政権交代(09.8)、大震災(11.3)とトモダチ作戦、東電福島原発事故、第二次安倍政権成立(12.12)、特定秘密保護法成立(13.12)、武器輸出三原則廃止(14.4)、集団的自衛権行使を認める閣議決定(14.7)など。

私たちは何をみてきたのか。
私たちは何をしてきたのか。
私たちは何ができなかったのか。
私たちは何を許してしまったのか。

あなたは戦争が始まるのを待っているのですか?

これが結論である。
反対署名に加わったり、反対集会に出たものもいくつかある。しかし何もせず見過ごしてきたことも多く、胸が痛い。。
なお、パフォーマンスとしては、証言や書物の引用ばかりで、そのうえ咀嚼する時間がなく、セリフが自分の回りを流れ去っていく。頭の整理がつかない。少しは観客の立場に立ってほしい。この「傾向」は昨年あたりから強まってきた。
また時間がないとはいえ、最低でも出演者(キャスト)の紹介くらいはしてほしかった。

第2部は、ガザ在住の弁護士ラジ・スラーニさんへのスカイプによるインタビュー(7月7日)だった。インタビューに先立ち「ガザに生きる」(土井敏邦監督 5部作)の1部「ラジ・スラーニの道」の一部をみた。
ガザは爆撃中、この24時間で10人が死亡、「足元が揺れる感じたする」というなかでの取材だった。
日本の集団的自衛権閣議決定について「日本人はすばらしい国民です。頭が良く技術もあります。科学に秀で、商売も得意。そしてもっと大切なことですが、倫理的に優れています。(略)そのような国がなぜ悪に与するのか、日本が平和と与したいのならわかります。(略)しかし日本までもが戦争の側につきたいというのは、理解に苦しみます。(略)日本がいちばんすべきでないのが、平和の側ではなく、戦争の側につくということです。アメリカは戦争の味方であり、平和の味方ではありません」と語った。

このインタビューの後、地上戦に突入し、ガザの住民1900人がイスラエルに殺された。理由はハマスのロケット弾攻撃だった。
またオバマはイラクへの空爆を始めた。そして日本の安倍は一日も早く中国や韓国朝鮮への戦争を始めたいようにみえる。「おじいさんたちは勝てなかったが、今度は勝つ」とでもいうように。

☆ピースリーディングで「井上ひさしの子どもにつたえる日本国憲法」(講談社2006.7)の一節が朗読された。
「いまでは信じられないことですが、昭和二〇(一九四五)年の日本人男性の平均寿命は、たしか二三・九歳でした。戦地では兵士たちが戦って死ぬ(あとでわかったのですが、戦死者の三分の二が餓死でした)、内地では空襲で焼かれて死ぬ、病気になれば薬がないので助かる命が助からぬ、栄養不足の母親を持った幼児たちは栄養失調で死ぬ。そこで大勢が若死にしたのです。女性の平均寿命も、三七・五歳だったはずです。(略)
ところがあの八月一五日を境に、なにもかもが変わった。「きみたちは三〇、四〇まで生きていいのです」というのですから、頭の上から重石(おもし)がとれたようで、しばらく呆(ぼう)としていました。」(まえがきより)
「私たちの憲法はアメリカに押しつけられたものではない。そんな安っぽいものではなくて、そのころの世界の人たちの希望をすべて集めたものなのです。(略)捨ててよいものもあれば捨ててはいけないものもあって、後者の代表が日本国憲法ではないでしょうか。これを捨てることは、世界の人たちから、希望をうばうことになりますから。」(あとがきより)

☆7月1日(火)安倍晋三内閣は集団的自衛権の改憲解釈の閣議決定を行った。実質的に憲法9条は破壊され、日本は戦争をする国となった。
ちょうど安倍が記者会見を行っていたころ、わたくしは官邸前のデモの中にいた。「解釈改憲絶対反対」「閣議決定は撤回しろ」「戦争反対!」「安倍はやめろ!」。人はあふれ、怒号が渦巻いていた。
福島前社民党党首とすれ違った。その他、練馬、葛飾、緑の党など多くの人と出会った。60年安保のときの国会前はこんな光景だったのではないかと思わせるものだった。ただ19時前後の早い時間だったので、まだ20代、30代の人はあまり来ていなかった。それでも40代の人もいて、いつもより平均年齢は低かった。

8月15日敗戦の日、官邸前に行った。「川内原発再稼働反対」吉良よし子さんがアピールしていた。
「やめられないなら、お前がやめろ。安倍晋三はさっさとやめろ」。ここでも安倍退陣を求める力強いシュプレヒコールが聞こえた。

深大寺と植物公園

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東京街歩き、2年前は蒲田、昨年は北千住、さて今年は調布の深大寺に行ってみた。
高校生のころクラブの同期たちと一度来たはずだが、何も覚えていなかった。京都の寺にはときどきあるが、バックに山を擁しており緑豊かな寺だ。
深大寺は733(天平5)年創建、変っているのは当初は法相宗だったのに、850年に天台宗に改宗したことだ。こんなこともあるのかと驚いた。したがって大本山は比叡山の延暦寺である。
1865(慶応元)年の大火でほぼすべての建物を焼失したが、山門(1695年建築)は残った。

 1867年に再興された大師堂
寺に縁のある人物に中西悟堂がいる。悟堂は金沢生まれだが、15歳のときに深大寺で得度した。その後1934年に日本野鳥の会を設立した。

帰りに深大寺そばを食べた。天ざるそば(1600円)、とろろそば(1050円)、なめこそば(950円)など、「名物価格」でやはり高めだ。まずいとまではいわないが「名物にうまいものなし」だった。明らかに深大寺の人と思われるお坊さんや尼さんも来店し、そばを食べておられた。
 
 深大寺門前のとろろそば

神代植物公園
深大寺の北のはずれ開山堂の近くに神代植物公園の入り口がある。だれもが不思議に思うのは、なぜお寺は「深大」なのに公園は「神代」なのかという疑問である。
もともと江戸時代から深大寺村だったが、1890年の近隣の村との合併のときに神代村になった。公園が開園した1940年には神代村だったので、地名を取って神代植物公園という名称になった。ところが1955年の調布市との合併時に深大寺町となり、「神代」という名は公園にのみ残った、ということだ。
都立公園は80-90あるが、入園料500円(おとな)というのはかなり高いほうではなかろうか。たとえば浜離宮恩賜庭園は300円、旧岩崎庭園が400円、多摩動物公園600円、もちろん日比谷公園や代々木公園は無料だ。ただ、そのぶん園内の管理はしっかりしている。クヌギ、コナラ、アカマツなど武蔵野の雑木林は美しいし、ばら園では季節外れの時期なのに赤いフィデリオや黄色のゴールデン・メダイヨンが咲いていた。この庭園は2009年に世界バラ会連合優秀庭園賞を受賞したそうだ。受賞理由は、質の高い維持管理をしていること、原種のバラを保存をしていること、国際的規模でバラの新品種コンクールを行っていることだそうだ。そういえば年ごとの国際ばらコンクール花壇というものまであった。ばらというと古河庭園鳩山会館も有名だが、ここも春や秋のシーズンにくればすごい見栄えだろう。

温室はどこの植物園にもあるが、ここは「宗教と関係のある植物」(ボダイジュ、ガジュマル、サラソウジュなど)、「小笠原の絶滅に瀕している植物」(オオバナサルスベリ、シマムロ、キャノンポールスターなど)など特色あるテーマで展示していた。子どもが上に乗れるハスや球根ベゴニアも美しかった。また園庭のむくげ、亜高山に生える黄色いノカンゾウ、南国生まれの赤いサンゴシトウも美しかった。
ハスといえば、深大寺の南東に水生植物園がある。たとえばコウホネやハスもあったが、巨大なヨシ、マコモ、コガマ、ヒメガマをみた。日本は豊葦原瑞穂国の国であることを実感した。またイネは、陸稲もあるものの、立派な水生植物だった。

湯の森深大湯
次に、植物公園から400mほど北にある湯の森深大湯という銭湯に向かった。4階建てのビルの3階がフロになっている。1階の玄関を入ると下駄箱の向こうがいきなりエレベータなので驚いた。3階の脱衣室は狭くみえたがロッカー数を数えると67あったのでそれなりの規模だった。3時オープンなので3時5分くらいに入ったが、15分くらいで客はすぐ15人くらいに増えた。はやっているようだ。
ジェット風呂、リラックス風呂、寝風呂などがあるのは青山の清水湯と同じだが、自分でボタンを押してジャグジーをスタートさせるところが違う。その他、電気風呂、水風呂、サウナがあり、この日の薬湯は玉露カテキン湯だった。
さて3階の浴室から階段を18段上がり外に出ると露天風呂がある。大きさは西新宿の羽衣湯の1.5―2倍はある。気持ちがいい。周りは1m以下の低い植物だ。じつはこの銭湯の売り物は「富士が見える露天風呂」である。この日は天候が悪く、残念ながら何もみえなかった。代わりにロビーに写真が飾ってあった。

 富士の写真(ただし屋上から撮ったもの)
練馬に比べ、富士に近いせいか山容がずいぶん大きくみえる。やはり空気が澄んでいる冬のほうがいいらしい。次回はそういう季節に再訪したい。1週間ごとに男風呂と女風呂を入れ替えているとのことなので、次回行けば違う浴槽に入れるかもしれない。なお富士はどちらからでも見えるということだった。
 条件がよければ露天風呂から富士がみえる。

溝の口駅西口商店街
調布は、あとで考えると競輪の京王閣のある京王多摩川まで1駅だからきっと安くてよい飲み屋はありそうだ。しかしこの日は溝の口へと向かった。稲田堤乗り換えだが、25分程度で到着する。東横線の階段を下りると「溝の口駅西口商店街」というレトロな看板がかかっている。雰囲気は20年くらい前の新宿西口・思い出横丁に似ている。しかし基本的には南武線線路沿いの通りなので、自転車にのった主婦や学生が普通に歩いている。また古書店や洋品店もある。
さてそのなかに有名は「いろは」や「かとりや」がある。まずいろはの店先に立った。レバ、ハツ、タンなど焼ものは基本的には1本90円。味噌とカラシをつけてくれる。鮮度が高くレバもおいしかった。

 いろはの焼きもの
せっかくなのでかとりやにも立ち寄る。店頭はいっぱいで順番待ちだったので、店内に座った。こちらは基本は1本100円、5本縛りとなっている。いろはで焼鳥は食べているので厚揚げ(370円)とお新香(260円)を注文した。客がみな善人にみえる。こんな店にしばしば来られる人は幸せものだ。
店の人も客も上品で人がよさそうな感じがした。環境がよいからか、あるいは店の客筋がよいからか。やはり田園都市線沿線の住宅街だからだろうか(あるいはこちらが酔っていたからかも)。そういえば店の線路側の塀にはクラシック音楽のコンサートのポスターが何枚も貼られていた。東京ではありえない光景だ。

  かとりやの店頭
溝の口に来るのは初めてだった。この2店はモラスキーの「呑めば、都」(筑摩書房 2012/10)で知った。「第1章 セーラー服とモツ焼き」に出てくるが、強烈な印象だった。
帰りの電車は渋谷行と大井町行が交互に来るようだ。かつては大井町と渋谷は同格だったのだろうか。もちろん東急の営業戦略でもあるのだろうが・・・。

青井未帆の「「集団的自衛権」の閣議決定を受けて」

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9月18日夜、阿佐ヶ谷市民講座青井未帆さん(学習院大学)の「「集団的自衛権」の閣議決定7/1を受けて――今後を考える」という講演を聞いた。
青井さんは、1973年生まれ。学部がICUだったので三鷹・武蔵野はなじみの土地、かつ市民講座の呼びかけ人の一人、奥平康弘さん(東京大学名誉教授)の授業が強く印象に残っているので講師を引き受けたとのことだった。

●現 状
国会審議無視が最近の政治のひとつの特徴だ。昨年末に制定された「特定秘密保護法」のことを情報公開で調べてみて、じつはずいぶん多くの論点が事前に検討されていたことがわかってきた。しかしほとんど議員には知らされず、かつ時間にせかされて成立した。国会審議は形骸化してしまった。NSC法(国家安全保障会議設置法)と特定秘密保護法のあと、7月1日集団的自衛権の行使容認の閣議決定がなされた。
今後、集団的自衛権については個別法が改正される。9月17日、高村正彦副総裁は年末までに概要が明らかになると述べた。今後、個別法改正のなかでどんなものが出てくるか注視する必要がある。
公明党の山口那津男代表は「個別的自衛権と何も変わっていない」という。しかし額面どおりには受け取れない。おかしいことにはおかしいと言い続けることが大事だ。いったん受け入れたら終わりだ。
ルールはルールだと思い込むからルールであり、従わなくてもよいということになればルールでなくなる。法は従わないといけないことが生命線だ。おかしいことが行われたらおかしいと言い続けないといけない。
「おかしさ」を憲法にさかのぼって考えると、私見ではおかしいことが4つある。
1 憲法9条が法規範としてもってきた力を無に帰するものである。
2 本来憲法96条(憲法改正手続き条項)によらないといけないのにすっとばしたこと。
3 安倍首相らは憲法99条(憲法尊重擁護義務)に違反していること。
4 そもそも集団的自衛権行使容認への解釈の変更は、閣議決定でなしうる事がらではないこと。
いく重にも憲法違反をしており、やってはいけないことをやってしまった。権力は法に従わないといけないというのが近代の知恵だ。ところが政治に法が飲みこまれようとしている姿が見える。
これを認めると権力は「無制限」になる。

●閣議決定
最近の議論では、枕ことばのように「安保環境の変化」ということばが使われる。そして「脅威が世界のどの地域において発生しても、我が国の安全保障に直接的な影響を及ぼし得る状況になっている」とまでいう。ホルムズ海峡が引き合いに出されることもあるが、「世界のどこでも」というのだからもはや限定がない。「我が国の安全保障」という言葉はいままでより広い意味を含んでいる。「他国への攻撃であったとしてもその目的、規模、態様等によっては、我が国の存立を脅かすことも現実に起こり得る」というが、「我が国の存立」というのは結局全世界だと考えられる。
同様に、「積極的平和主義」ということばも要注意だ。「積極的」と「平和主義」という2つのことばが組み合わされると、とたんに野蛮なことばになる。「国際協調主義に基づく積極的平和主義」とまでいう。
しかも「憲法上許容される上記の「武力の行使」は、国際法上は、集団的自衛権が根拠となる場合がある」との説明で断言しないため、いっそうあいまいである。これでは法律という視点でみると、何も引き出せないし、役に立たない。

●閣議決定で決められることではない
憲法にさかのぼって考えてみよう。9条を素直に読めば、軍隊に権力を配分しない、つまり「無」の規定である。
大日本帝国憲法と日本国憲法を比較すると、天皇がもっていた権限は、だいたい内閣の権限(73条)として横滑りしている。しかしいくつかなくなっているものがある。「陸海軍の統帥」「陸海軍の編成」や「宣戦、講和」など軍事に関するいっさいの権限である。9条で「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない」といっているのだから当然である。
しかし政府は19回国会で自衛隊を創設した。これは無から有を生じさせる、やってはいけないことだった。ただし、9条でいう戦力ではない、防衛のためのもので憲法に合致するという解釈をとった。9条の規範力を認め、9条との整合性をとろうとしたからである。

●軍ではないこと
防衛作用は行政作用の一つ、帝国憲法時代の統帥大権は行政各部の指揮監督権にすぎないと、政府や防衛通説は説明してきた。「国の交戦権は、これを認めない」については、わが国の防衛は当然のこととして認められているとし、外見上殺傷と破壊であっても、「交戦権の行使」とは別の観念のものとされた。また自衛隊の編成や権限には法律の根拠が必要であり、できることのみ列挙された(ポジリスト)。外国の軍隊は逆に「できないこと」のみ列挙される(ネガリスト)。さらに自衛隊の活動には自衛のためなので限界がある。当初は国内に限定された。一方外国の軍隊は海外展開が本来任務だった。もともと憲法上ないのだから、当然である。自衛隊が海外で活動するには、ひとつひとつ法律の根拠がいる。海外で自由に活動するためにはかなり大きな改変が必要になる。そこでポイントになるのが「我が国の存立」や「脅威が世界のどの地域において発生しても」ということだ。最初は法律改正からはじめても、最終的には憲法を改正しないとできない。
わたくしの解釈とは異なるが、従来は自衛に徹する自衛隊の活動には、キリギリ正当化される余地がなくはなかった。防衛通説をつくった先生方は、一定の反省に基づき国連憲章を意識し、理想と現実のあいだで知的苦闘をしたと評価できる。それが60年間維持された。ところがこの蓄積をいっきょに崩すのが今回の閣議決定だ。これまでの政府解釈の立場からしても論理一貫性を無視している。こんなことをすれば統治への信頼が失われ、自分で自分の首を絞めることになる。

●国会の憲法解釈権
内閣提出法案(閣法)は、内閣法制局の参事官が事前に、憲法や他の法律との整合性をチェックし閣議を経て国会に提出される。そこで法制局は「法の番人」と呼ばれ、法のプロとして非常に権威が高かった。ところが、特定秘密保護法で甘い審査をしたり、集団的自衛権の行使容認にゴーサインを出し、権威は失墜した。では、どこが統治の正しさを担保するのか。それは国会しかないと考える。特定秘密保護法の審議などを考えると、国会が主役だというのは無邪気すぎるようようにも思う。しかし国会の憲法解釈権を、あきらめずに言い続けないといけない。これ以上国会の権限が侵食されたらいったいどうなるのか。ワイマール憲法が壊れたひとつの大きな原因は、国会が立法権を移譲したことなのだから。ほかの機関に頼れない以上、われわれは国会にもっとハッパをかけていかないといけない。

●わたしたちにできること
映画監督・伊丹万作は1946年8月「戦争責任者の問題」で、「多くの人が、今度の戦争でだまされていたという。(略)私の知つている範囲ではおれがだましたのだといつた人間はまだ一人もいない。(略)町会、隣組、警防団、婦人会といつたような民間の組織がいかに熱心にかつ自発的にだます側に協力していたかを思い出してみれば直ぐにわかることである。(略)だまされたとさえいえば、一切の責任から解放され、無条件で正義派になれるように勘ちがいしている人は、もう一度よく顔を洗い直さなければならぬ」
戦争で血を流したのは生身の人間だ。しかしそういうことは比較的簡単に忘れてしまう。「安全、安心、脅威、抑止」といった安全保障の概念にはどのくらいという限度がない。生活世界から足が離れ、いくらでも先取りし大きくなる。
また為政者の側にいた幣原喜重郎は「外交五十年」の「聞け野人の声」で、「再びこのような、自らの意思でもない戦争の悲惨事を味わしめぬよう、政治の組立から改めなければならぬということを、私はその時深く感じたのであった」と書いた。悲惨を味わったのは、国ではなく生身の国民である。威勢のよい議論をするのは比較的簡単だ。いま「ふわっとした右翼」の空気が動いていることを感じる。
伊丹がいう「だましだまされるような関係」、同じあやまちを繰り返してはいけない。

☆9月29日「安倍政権の暴走を止めよう! 国会包囲共同行動」昼も夜も集会があり、2000人もの市民が集まり、官邸前で「安部はやめろ!」とシュプレヒコールの声を上げた。

同じ週の10月3日、角筈区民ホールで「「戦争は教育から始まる」を阻止する10.3集会」(主催:都教委包囲・首都圏ネット)が行われた。

このように、青井さんがいう「おかしいことにはおかしいと言い続ける」集会は全国で続いている。

60万回のトライ

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10月11日(土)夜、大阪朝鮮高級学校ラグビー部を描いたドキュメンタリー映画「60万回のトライ」(監督:朴思柔、朴敦史 コマプレス 106分)を枝川の東京朝鮮第二初級学校(枝川朝鮮学校)で見た。

枝川で見た意味は大きい。朴思柔(パク・サユ)監督は、韓国の放送局の海外レポーターだったが、来日してすぐのころこの学校を訪問し、韓国の学校と異なりこれほど先生方が生徒のために一所懸命にやっている姿に感動しニュースをつくったという。
東京朝鮮第二初級学校は1946年開校、2003年に東京都が土地明け渡しを求めて提訴した(枝川裁判)。裁判の末、07年にカンパなどで集めた金で幼稚を買収するという和解が成立した。その後、新しい校舎も2011年4月に竣工した。
映画は、一言でいえばラグビーの青春映画である。

映画は2010年1月大阪朝鮮高校が花園の全国大会でベスト4に入ったところから始まる。4月に新しいチームができる。キャプテンはプロップの金寛泰(キム・ガンテ)、副キャプテンはセンターの金勇輝(キム・ヨンヒ)である。
決勝まで進出した春の全国高校選抜、オーストラリア、イングランドなどと対戦した連休のサニックスワールドラグビーユース交流大会、夏休みの菅平合宿、秋の府予選、そして年末の全国大会、ベスト4まで勝ち上がるが桐蔭学園(神奈川)に敗北。さらに1月下旬の高校選抜チームとの友情試合。「ハナ・ミドゥム・スンリ」(ひとつ、信じる、勝利)をモットーに戦う高校生チーム、主力選手2人の故障による危機、女子マネの活躍。さらに家族や親せきがそろう一大イベントの運動会、帰国した大叔父に面会したり絶叫マシンに乗った北朝鮮への修学旅行、などのエピソードも織り込まれる。
しかしそれだけではない。舞台は朝鮮高校なのだ。在日の歴史、学校の歴史、在日コミュニティの拠点としての学校、花園からわずか1キロ北西の距離なのに公式戦にも出られなかった差別の歴史、その典型である高校無償化からの排除、記者会見での金寛泰の「ノーサイド」精神を引用したスピーチ、橋下徹府知事による補助金凍結、これらが映画のたて糸になっている。応援席に広げられた「叶えよう60万同胞の願い!」の横断幕は感動的だった。
構成もなかなかしっかりしていた。エピローグは、卒業から2年後の2013年2月の成人式パーティだった。彼らの多くは、関西学院、法政、帝京などの大学ラグビー部の部員になっていた。3年もかけて撮ったドキュメンタリーだからこそ、できたことである。
スタッフとして数々の有名な人が協力している。ナレーションは根岸季衣、わたくしはここ数年ピース・リーディングでみている。音楽は大友良英、あまちゃんのテーマに似たブラスバンドの音楽が流れていた。プロデューサーは元NHKの永田浩三と岡本有佳である。

朴思柔監督(左)と共同監督の朴敦史さん
上映後、朴思柔監督と共同監督の朴敦史(パク・トンサ)さんの話を聞いた。
朴思柔さんは、枝川のあとウトロ(宇治市)の強制立退きを報道し、自分もウトロに住み込んだ。地域の人に支えられながら乳がんの闘病生活を送る。そして大阪朝鮮高校のグラウンド裁判のニュースを発信し、この学校とのつながりができた。2009年暮れ監督に一本の電話が入った。「あの子たちがすごいことをやった!早く花園に来なさい」というものだった。残念ながら準決勝で敗れたが、このクラブのことを映画にしようとした。しかし1位になればニュースにしてやる、といわれ頓挫する。そこで自力で映画を撮ることにした。
一方、朴敦史さんは、日本生まれの在日3世、朝鮮学校ではなく日本の学校に通い、本人の言葉によると「孤立した在日」だった。書店の店員として働いていたが、あるときウトロにビデオを持っていき撮影をはじめたときにたまたまフレームに入ったのが朴思柔さんで、ウトロの人びとのこと、韓国のこと、民主化のことなど、いろいろ語り合った。その1年後に映画作りに誘われ、コマプレスを立ち上げた。

この映画は9月18日から韓国の76の映画館でも公開が始まった。初日に2000人、1週間で1万人の観客を集めたが、これはインディペンデント映画としては記録的なことだそうだ。韓国では、在日や朝鮮高校についてあまり知られていない。たとえば上映会で「なぜ修学旅行の行先はなぜ北朝鮮なのか」という質問が上映後の質疑応答で出る。「学校をつくるときに、北にも南にも日本政府にも声をかけたが、お金を出してくれたのは北だった」「朝鮮籍(韓国籍を選択しなかった在日の人が1952年のサンフランシスコ講和条約以降、朝鮮籍となった)の人は韓国に入国できない」といった在日事情を答えるととても驚くそうだ。
さて韓国上映にあたり、元・マネジャーの金玉姫(キム・オッキ)と元・フッカーの黄尚玄(ファン・サンヒョン)がボランティアで手伝った。そして黄尚玄はいまは焼肉店の正社員だが、韓国のラジオ番組にゲスト出演し、「俳優になりたい」といってさらに人気が出たそうだ。

☆以前、枝川に来たのは「パッチギ! LOVE&PEACE」(井筒和幸監督 2007)をみた2007年秋だった。もう7年も前のことになる。そのころはもちろん旧校舎だったし、もっと小さい学校だった印象が残っている。

☆上映前にスタッフのリボンを着けた男性をみかけたので、地下鉄・木場までの行き方と時間を聞いてみた。しかし「地元のものではないので・・・」と恐縮がちの返事だった。あとで気付いたのだが、その人は朴敦史さん本人だった。そんなことならサインしてもらえばよかったのだが・・・。

戦争する国にしない、NO WAR 杉並立ち上げ集会

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特定秘密法、原発再稼働推進と代替エネルギーつぶし、武器輸出解禁、そして集団的自衛権行使の閣議決定、第二次安倍政権の暴走は留まるところを知らない。
2014年11月15日(土)夜、阿佐ヶ谷の杉並区立産業商工会館で「NO WAR 杉並立ち上げ集会 子どもたちを戦場に送らないために・・・安倍政権NO!」という集会が開催された。
ちょうど、「アベノミガッテ解散」による総選挙の日程が固まった時期である。この集会は、「戦争はイヤだ!」という思いをいだく市民が党派を超えて集まり、杉並から政治を変えようというものである。
中野晃一さんの講演と永田浩三さんの報告を聞いた。

安倍政権は日本をどこへ導くつもりなのか
  改めて立憲主義の立場からかんがえる
       中野晃一さん(立憲デモクラシーの会呼びかけ人・上智大学教授)

●この解散はそもそもどんな解散か
解散のニュースを聞き、直感的に感じたのは、子どものころやったファミコンゲームの「リセット」である。ゲームオーバーになる前にリセットボタンを押す子どものように、選挙により「信認を得た」と言って、いろんなことをチャラにしようというものだ。
これをわたしは「DV解散」と呼んでいる。
「俺にはお前(国民)しかいない、お前を取り戻すぜ。一緒にビッグになろうぜ」と囁き、「オレが嫌いなやつと付き合うな」(嫌中、嫌韓)と周囲から孤立させる。そして憲法を勝手に壊し、薬を打とうする(原発再稼働)。「花を買ってきてやった」(消費税増税を延期した)と語り、拒みきれずヨリを戻したら最後、情報を隠し(特定秘密保護法)、情報を捻じ曲げる(NHKや朝日など)。安倍総理の政治の見方、支配の仕方はDV男にそっくりだ。

●政治の二つの見方
二つの政治観がある。アリストテレスは「人間は政治的動物、ポリス的動物だ」といった。ポリスとは、人間が自然に形成する、人間にとってちょうどよい共同体の規模のことである。人間が人間らしく暮らす、自分らしく暮らす、そのための営み、会話や話し合いをして暮らし方を決めることが政治という見方だ。
もうひとつの政治観は、政治とは権力をめぐる闘争というものである。政治は「まつりごと(政事)」であり、「まつろう、まつらわす」「さぶろう、さぶらわす」「従う、従わせる」がその本質である。靖国神社は、国に刃向かった人をまつろわせた人びとをまつろう神社である。集団的自衛権はアメリカの敵をまつろわせようとするものである。さらに今回の選挙は、われわれを安倍にまつろわせ、恭順の意を表明させる儀式なのである。

●何が起きているのか
安倍のやっていることは「ナショナリスト」というより、寡頭政治、少数支配である。おじいさんが総理だったからということで総理になれる世襲政治。世襲政治家というのは国家に寄生している階級だ。
ただ、少数支配、世襲というとあまりに露骨なので「日の丸」に身を包む。中韓を敵にして、敵をつくらないとやっていけない。集団的自衛権も同じで、平たくいえばグローバル企業(たとえばキヤノン)の利益のために中東に行って殺し合いをして死ぬということだ。そんなことはだれもいやがるので、「愛国心」をあおる。
本質は少数支配なので、われわれはデモス・クラトゥス(=民衆の力)で寡頭支配に対抗しようとしている。

●どうしてこんなことになったのか
2つのことが同時に進行してきた。
ひとつは新自由主義経済で、それが経済だけでなく政治も変えた。かつて「1億総中流」といっていた時代もあったが、非正規雇用が増大し、貧富の差が拡大した。しかも貧困が深刻化し若年化している。
ただそれだけでは不人気なので「強い国家」を標榜する。これが二つ目のことだ。中国、北朝鮮、韓国、日本の北東アジアは世界のなかでも危険な地域だが、この4か国ともナショナリズムを煽っており、かつ世襲制の国だ。
これが、とくに日本では段階を追って進展している。1980年代から90年代半ばまで自由主義が進んだ。90年代後半にクラッシュが起きた。村山内閣や民主党政権が振り子のように成立したが、そのあとまた右傾化した。その際、重要なのは振り子の支点自体が右に移動したことだ。こういうふうに段階を追って右傾化している。
短期的には安倍をひきずりおろすのがよい。それは不可能ではない。安倍は、「まつろえ、恭順の意を表せよ」といっているのだから、皆で「まつろわない」といえばよいのである。「安倍を信認しない」ということは大事だ。ただそれで解決するわけではない。
というのは彼らはそれなりの下積みをしている。安倍の初当選は1993年で、この年河野官房長官談話が発表され、直後に自民党は下野した。安倍の政治家人生は屈辱のスタートだった。しかもそのあと社会党・村山をかついで政権に復帰した。そこで「日本を取り戻したい」という気持ちが募った。さらに96年には中学の全社の教科書に「慰安婦」が記述され、安倍はぶちきれた。97年にバックラッシュが始まる。「つくる会」や「日本会議」ができ、安倍は「日本の前途と歴史教育を考える若手議員の会」を結成する。「まつろいまつろわせる日本の政治が奪われた。こんなことが許されるわけがない」なんとかにじり戻ってやろうということが始まった。あんな異様な連中に、われわれは砦をひとつひとつ奪われてきてしまった。左派勢力は駆逐され、今度は中立的な立場のもの、たとえばNHK、朝日新聞、日本銀行、内閣法制局までまつろわせようとしている。

●対抗するためにどうするか
砦を一つずつ取り戻すために、どうすればよいのか。
「マジノ線メンタリティ」と決別することである。マジノ線とはナチスドイツの戦車部隊の進撃に対抗するため、フランスが構築した要塞群のことである。フランスはこれに賭けたが、ドイツ軍はこれを迂回してフランス領に侵攻した。
日本には憲法がある。憲法が「マジノ線」なので、これを落とされるときわめて脆弱な状況に陥る。9条のおかげで日本国憲法では戦争できなくなっている。ところがいったん戦争が始まると、憲法には「だれが戦争を始めるのか」「だれがどうやって終えるのか」「だれが戦争を止めるのか」「軍部をどう警戒し暴走を抑えるか」、何も書いていない。すると結局憲法を改憲せざるをえない。憲法が崩されたときにどうするかも考える必要がある。
そのために必要になるのは、アリストテレス的政治を志向する市民団体の連合体だと考える。その下作業は大変だ。リベラルと左派がどう連合できるか、多様性を維持するには、あまりに教条主義的であったり、ドグマチックだとついていけなくなる。一方、リベラルなほうはネオリベとどう対話し、どう切り崩していくかという大きな問題がある。そこを連合できず分断されている限り永遠に勝てない。皆で考えていけるとよいと思う。

このあと永田浩三さん(武蔵大学教授、元NHKプロデューサ)から「NHK,朝日新聞が危ない。安倍総理の20年にわたる執念とメディアの危機」という短い報告があった。

2014年という年は、後年振り返るとメディアが壊れた年と位置付けられるのではないか。前半はNHKが災難に遭い、後半は朝日新聞がバッシングを受けた年として。
1月26日NHKの籾井勝人新会長は記者会見で「秘密保護法は通ってしまったのだから、いまさらなにを言っても仕方がない」「政府が右というものを、左というわけにはいかない」「日本軍の慰安所のようなところは、どこにでもあった」などと公共放送のトップとして、ゆゆしき発言を行った。
2001年当時、安倍首相は内閣官房副長官だったが、NHKのETV2001の「慰安婦」問題の番組に介入し、改変させた。
今年8月5日と6日、朝日新聞は80年代の慰安婦に関する吉田証言の誤報訂正を行った。安倍総理は「傷つけられた日本の名誉を回復するため努力する」と述べたが、じつは国際的に指弾されたのは、2007年に安倍総理や高市総務大臣が作成したワシントンポストへの意見広告のせいである。しかし激しい朝日バッシングが起こった。
いま市民として何ができるか。NHK受信料を銀行振り込みにせず自宅支払にするとダメージを与えられる。また朝日とはいわないが、よき新聞を応援し続けることが大事だ。さらに「言論の自由、表現の自由」について声を上げ続けることが、結果的にメディアを強くする。

最後に「安倍政権は集団的自衛権を閣議決定した。杉並区には「平和都市宣言」があり、60年前のビキニ事件のときにはどこよりも早く、区民が核実験反対の署名運動を立ち上げた。戦争によってひとを殺し、殺されることを許してはならない。ふたたび戦争する国になってはいけない。『NO WAR 杉並』に参加し一緒になって、平和な世界を、この杉並からつくっていこう」(要旨)という呼びかけが読み上げられ、さらに定塚才恵子さんの歌が2曲(「未来へのプレゼント」「今日、卒業していくあなたへ」)披露された。

多田謡子反権力人権賞の活動休止

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第26回多田謡子反権力人権賞受賞発表会が12月20日(土)午後、神田の連合会館で開催された。席上驚くべきことが発表された。26年続いてきたこの賞が、今回で最後(いったん休止)だというのである。
多田謡子弁護士が29歳で急死したのが1986年12月。住宅ローン借入のため契約した生命保険金をもとに基金をつくり、第1回受賞決定が1989年、15回までは海外1、国内2の受賞だったが資金が乏しくなり国内3となった。そして18回で資金が枯渇したが、多額の寄付を受け以降8回続いたところで再び資金がなくなった。多田さんの父・道太郎氏は2007年に亡くなり、母千恵子さんも今年(2014年)亡くなったので一つの区切りにするとのことだった。また正賞の著書「私の敵が見えてきた」の残部も少なくなったとのことだ。
今回の受賞は、川内原発建設反対連絡協議会、こるむ(在特会らによる朝鮮学校に対する襲撃事件裁判を支援する会)、袴田巌さんの2団体、1個人だった。このなかからこるむのさとう大さんの発表を中心に紹介する。

こるむ(在特会らによる朝鮮学校に対する襲撃事件裁判を支援する会)

わたしは神奈川県出身で京都の大学を卒業したが、ちょうど浪人時代の1998年に横浜駅西口でチマチョゴリの高校生を見て変わった制服だと思ったことがある。その年、テポドン騒動が起き夏以降民族服をみなくなった。その状況は今も続いている。
2009年12月京都朝鮮第一初級学校を在特会(在日特権を許さない市民の会)と主権会(主権回復を目指す会)が襲撃した。これに対し、被害者(保護者や教師ら)は刑事告訴だけでなく民事訴訟を起こした。2013年10月地裁判決、2014年7月大阪高裁判決が下り、今年(2014年)12月9日に最高裁が上告を棄却し高裁判決が確定した。

こるむの活動
こるむとは朝鮮語で、歩みや肥料を意味する。民族教育の歩み、子どもたちへのこやしという思いを込めている。4年少し活動した。原告と弁護団、支援団体と弁護団の橋渡しをするのがこるむの役割だった。具体的には、裁判の報告集会開催、機関紙こるむを17号まで発刊、会議を34回行った。

裁判までの苦悩
原告のあいだには、裁判を始める前に、いまわしい事件のことは早く忘れたい、日本の司法に期待できるのか、民事に先行した刑事訴訟の事情聴取でほとほと疲弊しきっているといった声もたしかにあった。というのは在特会による刑事告訴で朝鮮学校校長が都市公園法違反で10万円の罰金刑を受けたという事情もある。長年記念式典、運動会、地域とのバザーなどを行い近隣住民とうまくやってきたにもかかわらずこの結果なので、日本社会への不信は大きかった。
また、警官は出動してもヘイトスピーチを止めたり抑制しようとはいっさいしない。そして2013年にはこうしたヘイトデモが1年で363行われ、地裁判決が出た10月以降むしろ増えている。

どんな被害があったのか
まず沈黙効果がある。「我慢したらええ」ということだ。PTSDと同じように自分がどう感じたのかいえなくなる。
次に、子どもたちは古紙回収の音や作業着姿のおとなの姿にもおびえた。夜泣きや夜尿が始まった子もいた。あるオモニ(母親)は、子どもに「朝鮮人て悪い言葉なん?」「なんであの人は怒ってるん?」「どこに帰れと言ってるの?」と質問攻めにされ、「また来るの?」という質問には、どう答えていいかわからなかった、と集会で語った。
さらに大きいのは長年培った地域とのきずなが瓦解してしまったことである。事件発生より前のことだが、地域からバザーなどの公園使用にクレームが入ったことがある。そこでバザーのちらしを持ち話をする場を設けた。そして「地域の理解をえられるようがんばってや」と激励されるまでになったのに、努力は水泡に帰した。「やっぱり朝鮮学校が隣にあるから」という目でみられるようになった。
こるむの事務局長は、裁判の目的は、ヘイトスピーチを人種差別と正すだけでなく、日本社会で民族教育を認めさせる第一歩にすることと書いた。
   
高裁判決の到達点
 人種差別撤廃条約を援用して、現行法に違反すると認定した地裁判決の1226万円の損害賠償を維持しただけでなく
「在日朝鮮人の民族教育を行う学校法人としての人格的価値」
「民族教育を軸にした学校教育を実施する場として社会的評価が形成されている」
「我が国で在日朝鮮人の民族教育を行う社会環境も損なわれた」
といったことばが判決に記載された。
とくに「我が国」と「在日朝鮮人の民族教育」という言葉が並んでいることに父母たちは歓喜した。これから育てていくべき判決だと考える。

こっぽんおり
わたしたちはこるむと並行して朝鮮学校を支援するため「こっぽんおり」(朝鮮学校と民族教育の発展をめざす会・京滋)という会を立ち上げた。メンバーはほぼ共通である。こっぽんおりとは朝鮮語で、つぼみとか前途ある若者を指す。民族教育権の確立とヘイトスピーチの抑止が2つのテーマだ。
近隣の京都教育大学の教員にボランティアでスクールカウンセラーを引き受けてもらえる運びになっている。行政の支援を求めたい。
また新築された校舎には保健室があるが、養護の教諭がいない。民族教育の法整備が必要だ。また障碍児の進学支援の制度保証も求められる。
さらにヘイトスピーチ禁止の国内法整備や、高裁判決に見合った自治体の対応、たとえば被害調査や被害救済へも足を踏み出すべきである。

なぜチマチョゴリを着て学校に通えないのか。そういう服が街にあふれていれば、とくに子どもは色鮮やかな衣装に目を奪われる。そこからどんな歴史があるのか考える機会にもなる。多民族共生を実現するために、マジョリティとしての日本人ももっと豊かな経験が得られるだろう。在日だけでなく、日本人にとってもそういう環境が奪われている。

   袴田巌さんと姉・秀子さん
袴田巌さんは3分ほどの短いスピーチのなかで、「自白調書の任意性」について触れた。35通の調書のうち1通しか採用されなかった調書である。
お姉さんの秀子さんによれば、釈放後家に帰ってからしばらく外に一歩も出なかったのが、いまは1日2時間くらい散歩するようになった。マスコミの人などが訪ねてくると「将棋ができるか」聞いて、出来る人なら将棋を指すが、いまのところ連戦連勝しているそうだ。釈放直後は無表情だったが笑うようになった。また水戸黄門などのテレビを見、今年(2014年)は50年ぶりの紅白を楽しみにしているとのことだった。
ずいぶんお元気になられたが、「再審無罪」という大きな課題はこれからだ。

川内原発建設反対連絡協議会会長・鳥原良子さんは原発建設反対に始まる40年の歩み、とくに2009年以降の三号機建設反対と廃炉運動を語った。40年前にはいやがらせが激しかったこと、家族との板挟みで自殺者まで出したこと、当初14団体で始めたが、公明党や自治労が抜けたことなど、地方で運動を長年にわたり続ける苦心がよくわかった。
最後は「ドイツのようにベビーカーを押しながら反対運動に参加するそういう時代が日本にもくると信じて、日本中の脱原発の人たちとともに、再稼働をストップし廃炉への道をつくっていきたい」と締めくくった。

☆運営委員会の辻恵さんが「今回の総選挙結果も踏まえ、来年5月には集団的自衛権の国内法整備も国会で審議され、長期政権が続けば2-3年後に憲法改正の動きが浮上するだろう」と述べていたが、そういう情勢なのでいつかこの賞の中断が解けて再開できる日がくるとうれしい。
☆いまから5年前の12月、朝鮮学校襲撃事件から10日ほど後「緊急報告会」が飯田橋で行われた。このとき正面玄関には、日の丸や海軍旗を10本近く立てた在特会のメンバー30人ほどが押し寄せたことを覚えている。5年もたってからだが、こんないい判決が確定し、その点はよかった。
2014年は袴田さんの釈放とも合わせ、少しはよいことがあった年だった。

戸田の名店、きた穂

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この店は偶然戸田市笹目でみつけた。車で行くには新大宮バイパスの美女木の手前1キロ程度なので便利だが、公共交通機関なら、埼京線戸田公園から下笹目行のバスに15分ほど乗り笹目東小学校入口下車徒歩3分ほどという、近所の人でもなければ不便な場所にある。わたしはたまたま月に一度近くに行く用事があり、偶然発見した。路上に置かれている立て看板のメニューがじつにおいしそうだった。

住宅地にある店

立て看板のメニューがじつにおいしそうだった
店に入ると4人掛けテーブルが2つ、左手の小上がりにやはり4人がけの机が2つという小規模な店だ。少し変っているのは、小上がりに上がった高さにキッチンがあることだ。床下収納でもあるのだろうか。オープンしたのは2012年3月、もうすぐ4年目に入る。 
魚がうまく、たとえば夏はイサキの活け締め、ヤリイカや珍しいハモがあることもある。ご主人に伺うと東京の魚河岸料理の店で20年ほど修行したそうだ。だからハモの湯引きもできるのだろう。見逃せないのが野菜がうまいことだ。たとえばハモに添えた梅肉や色鮮やかなお新香、梅やミソをそえたキュウリまでもがおいしい。ウドの酢味噌もおいしかった。ランチのサンマに付いていたかぼちゃまでもおいしい。ご主人が農家の出身ということもあるのかもしれない。米といちごがメインとのことだが、米、いちご、イモなどは実家から送ってもらっているそうだ。道理でうまいはずである。

ランチの豚肉の辛味噌炒め
値段はランチが630円、メニューはさしみ定食、天ぷら定食、豚肉の生姜焼き、さばのうす塩焼き、豚肉の辛味噌炒め、鶏からの黒酢あんかけ、ひれかつ、カキフライ、牛すじ煮込みなど、バラエティに富む。プラス1品として納豆70円、玉子50円、ミニサラダ100円というメニューもある。
夜は、金目鯛の煮つけ900円、カツオ、マグロ中トロ、サザエのつぼ焼き、白子ポンズなど650円、あん肝ポンズ、カキフライ600円、しめさば、スルメイカ、あじたたき、あじなめろう、れんこんはさみ揚げなど550円、鮭ときのこのグラタン、生湯葉アボガド刺し500円、水なす刺450円など。
味が良く、値段も安く、そしてわたくしが思うのは器がよいことだ。

ハモの梅肉あえ、デカンタの日本酒が涼しげだ。

イカとおしんこ。ビールの泡やグラスも涼しさを誘う
夏はいかにも涼しげなコップのビール、ガラスのデカンタに入った日本酒やワイン、秋は食欲が増すような食器、冬は暖色の湯呑みの焼酎お湯割り

あじなめろうと焼酎お湯割り
店名のきた穂は、ご主人が埼玉の北、北埼玉郡北川辺町(現・加須市)出身であることと、稲穂の穂からとったそうだ。

小さなお店だが、ますます発展してほしいと客が祈りたくなる店である。

電話:048-422-3482
住所:埼玉県戸田市笹目3-19-14
営業:昼11:00~14:00  17:00~23:30 月曜休み
  日本酒(一合)350、ビール(グラス)400、焼酎(麦380、芋400)、ワイン400など
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